潜入

 伏黒くんが待ち合わせ場所に姿を見せたのは、約束のきっかり五分前だった。彼の表情筋はまったく仕事をしておらず、重い目蓋を持ち上げるので精一杯という様子だった。

「おはようございます」
「おはよう。眠そうだね」
「低血圧なんで」

 そう言うと、伏黒くんは駅のほうへと歩き出した。その足取りはどこか気だるく、目が覚めきっていないのだろうと思った。

「俺は例の呪物がまだ杉沢第三高校にあると睨んでます」
「その根拠は?」
「昨晩あそこには多くの呪いがいました。他と比べても多すぎるほどに。おそらく呪物に呼び寄せられたんだと思います」
「襲ってこなかったのはどうして?」
先輩がいたから」

 わたしの問いに、彼はきっぱりと答えた。

「俺達が回収する呪物の本来の役割と同じように、先輩には魔除けの効果がある。今まで先輩を襲ってきた呪いは特級一体だけだって言ってましたよね。相手もわかってるんですよ、下手な真似をすれば殺されるって」

 彼なりの確信を持って告げられた言葉だったが、わたしは眉をひそめた。心外だった。そこまで危険な存在になったつもりはなかったし、買い被りすぎだと思ったほどだった。

「でも、先輩がいるからこそ、呪物の気配が追えないのも事実です」

 あっさりとした調子で言うと、伏黒くんはわたしの影に目を落とした。

「そいつの呪力が規格外な上に、残す残穢も異様に濃い。どこまでも気配を追っていけるくらいに。先輩のせいで、他の呪力の残穢はほとんど掻き消されるんです。いい迷惑ですよ」
「わたし、伏黒くんとかくれんぼしたら負ける?」
「俺の圧勝です、秒で見つけられますよ。正直GPSもいらないレベルですからね。どこにいるのかすぐにわかる。だから上層部は先輩に監視も付けず、こうやって野放しにしてるんですよ。知らなかったんですか?」

 そういえば、と思った。狗巻くんはわたしを見つけるのがとても得意だった。高専の屋上でたった一人昼食を食べていても、こっそり資料室で調べ物をしていても、二人で出かけた先で勝手に単独行動を始めても、つまりどこで何をしていても、彼はあっという間にわたしを見つけてしまうのだ。

 わたしは肩をすくめて、がっかりしたことを態度で示した。手品の種明かしをされたような気分だった。ずっと、わたしへの想いの強さが為せる業だと信じていたのに。

 すっかり興が醒めていた。プライバシーなどないなと思いながら、伏黒くんとともに人通りの多い朝の改札を抜けて、駅のホームへ向かった。

「放課後、杉沢第三高校に潜入して呪物を探します。でもその前に、本当にまだそこにあるのかを確かめたい。そのために先輩には最寄り駅でしばらく時間を潰してもらいます。気配を辿るには邪魔なんで」

 いっそ清々しい物言いだった。わたしは頷いて、暇潰しの方法をぼんやり考えた。しかし妙案は浮かばず、睡眠の一択のみがわたしの手の中にあった。

 伏黒くんがホームの電光掲示板を見つめながら言った。

「今日、たいした授業も任務もないらしいですよ」
「え?」
「狗巻先輩です。先輩のためなら授業もさぼるって言ってました。暇潰しに使ってくれて構わないって……先輩、相当愛されてますね」

 彼の言葉にわたしは瞬きを繰り返した。驚いたのは言葉の内容ではなく、彼がすでに根回しを終えていたことにだった。

「できる後輩だ……」
「はあ、どうも。あと三分で電車来ますよ」
「ねえ、伏黒くんはどうしてそこまでわたしたちのことを気にかけてくれるの?」

 問いかけると、伏黒くんは顔をしかめた。そんな質問をされること自体心外だとでも言いたげに。

「お節介だって言いたいんですか?」
「ううん、そうじゃなくて。単純に疑問なんだ。だって、伏黒くんに何もメリットがないから」
「これは損得じゃない。俺のわがままです」

 意味がわからなかった。わたしが伏黒くんを見つめると、彼は薄っすらと笑った。

「狗巻先輩も先輩も根っからの善人だ。幸せになるべきだと思うし、何より他でもない俺が見たいんです……あんたたちが幸せに笑い合ってるところを」



 杉沢第三高校の最寄り駅のベンチで、わたしはずっと狗巻くんと通話していた。一人でどこかに消えてしまった伏黒くんを待ちわびながら。

 伏黒くんのことを伝えると、狗巻くんは良い後輩を持ったと笑っていた。本当にその通りだと思ったし、やはり伏黒くんの人格形成には多くの痛みが伴っているような気がした。きっと彼も何か言えない事情を抱えているのだろう。わたしや狗巻くんと同じように。

