完全に沈黙したスマホを睨みつけていたら、知らぬうちにバラエティ番組が終了していた。テレビ番組はすでに報道番組へと切り替わり、妙齢の女性キャスターが都内で発生した殺人事件の原稿を淡々と読み上げている。

 大きな液晶画面の隅に表示された時刻は、深夜に含まれる時間帯を示そうとしていた。迷いは時間の経過とともに肥大化して、蝕むようにわたしの判断を鈍らせていくだろう。これ以上は心の内だけに留めてはならないと思った。

 スマホを片手で操作すると、スピーカーに耳を当て、鼓膜を叩く無機質な音が途切れるのをじっと待った。

「もしもし?」

 聞こえた勝気な声に安堵した。わたしは縋るように彼女の名前を呼んだ。

「真希ちゃん」
、どうした?今日はそっちに泊まるんだろ。もう恵から聞いたけど」

 押し寄せる焦燥がわたしから思考力を奪っていた。順序立てて説明しようと思ったのに、どこから切り出せばいいのかわからなかった。言葉に詰まり、何も言えなくなってしまう。黙り込んでいたら、真希ちゃんが心配そうに訊いた。

「おい、何かあったのか?まさかとは思うが、恵に手を出されたとか」
「ううん、違うよ」
「だったら何だよ。はっきり言え」

 促されたわたしは重い唇を割った。とにかく今は内容よりも、まず話し出すことが先だと思った。

「伏黒くんに、狗巻くんにはわたしから連絡しろって言われて」
「はあ?」

 訊き返した真希ちゃんは、それからわたしに次々と質問を投げかけた。上手く説明できないわたしを誘導するように。

 彼女はようやく事の全貌を把握すると、苛立ちを隠すことなく言った。

「それで何で私に電話してくるんだよ。棘に電話しろよ」
「だって」
「特級呪霊に立ち向かうより遥かに簡単だろ」

 この間のことを言っているのだとすぐにわかった。確かに真希ちゃんの言う通りだったが、あのとき味わった恐怖とはまた別の恐怖に襲われているのだ。肉体の生死ではなく、精神の生死に関わるような。

 わたしは歯切れ悪く、同じ言葉を繰り返した。「でも」と「だって」を交互に。

 煮え切らない態度を短気な真希ちゃんが許すはずもなかった。「いい加減にしろ!」とわたしをぴしゃりと叱りつけた後、淡々と告げた。報道番組のキャスターのように、事実だけを明確に。

「今日、棘が大怪我した。大怪我っつーか、重傷だな。貧血になるくらい吐血して、高専に着いた途端にぶっ倒れた」

 真希ちゃんは洞察力が人よりずっと優れていて、他人を理解するのがとても早かった。口にする言葉や些細な仕草、そして感情の機微から、相手を瞬く間に分析してしまうのだ。

 それはわたしも例外ではなかった。彼女はわたしのことをよく知っている。わたし自身よりも理解しているのではないかと思うほどに。

 彼女が狗巻くんのことを告げたのは故意だった。わたしが最も揺らぐ言葉を知っているからこそ、彼のことを話題に出したのだろう。絶句したわたしに突きつけられるのは、聞き逃せない事実ばかりだった。

「上層部の嫌がらせだ。祓う相手に一級呪霊が混ざってて、棘が一人で応戦した。今日は誰かさんのせいで機嫌が底抜けに悪かったから、憂さ晴らしでもしたかったんじゃねえか。まあ、だからってあんなに無茶する必要はなかったと思うけどな」

 憐憫が色濃く滲む声音に、わたしの胸がきゅっと痛くなった。真希ちゃんの様子を窺うように、恐る恐る尋ねた。

「狗巻くん、大丈夫なの?」

 すると真希ちゃんは言った。吐き捨てるように。

「知りたきゃ自分で訊けよ。じゃあな」

 取り付く島もなく、あっさりと通話は切れた。わたしはベッドに仰向けになって、数回深呼吸を繰り返した。

 あの真希ちゃんが答えてくれなかったのだから、パンダくんや乙骨くんがすんなり答えてくれるとは考えられなかった。五条先生は絶対にはぐらかすだろうし、伊地知さんは真希ちゃん達から口止めされている可能性が高い。となれば、無事かどうかは直接本人に尋ねる他ないだろう。

 わたしに連絡を寄越してきたということは、命に別状はないはずだ。気になるのは怪我の程度だった。何度も連絡してきた理由は怪我に関することかもしれない。例えば、高専ではなく一般の病院に入院するとか。

 しかしどれだけ考えたところで、予想の範疇を超えないのは明らかだった。わたしは跳ねるように上半身を起こすと、勢いに任せて電話を折り返した。スマホを握る手は少しだけ震えていた。コール音を聞きながら、付けっぱなしのテレビを消した。

 呼び出し音が切れた途端、わたしは上擦った声で言った。

「えっと……狗巻くん?」

 反応を待つ時間すら恐ろしかった。何を言われるのか、怖くて堪らなかった。だがそれよりも、狗巻くんが倒れるほどの怪我を負った事実のほうが恐ろしかった。だから訊きたいことを素早く口にした。普段通りを装って。

