呪言 -後-

 細かな雨がしきりに窓を叩く音がしていた。鉛を含んだように重い目蓋を開けば、白い天井灯の光が瞳の奥深くにまで突き刺さった。わたしは思わず顔をしかめた。

 続いていた雨音がふっと途切れたとき、それが雨ではなくシャワーの音だと気づいた。浴室からかすかに音が漏れていたようだった。タイミングが悪かったなと思いながら深く息を吸い込むと、折れた肋骨に穿たれた肺が強く痛んだ。それが呼び水となって、全身の痛みを瞬く間に思い出させた。体のあちこちが痛んで、堪えきれずに小さく呻いた。

 破れた皮膚からは血が途切れることなく滲んでいた。これだけ血を流しても失血死はおろか貧血にさえならないのは、わたしが呪いだからなのだろう。丁子色のフローリングはすでにぬめりを帯びていて、汚してしまったことをひどく申し訳なく思った。

 体の痛みに耐えて首をひねった。わたしはちょうど部屋の扉に足を向ける形で寝そべっていた。部屋は女子寮と同じ間取りで、一人で使うには充分すぎるほど広かった。部屋にはベッドや勉強机、テレビなどが置かれていて、整理整頓の行き届いた清潔な印象を受けた。

 ここは狗巻くんの部屋だろうか。乙骨くんの部屋でないことは確かだった。

 乙骨くんの部屋には何度か招かれたことがあった。もちろん、狗巻くんやパンダくんを交えたうえで。彼の部屋はもっと物に溢れていた。テレビゲームや雑誌、漫画といったインドアな趣味を窺わせるものだけではなく、空っぽの紙袋や高そうなお菓子の箱なんかも部屋の隅に積み重なっていた。

 いつか使うような気がしてなかなか物が捨てられないと、乙骨くんは言った。わたしにはその気持ちがよくわからなかった。わたしも節約のために紙袋は取っておく質だが、彼ほど過剰ではなかった。乙骨くんの言う“いつか”など来た試しがほとんどないし、来たとしても全ての紙袋や空箱を使うことはない。置いておくのは常に三枚程度で充分だ。

 そんな話を狗巻くんにすれば、彼の砥粉色の頭は上下に揺れていた。賛同した狗巻くんの部屋は整頓されているに違いないだろうと思った。

 わたしはあのときの会話を思い出しながら、ここが彼の部屋かどうかを確かめようとした。

 今まで狗巻くんの部屋に入ったことは、一度たりともなかった。部屋に入ってみたいと口にしたら、絶対に駄目だと強く拒絶されたから。

 わたしに下心がまったくなかったといえば嘘になるものの、そういうことをするつもりはなかったし、またそういった物を探し出してやろうという気持ちもなかった。あらゆる作品がデジタル化している昨今、捌け口として消費されるコンテンツは小さなスマホひとつに集約している可能性が非常に高かった。

 他人のスマホを覗き見しようという趣味はなかった。それがたとえ好きな人のものであっても。人には隠したいことがひとつやふたつ、必ずあるものだから。

 わたしは狗巻くんが寝不足になるまで夢中になったという、テレビゲームをしてみたかっただけだった。人類が滅んだ世界で命の宿った機械と戦うアンドロイドが主人公だという、退廃的で物悲しいアクションゲームを。

 どれだけ食い下がっても、彼は首を縦に振ろうとはしなかった。あの気怠い顔を覗き込みながら、

「どうして?ゲーム以外の言えないことでもするの?」

と、からかうように問いかければ、狗巻くんは仄かに赤くなった顔をじっと伏せてしまったのだ。羞恥と緊張はこちらにまで伝染し、それ以上は会話を続けられずに終わった。

 どうやら彼はわたしに手を出さないために、断固として入室を禁じたらしかった。それから先も、彼の部屋に入る機会は決して訪れなかった。

 事情が事情とはいえ、狗巻くんが許さなかった場所に勝手に入ったとなれば、優しい彼とはいえきっと怒るだろう。言い訳を考えながら部屋を見渡したが、体の痛みに耐えられず早々に諦めた。残念ながら、狗巻くんの部屋だと断定できるものは見当たらなかった。

