間奏 -後-

 棘はが満足するまで抱き上げた。呪いにも体重はあったし、羽のように軽いわけでもなかったから、決して楽なことではなかった。だが、が喜ぶならと棘は腕が疲れるのも構わずそうした。

 やがては満足し、棘はをベッドにそっと横たえた。の首元まで布団を深くかけてやると、「棘くんの匂いがする……」と小さく呟く声が聞こえた。棘の指先がぴたっと止まった。名前で呼ばれたことに甘い痺れを感じつつも、大きな不安が頭を過ぎっていた。

「……ツナマヨ」
「ううん、大好きな匂いだよ。安心する」

 穏やかに笑ったは念を押すように訊いた。

「ねえ、本当に寝てもいいの?」
「しゃけしゃけ」
「わかった。ごめんね、ありがとう。その子たちは多分最後まで手伝ってくれると思うから……じゃあ、おやすみなさい」

 棘は目蓋を下ろしたの頭を何度か撫でた。柔らかな髪からいつも使っているシャンプーの匂いが漂った。体温の上昇を感じた棘がベッドから離れようとすると、何の脈絡もなく、胸倉を強く掴まれた。

「忘れてた」

 その言葉とともにぐいっとTシャツが引っぱられ、棘の上半身がのほうへと倒れ込んだ。は近づいた棘の唇に触れるだけのキスをした。呆気に取られて瞬きを繰り返す棘に、がいたずらな笑みを見せた。

「今度こそおやすみ」

と言って、特に名残惜しむ様子もなく棘を解放した。あっさりしていた。体をごろっと動かして、顔を壁のほうへ向けてしまった。

 またも棘は自分が振り回されたことを自覚した。嬉しかったが、悔しくもあった。そう感じるだけの余裕が生まれていることに驚いた。たとえ今現在の話だとしても、の一番であるという実感は棘の中の何かを変化させたのだろうと思った。

 そもそも、やられっぱなしは性に合わない質だった。たとえが相手でも、多少はやり返してやりたかった。

 少しでも仕返してやろうとの顔を覗き込めば、はもうすでに眠りに落ちていた。びっくりした。あまりの早さに嫌な考えが頭を横切って、確かめるように耳をすませた。かすかな寝息を聞き取ることができた。まるで意識を失うような寝入り方に、よほど疲れていたのだろうと肩をすくめた。

 呪いは睡眠を必要としないし、疲れることもないと五条は言っていた。ならば今のこの状態はいったいどういうわけなのだろう。五条の言葉が間違っていたのか、それともの“人間でいたい”という意識がそうさせているのか。

 棘はもう一度だけの頭を撫でてから、ゴム手袋を着けて掃除に戻った。答えの出ない問題を考える前に、やらなければならないことが残っていた。しかしすでに床に広がった血液はほとんどなくなっていた。を抱き上げているうちに、男児がたった一人で大半を拭いてくれたようだった。棘は仕事の早さに感心しつつ、残りの箇所を一緒に拭いた。

 血を含んだ雑巾を揉み洗いし、両手で固く絞った。雑巾に血液が色移りしない程度には拭き上げたものの、フローリングの腐食を防ぐためにも念入りに殺菌しておいたほうがいいような気がした。

 こういうときはオキシドールが大いに役立った。棘はよく吐血して衣類を汚すから、オキシドールを常備するように心掛けていた。床に散布できるだけの量は残っていただろうか。

 白い容器に入った液体の記憶を辿りながら、先にバケツの水を捨てようと棘が歩き出した。

 そのとき、ふいに声をかけられた。

「過酸化水素水が必要かな?」

 一瞬、誰の声だかわからなかった。ベッドのほうから聞こえたような気がしたが、の声とは似ても似つかなかった。それは間違いなく若い男の声だったから。

 眉をひそめた棘は部屋を見渡した。聞き間違いだとは思えなかった。しかし男児は開け放した窓を閉めていたし、部屋の隅にいる呪いは膝を抱えたまま微動だにしていなかった。

 まさかと思い、棘はベッドに腰かけている“壱”の呪いを見つめた。白い面紗が吐息でわずかに揺れていた。

「オキシドールって言ったほうがわかりやすいか?それで充分落ちると思うけど、無理ならアンモニア水も併用するしかないだろうな。必要ならどちらも用意するよ。ほら、おいで」

