瞻望

 女に優しく手を取られ、わたしは緩やかな弧を描くしめ縄をくぐり抜けた。

 体に何か変化があるのかと思いきや、特に何も起こりはしなかった。わたしはその場で立ち止まり、後ろを振り返った。しめ縄から先は白い濃霧に覆われていた。多い茂った緑も、通ってきた細い道も、はっきり捉えることができないほどだった。

 隔絶されていくと思った。わたしが確かに生きていた世界から。

「どうしたの?」

 艶っぽい声に尋ねられ、わたしは前を向いた。不安を覚えていると案じたのか、女がにっこりと笑みを浮かべた。

「この先に黄泉の国があるわ。大丈夫。貴女は私とずっと一緒に暮らすのよ」

 揺れる心が救われるような口調だった。この人は絶対にわたしを裏切ったりしないという確信を与えてくれるようだった。

 滑らかな褐色の手を強く握り返し、穏やかな光でできた金色の瞳をじっと見つめた。

「わたしは肉体と魂を代償に、貴女を呼びました。黄泉へ連れていってもらうために」

 女はたおやかに頷いた。長い黒髪が束になって揺れていた。その美しい所作に自然と笑みがこぼれた。他にも伝えたいことがあるのだろうとでも言いたげに、わたしの言葉を笑顔で待っていた。

「でも、足りないんです」

 わたしは毅然と告げた。

「わたしの薬指がないんです」

 女の顔色が一気に青ざめていった。

「左手の薬指の骨……どこへ行ったんですか?」
「まさかお前っ!」

 耳をつんざくような金切り声が響いた途端、地面から水が湧き出した。やや温度の低い、どこまでも透明な水だった。緩やかに水位が上昇していくことを感覚しながら、わたしは唇を震わせている女に教えてやった。

「最初からわたしの目的は、体を取り戻すことでも、貴女を脅すことでもない。この“契約”自体を破綻させること。貴女にペナルティを科すこと。だから、この瞬間をずっと待っていたんです。呪術高専に来たときから、ずっと」

 わたしを“狡猾”と称した両面宿儺の声が脳裏を過ぎった。強張っていた肩から力が抜けていく。無事に出し抜けた達成感よりも、やっと解放されたのだという安堵のほうがずっと大きかった。

「わたしの体は貴女の物です。でも、それは“契約”が果たされた後の話。肉体の所有権はまだこちらにあるんですよ。つまり、貴女はわたしが捧げるべき“贄”を勝手に他人に譲渡して、この“契約”を破綻させた……そのペナルティは受けてもらいます」

 眼前で目を剥いているこの“呪い”に、すでにわたしの肉体を食べられていたとしても、この二月余りの間に肉体の腐敗が進んでいたとしても、“この呪いの中に存在する”ならば“契約”は果たされるだろう。しかし、小さな骨のひとつでも“この呪いの中に存在しない”なら、それは明らかな“契約違反”だった。

 女は美しい顔を引き攣らせ、沸騰した殺意でそれを瞬く間に歪ませていった。女神だとは到底思えないような、ひどく醜い表情だった。

「譲渡とちゃうわ!あのクソガキに盗られたんや!」
「“特別に返してあげるよ”――その言葉は嘘だったと?」

 わたしは冷静に尋ねた。刑事が犯人を問い詰めるような口振りで。

 透明な水は膝の高さまで到達していた。女は現実を認めたくない様子で、何度もかぶりを振った。怒りにわなないていた。わたしは追い打ちをかけるように続けた。透けたままの手のひらを見つめて。

「わたしがこんなふうになってしまったこと……それ自体“前例がない”と五条先生が言っていました。だから確信を持てませんでした。契約破棄に持ち込む方法も、そもそも不当な契約だと貴女を訴える権利があるのかさえも。この考えが正解かどうかを確かめるために、ずっと資料室に入り浸っていたんです。貴女に勘付かれないよう、たくさんのフェイクを混ぜながら」
「……あの御方が言ってたんは」
「宿儺さんのおかげで全てがわかりました。わたしは正しかったのだと。貴女の取り込んだ肉体の一部を取り返すだけでいいのだと。ついでに、貴女に会う方法も」

