間奏

 握ったスマホから、柔らかな歌声が聞こえていた。音程はまったく外れておらず、目を瞠るほど上手かった。

 しかしにはそれを驕るような様子はなかったし、己の歌で棘を酔わせてやろうという気概も感じられなかった。愛する人との未来を歌ったラブソングに、自らの想いを込めているわけでもなさそうだった。

 今はこれが歌いたいの、聞きたいのならどうぞご自由に――まるでそう告げられているようだった。それほどの歌声は自由で、ちょっと目を離せばいなくなってしまいそうな気がした。

 無伴奏で歌い上げるの伸びやかな声を、棘はそっと静かに聞き入っていた。の生き方そのもののようだと思いながら。

 が歌っているのは、家庭用ゲームのテーマソングだった。有名な女性アーティストが作詞作曲と歌唱を務め、発表から十六年が経った今も不朽の名曲として歌い継がれていた。

 棘は家庭用ゲームが好きだった。一人でも遊べるし、何より話す必要がないからだ。

 この曲がテーマソングとして起用されたゲームソフトは、棘が生まれた頃に発売された。技術の発展とともにゲーム機は進化を遂げ、映像がどんどん美しくなり、それに合わせて昔のゲームソフトもリマスター版として発売されるようになっていた。

 棘が購入したのは、昨年発売された二度目のリマスター版だった。棘はネットの評判を信じて予約までした。そして発売されるや否や瞬く間にのめり込み、去年の短い春休みはこのシリーズ作品の攻略に全て費やしたほどだった。夜中に一人で号泣してしまったくらい、ストーリーが特に秀逸だったのだ。

 思い入れの強いゲームソフトだった。パンダが家庭用ゲームに手を出すようになったのは棘がこのゲームソフトをゲーム機ごと貸したからだし、やっと打ち解けた憂太がこのシリーズ作品の大ファンだと知ったときは、パンダを交えて一晩中感想を語り合ったのだ。このゲームが二人との仲をより深めてくれたと言っても過言ではなかった。今では共闘はもちろん、ゲームソフトを貸し借りする仲になっているのだから。

 の歌声はサビに差し掛かり、浮遊するように盛り上がった。ゲームの感動を引きずり出され、目頭がかっと熱くなった。忘れられない歌詞が耳に染み込んでいく。

 カラオケで最も点数が高かった曲を尋ねると、は迷うことなくこの曲を答えた。棘は心底驚いたし、どうしても聴いてみたくなったのだ。の声が奏でる思い出深い曲を。

 歌ってほしいと駄目元で頼んでみれば、は二つ返事で棘の要望に応えてくれた。は棘がゲームを好んでいることを知っていたし、憂太の部屋でパンダも含めた四人で対戦ゲームをしたこともある。はゲームが好きな棘のために、この曲の名を口にしたのだろう。

 思考を鈍らせるあの痛みが、じわりと滲んだ。築いた防壁は一気に崩れ去り、心の柔い部分がひりつき始める。棘は唇を強く噛んだ。やっと鳴りを潜めたと思っていたのに。

 諦めたくない。棘はの声が完全に途切れる瞬間に神経を尖らせながら、強くそう思っていた。

 が歌い終わると、棘は耳に当てたスマホを肩で挟んで拍手をした。にも聞こえるように、少し大きめに。

「ありがとう。どうだった?」
「しゃけ。こんぶ」
「そう?嬉しい。結構練習したからね」

 それが誰のためかは、火を見るよりも明らかだった。はこの曲が有名だから知っているというわけではなさそうだった。それは棘の直感だったが、真実だという自信があった。根拠もなく確信が湧いていた。

 男の影響だろう。その男がにとって何番目の男であるかは定かではない。だが、男は棘と同じようにゲームを好んでいたようだった。愛する人との希望を歌ったラブソングを恋人に歌わせたかったのか、それともが恋人を喜ばせるために歌うようになったのかは一切不明だ。考えたくもない。

 ただ棘にわかることは、が練習を重ねるほどその男を愛していたという事実と、男の爪痕がはっきりと残されていることだけだった。

 棘はベッドに横向きになって、鼻からゆっくりと肺の空気を外に追いやった。ざわつく心を落ち着かせるために。には決して気づかれないよう、長く静かに。

 この程度のことで揺らいでいることが馬鹿らしかったが、棘にはどうすることもできなかった。が恵と同室ではないことに安堵したせいだと思った。棘を深く悩ませた最大の問題が消え失せたことで、次の問題が繰り上がってしまったのだろう。満ちる痛みは半減しているが、それでも苛立ちを含んだ痛みであることに変わりはなかった。