 その声に反応した“参”の呪いが、突然ぬっと立ち上がった。五条ほどの長身を持つその呪いは、棘の前までやってくると大きな透明の瓶をふたつ差し出した。どこから取り出したのかよくわからなかったが、棘はバケツをその場に置いて瓶を受け取った。

 呪いが鋭く尖った爪の長い手を一瞬かざしただけで、瓶の底から無色透明の液体が湧き出した。コルクの蓋は閉まったままだった。まるで手品のようだったが、それが何かしらの呪術、つまり術式によるものだということは理解していた。

 “壱”の面紗を付けた少年は、液体でいっぱいになった瓶を指差した。

「匂いを嗅げばどちらがアンモニアかはすぐにわかる。ただし扱いには気をつけて。まあそんなことは言わずとも知っているか。中学の授業で学んでいるはずだし。教育指導要領はどこの学校も同じだろ?……同じだよな?」

 やや不安げに首をかしげる少年をよそに、仕事を終えた“参”の呪いは、また部屋の隅でじっと膝を抱え込んでしまった。

 棘は重くなった瓶を抱えながら、その身をきつく強張らせていた。両の眼をしっかりと見開き、すべての神経を研ぎ澄ませていった。棘の本能が告げているのだ――こいつは本体だ、と。間違いなくそうであると。あの山で遭遇した“呪い”とは話し方も容姿もまるで違うが、頭の後ろで大きく鳴り続ける警鐘を棘は何よりも信用していた。

 何故この瞬間なのかがわからなかった。にイザナミと名付けられたこの呪いは、今までの言葉にもほとんど反応せず、ましてや声を発したことなど一度もなかったはずだ。どうしてが寝ている今なのだろう。ただ親切がしたいだけだろうか。――本当に?本当にただそれだけか?

 相手の目的がわからないということが棘を不安にさせたし、たちまち瞳に鋭い光が宿った。どれほど僅かな不安でも、付け入る隙になってしまうことを警戒して。

 ピンと張り詰めるような棘の警戒心を察知した少年は、

「お前だけにいいものを見せてやりたくてね」

と、接触してきた理由をあっさり告げた。棘が訝しんだその瞬間、少年はその指で己の面紗をぺろっとめくり上げた。露わになった素顔に、棘は言葉を全て失っていた。あまりのことに理解が追い付かなかった。

 鏡で毎日見ている顔が、そこにあったから。

「どうして同じ顔なんだって思ったろ?魂の近似値を求めた結果さ」

 棘とそっくりの顔を持つ少年は、薄っすらと笑いながら続けた。

「治療のためとはいえ、今自分に触れるのはお前以外許さないということらしい。困った子だよ。だから近似値を割り出して、下級呪霊の魂をお前の魂に限りなく近付けたんだ。肉体は魂の形に引っぱられるからね。あくまで近似値に拘ったのはお前という存在の唯一無二性を否定しないためだろうし、お前の生きてきた時間が人間性に繋がっていると信じて疑っていないからだろう。だから俺には呪言が使えない。お前と同一ではないからね」

 滑らかに説明する少年の言葉を必死で記憶した。今は理解に結び付けている余裕がなかった。より警戒を強めた棘が黙り込んでいると、少年は信じられないという顔をして肩をすぼめた。

「おいおい、ここは手を叩いて喜ぶところだぜ?そこまでお前を愛しているってことなんだ。狗巻棘というたった一人の呪術師をな。今までも無意識のうちに試していたようだが、ようやくできるようになったらしい。一度目は性別を、二度目は身長を、三度目は年齢をって具合でさ。ようやくほとんど揃ったんだよ。後はそうだな……髪の色くらいか?」

 棘より薄い色をした髪の房を掴むと、少年はにっこりと笑った。棘を少しでも安心させるために、その表情を選んでいるようだった。

「これからこの子が呼び出す壱番目は、きっとお前と瓜二つの姿をしているはずだよ。とはいえ、この子がお前を心から愛していることが前提にはなるが。つまり俺が言いたいのはね、これを愛情の物差しにするのはどうかってことだよ。お前ものすごく嫉妬深いみたいだし、わかりやすくていいだろ?」

 少年は両手を広げ、棘の反応を待っていた。まるで敵意は感じられず、それどころか友好的ですらあった。しかしそれが逆に嫌な感じだった。舐められているだけのような気がしたし、実際そうだろうと直感した。

