孤独 -後-

 夜明け間際、わたしは始発の列車に乗って関西地方を目指した。スマホと財布の入った赤色のショルダーバッグだけを持って。

 新幹線から在来線へと乗り継ぎ、のろのろと走る列車にしばらく揺られた。やっと辿り着いた無人駅からは徒歩で目的地へ向かった。今にも雨が降り出しそうだった東京とは打って変わって、肌を刺すほどの熱い日差しに汗が噴き出した。日傘を持ってくるべきだったとひどく後悔した。

 目指す山のふもとに到着したのは、ちょうど正午過ぎだった。事前に話を通していたためか、見張りの呪術師などはどこにも見当たらなかった。頂上へと続く山道には、立ち入り禁止と書かれた札のぶら下がったロープが至るところに横切っていた。わたしはそれをまたいで越えながら、日陰を求めて歩き続けた。

 進めば進むほどに、深緑の作り出す影の濃さが増していった。漂う空気の温度は徐々に下がっているような気がした。適当な場所に腰を下ろし、わたしはおにぎりをひとつだけ食べた。東京駅のコンビニに立ち寄ったとき購入したものだった。今日はさすがに弁当を作る気にはなれなかったから。

 腹ごしらえを終えると、再び山の中腹を目指して歩き出した。やがて多い茂る緑ばかりの視界に白いもやもやが漂い始めた。霧だった。足を進めるごとに霧は濃くなって、わたしから方向感覚を奪っていった。

 スマホを取り出して、電波が入らないことを確かめた。この辺りでいいだろう。濃霧の中で足を止めると、わたしは息を吸い込んで肺を大きく膨らませた。ひんやりと澄んだ空気が満たされていくのを感覚した。そして溜まったそれをゆっくりと吐き出した。心と体を落ち着かせるために。

「全ての物事には道理がある。辿るべき道とでも言うべきか。それを捻じ曲げて事を成そうなど傲慢にも程があるよな」

 脳裏に響いた両面宿儺の声音を飲み込んで、わたしは呪文を紡いでいった。一言一句、丁寧に。

「――ひとつ、右をちぎったら」
「――ふたつ、左をちぎったら」
「――みっつとよっつで足がない」
「――おべべが真っ赤に染まったら」
「――おいで、おいでと声がする」
「――かくりよへと声がする」

 体内を巡る血液が沸騰していく感じがした。目を見開いて、衝動のままに声を張った。

「――我が渇望を己が魂に刻め」
「領域展開――百鬼夜行・簒奪瞻望」

 辺りは瞬く間に闇の中へと落とされた。遠くのほうから祭囃子の賑やかな音が鳴り響いていた。浮かれた音楽に合わせて、橙色の丸い光が浮かび上がっていく。ぼんやりとした灯りは一定の間隔で連なると、そこから湧き出すように“壱”の面紗の異形が現れた。

 白いスニーカーのつま先が地面を捉え、音もなく降り立った。黒い着物にスニーカーはちぐはぐな感じがしたが、わたしは気にすることなく“壱”の異形に頭を下げた。

「わたしを連れて“逝って”下さい」

 頭を上げると、応えるように“壱”の異形がこくりと小さく頷いた。既視感のある砥粉色の髪がさらさらと揺れた。その様子が不思議と棘くんに重なって、胸の真ん中が焼けるような痛みを持った。



 わたしの目的地は“黄泉比良坂”――つまりイザナミさんに体を奪われた場所だった。そこでなら彼女と会話ができると考えていた。むしろ、そこでなければ彼女と交渉など不可能だろう。なにせ相手は“神様”だ。正しい手順を踏まなければ、辿るべき道を通らなければ会えないような、格上の相手なのだから。

 穏やかな橙色がこぼれる提灯を片手に、白い着物姿のわたしは細い畦道を進んでいた。大きな提灯を持った“壱”の異形の背中を追うように。後ろには“弐”や“参”の異形どもが長い列を成していた。

 広大な棚田からは蛙の鳴き声が絶えず聞こえていた。田んぼに等間隔に植えられた稲の背は低いままで、この領域の中は時間が止まっているのだろうと悟った。あの老婆は神様と一緒に黄金色に染まった景色を見てほしいと言っていたが、土台無理な話なのだろうと思うと少し残念だった。

 辿り着いた集落にいたのは一言も声を発さない異形どもだったのに、老若男女の話し声がすぐ耳元から聞こえて変な感じがした。その会話に耳をすませ、ちょっと驚いた。人々は同じ話ばかりを延々と繰り返していた。まるで録音された会話を聞かされているようだった。

 賑やかな集落を抜けて、“壱”とともに山頂の神社を目指した。その道中では面紗の異形どもがわたしを拝んでいたし、額を砂利道に擦り付けて平伏していた。目を合わせないよう注意を払いながら、前だけを見つめて歩き続けた。

 やがて石畳の階段が見えてきた。またこれを頂上まで上るのかと思うだけで、ひどく気が滅入った。ここだけすっ飛ばせないものか。どうしても自らの足で上らなければならないのだろうか。可能ならば“壱”に担いでほしかったし、二回目だからと特別扱いしてほしかった。