 間違えて飛ばされていたらと不安が頭をもたげたとき、肋骨の奥から殺人衝動が湧いてきて心配どころではなくなった。引いたはずの波が、何倍にも膨れ上がって押し寄せていた。肉体を引き裂かんばかりの激痛をなぞるように感覚し、暴れ狂う衝動を抑え込もうとした。

 イザナミさんは五条先生を警戒していたし、狗巻くんの部屋以外には転移させていないだろう。殺意で散らかっていく思考を素早く片付けて、痛みだけに全ての神経を集中させた。

 鼻から漏れる呼吸は荒かった。東京に戻ってきたのに、それも狗巻くんの部屋にいるのに、何故こうも殺人欲求を振り払えないのか理解できなかった。徐々に治まっていくことを黙って祈るしかないのだろうか。わたしの神様には、どうにもできそうにないのだが。

 そのとき、脱衣所の扉が開く音がした。激痛を宿した体がみるみるうちに強張った。すりガラスの扉の向こうに人影が見えた途端、白い引き戸は勢いよく開かれた。

 半裸の狗巻くんと目が合った。濡れた前髪の隙間から覗く薄茶色の瞳がまんまるになった。

 驚かれることは予想していたものの、ひっと小さく喉が鳴る声が聞こえたのは思った以上にこたえた。他でもない彼にそんな反応をされるのはつらかったし、自分がそこまで酷い状態であることを嫌でも認識させられた。

「おかかっ!」

 狗巻くんが叫んだのと同時に、身の内で恐ろしい衝動が渦を巻いた。咄嗟に右手首を噛んだ。式神に噛まれた場所に歯を立てて、肉を抉られる痛みで必死に正気を保った。口の中が鉄臭い味でいっぱいになって気持ち悪かった。涙は後から後から溢れた。

 信じられないとでも言うように、彼は何度もかぶりを振った。

「おかか……おかかっ」
「……来ないで」

 手首からわずかに口を外して、声を絞り出した。血相を変えた狗巻くんはわたしの傍らに膝をついた。傷の深さを確かめるため、頭のてっぺんからつま先まで、ひどく狼狽した視線を行ったり来たりさせた。

「高菜っ!」
「お願い……離れて」

 昏い衝動は色濃くなるばかりで、一刻も早く離れてほしかった。しかし、わたしの願いは狗巻くんに聞き届けられなかった。彼が震えるほど混乱しているせいで。

 言葉を失った狗巻くんが呆然としていたら、静寂を裂くように軽快な着信音が流れ始めた。わたしのものではなかった。狗巻くんが我に返った様子で顔を上げて、ベッドの上のスマホを慌てて手に取った。それが誰からの着信なのか、すでに察しているようだった。

「すじこっ!」

 これはいったいどういうことだと、狗巻くんが悲痛な声で騒ぎ立てた。電話の相手は間違いなく五条先生だろう。時間経過から考えて、約束通り全て片付けたのちに連絡を寄越してくれたらしかった。

 相槌を打つ狗巻くんの声はつんのめっていた。一秒でも早く事態を把握するため、悠長に話している五条先生を急かしていた。いつも冷静な狗巻くんにしては珍しく感情的だった。わたしは右手首に噛み付いたまま、会話の終わりをじっと見守った。

 五条先生が狗巻くんにどこまで告げているのか、気になって仕方がなかった。できれば彼のせいでこうなっている事実は伏せてほしいのだが。知ってしまえば秘匿死刑のときと同様、彼はまた深い自責の念に駆られて、今度こそ潰れてしまうかもしれない。

 狗巻くんは一分も経たぬうちに耳からスマホを離した。落ち込んでいる様子はなかった。五条先生はそこまで浅慮な人ではなかったらしい。おおかた、重傷を負ったせいで自我を奪われかけているとでも言って誤魔化したのだろう。

 スマホをベッドの上に放り投げると、彼はこちらを一瞥した。決意に満ちた瞳だった。

「こんぶ!」

 ここで待っていてと言い残すと、勢いよく駆け出した。高専で待機している当直の医師を呼びに行くのだと悟った。

 五条先生から領域を使用できないことを聞かされた狗巻くんは、専門の医師を頼る判断を下したらしい。いついかなるときでも対応できるよう、呪術高専には反転術式を使用できる医師が二十四時間体制で常駐している。ここから医務室まではそう遠くないし、きっとわたしはすぐにこの状態から解放されるだろう。呪いに成るまで残り三時間弱。時間は充分に残されていた。