 棘は今が好機だと思った。迷いはなかった。相手が油断している隙を突くならば今しかなかった。瞬時に判断を下すと、棘は全力で呪言を放った。の願いを叶えるために。

「――返せ」

 すると、少年の金色の頭が落ちるように垂れた。そして苦しそうに胸を掻きむしり、口を手で覆って何度も咳き込んだ。何かが喉に詰まったみたいな大きな咳が引いていくと、棘と瓜二つの顔を上げ、にやりと意味深な笑みを浮かべた。

「強引な男は嫌われるよ」

 ベッドから下りて、棘に一歩ずつ近づいた。嫌な予感がした。それは絶望に似ていた。まだ何も起こっていないのに、もう駄目だと直感した。悪い方向に向いていた。何もかも。得も言われぬ悪寒が背中を這いずり回っていた。

 棘が制止の呪言を使おうとしたとき、拳になった少年の左手がすっと差し出された。

 手の甲は床に向けられていた。もったいぶるように指が一本ずつ解けて、手のひらが露わになった。たちまち棘の張り詰めた警戒心が消え失せた。根こそぎ奪われるように。浅かった呼吸は完全に止まり、全身から冷たい汗が噴き出した。瞬きひとつできず、半開きになった唇を震わせた。

 視線をまったく動かせなかった。少年の手のひらの上には、みっつの小さな白い何かが転がっていた。

「これ、左手の薬指の骨。同じ顔のよしみだ、特別に返してあげるよ。指輪でも通して遊んだら?」

 少年は棘の手を取ると、強引に骨を握らせた。抵抗はできなかったし、抵抗しようという気すら起きなかった。意味がわからなかった。頭が理解を拒んでいた。自らの手の中に収まる白いそれらに目を落とす以外、棘はいっさい何もできなかった。

「それとも他の骨をご所望かな?」

 ようやく理解した。接触してきたのは“壱”の呪いが棘と同じ顔だということを教えるためではなく、すでにの体が形を残していないことを知らしめるためだったのだ。

 少年はベッドで熟睡しているに顔を向けると、愛おしそうに目を細めた。

「いじらしくて可愛い子。どこまでも愚かで可哀想な子。体がもうこの世のどこにもないなんて、考えてもいないのかな」

 その瞬間、棘の体を衝動が貫いた。棘はありったけの殺意を込めて少年を睨み付けた。

 ――殺してやる。ここで殺してやる。絶対に殺してやる。

「人間に戻ったらね」と繰り返したの笑顔が脳裏を掠めていた。しかしそれはあっという間にぐちゃぐちゃに破れてしまった。千切れて、細かくなって、もう何も残らなかった。煮立った昏い感情が根深いところからせり上がっていた。怒りであり、憎悪であり、殺意だった。

 ――殺してやる。殺してやる。殺してやる!

 怒りのあまり体が震えるのを堪えながら、憎悪に染まった唇を割って――

「俺を殺す?いいよ。あの子も道連れだけど」

 鼓膜を叩いたあっけらかんとした声に、棘の肩がすとんと落ちた。奥歯をきつく噛みしめて俯いた。何もできない悔しさで、目の奥がかあっと熱くなった。

「憎くて憎くて堪らないんだな。お前も頭から食べてやろうか?そうすればあの世であの子とずーっと一緒にいられるぜ?」

 少年はせせら嗤うと、棘の肩を軽く叩いた。まるで落ち込んだ友人を励ますような仕草で。

「今までの無駄な努力ご苦労様。でも甘い夢が見れただろ?じゃあな、呪言師。また今日みたいに俺の邪魔をしてみろよ、次は殺すから」

 そう言い残して、少年は忽然と姿を消した。それは他の呪いと穴熊達も同様だった。生き物の気配が一気に消えて、棘は膝からくずおれた。尻を付いた鈍い音が静かな部屋にうわんと響いた。

 重たい瓶を床に置いて、震える手の上に乗っかった白い骨を見つめた。とても小さい骨だった。これでは誰の骨か、そもそも何の骨かもよくわからなかった。

 しかし、棘にはのものだという確信があった。あの言葉通り、薬指の骨だという自信があった。DNA鑑定を依頼しなければわからないと冷静に考えつつも、きっとそうだろうという予感からは決して逃れられなかった。全ての予感がきっとその事実に結実しているだろうと思った。足首を固く掴まれていた。己の呪言を効力を誰より知っているのは、棘自身だったから。

