孤独 -前-

「駄目だ……完全に行き詰まった……」

 わたしは机に突っ伏して呟いた。威嚇する犬のように唸っていると、丸まった背中を撫でられる感触がした。とても温かくて、優しい手つきだった。そっと顔を上げれば、困惑の色に染まった気だるい瞳と目が合った。

「高菜」
「大丈夫に見える?」
「おかか」
「こんなに多いと思ってなかった」

 少しむきになって答えると、棘くんは眉根を下げた。わたしは開いたままの分厚い書物を力任せに閉じた。勢い余ったせいで大きな音が響いて、びくっとわたしの肩が跳ねた。歯痒さのせいで心がひどく波立っているようだった。

 冬の海の静けさを思い出し、冷静さを呼び戻した。苛立っても仕方がなかった。閉じた書物を小脇に抱えて立ち上がると、元の場所へと戻した。僅かな隙間を埋めるように。

 資料室の窓の向こうは、黒よりも深い闇に覆われていた。空は曇っていて月も星も見えなかった。明日は一日を通して雨模様という予報で、それさえ終わればしばらく晴れの日が続くらしい。末日までには梅雨明けが発表されるのではないかと、朝の情報番組で天気予報士が言っていた。六月の梅雨明け宣言となれば統計史上初、異例の事態にあたるそうだ。あまりにも早すぎて。

 確かに今年は梅雨という感じがしなかったなと思いながら、何も見えない黒い空を眺めた。それは東京という土地に来たからこそ感じることであって、地元で過ごしていたなら思わなかったことかもしれなかった。

 わたしは小さな溜め息を吐き出した。次の本は手に取らず、のろのろと席に戻った。資料室の壁に掛けられた時計の針は十時を示していた。そろそろ寮に帰ったほうがいいだろう。

 本来ならば資料室の閉館時間はとうに過ぎているのだが、五条先生が特別に使用許可を与えてくれた。開館時間には呪術高専にいられなくなった、わたしのために。

 少しでも母の手術費の足しになればと、呪術師としての仕事をたっぷり十日間詰め込んだせいだった。今日はその最終日だった。一級呪霊を祓う少し厄介な仕事を終えて送迎車に戻れば、伊地知さんがショートケーキを手渡してくれた。十日間のご褒美として。

「コンビニの物ですが」と申し訳なさそうに言っていたけれど、とても嬉しかったし、びっくりするほどおいしかった。ここ最近のコンビニスイーツの進化は目覚ましい。今度コンビニ各社のスイーツ食べ比べをしようと心に誓った。

 十日という日数は長いようで短かった。それは終わったからこそ抱く感情であって、その間に立っているときはずっと終わりが待ち遠しかった。

 後先考えずに眩暈のする量の仕事を放り込んだために、睡眠時間はほとんどなく、移動時間は伊地知さんに借りたタブレット端末でずっと仕事の報告書を作成していた。休む暇がなかった。呪いだから平気だと言えばそれまでだが、“人としての意識”が休息を求めていた。

 それでも十日を完走できたのは、棘くんの存在があったからのような気がした。

 挫けそうになった日、棘くんに会えたのが大きかった。あの日は仕事を終えて高専に戻ってきたのが深夜二時だった。強い雨が降り注いでいて、それだけでも気が滅入るというのに、次の仕事は朝四時半の開始を予定していた。

 逆算は容易かった。二時間半でシャワーを浴び、弁当を作り、次の仕事場へ向かう。不可能ではなかった。限りなく忙しないというだけで。

 無理をしたと思った。無茶をしたとも思った。これは予想した以上に苦しい選択だったかもしれないと感じ始めたとき、棘くんがわたしの目の前に現れた。

 棘くんに会うのは五日ぶりだった。会えなかったのはわたしが多忙だったからだし、彼がわたしを気遣って見守ることを選択したからだった。だから彼がわたしの帰りを待っていたなんて信じられなかった。雨の中で飽きるまで口付けを交わした後、彼は洋菓子の詰め合わせをたくさんプレゼントしてくれた。

 わたしのやる気は完全に回復した。棘くんがいてくれて本当に良かったと感謝している。とはいえ、雨の中で長時間キスをしたせいで、棘くんは見事に風邪を引いてしまったのだが。

 無論わたしにも責任があるので、高熱を出した彼の仕事を全て請け負った。すでに抱えている仕事の間に詰め込む形で。移動時間が短すぎて常に走っていた記憶しかない。あれは正直とても苦しかったけれど、心配して何度も電話をかけてきた棘くんにたっぷり癒されたので、むしろいい思い出になったと思っている。

 棘くんは足取りの重いわたしを見つめた。その口元はいつもの黒いネックウォーマーではなく、黒い不織布マスクですっぽりと覆われていた。もうほとんど治っているらしいが、喉の炎症がなかなか引かないそうだ。

 膨らんだクリアファイルに目を落としながら、わたしは鬱屈した感情を言葉に変えた。

「両面宿儺には確かに圧倒的なカリスマ性があると思う。畏怖が信仰に変わるのもわかるよ。でも、だからってこんなに多いものなの?」

 白いコピー用紙に走り書きした名前は、十人を遥かに超えていた。その全てが両面宿儺に与した“無科”の人間だった。男もいたし、女もいた。年齢も統一性がなく、誰もが“両面宿儺”という最悪の呪詛師に魅せられていたことを理解した。

 クリアファイルを閉じながら、下唇を噛んだ。これでも絞った数だった。わたしには到底解読できない文献を少しずつ読み解いた棘くんが、限界まで絞り込んでくれたのだ。わたしより時間があるからと、空いた時間は該当者の絞り込みに費やしてくれた。それでも辿り着けていなかった。イザナミさんの正体に。