 女の頭が力を失くしたようにがくんと落ちた。そして上半身を折ると、いきなり甲高い声で絶叫した。両手で力任せに頭を掻きむしりながら。絹のような黒髪があっという間に乱れ、ひどい有り様になっていた。

 しばらくすると、はあはあと荒い息が聞こえてきた。呼吸を整えようとしているようだった。女は乱れた髪を長い指で梳きながら、金色の瞳をこちらに向けた。明確な殺意は浮かんでいるものの、それを上塗りするような諦念が広がっていた。今さら足掻いてもどうにもならないことを悟っているらしかった。

 女は小さな声でぼそぼそと言った。

「……もう体が存在しないことをわかっていたのね」

 わたしは首肯すると、種明かしをするように丁寧に話した。

「真希ちゃんが会った日に教えてくれましたから。呪いと遭遇すれば最後、死体が残ること自体少ないって。ぐちゃぐちゃだって。だったら最初から“存在しないもの”として考えたほうがいいと思いました。死んだ体や腐った体を返されても、意味がないので」
「そう……だからあの呪言師はこのタイミングで“枷”を解いたのね。貴女が縛られ続けている限り、“契約”は先に進まないから」
「その通りです」

 女は額に手をやった。目が釘付けになるほど美しい動きだった。だが、怒りに打ち震えているというよりも、すっかり呆れ返っている様子だった。

「ねえ、教えて頂戴。いつそんな話をしていたの?骨の話も、今日この山に来る話も、私は一度だって聞いていないわ。彼との会話、スマホでのメッセージのやりとり、お弁当のカード……全部見聞きしていたけれど、そんなことは一言も言っていなかったわよね?」
「五日前からずっと話してましたよ」
「ずっと?……ずっとですって?」

 わたしはこくこくと何度も頷いた。

「棘くんの語彙がおにぎりの具しかなくて本当によかった。何を話していても、貴女には絶対ばれないですから」

 その言葉に女は面食らった様子だった。凛々しい眉をきつく寄せると、不満の声を上げた。

「あなたはずっと普通にしゃべってたじゃない!」
「普通って?」

 わたしは首を傾げた。込み上げる笑みを噛み殺しながら。

「おにぎりの具に別の意味を与えることと、わたしの話す言葉に別の意味を与えること……そこに何か大きな差はありますか?」

 それは特別なことではなかった。ただ棘くんの真似をしただけだった。

 もちろん簡単なことでもなかった。最初の二日間はなかなかうまくいかず、棘くんにはずっと「好きって言った?」とか「キスしたいって言った?」とか何度も訊き返されていたのだが。

 本人はいたって大真面目を気取っていたが、絶対にふざけていたと思う。わたしは未だにそうだと信じているし、かなり根に持っている。あれは無駄な時間だった。彼は本当に質が悪い。わたしはイザナミさんに気取られないよう必死だったというのに。いつか必ず仕返してやるつもりだった。許すまじ、狗巻棘。

 女が納得したような顔をしたので、わたしは棘くんへの怒りから意識を手放した。

「……じゃあ、昨日の喧嘩は私を油断させて陥れるため?」
「迫真の演技だったでしょう。あれが最後の作戦会議だったんです。“何時の新幹線に乗って次の列車は何時に乗り換え予定だよ”とか、“喧嘩中の設定だからお弁当は作らないけど許してね”とか、“最後まで気を抜かずに頑張ろうね”とか」

 ちょっと誇らしげに言うと、女は肩をすくめた。

「貴女はそのつもりでも、呪言師は本気だったと思うわ」

 その言葉に苦笑いを返した。女の言う通りだった。棘くんは演技だということも忘れて傷ついていたし、他の女の子を選んでと言ったわたしに本気で反論してきたのだ。呆れてしまったけれど、実を言うと嬉しかった。必要とされている確かな証拠だったから。

「貴女がそんな馬鹿げたことを提案したの?嘘の会話をしようだなんて」
「いいえ、棘くんです」
「……呪言師が?」
「はい。あの雨の日に棘くんが言ったんです。きっと自分は何をしていても、何をしゃべっていても、絶対に気づかれない。だからこれを利用してイザナミの裏をかけないか、って」