 これでは終わらない。堂々巡りだった。泥沼であることを感覚していた。諦めたくない――その思いは、いったいどれだけの純粋さでできているのだろう。を好きだという気持ちの他に、を誰にも渡したくないという執着が過分に含まれている。に爪を立てていいのは自分だけだという驕りがある。

 どの男もから離れていった。自ら離れたのかもしれないが。

 どちらにせよ、棘には自分はそうはならないという自信があった。諦めたくないし、絶対に諦めない。棘がに愛想を尽かされることはあっても、逆はあり得ないことを確信していた。ここまで歪んで膨れ上がった呪いが、棘の中から消える日が来るとは到底考えられなかった。

 もはや予知だった。自分はたった一人の例外になるだろうという未来視だった。だからこそ、に残り香が纏わりついていることが許せなかった。腹が立ってどうしようもなかった。

 の歌声が頭の中で響いていた。の光になるのは自分だ。お前達ではない。

「ねえ。今、余計なこと考えてるでしょ?」

 棘の脳髄が大きく揺れた。はっとなって、もつれるように口を開いた。「おかか」と否定した声は掠れていた。喉がからからに乾いているせいだと思いたかった。棘は体を起こして、冷蔵庫へ向かった。

「嘘ばっかり」

 心の中をあっさりと見抜く声がした。棘が無言を貫いて、冷蔵庫の扉に手をかけたとき、

「わたしのことだけ考えさせてあげよっか?」

と、は唐突に無邪気な提案をしてきた。の言う“余計なこと”も広義的には“のこと”なのだが。そんなことを考えながら、ペットボトルに入った飲料水を取り出した。

 棘が冷えた水を喉奥に送り込んでいたとき、が弾むような声で言った。

「最初に下着の色、訊いたよね?」

 心臓が跳ねた。その拍子に水が気管に入って、思いきり噎せた。スマホを顔から遠ざけ、濡れた口を二の腕に押し付けて何度も咳き込んだ。

 は夜更かしにあたり、棘の質問に何でも答えると言った。そのとき、は撒き餌をしたのだ。エッチな質問は駄目だとわざわざ口にした。棘は未だかつてその類の質問をに投げかけたことがなかった。ただの一度も。嫌われるのが恐ろしくて。さえ黙っていれば、そんな話題に至る可能性はゼロに等しい。それでも口にしたということは、つまりそういう質問をしてこいという意味だった。

 棘は大いに悩んだ。ほんの数秒の間に様々なことを考えた。

 無事に任務を終えたらキスをしてほしいとせがまれた時点で、理性はほとんど消し炭にされていた。僅かに残った理性を必死でかき集めて、懸命に平静を装った。

 そんな状態で疼く熱に直結してしまう質問を考えるのは、棘にとっては拷問のようなものだった。だが、頭に響く五条や真希の言葉が棘を踏み止まらせた。好きなら自制してみせろ。棘は忠実にその言葉を守り通した。

 根深いところで熱が疼くのを感じながら、思考を巡らせていった。に少しでも会話を楽しんでもらいたくて。

 結局棘は、餌に食いつくことを選んだ。に馬鹿にされてもいいと思った。ここまで来て紳士ぶるつもりはなかった。との会話を続けるためなら、道化でも何でも演じてやろうと思っていた。

 思いつく数多の質問の中で、最も嫌われにくそうな質問を選択した。本当はもっと露骨なことを訊いてみたかったものの、口にするだけの勇気はなかった。それに下着の色を問うだけでも、なけなしの勇気を振り絞らねばならなかった。それくらい緊張したし、嫌われたらどうしようという思いが強かった。は楽しそうに笑ってくれたので、結果的には良かったのだが。

 乱れた呼吸を整えながら、スマホに耳をあてた。が小さく笑っている声がする。動揺した自分はそんなに可笑しいだろうか。棘はペットボトルの蓋をきつく閉めて、冷蔵庫に放り込んだ。が笑ってくれるなら何でもいいかと思いながら。