「真希ちゃんから大怪我したって聞いたんだけど、大丈夫?」
「しゃけ」

 狗巻くんは答えを拒むことなく、すぐに明るい声を返してくれた。緊張の糸がふっと切れて、広がっていた恐怖がぼやけていった。全身から力が抜けるのがわかった。

「本当に?嘘じゃないよね?」
「しゃけしゃけ」
「良かった……もし酷い怪我だったら、わたし……」

 安心したせいか、余計なことを口走ってしまった。言いよどむと、狗巻くんが「こんぶ」と言って続きを促した。何でもないとうそぶくのは簡単だったが、今は素直に答えたほうがいいような気がした。彼からの信頼をこれ以上失わないために。

「今すぐ東京に戻ろうと思ってた。反転術式を使える“特級”を呼んで、狗巻くんを絶対に治してもらうつもりだった。でも、その必要はなさそうだね。元気そうで本当に良かった」

 安心を伝えるように穏やかに言うと、狗巻くんが「おかか」と呟いた。心なしか、少し具合が悪そうな声だった。さっきの返答は嘘だったのだろうか。わたしが何も答えずにいると、

「おかか」

 再び否定の言葉が続いて、僅かな違和感を覚えた。面と向かって話すときとは違って、表情も仕草もわからない電話では言葉の意味が判別し辛かった。だが、確信はあった。わたしは確かめるように尋ねた。

「……嘘は駄目だよ?」
「おかか」

 嘘ではない、怪我は治っておらず重傷だ――そう言い張る狗巻くんに、わたしはいたずらっぽく訊いた。

「たった今元気だって聞いたんだけどな?」
「おかかっ」
「狗巻くーん?」
「ツナマヨ」

 濁っただみ声が返ってきたが、どうにも嘘臭かった。込み上げる笑いを噛み殺しながら、刑事が尋問するように問い質した。

「今の今まで普通に話してたよね?」
「ツナ」
「気のせいじゃないから」
「おかか」
「聞き間違いでもないから」
「ツナマヨ」

 堪えきれず、わたしは体を折り曲げて笑った。電話の向こうで狗巻くんが笑っている気配がする。片手で横っ腹を押さえながら、彼の本心を手繰り寄せるように訊いた。

「そんなにわたしに会いたいの?」
「しゃけ」

 きっぱりと告げられた答えに、溢れていた笑いが静まった。少し散らかった心を整えて、わたしはゆっくりと切り出した。

「電話、すぐに出れなくてごめんね。シャワー浴びたり、テレビ観たりしてて」
「おかか」

 穏やかな声が聞こえて、わたしはもう一度「ごめんね」と言った。電話に出なかった本当の理由を、狗巻くんはなんとなく察しているような気がしたから。

 狗巻くんが小さく息を吸い込む音がした。

「高菜」
「え?」
「高菜」

 繰り返された身を案じる言葉の意味を、わたしはそうっと確認した。

「わたしが寂しいって言ったから、心配してくれたの?」
「しゃけ」
「ありがとう」

 言いながら、固いベッドに背中から倒れ込んだ。恐怖はすっかり消えてなくなっていた。代わりに狗巻くんを求める感情が芽を出し、熱を持って疼いていた。真っ白な天井を見つめながら、わたしはぽつぽつ言った。

「宿儺の指、行方不明なんだ」
「こんぶ……」
「どこに行っちゃったんだろうね」
「ツナ……」
「一日で見つけられるのかな。わたし、呪いの気配も残穢も感知できないのに……」
「明太子」

 頑張って早く見つけて、と狗巻くんが強い口調で言った。他人事だと思って。不満を滲ませながら、ごろんと体をうつ伏せにすると、柔らかい枕に顔を押しつけた。わたしは唇を尖らせて言った。狗巻くんにちょっと意地悪をしたくて。

「無理、頑張れない」
「おかか」
「でも、狗巻くんがご褒美をくれるなら、頑張る。絶対に早く帰る」

 すると狗巻くんが黙り込んだ。肯定の意味だと都合よく受け取って、わたしは疼く熱を欲望の形に変えた。

「キスして。わたしがもういいって言うまで」

 熱っぽく響いた声音に、狗巻くんが息を呑んだのがわかった。そこから同じ熱を感じ取ったが、すぐに答えないのは彼が奥手だからだろうか。

 わたしは頬を緩ませながら、涼やかに告げた。狗巻くんを封じるには充分すぎるであろう提案だった。

「駄目なら仙台で存分に食べ歩きをして帰るよ。伏黒くんと美味しいご飯が食べられる旅館に一泊しようかな。どう思う?」
「おかかっ」

 提案を蹴った狗巻くんは拗ねていた。苛立った声で、わざと言っているだろう?とわたしを詰った。

「じゃあご褒美下さい」
「……しゃけ」

 渋々といった様子だったが、狗巻くんはわたしのわがままを聞き届けてくれた。二つ返事ではなかったことは気になったものの、きっと恥ずかしいからだろうと再び都合よく解釈した。