 しかし、そんな都合のいい展開が訪れるわけもない。“壱”は迷うことなく幅の狭い階段に足を乗せると、軽やかに上っていってしまった。わたしは肩をすくめて、大きな溜め息を吐き出した。潔く腹を括って、石でできた階段を一段ずつ上った。

 荒れた呼吸のせいでわたしの肩が上下し始めたとき、“壱”が足を止めて竹筒を差し出した。ちゃぷんという水の音を拾った。受け取るのが遅かったためか、“壱”が無言で竹筒を押し付けてきた。わたしは老婆の声を思い出しつつ栓を開け、冷たい水を一気に喉奥へ流し込んだ。

 水分補給を終えると再び石段を上り、ようやく視界に現れた真っ赤な鳥居をくぐり抜けた。

 辺りを満たす空気が一変した。何かが膿んだような異臭が鼻をついた。色を感じるほど淀んだ空気に顔をしかめていると、提灯の灯りが突然消えて視界が真っ暗になった。

 無数の星々が消え去った漆黒の空には、血濡れた満月だけがぼうっと浮かんでいた。瞬きのたびに微妙に位置がずれていく赤い満月から目を逸らし、老朽した神社の脇道を進んでいく“壱”の背中を追った。

 初めてここに来たときと何もかもが同じだった。そうでなければ意味がなかった。これはいくつもの難解な手順を踏んだ“儀式”なのだから。

 しめ縄が這わされた大きな洞窟を進んだ先には、あのときとまったく同じ祭壇があった。壁に沿うように面紗の異形どもが立っていて、壁の四ヶ所から太い縄が一本ずつ生えている。

 流れは理解していた。茣蓙の上に大人しく座ると、“壱”の手によって化粧を施された。紅を差されたわたしは、大きな岩で作られた祭壇の上に仰向けの形で寝転んだ。

 “壱”が手と足に太い縄を結ぶ様子を見つめながら、ぽつっと言った。

「先に殺してもらえませんか?」

 驚いたように、“壱”の手が止まった。

「痛いのはもう嫌で……できれば、一瞬で済ませてほしいんです」

 手足を千切らずとも儀式は成立したのだ。着物が赤く染まるだけで構わないのならば、無理に千切る必要もないだろう。たとえその必要性があるのだとしても、それはわたしが気を失った後にしてほしかった。意識を保ったままというのは、さすがに気が狂いそうだった。

 “壱”はしばらく考えるような素振りを見せた後、祭壇の上に軽々と飛び乗った。白かったスニーカーはもうすっかり汚れていた。それからわたしの体に馬乗りになって、じっと見下ろしてきた。首でも絞められるのかと思ったが、その手にはいつの間にか小刀が握られていた。心臓を突かれるのだろうと察した。

 一思いに突き刺してくれて構わなかった。そのほうがずっと楽だと思った。痛みも苦しみも一瞬で終わらせてほしかった。

 小刀の先端が胸の中心を狙っていた。恐怖で体が震えて、喉がひゅうひゅう鳴っていた。見ようとするから怖いのだと思い、目蓋を閉じようとしたとき、“壱”が空いた手で面紗を摘まんだ。垂れ下がったそれが一気に捲り上げられる。

 わたしが驚嘆の声を漏らすのと小刀が心臓を貫くのは、ほとんど同時だった。

、ごめん」

 棘くんと瓜ふたつの顔をした“壱”はそう言うと、わたしに覆い被さった。小刀がより深く差し込まれ、優しい口付けが落とされた。同情されているみたいだった。その感触を認識するより早く、わたしの意識は闇に飲まれていった。



 閉じた目蓋の向こうに柔らかい光を感じた。それだけで意識は覚醒に向かった。気だるい目蓋を持ち上げると、濁った濃霧に覆われた深山に立ち尽くしていることを認識した。白い着物は真っ赤に染まっていて、やっと目的地に辿り着いたのだと安堵した。

 周囲からは何の音もしなかったし、生き物の気配も感じられなかった。妙な胸騒ぎがした。もしやこの方法では“彼女”に会えないのだろうか。

 不安を拭いたくて勢いよく振り返った。「あ」と喉から声が漏れた。霧の向こう側へとまっすぐ続く細い道の中心に、一人の女が立っていた。

 細道を挟むように、対にそびえる二本の太い樹木。その幹にくくり付けられたしめ縄のちょうど真下に、長いローブに身を包んだ女がいた。

 褐色の肌を持つ異国の女だった。手足が異様に長く、インドやブータンなどの南アジアの血を彷彿とさせた。その豪奢な赤いローブの下は白の薄いドレス姿で、扇情的な肉体が浮き彫りになっている。息を呑むほど美しいその姿に、わたしはしばらく目を奪われていた。神々しいという表現の他に、ふさわしい言葉が見つからなかった。