 狗巻くんとともに、本人のいないところで伏黒くんを褒めちぎった。とはいえ、わたしが「顔も性格も良くて術師としても優秀なんて無敵だよね。好きになりそう」と冗談を言ったら、狗巻くんはあからさまに不機嫌になっていたが。

 拗ねた狗巻くんはわたしに手作り弁当を作るよう迫った。狗巻くんは強気だった。彼の機嫌を損ねたのはわたしなので、責任を取らざるを得なかった。わたしの弁当のついでだと思えばさして気にならなかった。それに母と暮らしていた頃は、ずっと母の分も作っていたのだ。また二人分作るのだと思うと、ちょっとワクワクした。

 弁当に入れるメニューをひとつずつ提案し、弁当箱がどう考えてもひとつでは足りなくなってきたとき、伏黒くんがやっと戻ってきた。ちょうど昼の三時を過ぎたところだった。

 伏黒くんはその両手に白い紙袋を持っていた。

「お待たせしました。これ、杉沢第三高校の制服です。伊地知さんに用意してもらったんで、着替えて下さい」

 狗巻くんとの通話を切り、わたしは紙袋を受け取りながら首を傾げた。

「わたしの分も必要だった?」
「もし見える奴がいたらまずいでしょ」

 言われるがままに駅のトイレで着替えたが、杉沢第三高校の女子の制服はリボンではなくネクタイだった。細長い布を片手に、わたしは一人立ち尽くした。スマホで動画を検索して十分以上挑戦したものの、上手く結ぶことができなかった。

 結局、最後はできる後輩の伏黒くんに泣きついた。

 ネクタイを正面から結べないという伏黒くんは、わたしを後ろから抱きしめるような形でネクタイを結んでいった。整った顔がすぐそこにあって、手に汗が滲むほど緊張していた。湿った手のせいでスマホが滑り落ちそうだった。

「じっとして下さい」
「してるよ」
「今スマホ触る必要あります?あと、これ絶対狗巻先輩には黙ってて下さいよ」
「うん」
「さっきからずっと動画撮ってるんですか?物好きですね」
「ううん、ビデオ通話。狗巻くんと。無実の証明だよ」

 伏黒くんの手がピタリと止まった。

「あー……俺、東京戻りたくないです」
「大丈夫だよ。わたしがとびっきりのお弁当作るから」
「最高に旨いやつ作って下さい。死にたくないんで」

 杉沢第三高校に到着したのは、着替え始めてから一時間後のことだった。生徒に扮したわたしたちは、昨夜から一転、堂々と正面玄関から潜入した。服装が変わっただけで、間違いなく不法侵入だった。

 伏黒くんは迷うことなく前進した。向かった先は広いラグビー場だった。立入禁止の看板が目につく場所に立て掛けられていた。使用するなということだろう。しかし彼は看板を無視して、ラグビー場へと足を踏み入れた。わたしも慌ててその後に続いた。

 どうして立入禁止なのか、よくわからなかった。見渡してみたものの、何か変わったところがあるわけでもなさそうだった。わたしは伏黒くんの背中に視線を送った。わたしの目にはそう映っているだけで、彼の目には別の何かが映っていることを確信していたから。

 伏黒くんがぽつんと呟いた。

「死体でも埋まってんのか?」

 わたしの確信は正しかった。首を左右に振って、彼が示唆した存在の位置を把握しようとした。

「どこにいるの?」
「俺の目の先……ゴールポストのてっぺんにいます。あんま見ないほうがいいですよ。あいつは他とは少し毛色が違います。相手が先輩とはいえ、目が合えば襲ってくるかもしれない」

 忠告は素直に聞き入れた。わたしたちの目的は呪いを祓うことではなく、特級呪物の回収だからだ。伏黒くんはゴールポストから目を離すと、校舎に向かっていった。

 追いかけようとしたそのとき、急に足が動かなくなった。まるで地面に縫い付けられたかのように。体中の汗腺から湿った何かが噴き出していく感覚がした。伏黒くんの背中がどんどん遠ざかっていく。声は出なかった。指の一本すら動かせなかった。

 視界がぐらりと大きく揺れたとき、体に異変に起こっていることを認識した。逆に言えば、視界が揺れるまで認識できなかったのだ。頭が上手く回っていなかったせいで。

「くそ!」と伏黒くんの声が聞こえて、意識が勢いよく引き戻された。口から漏れる呼吸は荒く、額からどっと汗が噴き出していた。慌てながら彼の姿を探せば、彼はすでに校舎へと続くコンクリートの階段を上っている。