 棘が静かになったタイミングで、は棘の意表を突くようなことを言い出した。

「下着ね、洗っちゃったんだ。泊まるつもりもなかったから。それにこの部屋、なんだか暑くて。空調が壊れてるのかも。何か着ると、肌が汗ばみそうなんだ。せっかくシャワー浴びたのになあ」

 骨の髄にまで染み込ませようとする声だった。棘はの言葉を頭の中で反芻して、何度も瞬きを繰り返した。都合のいい幻聴か何かだと思いたかった。

「さて、ここで問題です。わたしは今どんな格好をしているでしょうか」

 続いた無邪気な声に、棘は固唾を飲んだ。滑らかで健康的な素肌が脳裏に浮かんだせいだった。満員電車の中でのあの柔らかな感触がフラッシュバックして、連鎖的にとの口付けの感覚が蘇ってきた。重ねた唇の確かな熱に侵され、頭の後ろがぼうっと白んでいく感覚。おぼろになっていく中で、もがくようにの咥内を犯し尽くすあの感覚。

 まずいと思ったときには、もう遅かった。強張った体の奥底から、抑え込んでいたはずの劣情が堰を切ったように溶け出した。その場にしゃがみ込んで、目を大きく見開いた。

 身につけていた下着を洗った上に、部屋着も着ていないとなればそれは――

「ほら、もうわたしのことで頭がいっぱいだ」

 が熱を込めてうっとりと囁いた。蠱惑的なその声音に息が詰まって、半開きになっていた唇をきつく結んだ。

 どこもかしこも熱を帯びた自分が情けなくなった。あまりに単純すぎて。いつかは自らをパブロフの犬のようだと言ったが、棘のほうがずっと酷い有様だと思った。

「次は?」

 棘の様子を知りながら、は次の質問を促した。棘は数秒迷った後に、必死で言葉を紡いだ。

「……すじこ」

 の嫌いな食べ物を尋ねた。声は裏返っていたが、取り繕う余裕もなかった。今は少しでも普通の質問をしたかった。疼いた熱を遠ざけるために。その間に体を冷ましたくて。

「それって本当に訊きたいことじゃないでしょ」

 棘の心を見透かしたは、いたずらっぽくそう言った。ぐうの音も出なかった。

 本当に訊きたいことはの言葉の真偽だったが、のらりくらりとかわされるのが関の山のような気がした。ここで深追いすればそれこその思う壺だし、あっという間に自制心が消し飛んでしまいそうだった。

 言いたいことを全てを飲み込んで、棘は頭の中でひたすら九九を数えた。するとが穏やかに言った。

「嫌いな食べ物はないよ。虫みたいなゲテモノはちょっと勇気がいるけど……先に誰かが食べてくれたら頑張って食べるかな」

 先ほどとは打って変わって、普段と変わらぬ口振りだった。棘は眩暈を感じた。手慣れた態度だったから。男を刺激する方法も、男をあしらう方法も、はすでに心得ているようだった。

 劣情を押し流すほどの苛立ちが湧いた。初めからこうだったわけではないだろう。男がどういう生き物であるかを、に懇々と学ばせた男がいるのだ。無垢な少女を手折り、男を戯弄する女に仕立てた男が。

「ツナ」

 棘はに促される前に、次の質問を口にしていた。付き合った男の数を訊いたのだ。

 今まで何となく訊かなかったのは、の過去に拘るつもりはなかったからだ。だが、気が変わった。どうしても気になってしまった。棘がにとって何番目なのかが。

「さあ、何人でしょう?」

 は回答をはぐらかしたが、棘はそれを許さなかった。「おかか」と適当な人数を挙げて、さらに質問を重ねた。の退路を封じるように。

「どうだろう?三人より多いかもしれないね。それ以上はノーコメントです」
「おかか」
「黙秘も立派な答えだよ」

 楽しそうな声が返ってきて、棘はそれ以上訊けなくなってしまった。屁理屈だと思いながらも、言及する気にはなれなかった。このまましつこく問い続けて、に嫌われるほうが嫌だった。

