間奏 -前-
重みを増した雑巾を固く絞ると、銀色のバケツの底が真っ赤に染まった。雑巾を手にした分厚いゴム手袋も赤くなっていたが、棘は気にせず再び血染めの雑巾でフローリングを拭いた。広がった血液をざっくり拭い取ることが目的だった。やがて雑巾は重くなり、バケツの上でそれをきつく捻った。びちゃびちゃと血液が落ちていく音がした。
フローリングに広がる血液のほとんどが棘のものだった。特級呪霊である
相手に強い呪言を使った反動で、棘の肉体はひどい重傷を負った。意識が遠のきかけるほど多量の血を吐き散らした結果、こうして大変な後片付けに追われる羽目になったのだ。
噎せ返るような血臭が部屋に充満していた。棘が換気を思い立ったときには、
の呼び出した呪いが勝手に窓のカギを開けていた。それは年端もいかない男児の姿をしていた。“弐”と書かれた白い面紗を付けた黒い着物姿の男児は、ベランダに続く大きな窓を開け放った。
「こんぶ」
棘が床で四つん這いになったまま礼を言うと、振り返った男児は首を左右に振った。そして棘と同じように手足を付き、手に持っていた雑巾で丁寧にフローリングを拭いた。男児の手に握られている雑巾は冷水を染み込ませたもので、棘が大雑把に拭いた場所をなぞるように拭っていた。
血液は広範囲に広がっていたし、時間が経ったせいで凝固している箇所が多かった。ろくに片付けもしないまま、床の上で
と口付けを交わし続けたせいだった。血だらけになるのも構わず、貪るような深いキスを繰り返した。口の周りは血液と唾液が混ざった粘り気のある液体でどろどろになったが、それも含めて気持ち良かった。眼窩や耳孔から脳髄が溶け出すかと思うほどの快楽だった。
は棘を決して逃がさなかった。両手で頭をがっちりと固定し、その長い舌で棘の咥内をひたすら責め立てた。棘は
の本気を見た。いつもは棘が優位でとろんとした目にさせていたのに、今夜の
の目は最後の最後まで肉食獣のそれだった。
逆に棘がとろとろに溶かされ、与えられる快楽に耐えかねてギブアップを宣言したというのに、
はまったく耳を貸さなかった。己の口周りを舌で舐めると、余裕たっぷりに微笑みながら、
「ここからは宿儺の指を見つけたわたしへのご褒美ってことで」
と滑らかに告げると、暴力的なキスを続行した。昨夜の約束を持ち出されたのだと気づいたのは、数十秒経過した後のことだった。それほど棘の頭は正常に機能していなかったし、後半の記憶はほとんど曖昧だった。
少し思い出すだけで、あっという間に熱に侵された。雑巾を絞る手に力を込めて、火照った体から熱を追い出そうとした。あんなことになってしまったのは棘のせいだが、我を失った
に使う呪言はあれが正解だったと思っている。後悔はなかった。
には生半可な呪言を使いたくないと思っていた。だからずっと考えていた。何を言うのが正解なのかを。歪んだ呪いになってもいいと思っていたし、むしろそうしたい気持ちが大きかった。だから多くの言葉を思い浮かべた。好きだとか愛しているだとか他の誰にも渡したくないだとか、そういう
への気持ちを伝える言葉を。
しかし呪いとしての本能に支配された
に首を絞められ、意識が朦朧としたときに思ったのは、
にもっと愛されたかったという悔恨だった。愛されたかったし、
の一番になりたかった。その言葉は呪いとなり、
の本能を掻き消した。図らずも
に付随してしまった欲求は棘を大いに惑わせ、狂わせ、迸るような快楽の底に突き落としたのだが。
棘を蕩けさせた
は先にシャワーを浴びていた。
は最後まで余裕を見せつけ、棘の頭から手を離した理由も「眠くなってきたからやめていい?」というひどく身勝手なものだった。思考がほとんど停止している棘をせっつき、タオルと着替えを奪うように受け取ると、颯爽と浴室に消えてしまった。残された棘は頭がはっきりしたのち、こうして