 棘くんは言った。酸素を奪い合うような口付けの合間に。熱を帯びた声音で、滑り込ませるように。愛の言葉と見せかけて、彼が告げていたのは薬指の骨を得たことと秘密の会話の提案だったのだ。

「騙し通せる自信があったの?」
「貴女は棘くんに接触したとき、ふたつのミスを犯したので」

 わたしは指を立てながら説明した。

「ひとつ目は、棘くんの単純な言葉の意味がわからなかったこと。ふたつ目は、棘くんの要求に思い違いをして応えていたこと」
「思い違い?……それって私が与えたオキシドールやアンモニア水のこと?私は呪言師が望んだものを与えたはずよ」
「棘くん、色を落とすためじゃなくて、殺菌のためにオキシドールが欲しかったって言ってました。だから、貴女が心を読めるわけではないことに気づいた。表情さえ誤魔化せば、必ず騙し通せると考えたそうです」

 言い終えると、女はそこでようやく笑った。すっきりしたような笑みだった。

「ああもう、最悪。調子に乗って会わなければよかったわ」
「あのとき接触しなくても、いつかは会うことになっていたと思います。わたしは棘くんの呪言で、貴女から体の一部を取り戻すつもりでしたから」
「嘘。最初はそのつもりじゃなかったくせに」

 いたずらっぽい声音に心臓が跳ねた。わたしが苦笑いを浮かべると、女は悠然と腕を組んだ。少し首を傾けながら。

「ここまで用意周到に作戦を練ってきたってことは、領域の外には呪言師だけじゃなくて五条悟も待機しているんでしょう」
「はい。貴女を逃がすつもりはありません。ペナルティを受けてもらうまでは」
「最悪にもほどがある……惰眠を貪り過ぎたわね。こんなヘマをするつもりなかったのに。宿儺様が興味を示した時点で、気づくべきだったわ」

 呆れたように呟いた女は、わたしに金色の視線を寄越した。

「それで、貴女は私にどんなペナルティを望むの?人間に戻せって?」
「最初はそのつもりだったんですけど……」

 わたしは歯切れ悪く返した。つい先ほどの女の台詞をなぞるように。すると察した女が勢いよく噴き出して、わたしは肩をすぼめた。女は声を殺して笑いながら、こちらに向かってぱたぱたと手を振った。続けてと言うふうに。促されたわたしは、考え抜いたペナルティを渋々口にした。

「わたしの、わたしだけの、“神様”になってくれませんか?」

 女がとうとう声を上げて笑い出した。

「そう、それが貴女の望むペナルティってわけ。そんなにあの呪言師が好きなの?」

 呪具を用いても呪いが見えず、術式はあれど呪力はほとんどない。人間に戻れば必ず一般人に分類されることになるわたしが、呪いや呪術師と関わり続けていく唯一の方法。

 わたしは目を伏せて、小さく頷いた。こうもはっきり尋ねられると、羞恥で顔が熱くなった。へその辺りまで上昇した水が、やけに冷たく感じられた。

「大好きです。棘くんが隣にいないことが、もう考えられないくらい」
「演技とはいえ、呪言師に言っていたわね……貴女は彼を十年後も二十年後も好きだって言えるの?」
「わかりません」

 肯定でも否定でもない曖昧な回答だった。だが、それが真実だった。未来のことなどわからなかったし、嘘は吐きたくなかった。彼女のためではなく、自分自身のために。

「でも、好きでいる努力も、好きでいてもらう努力も、きっとできると思うから」

 顔を上げると、女がわたしの目を覗き込んできた。どこにも嘘がないかを調べるような素振りで。

「普通の人間に戻ったって、呪術師と恋愛も結婚もできるわ。私が生きていた頃とは違う。それでは不満?」
「彼のそばにいて彼を守りたいと思うのは、傲慢ですか?」
「いいえ。けれど貴女のその選択は間違いなく愚かな選択よ。わかっているの?」
「はい。でも今これを選ばないと、きっと後悔するから。それなら“愚かな選択をした”という後悔を選びたいんです。周りには迷惑をかけるかもしれないけど、それでも」
「そう」

