微睡み

 意識の覚醒は何の前触れもなく訪れた。眠気の残った目蓋を持ち上げ、白い壁紙をぼんやりと見つめた。

 何度か瞬きを繰り返したとき、規則的な電子音が耳を打っていることを認識した。それはすぐ近くから聞こえていた。朝を告げるアラーム音ではなかった。着信を知らせる軽快な音楽に、はっとなった。

 身をよじろうとしたとき、うまく身動きが取れないことに気づいた。鼓膜が静かな寝息を捉える。どうやら部屋に響き渡る着信音に掻き消されていたらしかった。背中越しに伝わる体温と腹に巻きつく圧迫感をやっと感覚し、自分が置かれている状況を飲み込んだ。

 わたしは棘くんの抱き枕になっていた。わたしの腰がその両腕によって、強く拘束されているだけではなかった。彼の足が両足の間に差し込まれ、挟むように深く絡め取られていた。棘くんの足の重みをずっしりと感じて、巷で売られている抱き枕を少し尊敬した。これは大変な力仕事だと思った。

 棘くんの呼吸音が確かに伝わってくる。互いの隙間は存在していなかった。それほど密着していた。まるで最初からそういう生き物であったかのように。

 いったい彼はいつの間にベッドに潜り込んでいたのだろう。まったく気がつかなかった。僅かな物音でも目が醒めてしまう質なのだが、昨夜は珍しく熟睡していたらしい。

 着信音は絶えず流れ続けていた。ようやく棘くんの意識の深いところにも届いたのか、小さな呻き声が漏れた。わたしは腹に回された両腕を揺さぶった。

「棘くん起きて。スマホ鳴ってるよ」
「……おかか」
「棘くん」
「おかか……」

 棘くんは低く唸るように眠いと繰り返した。就寝時間が遅かったのかもしれない。部屋の後片付けを任せっきりにさせた罪悪感で、わたしの唇がピタリと閉じそうになった。

 しかしこのままというわけにもいかなかった。これほど執拗に鳴らし続けるということは急用に違いない。今度は腕を軽く叩いてみると、棘くんはわたしの右足にもっと深く自らの足を絡めた。起きてやるものかという強い意志を感じて、ちょっと笑ってしまった。

 首をひねって、棘くんのちょうど頭の上で催促し続ける黒いスマホに目をやった。そろそろ応答しなければ電話の相手も困るだろう。わたしは名を呼ぶ声の音量を上げた。

「棘くん、棘くーん」
「おかか……」
「出てくれないならこれからずっと“狗巻くん”って呼ぶけど、それでも――」

 わたしが言い終わらぬうちに片腕を離すと、棘くんは目を瞠るほどの俊敏な動きでスマホをがしっと掴んだ。そして間断なくわたしにスマホを差し出した。

「ツナ」

 出て。それだけ言うと、わたしのうなじに鼻を寄せ、再び強く抱きついてきた。

 どうしても電話に出たくないらしい。だからといって赤の他人が応答していいものなのか。誰だコイツと訝しまれるのは目に見えているし、相手が“呪い”を認識できなかったらどうしろと言うのだろう。無言電話はさすがに薄気味悪いと思うのだが。

 本当にそれでいいのだろうかと戸惑いつつ、スマホの画面に表示された名前を確認して納得してしまった。わたしは湧き上がる面倒臭い気持ちを堪えながら、とうとう着信に応えた。

「ちょっと棘!出るのが遅すぎるよ!」

 もはや叫びに近い抗議の声に、きーんと耳鳴りがした。思わずスマホを耳から少し遠ざけて顔をしかめた。起き抜けの頭にとっては、ほとんど凶器に等しかった。後を引いて残る甲高い音に気持ち悪さすら覚えた。

「これがからの電話だったらすぐに出たよね?僕の電話はからの電話だと思えっていつも言ってるでしょ?僕はで、は僕!わかった?!」
「えっと……五条先生、おはようございます……」

 こわごわと挨拶をすると、五条先生は気を取り直すように何度か咳払いをした。

「おはよう、僕。棘は?」
「今ちょうど二度寝しました」
「リア充爆発しろっ!」

 その沈痛な絶叫は棘くんにまで届いていたらしく、「こんぶ……」と小さな文句が聞こえてきた。うるさい、とのことだった。うなじに息がかかって、少しくすぐったかった。

 棘くんはそれでもなお眠りに落ちようとしていた。どれだけ眠ってくれても構わないが、そろそろ抱き枕の任を解いてほしかった。離れないつもりであれば、もっと腕の力を抜いてはくれないだろうか。暑くて息苦しくて仕方がない。