 棘は出しっぱなしの衣装ケースの奥に、みっつの骨を丁寧に押し込んだ。に見つかるわけにはいかなくて。掃除を続ける気にもなれず、ふらふらとした足取りで浴室に向かった。今は少しでも冷静になる時間が欲しかった。頭から冷たいシャワーを被りたい気分だった。

 呆然としながら脱衣所に入り、ふと床に目を向けたときだった。棘の全身に沸騰した血液が勢いよく巡り出した。

「……おかかっ!」

 思わず叫んでいた。淡い水色の下着が、上下セットで雑に脱ぎ捨てられていたから。ところどころ黒ずんだ血で汚れているが、棘をどぎまぎさせるには充分だった。

 はきっと体操服のことで頭がいっぱいになっていたのだろう。棘の反応を考えることに意識を割いてしまったのだと察しても、吐き出した溜め息はなかなか途切れなかった。

 見たら嫌いになると言ったのはどこの誰だったのだろう。そこまで言うなら隠すなり片付けるなりしたらどうだ。ここまで煽られて何もしないと思うな。様々な感情が頭をいっぺんに通り過ぎ、荒れ野に残されていたのは呆れだけだった。

 棘は拾うかどうかを数秒考えて、拾うことを選択した。見て見ぬふりはできなかった。血に染まった生地を見つめながら、洗ったほうがいいだろうなと思った。

 邪な思いを必死に抑え込み、下着に縫い付けられた洗濯絵表示を確認した。ついでに見てしまったアルファベットに狼狽えつつ、脱衣所の棚から洗濯ネットを引っぱり出した。それを使うのは久しぶりだったが、置いていてよかったと心から思った。が少し前まで身に着けていた下着を手洗いする勇気は、さすがに持ち合わせていなかったから。

 心を無にして洗濯ネットに下着を詰めていたら、急に肩が小さく震えた。腹の底から笑いが込み上げてきたせいだった。口から乾いた呼吸が噴き出した。その場にしゃがみ込んで、気の済むまで笑った。

 と付き合ったら、と生きることを選んだら、毎日がこんな感じなのだろうか。怒って、呆れて、振り回されて、それでもきっと楽しいのだろう。勝手に笑みが溢れるくらいに。

 に抱く感情の全てが、棘の時間や生活と緊密に絡み合っていく感じがした。初めての感覚だった。遠く手を伸ばした先に、との穏やかな時間が見えていた。あやふやで曖昧だった光景が鮮やかに色付き、確かな現実味を帯びて棘の前に映し出されていた。

 洗濯ネットのファスナーを勢いよく閉めた手には、自然と力が入っていた。

 を手に入れることばかり考えて、愛されることばかりを求めて、人間に戻ったとどうしたいかなんて考えてもいなかった。

 それはきっと頭のどこかで、もう体などどこにも残っていなくて、は“呪い”のままだという予感が働いていたからではないのか。呪いという存在に関わった普通の人間が、綺麗なままで死んだ例などほとんどないことを、棘は身をもって知っているのだ。

 苦い笑みがこぼれた。甘い夢で終わらせようとしていたのは、他でもない自分自身だった。

 棘は洗濯ネットを脱衣所の片隅に置いて、後であのオキシドールを使って血の汚れを落とそうと思った。色落ちが心配だったが、ネットで調べれば解決策はきっと見つかるだろう。

 の体のことだって、きっと同じはずだと思った。絶対に何か方法があるはずだった。

 棘は口を横一文字に結んだ。頭はやけにすっきりとしていた。少年に告げられた言葉を反芻し、大きくかぶりを振った。無駄な努力で終わらせてたまるものか。今度は棘が知らしめる番だった。この程度のことで心が折れたと思っているのなら、とんだ思い違いであることを。

 歪んだ呪いの恐ろしさを思い知ればいい。大人しく諦めてやるほど、引き下がっていられるほど、生半可な思いではないのだと身を持って知ればいい。

 が人間に戻らなければ、棘の本当に欲しいものは何ひとつ手に入らないのだから。

 まずはあの骨が本当にのものであるか、それを確かめるところから始めなければ。棘はそう決めると、血で汚れた衣類を素早く脱いでいった。


≪ 前へ  目次  次へ ≫