 これ以上の説得は無駄だと感じたらしく、女は穏やかに笑った。

「どうせ貴女のことだから、呪言師には私との“契約”を破棄して人間に戻るとでも言ってきたんでしょう?きっとびっくりするわよ」
「むしろびっくりさせたくて」
「あら、それは楽しそう」

 透明な水は悠揚な流れを伴って、どんどん嵩を増していた。女の薄いドレスが水の中で優雅に揺蕩っていた。

「私がそのペナルティを受けるとして、貴女の体はどうするの?そもそもここからどうやって帰るつもり?」
「あのときと同じように帰ります。そのために棘くんを呼んだので。それで体は……反転術式でどうにかなりませんか?」

 我ながら詰めの甘い提案だった。勢い任せに放った言葉は、やはりと言うべきか、女を苦虫を噛み潰したような顔にさせてしまった。

「反転術式は万能じゃないわ。あの小さな薬指の骨で、どこまで器を――肉体を作り直せると思ってるの?」
「……やっぱり無理ですか?」

 問いかけると、女はかぶりを振った。金色の瞳には柔らかな笑みが宿っていた。

「仕方ないわね……その“願い”、叶えてあげるわ。貴女だけの“神様”としての初仕事ね。手術費を賄うために働かされたおかげで、ずいぶん呪力を蓄えさせてもらったから何とかできると思うし、無理でも絶対に何とかするわ。それが私の――“神の役割”だから」
「イザナミさん、ありがとうございます」
「貴女の魂は人としての肉体の形を覚えているでしょう。たとえもう覚えていなくても、魂が見合った肉体の形を作り出す。安心して頂戴」

 女はわたしに赤いショルダーバッグを渡した。初めてこの山に迷い込んだとき紛失したはずのリュックも一緒に。不思議なことに、スマホの電波は繋がっていた。

「ここは私の土地なのよ?特定のスマホを使用不可にするくらい訳ないわ」

 さすが特級呪霊だなと感心しながら、棘くんに連絡をして呪言を使ってほしいと頼んだ。彼はとても心配していたので、「無事に人間に戻ったけど帰れなくて」と軽い調子で嘘を吐いておいた。ここ数日の仕返しだった。真面目くさった顔でふざけた罰だ。女は口元を手で覆って、笑みを噛み殺していた。

 水位の増した水は、すでにわたしや女を飲み込んでいた。光を含んだ水面をしばらく見上げていると、耳に当てたスマホから息を吸い込む音がした。

「――離れるな」

 水面から白く光った薄い布が降りてきた。わたしの体は絡め取られ、ゆっくりと引き上げられていった。「あの男、やっぱり束縛するタイプね」と楽しそうに呟く声が聞こえて、わたしはちょっと笑ってしまった。

 地面に足をついたままの女が、こちらを見上げていた。水面に近づくわたしを引き留めるように、水を掴む手にその長い指を絡めてきた。

「最後にひとつだけいいかしら」
「はい」
「私が貴女のペナルティを拒否したらどうするつもりだったの?貴女とともに消えることを選ぶ可能性は考えなかった?」

 わたしはポカンとしてしまった。そんなことはつゆほど考えていなくて。その反応は予想していなかったのか、女は途端に眉をひそめた。

「呆れた。私を何だと思っているの。呪いよ?自分で言うのもあれだけど、一応あの両面宿儺の腹心だったのよ?」
「特級に襲われたときも、わたしが暴走したときも、貴女はちゃんと助けてくれました。だから今回も絶対に助けてくれると信じていましたから」
「……馬鹿な子ね。私が消えたくなかっただけよ」
「あのとき棘くんを殺さなかったのは?」

 その問いに、女は何も答えなかった。わたしから手を解いて、薄く笑っただけだった。目を奪われるほど、たおやかで美しい笑みだった。

「こっちの体はこのまま貰うわね。いつか果たされる“契約”の日のために」
「はい。本当に死んだときは、貴女との“契約”を守ります。他でもない貴女に連れて“逝って”もらう……楽しみにしてます」
「はいはい、わかったわ――ちゃん」

 布に導かれるように、わたしの体は強い光に引き寄せられていった。女が笑顔で手を振っていた。きっとこれからも彼女とはこの場所でしか会えないのだろう。

 わたしは応えるように手を振り続けた。全ての感覚が光に焼かれて、ことごとく消失するまで。


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