 だからこそ、わたしは狗巻くんを引き留めたかった。

「待って」

 か細い声を拾い上げた狗巻くんが振り返って、大きくかぶりを振った。

「おかかっ」
「待ってってば」

 語気を強めると、彼はひどく険しい顔でわたしを見つめた。何故足を止めねばならないのか理解できないという顔だった。

 わたしは風呂上がりの狗巻くんに視線を返した。訝しげな瞳を覆う砥粉色の髪は濡れたままで、その身に着けているのは黒い下着一枚、たったそれだけだった。ほどよく筋肉のついた骨張った体躯から目を外し、息も絶え絶えに言葉を紡いだ。

「敷地内とはいえ、その格好は、ちょっと……」
「おかかっ!」

 狗巻くんは顔を赤黒くして怒鳴った。そんなことを気にしている場合ではない、と。

 彼の言うことはもっともだったが、わたしは首を左右に振った。絶対に譲れなかった。狗巻くんが変質者扱いを受けることで被るであろう信用の損失はあまりに大きかった。しかも“呪い”を助けようとして半裸で高専内を疾走したとなれば、ますます彼の立場が危うくなってしまう。

 五条先生なら腹がよじれるほど爆笑して「最高だよ!」とか言いそうなものだが、五条先生のように笑って済ませてくれる人間ばかりではないというのが現状だった。非難し揶揄する人間が大多数を占めるとなれば、今優先すべきはわたしの命ではなく、狗巻くんに向けられる信用の重さのほうだった。

 込み上げる殺意を抑えつつ、わたしは息を吸い込んだ。激痛で意識が弾けそうになったものの、着替える間のたった数分、我慢できないほどではなかった。

「まだ平気だから、着替えていって……」

 狗巻くんはわたしと玄関の扉を交互に見やって、もどかしそうに一度だけ足を大きく鳴らした。風呂上がりの清潔な素足がわたしの真っ赤な血を踏んでいく。首を動かしてその背を追った。彼は怒りを露わにしながらベッドのそばに腰を落とした。それからベッドの下に手を伸ばして、衣装ケースを引っ張り出した。

 どうやら隙間収納を徹底しているらしかった。わたしも見習おうと思いつつ、狗巻くんの丸まった背中を見つめた。太い骨の浮かんだ背中はとても綺麗だったが、健康的な肌から立ち昇っているのは確かめずともわかるほどの激怒だった。確かにわたしが彼の立場なら同じように怒るだろうし、制止など振り切って飛び出しているかもしれない。それでも彼が従ってくれるのは、自分のためではなくわたしのためだった。

 だからわたしは出せる限りの明るい声で言った。いつもと変わらない調子を装って。狗巻くんに時間と肉体の余裕を示すために。

「黒、しかもボクサータイプ。似合うね。それにすごく足が長くて羨ましい」
「……すじこ」

 黒いハーフパンツを穿き終えた狗巻くんが、ぼそっと小さな声で呟いた。まるで昨夜の会話を続けるように。

「それってメンズ?」
「しゃけ」

 わたしの問いにこくりと頷きながら、Tシャツに袖を通していった。わたしはうまく回らない頭でぼんやりと考えた。

「わたしの好きな下着はね……」

 しかし、その先の言葉を紡ぐことはできなかった。這い上がってきた咳がごほっとこぼれて、気づけば口から血の泡を噴いていた。気管に血液が詰まったのか、わたしは激しく噎せ込んだ。

 狗巻くんが「高菜っ!」と切羽詰まった声を放つと、勢いよく立ち上がって扉の向こうに消えた。わたしはごほごほと咳くばかりで、ほとんど息が吸い込めなかった。狗巻くんが戻ってくるまで耐えられるだろうかと思ったそのとき、彼はどういうわけか駆け戻ってきた。数秒も経っていなかった。