の呪いと共に後片付けを始めたというわけである。
先ほどからドライヤーの音がかすかに聞こえていた。
はもうすぐ部屋に戻ってくるのだろう。自室が目もあてられない状態になった原因は、間違いなく自分にあると棘は考えていた。
には先に寝てもらおうと思いつつ、ベッドの近くまで広がった液体を拭った。
手をさらに動かそうとしたとき、視界に白い足が目に入った。ふと目を上げると、ベッドに腰かけている“壱”の呪いが棘を見下ろしていた。裸足の下にも血が伸びていて、棘は「ツナマヨ」と足を持ち上げるように頼んだ。
“壱”が首をかしげたので、棘は身振り手振りで説明した。理解した“壱”は大人しく棘の指示に従った。棘は素早く床を拭くと、冷水で濡らした雑巾を“壱”に手渡した。汚れた足裏で床を踏まれるという二度手間は避けたかった。“壱”は自身の足裏を丁寧に拭いた後、ついでのようにさっきまで踏んでいた床の上に雑巾を置いた。そしてその上に足を乗せ、退屈そうに頭を揺らした。
が呼び出した呪いは三体だけだった。棘と変わらない体躯を持つ“壱”と男児の姿をした“弐”、そして部屋の隅で膝を抱えて座っている“参”。限られた空間に呪いを多く呼ばれても困るからちょうど良かった。
やっとのことで、棘は大雑把に血液を拭い取り終えた。“弐”と同様に床の水拭きを始めようとしたとき、引き戸が開かれる音がした。反射的にそちらに顔を向けて、愕然とした。
「狗巻先輩……」
甘ったるい声が聞こえた。扉の向こうに立っている
は青いジャージ姿だった。サイズが合わないのだろう、全体的にだぼだぼだった。パンツは丈が長いのか、裾を数回折り曲げている。
はっきりと見覚えがあった。左胸に縫われた“狗巻”の白い刺繍文字に、中学時代の体操服だとすぐに気づいた。捨てるのは勿体無いからと、棘が部屋着として使用していたものだった。
「わたし……狗巻先輩のこと、ずっと……ずっと見てました」
何かが始まってしまったと思う冷静な自分と、頭が働いていなかったとはいえ何故体操服を渡してしまったのかと後悔する自分と、“狗巻”の体操服を身に纏う
に熱を覚えている自分がいた。頭がぐるぐるして、訳がわからなかった。
「オカルト部のエースなのに、いつも出来損ないのわたしを気にかけて、助けてくれて……いつの間にか、そんな狗巻先輩のことを素敵だな、カッコいいなって思うようになって……」
ずいぶん設定を固めてきたなと冷静な棘は思ったし、“狗巻先輩”という慣れない響きに未知の痺れを感じているもう一人の棘は、
から目が離せなくなっていた。
他人から狗巻先輩と呼ばれるのは初めてではないが、中学時代も棘の特殊性から下級生との交流はほとんど皆無だった。そもそも先輩と呼ばれ慣れていないし、その呼称を口にしているのが他でもない
ならば気分が高揚するのは当然だった。
後輩の役に入り込んでいる
は、両手を胸の前でぴったりと合わせながらまっすぐ棘を見つめた。潤んだ瞳に息が詰まった。
「狗巻先輩のことが好きです。大好きです。だから……わたしと付き合って下さい」
棘は目を瞠った。心臓がどくんと大きく脈打った。喜びで肩が震えた。悪ふざけだとわかっていても嬉しかった。堪らなくなるほど。それは棘がずっと欲しかった言葉だったから。喉から手が出るくらい欲した言葉だったから。
頷こうとした瞬間、うるうるした瞳にいたずらっぽい光が宿った。嫌な予感がして、棘はすぐに頷くのをやめた。
「満足した?」
楽しそうに笑った
の言葉に、棘は肩をすくめた。どうせこんなことだとわかっていたものの、ショックは計り知れなかった。口を噤んだ棘の態度が想定外だったのか、
は不思議そうな顔をした。
「あれ?こういうことがしてほしかったから、体操服渡したんじゃないの?……あ、それとも体操服を着たわたしと」
「おかかっ」
顔を真っ赤にした棘が慌てて遮ると、