「イザナミさんは“無科”の人間が呪いに“成った”モノ。両面宿儺に創り出された“人為的な呪い”……そこまでわかってるのに」
「しゃけ……」
「もうちょっとなのに」

 人物の特定が困難を極めているのは、両面宿儺に与した“無科”の数が単純に多いからという理由もあるが、一番は“ちぎり祭り”の詳細が掴めないという事実にあった。

 その始まりがいつからなのかも、最初から手足を千切る祭りだったのかも、調べても調べても出てこなかった。閉鎖された山奥の集落で行われていた忌まわしい儀式を、誰かが克明に記録しているほうが不思議だろう。供物として捧げられていたのは毎年“無科”の人間のようだったが、名前まで記録に残している年もあれば、そうではない年もあって、情報がどこまでも曖昧だったのだ。

 棘くんが心配そうにこちらを見ていた。肩をすくめたわたしは、薄っすらと笑った。

「調べ方を変えても同じかな。もう出たとこ勝負しかないね」

 母の手術日が迫っていた。担当医からの術前説明の場には居合わせたかった。そろそろ人間に戻らなければまずいだろう。

 わたしの考えを見透かした様子で目を伏せたあと、彼は言いにくそうに「おかか」と呟いた。その言葉にわたしは思わず目を瞠り、すぐに大きくかぶりを振った。それから慎重に言葉を選んでいった。

「予定は変えないよ。手術日までに人間に戻る。母のことを人任せにしていいとは思えないから」

 すると棘くんが険しい表情になった。椅子から立ち上がると、首を左右に何度も振った。訴えかけるような目線がわたしを貫いた。

「おかかっ」
「……それ、本気で言ってるの?」

 わたしは眉をひそめた。

「“呪い”として生き続けるくらいなら、わたしは死ぬことを選ぶよ」
「おかか」
「腫瘍は良性だろうとは聞いてる。でも悪性の可能性がゼロになったわけじゃない。もし万が一悪性だった場合、すでに転移している可能性も否めない。これからもっと治療費が必要になるのに、そんなお金はどこにもない。でもね、五条先生が教えてくれたの。わたしは特級術師扱いだから、高専から多額の弔慰金が貰えるって。それを母の手術費や治療費に充てようと思ってる。それくらいにはなるらしいよ」

 伝わる言葉を選びながら、ぽつぽつと続けた。

「生きているか死んでいるかわからない今の状態が続くなら、早く死んだほうがいい。あの人の迷惑にだけは、なりたくないから」
「すじこ!」
「その愛が何の保証になるの?」

 強い調子で問いかけると、棘くんが怯んだように顔を伏せた。

「十年後も二十年後も好きだって言われても信じられないし、わたしだって棘くんをずっと好きだなんて言えない」
「こんぶ」
「そういう話じゃないよ。誰も棘くんに手術費を肩代わりしてほしいなんて言ってない」
「ツナ……」
「棘くんがわたしを愛さなくなったとき、死にたくないわたしはどうするか知ってる?棘くんに“ずっと愛して”って追い縋らなくちゃいけないんだよ。“見捨てないで”って引き留めなきゃいけないんだよ。もう愛してくれないことをわかっていながら。そんなみじめなことってある?」

 答えは求めていなかった。だから続けた。垂れ下がった砥粉色の頭を見つめて。

「わたしはみじめな思いなんてしたくない。愚かな選択だけは絶対にしない。それならこの場でイザナミさんに連れていってもらうほうがずっとマシだよ。わたしの“死”に価値が付くうちに死んだほうがいい。母のためにも、わたしのためにも」

 頭の中には次から次へと言葉が溢れていた。それを取捨選択しながら、どうすれば棘くんにわたしの気持ちをわかってもらえるかを考え続けた。

「棘くんやイザナミさんがいなくちゃ生きていけない人生なんていらない。誰かにわたしの生死を握られた人生なんて、まっぴらごめんだから」
「おかかっ」

 振り絞るような声音に、わたしの心が凪いでいった。

「じゃあ訊くけどさ……棘くんは普通に生きられるの?」
「……ツナマヨ」
「そう。高校に行って、大学に通って、一般企業に就職して……そういうごく普通の、一般人としての生き方ができるの?」

 持ち上がった棘くんの視線には、大きな戸惑いが含まれていた。深い悲しみがそこにあった。どうしてそんな顔をするのだろう。わたしは呆れながら強い語調で吐き捨てた。

「わたしに呪いでいてくれって言うのは、つまりそういうことだよ」

 わたしは重みを増したクリアファイルを胸に抱えた。砥粉色の長い前髪が落ちていて、棘くんの表情が窺えなかった。小さく息を吐き出して、俯いてしまった彼を見つめた。

「……言い過ぎた。ごめん。でもそういう女の子がいいなら他をあたって。もっと素敵な女の子はたくさんいるから」

 がばっと棘くんが顔を上げた。それだけは聞き逃せないとでも言いたげな目だった。話はもう終わっていた。これ以上話したいことは何もなかった。

 わたしが立ち去ろうとすると、引き留める声が鼓膜を強く叩いた。

「おかかっ!」
「はっきり言わなきゃわからないかな。わたしは別の男の子を選ぶって言ってるんだよ」

 棘くんの顔から血の気が引いていった。心底呆れた。何も言わなければ、もっと傷つけられることもなかったのに。居た堪れない気持ちで体が重かったし、口を閉じていられなかった棘くんの想いの強さに、胸がきつく締めつけられた。

 わたしは理解を求めるように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。

「体を取り戻して、普通に生きていきたいの」


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