 わたしはすんなりと前に進むことができた。ついさっきの金縛りが嘘のようだった。

 あれは気のせいだったのだろうか。その場で首をひねったとき、「先輩!」と伏黒くんがわたしを呼んだ。疑問を頭から消し去って、彼のもとへと急いだ。

 伏黒くんに追いつくと、すぐ近くを駆けていた男子生徒の声が聞こえた。

「こっちだ、こっち!早くしろ!」

 彼は友人を急かすと、大声で続けた。楽しみでならないといった様子で。

「陸部の高木と西中の虎杖が勝負すんだよ!」
「種目は?!」
「砲丸投げ!」

 わたしは伏黒くんと顔を見合わせ、男子生徒を追いかけた。運動場には同じように騒ぎを聞きつけた生徒がすでに人だかりを作っていて、紛れるにはちょうど良かった。

 生徒の頭の隙間から様子を覗き見た。砲丸投げの勝負しているのは、中年の男と男子生徒のようだった。男は十四メートルの記録を叩き出し、大きな拍手を巻き起こしていた。不審に思われないよう、わたしと伏黒くんも拍手に混ざっておいた。

 次は男子生徒の番だった。灰色の砲丸を片手に、金髪の彼は「ねえねえ」と男に話しかけた。

「投げ方?よくわかんねえんだけど、適当でいい?」
「ん?まあこの際それでファウルは取らん」

 男子生徒は頷くと、真剣な面持ちに変わった。そしてそのまま砲丸を振りかぶって片手で投げた。野球の投手のように。

 鐘が鳴るみたいな重低音が響き渡り、誰もが唖然としていた。砲丸はサッカーのゴールの縁にめり込んで、縁を大きく歪ませていたから。

 砲丸投げに使用される砲丸の重さは、確か高校では六キロ前後ではなかっただろうか。わたしは思わず手を叩いていた。彼のフォームは六キロの重量を感じさせなかったし、彼の仕草や表情からも砲丸の重みはわからなかった。卓越した身体能力だと思った。

「おっし、俺の勝ち」

 男子生徒は得意げに言うと、口をポカンと開けている相手の男に声をかけた。

「じゃっ、先生。俺、用事あっから。ナイススローイング」

 そして知り合いらしき生徒二人と何かを話し始めた。その姿を遠巻きに見つめながら、わたしは跳ねるような勢いで言った。

「すごいね!真希ちゃんみたい!」
「そうですね」

 真希ちゃんも卓越した身体能力を持っているが、単純な力比べならば彼は真希ちゃん以上かもしれない。二人で腕相撲でもしてくれないだろうかと思っていたら、「ああっ!もう半過ぎてんじゃん!」と彼の悲痛な声が聞こえた。

 男子生徒は正門に向かって走り出した。それはちょうどわたしたちのいる方向だった。わたしと伏黒くんが道を開けると、その間に男子生徒が突っ込んできた。

 彼とすれ違った瞬間、身動きが取れなくなった。身じろぎひとつできなかった。呼吸が止まって、心臓すらも動くのをやめたような気がした。大きく目を瞠ったまま、わたしは呆然としていた。

「おいお前!――って速すぎんだろ!」

 振り返った伏黒くんが叫んだときには、金縛りは嘘のように解けていた。手汗がひどかった。手に噴いた冷たい汗をスカートで拭いながら振り向けば、男子生徒の背中は小さくなってほとんど見えなくなっていた。

 五十メートルを三秒で走るという真偽不明な会話に耳を傾けていると、伏黒くんが捲し立てるように言った。

「呪物の気配が明らかに強くなりました。多分、あの虎杖って奴が持ってます。追いかけましょう」

 わたしは頷いた後、自らの手のひらに目を落とした。伏黒くんは手を握ったり開いたりを繰り返すわたしに尋ねた。明らかに不審そうな声音で。

先輩、どうかしました?」
「……ううん」

 大きくかぶりを振ると、わたしはにこやかに笑った。伏黒くんに気を遣わせないためというより、自分を安心させるためだった。気のせいだと信じたくて。

 桁外れの身体能力を持つ男子生徒――虎杖悠仁くんを追いかけることになったものの、捜索は困難を極めた。他の誰でもない、わたしのせいだった。

先輩の残穢が邪魔で全然わからないんですよ!邪魔です!俺から離れて歩いて下さい!」
「ご、ごめんなさい……」


≪ 前へ  目次  次へ ≫