 “イザナミ”の名の由来は、日本神話に登場する女神“伊邪那美命”だった。だからてっきり、着物の似合う東アジア系の美女と会うのだとばかり思っていた。予想外の姿に驚いたものの、すんなりと納得した。深い夜を感じさせる彼女なら、わたしの手を離すことなく黄泉に連れていってくれるだろうと確信した。

 女はわたしと目が合うと、深紅に彩られたふっくらとした唇に、たおやかな笑みを宿した。金色の瞳が柔和に細められ、わたしは吸い寄せられるように彼女のもとへ駆け寄った。

 近づいてわかったことだが、女は背が高かった。夜を溶かし込んだ長い黒髪に見惚れながら、顔を少し上向きにして目線を合わせた。そして確かめるように訊いた。

「イザナミさん、ですか?」
「ええ、そうよ。この姿では“初めまして”ね」

 艶のある低い声だった。口を開こうとすると、女はわたしの唇に人差し指を当てた。女の肌からは心が落ち着く不思議な香りが立ち昇っていた。異国の香のようだと思った。

「言わなくてもわかっているわ。体を返してほしいんでしょう?」

 わたしが大きく頷けば、女は浮かべた笑みをさらに深くした。

「私が誰であるかはわかったのかしら。私の魂に干渉して強引に体を取り返す作戦なのよね?でも私が見ていた限り、貴女はこれといった答えに辿り着いていないと思うのだけれど」

 そこまで見抜かれていることは予想範囲内だった。わたしは動揺することなく、

「貴女の名前は必要ありません」

と、金色の瞳を見据えながらきっぱりと告げた。

「わたしは魂の格を上げられる。だったら逆もできるんじゃないかと思うんです。貴女を呪いでも何でもない存在に変えられるはず」
「そう、探す振りをしていたのね……最初から私を脅すことが狙いだった」

 怯んだ様子もなく、女はただにっこりと笑った。

「でもそれには呪力が必要だと思うわ。貴女の持つ呪力では足りないわね。貴女はいったい誰の呪力を使うつもりなの?」
「それは」
「本当はこの場にあの呪言師も連れてきて、呪力を借りるつもりだった……違うかしら?」

 ぐっと言葉に詰まり、逃げるように顔を伏せた。両手を強く握り合わせて、奥歯をきつく噛みしめた。女は体を屈め、わたしの顔を覗き込んできた。

「でも喧嘩してしまったものね。可哀想。貴女の気持ちをわかってもらえなかった」

と言うと、わたしを抱き寄せて、耳元で優しく囁いた。

「人間に戻りたいの?」
「……戻りたいです」
「本当に?」

 念を押すように女が訊いた。そうっとわたしの頭を掻き抱き、心の隙間に言葉を差し込んでいった。

「つらい現実に戻るの?病魔に侵された母親に決して甘えることもできず、貴女は一人きりの家で過ごす。少ないお金をやりくりしながらね。とてもえらいと思うわ。とてもいい子だと思うわ。でも、もう無理をする必要はないのよ?」
「無理じゃない。わたしは」
「貴女だってわかっているはずよ。人間に戻ったところで、誰も本当の意味での貴女の孤独を理解しないことを。誰もが言葉だけで、貴女には決して態度では示さない。大人になることを自らに強いてきた貴女に寄り添うことはない。子供でいたかった貴女を守ってくれる誰かはどこにもいない」
「そんな、こと……」
「本当は寂しくて堪らないんでしょう。だから“私”を呼んだ。“神様”ならきっと見捨てないと思ったから。裏を返せば、近しい人間には見捨てられてきたということね。その始まりは、認知しなかった実の父親。そこから転がるように見捨てられた。近所の大人達。小学校の担任。親しくなった友人。皆が貴女を見捨てた。これからも同じ、何も変わらないわ」

 凛と響く優しい声音が心を深く抉っていった。勝手に涙が溢れていた。泣きたくなどなかった。だが、どうしようもなかった。否定したかった。女の言うことは一理あったが、わたしに寄り添ってくれる人は大勢いた。けれど言葉にならなかった。嗚咽ばかりがこぼれて、うまく声が出なかった。

 呪いは狡猾な生き物だ。その言葉の全てが精神攻撃なのだと理解していても、涙は堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。

「あの呪言師だって、結局は貴女を見捨てた。だからそうやって透けているんでしょう?」
「えっ」

 確かめるように手のひらを見れば、木々の緑が透けていた。頬がますます濡れた。女は半透明になってしまったわたしの体を、慈しむように強く抱きしめた。

「貴女は誰よりも頑張った。とってもいい子だった。もういいじゃない。まだ苦しむ必要があるの?」

 問いかけられ、何も言えなかった。この人はどんなわたしでも認めてくれるのだろうと思った。薄いドレスから伝わる体温が心地よかった。

 女はわたしから体を離すと、その長い指でわたしの手を絡め取った。

「これからは、私がずっとそばにいてあげる」

 蠱惑的な声音が心の奥深くに沈み込んでいった。わたしが小さく笑うと、女は柔和な笑みを返してくれた。


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