 黙り込んだ棘に何かを思ったのか、が唐突に切り出した。

「わたし、付き合っても長続きしないから」

 付き合ってきた男の多さに対する言い訳かと棘は一瞬思ったが、どうやらそうではないようだった。の声は落ち着き払っていて、どこか寂しさを感じさせるものだったから。

「本当に好きなのかって訊かれるんだ。疑われて終わる。いつもそう」

 は言葉を選びながら続けた。棘に理解を求めるように。

「ちゃんと好きなんだよ。胸を張って言えるくらい大好き。でも、一歩引いたところで自分を見つめられる余裕は持っていたいと思うから。大切なものを見失わないように」
「ツナマヨ」
「うん……それが駄目みたいだね。相手をすぐ不安にさせる。束縛されて、スマホ見せろって言われて、移り気の証拠が出なければ好きじゃないんだろって言われて……そんなことばっかり。でも、この生き方を変えるつもりはない」

 付け足されたの言葉には、曲がることのない芯が一本通っていた。

「母は父に裏切られた。わたしを認知しなかっただけじゃないの。結婚の約束を反故にされて、残されたのは赤ん坊と多額の借金だけ。最悪でしょ。死んでも同じ目には遭いたくないんだよね……反面教師ってやつ?」

 は小さく笑った。自虐的な笑みに、棘は何も言えなかった。

「そんな男を選ばなきゃいいだけだって友達は言うけど、そんなのわかんないじゃん。この人を好きになるぞって意気込んで好きになるわけじゃないし」

 棘の沈黙を裂くように、の声は響き続けた。

「わたしが冷静さを失って愚かな選択をしたとき、傷つくのはきっとわたしだけじゃない。わたしを大切に思ってくれている全ての人を傷つける。迷惑をかける。それだけは絶対に嫌だ」

 傷つかないために、傷つけないために、は選んだのだろう。感情のコントロールを、恋に狂わないことを。冷静な目を持ち続けるために。

 それは棘とよく似ていた。おにぎりの具で語彙を絞っていることとそう変わらないと思った。自分をコントロールして、自分も周りも傷つけないように語彙を選んでいる。棘はが自分と同じであることを悟った。

 は笑った。

「また余計なことしゃべりすぎたね。忘れて。次の質問はどうする?」

 棘は考えるふりをして、スマホを握る手に力を込めた。喜びで顔が緩んでしまいそうになるのを何とか堪えながら。

 が棘に自らの考えを告げたのは確認のためだった。そういう愛し方しかできないがそれでもいいのかという問いかけであり、の気持ちが棘に向いている確たる証拠だった。それは棘にとって告白と同義だった。たとえにそのつもりがなくても。

「わたしの勝負下着の色でも答えようか?」

 茶化すような声が聞こえて、棘は思わず笑った。笑いながら、自らに芽吹いた欲の欠片を敏感に認識した。愛されているという実感を得たからこそ、その先がどうしても欲しくなってしまった。

 の狂うほどの愛情が欲しかった。それほど愛されたかった。今までのどの男よりも執着されたかった。冷静さを欠くほど棘の虜になってほしかった。が自らの考えを曲げてもいいと思うくらいに。

 棘はを狂わせた最初で最後の男になりたかった。

「ツナマヨ」
「えっ、形?……そう来たか。狗巻くんはどういうのが好き?」

 からかうように訊かれて、うっと息が詰まった。質問に質問で返すのは卑怯だった。だからといって、ここで文句を言ったところで屁理屈を投げつけられるだけだろう。

「教えてくれたら、着けてくるけど?」

 駄目押しの言葉に熱がじわりと滲んだ。条件反射だった。パブロフの犬だった。の手の上で転がされていることを嫌というほど理解した。

 今の質問は無かったことに――そう告げるつもりだった。そうすることで再び渦巻く劣情に蓋をしようとしたのだが、棘はしばらく考えて質問の撤回を取りやめた。そうしないほうが、きっととの会話は盛り上がるだろうと思ったから。が棘を見てくれる気がしたから。

 弄ばれてもいい。玩具にされてもいい。それでの全て手に入るなら。にとって初めての“本気”の相手になれるなら。棘にとっては間違いなく“本気”の相手なのだ、棘ばかりというのはあまりに不公平ではないか。

 歪んだ呪いの言葉が今にも口を突きそうだった。だが、今はそのときではなかった。もっと然るべきときに告げたい、棘はそう考えていた。

 だからそのたった一言を体の奥底に押し込めて、に嫌われない回答をひねり出した。声が上擦らないように注意を払いながら、勇気を振り絞って口を開いた。さっき水を飲んだばかりなのに、もう口の中は砂漠のように乾ききっている。

 恋に狂っているのは、棘のほうだった。


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