「早く帰れるように頑張って見つけるよ。仙台のお土産、楽しみにしててね」
「しゃけしゃけ」

 会話はそこで途切れた。言いたいことも、伝えなくてはならないことも、全て話し終えてしまっていた。それはきっと狗巻くんも同じだった。二人で口をぴったりと閉じて、相手が何かを話し出すことをじっと期待した。

 何でもいいから話してほしかった。電話を切りたくなかったから。何も聞こえないのにスマホから手を離せなかった。だからといって自分から何かを話す勇気はなかった。話題が見つからなくて。さっきまで観ていたバラエティ番組の内容も、都内で起こったという殺人事件のニュースも、どちらもたいした話題にはならないと思った。

 狗巻くんと楽しく会話がしたかった。くだらない話題で構わないから、彼が楽しそうに話している声が聞きたかった。

 互いが互いを探るように沈黙を貫いていた。ふと気づけば、部屋の壁に掛けられた時計の針はずいぶんと進んでいた。狗巻くんは明日も任務があるのだろうか。もうすっかり元気なようだが、病み上がりである以上早く就寝するに越したことはなさそうだった。

 これは明らかに時間の無駄であると判断を下し、わたしはとうとう口火を切った。

「もうこんな時間だし、そろそろ――」
「おかかっ」

 狗巻くんの声に勢いよく遮られ、ちょっとびっくりした。何か言いたいことでもあるのかと思ったが、彼は言葉を続けなかった。ただ通話を終えることを制止しただけのようだった。

 嬉しかった。でも、明日を案じる気持ちのほうが大きかった。わたしは子供に問いかけるみたいに訊いた。

「夜更かししてもいいの?」
「しゃけ」
「眠くないの?」
「しゃけ」
「何か話したいことはある?」
「……こんぶ」

 狗巻くんは途端に口ごもった。必死に話題を探すような沈黙は、わたしを喜ばせるには充分だった。

 何でもいいから、わたしとの時間を共有したいのだろう。睡眠時間が減っても、翌日に響いても、それでも構わないから通話は切りたくない。そう考えてくれていることは、体が震えるほどの幸福だった。

 わたしのサービス精神に火が点いた。隠していた宝物をこっそり見せるように、とっておきの話題を提供した。

「じゃあ今夜は特別に、狗巻くんの質問に何でも答えます」

 少しでも狗巻くんに笑ってほしかった。会話を弾ませたかった。昨日から続く気まずさをここで断ち切るために。伏黒くんにこのままでもいいと告げたのは嘘ではないが、そんなことを心から望んでいるわけがなかった。互いの確かな熱を交換するような関係でいたかった。あやふやで不確かな今だからこそ。そのためなら、一晩くらい恥を忍んで答えようと思っていた。

 狗巻くんが真面目に訊いた。

「ツナ」
「そう、何でも。どんな質問でもいいよ。あ、でも深夜だからってエッチな質問はなしね。それは事務所を通してくださーい」

 五条先生のようにふざけて言うと、狗巻くんが笑ったような気がした。わたしの前振りに彼は乗ってくるのだろうか、それとも受け流すのだろうか。そうあっさりとわたしの餌に食いつくようには思えないが。

 しかし、狗巻くんはわたしの予想に反した答えを口にした。

「すじこ」

 勇気を振り絞るような声音に、思わず笑ってしまった。前振りを丁寧に拾い上げた狗巻くんをわざとらしく詰ってみせる。

「もう、言ったそばから。そういう悪乗りはするんだね、嫌いじゃないよ」
「おかか」
「真剣って、そんな」

 一人で笑っていると、「ツナ」と返答を急かされた。そんなに知りたいのだろうか。わたしは笑いを押し殺しつつ、待ち望んでいるであろう答えをはぐらかした。

「今日の下着の色は内緒です。見たかったら自分の目で確かめて?」
「おかか……」

 どうやって、と嘆く声が聞こえたが、わたしは聞こえなかったふりをした。

「はい、次の質問をどうぞ」
「こんぶ」
「次に行きたいデートの場所?そうだなあ……あ、焼肉食べたい。バーベキューでもいいかな。高専でしようよ、皆を誘って」
「しゃけしゃけ」

 わたしは狗巻くんの質問に一晩中答え続けた。文字通り一晩中だった。一時間ほどで切り上げるつもりだったのに、通話は朝まで続いたのだ。

 好きな食べ物を問うような普通の質問から、下心を感じさせる質問まで、ありとあらゆることに答えた。正直に答えることもあれば、はぐらかすこともあったが、狗巻くんは始終楽しそうに聞いてくれた。わたしも楽しかった。

 伏黒くんとの待ち合わせ時間が迫っていることを理由に、わたしは通話を切った。名残惜しい気持ちを抱えつつ、遅刻しないように急いで身支度を済ませた。


≪ 前へ  目次  次へ ≫