 この切実な願いをどうやって棘くんに伝えようかと思案したとき、五条先生がついでのように訊いた。

、体はもう平気?」
「はい、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「何言ってんの。可愛い教え子のピンチを助けるのが教師でしょ?」

 さらっと返されて、わたしは言葉に詰まった。五条先生を少し格好良いと思ってしまったせいで。その不意打ちは、ちょっとずるかった。

 五条先生は真面目な口調から一転して、前のめりになって尋ねた。

「それでさ、棘とどうなったの?ついに一線越えちゃった?」

 あまりに馬鹿馬鹿しい質問に幻滅したし、呆れて言葉も出なかった。たった一言で上がりかけた好感度は急降下し、その結果、以前と大きく変わることはなかった。やっぱり胡散臭い人だなと思った。

 教師にあるまじき質問を生徒に投げた五条先生は、小さく笑って続けた。

「ごめんごめん、そんなに冷たい空気を出さなくても。何もなかったのはわかってるよ。棘は相手の意志を無視して事に及ぶようなタイプじゃない。心底好きな女の子なら尚更ね」
「……わかってるなら、わざわざ口にしなくても」
「これはへの忠告だよ。どんな男もだいたい狼だからさ、あんまり焦らすと後が怖いよってね。覚悟しておいたほうがいいんじゃない?」

 五条先生がそう言うと、「しゃけしゃけ」と小さな同意の声がした。密着しているせいだろう、通話の内容が丸聞こえになっているようだった。狸寝入りとは質が悪いなと肩をすくめていたら、五条先生は念入りに忠告をした。どこか面白がっている様子で。

「焦らすのもほどほどにね」

 焦らしているつもりなかった。人間に戻ることが最優先だというだけだった。

 はあ、と生返事をすれば、棘くんがわたしの髪をよけて、首筋に唇を這わせていった。ぞくぞくして、変な声が漏れそうになった。謝罪の意味を込めて足をばたつかせると、満足したような鼻息が聞こえた。先達の忠告は素直に受け止めようと心に刻んだ。

 五条先生は少し間を置いてから、ひどく真面目な声で言った。

「そろそろ本題に入っていいかな?虎杖悠仁の秘匿死刑が決定したんだ」

 耳馴染みのある単語に、一気に血の気が引いた。物々しい空気が漂う異様な部屋で、槍を深々と突き刺された記憶がはっきりと蘇ってくる。わたしの唇はかすかに震えた。

「秘匿死刑って、どうして」
「虎杖悠仁が両面宿儺の指を食べちゃったんだよね。奇跡的に“器”になった彼の中には宿儺がいて、彼が死ねば宿儺も一緒に死ぬんだ。だから上はすぐに殺せって騒ぎ立てたわけなんだけど、そこは僕の頑張りによって執行猶予を付けることができた。虎杖悠仁は今すぐに殺されることはないよ。安心して」

 優しく続けられ、わたしはゆっくりと息を吐き出した。

「ほっとしました」
のおかげだよ。の秘匿死刑を急いだせいで、痛い目を見たばかりだからね。多少は慎重になってるのさ。渋々とはいえ、僕の言葉に耳を貸すくらいにはね」
「すじこ」
「わざと?僕が?うーん、棘が何を言っているのか僕にはさっぱりわからないなあ」

 五条先生は白々しく言うと、会話を先に進めていった。

「虎杖悠仁さえ頷けば、呪術高専に転入してもらおうと思ってる。明日の朝一番で東京に来てもらうつもりだ。それで」
「呪術高専までの案内はわたしがしてもいいですか?」

 わたしは遮って訊いていた。その言葉を待っていたのか、五条先生は嬉しそうに承諾した。

「もちろん。個人的な用事は高専の中で済まさないほうがいいからね」
「ありがとうございます」
「僕にできることなんてこれくらいだよ。あまりいい情報も掴めてないしさ」

 申し訳なさそうな声は、すぐに少し大きめの明るい声へと切り替わった。わたしの背中にべったりと張り付いている、準一級術師に届けるために。

「棘、聞こえてる?そろそろ本格的な繁忙期に入るけど、早速今日の午後から休みなしで馬車馬のように働いてもらうことになってるから。よろしく頼むね。あ、もうわかってると思うけど、これ全部老いぼれ共の嫌がらせだよ」