 その手にはペットボトルが握られていた。冷蔵庫から取り出してきたらしい。素早く蓋を開けるとわたしの口の中に水を注ぎこんだ。吐血することが多い彼には、気管に血が詰まったときの心得があったのだろう。

 だが、わたしは噎せるばかりで水が喉を通ることはなかった。吐き戻された水と血が口の周りをびしゃびしゃに濡らした。とにかく息が苦しかった。痛みも殺意も根こそぎ抜け落ちていくほどに。

 息苦しさで意識が朦朧としてきたとき、狗巻くんが躊躇いなくペットボトルに口をつけた。その唇に水を含むと、わたしに口付けて直に注ぎ込んだ。冷たい水が喉奥に押し込まれて、血塊を流し落としていくのがわかった。

 折れた肋骨で傷ついた肺が、大きく膨らんだ瞬間だった。堪らない息苦しさから解放され、気が抜けてしまったせいだった。わたしの両手は独りでに動き出し、こちらを見下ろす狗巻くんの首を掴んでいた。

 はっとしたときには、もう遅かった。両手は彼の首をきつく締め上げていた。どれだけ痛みを感覚しても、手の力は一向に緩まらなかった。

「嫌だ」

 己の唇から悲痛な声が漏れていた。狗巻くんが苦しそうに顔を歪めて、くぐもった呻き声を上げた。溢れた涙で視界がぼやける。恐ろしい衝動にとうとう主導権を奪われたことを認識した。低く唸りながら懸命に両手を離そうとしたが、肉体はわたしの言うことをこれっぽっちも聞かなかった。脳と意識が繋がっていない感じがした。

「嫌だ。なんで」

 苦悶の表情を浮かべる狗巻くんは、わたしの両手首を掴もうとした。しかし彼の両手は宙を彷徨っただけで、何かを掴むことはなかった。自らその手を静かに下ろし、呼吸ができない苦しみに顔を歪めていった。

 ますます涙がこぼれた。わたしの両手首は傷だらけだった。式神に噛まれた右手首は血が滲み、左手首は屋上から落ちたときに骨にヒビでも入ったのか、真っ赤に腫れ上がっていた。きっと傷の上から触れれば痛むとでも考えたのだろう。

 この状況で掴まないという選択をしたことが信じられなかった。彼は手首どころかわたしの体にまったく触れようとしなかった。至るところが折れているわたしを気遣ってのことだとはわかっていても、到底理解できるような選択ではなかった。

 今まさに首を絞められているのだ。殺されかけているのだ。しかし狗巻くんは額に汗の粒を浮かばせ、湿った小さな声を振りこぼすだけだった。

 まさか無抵抗を貫くつもりだろうか。このまま殺されてもいいと言うつもりなのか。たとえ狗巻くんが良くても、わたしは嫌だった。認められるはずがなかった。

「止めて。呪っていいから止めて!」

 残された方法はそれしかなかった。呪言を使用すれば、たった一言でわたしを止められるだろう。この手は狗巻くんの首から離れるだろう。たとえそれが一瞬だとしても充分だった。時間稼ぎをしたかった。彼がわたしから逃げる時間をどうしても作りたかった。

 狗巻くんが苦しげに伏せていた目を上げた。薄茶色の瞳の向こうで、迷いが大きく揺れていた。この危機的状況で気遣われてもちっとも嬉しくなかった。それでもなお踏ん切りが付かない彼にかえって腹が立った。

「狗巻くん早く!いいから早く呪ってよ!」

 わたしは腹の底から叫んだ。懇願ではなく命令だった。涙が滂沱と流れていた。狗巻くんだけは殺したくなかった。そのためならわたしが殺されてもいいとすら思った。どんな呪言でも受け入れる覚悟はできていた。

 浅い呼吸を繰り返しながら、彼の唇が呪いの言葉を吐くのをひたすら待った。ほんの数秒が一時間や二時間のように感じられた。息苦しかった。時間の流れが嫌に遅くて、早く早くと祈り続けた。