はそれ以上言及することなく、あっさりと話題を変えた。
「お風呂貸してくれてありがとう。お風呂場とっても綺麗だね、びっくりしちゃった。掃除好きなの?それとも得意?」
「しゃけ」
「すごいなあ。きっと素敵な旦那さんになれるよ」
の微笑みに棘の胸はざっくりと抉られた。その言葉に他意はないのだろうが、明確な線引きを感じてしまった。棘が“
の素敵な旦那さん”になることをまるで想定していない口振りだったせいで。
もやもやした気持ちが渦を巻いたが、棘はすぐに
の母親の話を思い出していた。だから湧き上がった複雑な感情を、決して顔には出さなかった。
母親のようになりたくないと
は言った。だからこそ冷静さを失いたくないとも言っていた。
の母親は結婚の約束を反故にされたのだ。
が不確かな未来の話をしないのは当然だろうし、そこに結婚が絡んでいるなら尚更だった。
から与えられる熱は確かなものだった。棘が
にとって一番であることを理解させるには充分すぎるほどだった。しかし本気で棘に狂ったわけではなかった。価値観が崩れるほど棘に惚れ込んでいるなら、あんな言い方は絶対にしないはずだったから。
空虚な気持ちが全身を満たし、それは棘の心に大きな穴を空けていった。
の一番になりたかった。今この瞬間ではなく、一生涯での一番を望んでいた。
「棘くんは欲張りだなあ」と言った
の声を思い出した。
は欲張りだと言ったが、棘は本当にそうだろうかと疑問を抱いていた。
生半可な気持ちで
を好きなわけではない。
と生きる人生に身を投じようとしている棘が、
の一番という揺るぎない地位を求めてしまうのは、はたして欲張りなことだろうか。
が棘と同じだけの気持ちではないから、そんな言葉を言えたのではないのか。
眉間に力が入りそうになって、はっとなった。危なかった。
に勘付かれても良いことなど何もないだろう。もどかしい思考を頭の片隅に追いやった。
銀色のバケツに気づいた
が部屋に足を踏み入れようとして、すぐに棘はかぶりを振った。
「すじこ」
「いいの?そこまで気遣ってくれなくても……」
「しゃけ」
「でも」
「しゃけ!」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
申し訳なさそうな
に棘は小さく笑むと、桃色のゴム手袋を外して水の入ったバケツに引っかけた。
の傍まで歩み寄って、体操服姿の
を横向きに抱き上げた。
が「わっ」と弾んだ声を上げた。
汚れたフローリングを裸足で歩かせるわけにはいかなかった。このままベッドに運ぶからという意味を込めて、棘はおにぎりの具を紡いだ。
「こんぶ」
すると
は険しい顔で頷いた。何か不満でもあるのかと棘が首をかしげると、
が苦い笑みを浮かべた。
「嫌じゃなくて」
「すじこ」
「服の肌触りが悪いわけでもなくて」
「ツナ」
「下着つけてないから変な感じで、ちょっと落ち着かないだけ」
棘は
を落っことしそうになった。何故今ここで言うのかと唖然とし、すぐに自分が訊いたからだと気づいた。頭がひどく混乱していた。
「確かめる?」
と言いながら、
がトップスの裾をめくり上げようとした。棘は制止するために口を大きく開いた。
「おかかっ!」
「ごめんごめん。もう寝るからそんなに怒らないで」
棘を怒らせた張本人に悪びれた様子はなかった。信じられなかった。事あるごとに人間に戻ってからだと言うのなら、不必要に煽ってくるなと腹が立った。人がどれだけの思いで自制しているのか知らないくせに。
とはいえ苛立った気持ちは、
の「でもお姫様抱っこって初めてだから、もう少しこのままでいて?」という嬉しそうな懇願により、霞のように消えてしまったのだが。初めてだと言われるのは、まあ、何というか、悪くない気分だった。
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