 それを聞いた棘くんは、わたしの空いた左手に自分の手を絡めた。ちょっと乱暴な手つきから、相当な不満を抱いたことを感じ取った。わたしは彼を宥めるように手を握り返した。

「こんぶ……」
「殺したいのは僕も一緒だけど、今は耐えてよ。いい顔しておいて」
「ツナマヨ」
「ああ、それは大丈夫。一日一回はに会えるように伊地知に調整してもらってるから。調整されてなかったら伊地知に文句言ってね。マジビンタしてもいいよ」
「しゃけ。ツナ」
「ないない。今回の繁忙期、の仕事は番犬役だ。もちろんそれ以外の簡単な仕事もあったんだけど、全部棘に回しちゃった。だから高専に帰ってくれば絶対に会えるよ。そのほうがいいだろ?」
「しゃけしゃけ」
「じゃあそういうことで。頑張れよ男子!」

 わたしが口を挟む暇もなく、電話はあっさりと切れてしまった。沈黙したスマホをベッドの上に置いて、首をねじった。はいそうですかと納得するのは、さすがに難しかった。

 眉間に深い皺を寄せていると、そこにキスを落とされた。当の本人は楽しそうに笑っているが、笑いごとではなかった。わたしは口を尖らせながら、語気を強めて言った。

「どうして頷いたの?わたしはもう大丈夫だよ。昨日みたいに暴走しないし、棘くんにだけ大変な思いをさせるなんて、そんなことできない」
「おかか」
「そこまで心配ならわたしも連れていって。ちゃんと役に立つから」
「おかか」

 意志を受け入れようとしない彼に対して、不満ばかりが募っていった。こうなれば五条先生や伊地知さんに直談判するしかない。そんなわたしの考えを読み取ったのか、彼は彼なりの折衷案を持ち出した。

「すじこ」
「……お弁当?そうだね、作る約束したね」
「ツナ」
「うん、毎日でも作るけど……」
「明太子」

 棘くんは“それがの仕事だから”と言って、一方的に話し合いを終わらせてしまった。同意したわけではなかったが、彼もわたしと同じように一度決めたことは譲らないタイプだった。どちらかが折れなければ平行線を辿るばかりだろう。いつも折れてくれるのは棘くんなので、今回はわたしが折れることにした。

 午後から仕事がある彼のわがままに付き合って、時間の許すまで一緒に惰眠を貪った。それから二度寝の気持ち良さについて語り合いつつ、のろのろと身支度をした。

 見ないでと頼んだはずの下着が丁寧に洗濯されていたので、わたしは少しだけ拗ねた。無論、洗ってくれたことには深く感謝しているが、それとこれとは話が別だった。

 口数の減ったわたしの顔を覗き込みながら、棘くんは“これより可愛い下着があるの?”と頬を赤らめて困ったように笑った。そんな顔をするのはずるいと思った。結局全部許してしまったし、もっと可愛い下着を見せたくなってしまった。完全にわたしの負けだった。

 単独任務を課された棘くんを見送ったのち、わたしは真希ちゃんと合流した。

 真希ちゃんと近くの携帯ショップに足を運び、画面が無残に割れたスマホを修理に出した。代替機に棘くんや真希ちゃん達の連絡先が入っていることを何度も確認してから、その足で電車を乗り継ぎ、生活雑貨の専門店へと向かった。棘くんの弁当箱を買うためだった。

 妥協はしたくなかった。店舗面積の大きな専門店を選んだおかげだろう、置いている弁当箱の種類も非常に豊富だった。迷いに迷った。様々な色や形の弁当箱からたったひとつを真剣に選び抜くわたしを、真希ちゃんは「新婚みたいだな」と言って散々冷やかしたし、遠目からこっそり写真を撮ってパンダくんに送り付けていた。

 両手に弁当箱を持って吟味するわたしが映った写真は、その日の夜には棘くんのスマホの待ち受けになっていた。パンダくんからその話を聞いたわたしは頭を抱えた。待ち受けにされるならもっと可愛く映った写真が良かった。メイクだってもっと丁寧にしたし、髪だってちゃんと整えたのにと心底後悔した。

 文句を言うために電話をすれば、棘くんの機嫌がすこぶる良かったため何も言えなくなってしまった。また負けてしまった。彼は口を開けば弁当に入れるおかずの話をしていた。そのプレッシャーは凄まじく、わたしはろくに眠れなかった。


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