 やがて狗巻くんはこちらを見つめて、きつく結われていた唇をそうっと開いた。



 名を呼ぶと、わたしの頭にそうっと手のひらを置いた。わたしの大好きな、優しくて温かいぬくもりだった。髪を慈しむように撫でながら、穏やかに笑った。

「――愛して」

 彼は笑みを深くした。

「――の一番にして」

 わたしは突き落とされるように静寂に沈んでいった。周囲の音がまるごと消え失せて、自らの荒れた呼吸音だけがやけにはっきりと聞こえた。

 固く握られていた両手が、ゆっくりと首から離れた。その途端、彼は顔を背けて床に大量の血液を吐き出した。しかし咳く声も水音も何も拾えなかった。わたしの左腕が生ぬるい液体で濡れていった。彼は肩で呼吸を繰り返しながら、二度三度と同じだけの血液を吐き散らした。フローリングは瞬く間に鮮やかな赤へと染まった。

 体を深く貫くような痛みも、意識を混濁させるほどの殺意も、もうどこにもなかった。体の主導権は手の中にあった。感動も安堵も湧いてこなかった。ただ戻ってきたのだという冷めた感想だけを抱いていた。

 わたしは射るように彼を見つめた。吐血するたびに砥粉色の髪が揺れて、濡れた毛先から水滴が滴っている。皮膚のすぐ下で持て余すほどの熱が広がっていくのを強く感覚した。沸騰するような熱は意識と深いところで混ざり合っていった。

 彼が顔を上げてこちらを見たとき、はたと我に返った。全ての音が戻ってきた。両手をおもむろに伸ばして、砥粉色の頭を優しく引き寄せた。

「棘くんは欲張りだなあ」

 狗巻くんの――棘くんの大きな瞳が見開かれた。わたしは呆れたように笑うと、形のいい唇から垂れた血液を舌で丁寧に舐めとった。まるで猫がそうするみたいに。

「もうとっくに一番なのに、まだ足りないの?」

 そう言って口を尖らせると、薄茶色の瞳が小さく上下した。わたしだけを映すその視線に、腹の奥がじわりと熱を帯びていく。

「じゃあ棘くんがわかるまでキスしてあげるね」
「……おかか」
「うん、今夜はそれだけ。その先はもちろん人間に戻ってからだよ?」

 抗議するように棘くんの舌がわたしの涙を掬い取った。「やだ、くすぐったい」と笑えば、「おかか」と拗ねた声が返ってきた。呪言は効いていないのかという問いに、わたしは曖昧な顔をした。何も言えなかった。彼を傷つけないためには、今はこうするほかなかった。

 右の親指で棘くんの頬を何度もなぞって許しを請うた後、わたしは歌うように呟いた。今捧げられる感情の名を確かに刻みながら。

「――我が傾慕を己が魂に刻め」
「領域展開――略式・百鬼夜行」

 聞こえ始める祭囃子に合わせて、鼓の音がポンと響き渡った。“壱”の面紗を付けた異形がわたしの頭上に降り立つと、力の入らない上半身を丁寧に起こしてくれた。そして棘くんにちょいちょいと手招きをした。わたしを後ろからしっかり抱き支えるようにと、身振り手振りで指示を出したのだ。彼は“壱”の指示に従って、わたしを後ろから抱きすくめた。

 “壱”がわたしの傷ついた脇腹に両手を当てた。穏やかで優しい光は、わたしだけでなく棘くんをも包み込んでいった。彼の両腕がわたしの腰をきつく抱きしめても、不思議と痛みはなかった。

 これは二人まとめて治すための効率の良い体勢なのだろうか。疑問が顔に出ていたのか、“壱”が首を小さく横に振った。どうやらわたしの欲望を拾い上げて、この形にしてくれたようだった。

 かっと顔を熱くしていると、棘くんの熱っぽい声が耳元で響いた。

「こんぶ」
「そうだね。わたしのことも棘くんのことも、今から治してもらうけど」

 棘くんが後ろからわたしの顔を覗き込んで、「おかか」と文句を垂れた。至近距離にあるその頬に手を伸ばした。今は少しでも触れていたかった。わたしの指先で彼の熱を確かめたかった。輪郭を明確に縁取りたかった。

「うん、自分で確かめてって言ったよ。嘘じゃない」
「しゃけ」
「でも駄目。今日の下着、全然可愛くないから見ないで。絶対嫌なの。見たら嫌いになるからね」

 念を押すようにはっきりと言えば、棘くんはひどく不貞腐れていた。手をより高く持ち上げて、濡れた髪を何度も撫でた。ごめんごめんと言うみたいに。

 今日に限ってシンプルな下着を身に着けているのは、棘くんとの出張でもなかったからだと理解しているのだろうか。棘くんとのデートの日は見せもしないのにこっそり気合いを入れていることを、はたして知っているのだろうか。

きっと何もわかっていないだろうなあと思いつつ、わたしは肩をすくめて笑った。

「キスだけだよ。それじゃ駄目?」
「ツナマヨ」
「そう、嫌ってくらい。棘くんがもういいって言うまで」
「……しゃけ」

 渋々頷いた棘くんの瞳が、より激しい熱に彩られていく。ぞくっとした。必死で繕った皮を易々と破られて、欲望を剥き出しにされていく感じがした。駄目だと思った。拒絶しなければならなかった。顔が近づいたとき、わたしは人差し指の腹を彼の唇にぴたりと当てた。

「あ、ちょっと待って」
「おかかっ!」
「伏黒くんに無事だよってメッセージだけ入れておくから」

 汚れたスカートのポケットからスマホを取り出した。スマホの画面はヒビだらけで、軽い眩暈がした。気に入っていたから余計にショックを受けた。

「高菜」
「壊れてないよ。棘くんとの思い出も全部無事」

 明るく装いながらメッセージを打ち込んだ。棘くんはわたしをよりきつく抱きしめて、さっさとしろと文句を態度で示した。焦らすように時間をかけてのんびり操作していると、苛立ちが伝わってきて思わず笑ってしまった。不機嫌になりながらも余計なことはせず、こうして律義に待ってくれるところに、深い愛情を感じてぎゅうっと胸が詰まった。

 スマホを片付けた後、その場で恭しく頭を下げた。

「大変お待たせしました」
「しゃけしゃけ」

 わたしが“壱”に目をやれば、棘くんと似た色をした頭がこくりと揺れた。わたしたちを覆っていた淡い光がすうっと消滅していく。笑みがこぼれるのを止められなかった。体のあちこちに張り巡らせた防壁をひとつひとつ解いていった。屋上へと至る階段を駆け上がるように。

 体が治るのをずっと待っていたのだ。呪言で重傷を負った棘くんの体が治るのを、ずっと。

 衝動に突き動かされていた。しかし決して怖くはなかった。他の誰でもない自分から生まれた欲望だったから。呪言に後押しされたものだとしても、それはわたしだけの衝動だったから。体の隅々まで支配され、意識が高揚していくのを感じながら、わたしは棘くんの拘束から逃れた。

 縋るように服を掴もうとする指を振り払うと、ひどく傷ついた顔をされた。わたしは肩が落ちるくらいの深い溜息をわざとらしく吐き出し、ムスッとしながら低い声で言い放った。

「もう限界。すっごい我慢したんだから」
「こんぶ」
「呪言はちゃんと効いてたよ。ただ我慢してただけ。優しくできないってわかってたし」

 向かい合うように座り直すと、棘くんを勢いよく押し倒した。抵抗の暇すら与えないように素早く。床は汚れていたが、どうでもよかった。砥粉色の後頭部をぶつける鈍い音がして、彼の顔がわずかに歪んだ。しかし謝る余裕もないほど、わたしは熱に侵されていた。荒い呼吸が唇の端から漏れ続けた。

 棘くんはわたしを見上げて、目を白黒させていた。ひどく混乱しているようだった。

 わたしは呆れた。呪言を使ってまで求めたのは棘くんだろうに。ずっとひた隠しにしてきた欲を暴いたのは自分のくせに、身に覚えがないとか理解が追い付かないとか、そんな態度を取るのはいかがなものか。最初から“離せ”とか“止まれ”といった呪言を使っていればよかったのだ。いったい何にこだわったのかは知らないが、嫌と言うほど後悔させてやるつもりだった。

 鼻の頭がくっつくくらい顔を近づけて、視線を深く絡めながらきっぱりと告げた。

「わからせてあげる。わたしが一番愛しているのは誰なのか」

 わたしは棘くんのポカンと空いた唇に、噛み付くようなキスを落とした。



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