両面宿儺

 翌朝、わたしは誰もいない資料室で分厚いクリアファイルを捲っていた。それは今までに調べた膨大な資料を自分なりにまとめたもので、ファイルのポケットは全て埋まっていた。入りきらない資料は同じポケットの中に強引に突っ込んでいるので、クリアファイルは背表紙の幅以上に膨らんでしまっている。

 呪いのこと、呪術師のこと、贄のこと――そして日本各地で行われていた贄を用いた儀式こと。ポケットのほとんどをその血生臭い記録が占めていた。

 虎杖くんを東京駅まで迎えに行く前に、もう一度だけ目を通しておこうと思ったのだ。やっと巡ってきたチャンスを無に帰さないために。

 膨張したポケットから文字で埋め尽くされたコピー用紙を引っぱり出していたら、一限目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。わたしは特に気にも留めず作業を続けた。普段は教室にいなければ叱責ものだが、この時期ばかりは違っていたから。

 呪術師にも繁忙期があって、ちょうどそれが今の時期だった。初夏は呪いが湧きやすい。冬の終わりから春にかけて、人々は自律神経の乱れや五月病といった様々な理由から陰気を生産し続ける。それが呪いに変異するのが、この初夏だった。

 常に人員不足に悩まされている呪術界の繁忙期は、ブラック企業も真っ青な労働形態へと変貌を遂げるらしい。伊地知さんが「ひどいものですよ」と学生相手にぼやくほどに。

 そんな状況下で国語や数学といった普通の授業を行っていられるわけもなく、わたしたちの授業はしばらく実習や自習が続くと聞いている。現に棘くんや真希ちゃん、パンダくんは実習という名の任務に向かってしまった。学生とはいえ、使える呪術師は全て使えということらしい。

 その最たる犠牲者である乙骨くんは日本を転々としているらしく、もう五日も高専に帰ってきていない。昨日たまたま連絡した際に「休ませて、とも言えなくて……」と押しの弱い性格につけ込まれていることを知ったため、朝早くから伊地知さんに労働時間の改善を求める要求を執拗に行った。これで多少なりとも仕事量が緩和されると良いのだが。

 誰もが多忙であるにもかかわらず、わたしが任務から外されたのは、五条先生の計らいによるものだった。暴走しそうになったせいかと勘繰ったが、まったくそういうわけではなく、緊急時に備えて特級術師を拠点である呪術高専に配置しておきたいという理由からだった。

 カッコカリとはいえ、わたしの領域は範囲が広い上に数での圧倒が可能だ。そういうことならばと、わたしは留守番もとい番犬役を快諾したのである。

 そのおかげで時間にも気持ちにも余裕のできたわたしは、初めて棘くんの弁当を作るという一大イベントに集中して取り組むことができた。

 だからといって張り切ったわけではなかった。いつものように食堂の調理場の一画を借りて、普段と代わり映えしない弁当を作った。

 弁当を作るのは今日限りではなく、明日も明後日も続くのだ。繁忙期が終わるそのときまで。初めに凝ったものを作ってしまえば、これからずっと気合いを入れた弁当を作らなければならないだろう。それはちょっと面倒だったし、後からボロが出るのは避けたかった。

 わたしの弁当は節約に徹している。高専に勤める調理師のおばさま達から、炊きたての米や食材の残りを全て厚意で無償提供してもらっているし、前日の夕食の残り物をおかずに採用することも多い。つまりわたしの昼食代はほとんど無料だった。

 とはいえ、おばさま達に好きな人に弁当を作ることを告げると、

「どの食材も自由に使っていいから絶対に胃袋を掴みなさい。いい?絶対よ」
「そうそう。相手はやっぱり狗巻くんでしょ?あの子ってすごく良い子だもの、今から捕まえておかないと」
「違うわよ。狗巻くんがちゃんを捕まえておかないといけないのよ。びっくりするくらいしっかりしてるんだもの、息子の嫁に欲しいくらいだわ」
「ねえ、狗巻くんっていえば、ちゃんがあの子を弄んでるって噂聞いた?」
「聞いた聞いた!狗巻くんが可哀想って話でしょ?」
「それ演技だってわからないのかしらね」
「男って本当に馬鹿よねえ。ちょっと見たらわかるじゃない。ちゃんは一途よ。昔のあたしを思い出すわぁ」
ちゃんなら大丈夫よね。気持ちは伝わるわ、いつも通り作ればいいのよ。それで狗巻くんを――」

などと、たくさんの熱いお言葉と食材使用許可を頂いたため、今日の弁当は少し豪華な部類なのである。ちなみに人生経験豊富な百戦錬磨のおばさま達を騙せるほどの演技力は持ち合わせていないので、わたしの小賢しい目論見は全て筒抜けだった。ちょっと恥ずかしかった。

 待ち合わせ場所は高専の簡素な門の前だった。約束の三十分前からそこに待機していたという棘くんは、黒いランチバッグをきらきらした目で見つめていた。そこにいつもの気だるさはなく、探し求めていた宝物を見つけた子供のようだと思った。

 本日は午前に一件、午後に二件の任務を抱えている多忙な準一級術師は、ランチバッグを片手に軽い足取りで高専を後にした。残るは感想を待つのみだが、気になってしまって資料の内容がほとんど頭に入ってこなかった。なんだか落ち着かない。口に合うかどうかだけが心配だった。

 気もそぞろなままファイルを捲り続け、気づいたときには虎杖くんとの約束の時間が迫っていた。わたしはファイルを閉じて、椅子から立ち上がった。

 こうなれば出たとこ勝負しかないだろう。どうしても気合いを入れたかった。お手洗いで身なりを整え、仕上げに唐紅色の口紅を直に引いた。緊張で青ざめた顔色が一気に明るくなった。「よし」と呟くと、肩からポシェットを下げて足早に最寄り駅を目指した。

 通勤通学のラッシュ時を過ぎた東京駅は、それでも多くの人で混雑していた。やはり都会は違うなと思いながら、こちらを視認していない人々を寸でのところで躱し続けた。普通に歩くより時間を要してしまい、改札口に到着したのは約束の時間から五分ほど過ぎた頃だった。

先輩!」

 明るい声の聞こえてきたほうを振り向けば、パーカー姿の虎杖くんが大きく手を振っていた。仙台から遠路はるばるやってきた彼は、すでに改札を通り抜けていたらしい。

 リュックを背負った虎杖くんは目にも止まらぬ速さで駆け寄ってくると、わたしの姿を上から下までじっくりと見つめた。

「良かったー……ちゃんと生きてるっ!」

 新月の夜、わたしは建物の三階の高さから落下したのだ。加えて自業自得とはいえ重傷を負っていて、出血量も多かった。あの場での死を疑うのは当然のことだった。

「助けられなくてごめんね」

 苦い笑みと共に謝罪すると、彼は後頭部を申し訳なさそうに掻いた。

「いや、俺のほうこそごめん。助けなきゃならなかったのに。言われたその日に守れないなんて思ってなかった。自分が情けないっていうか、何ていうか……とにかく本当にごめん!」

 そして虎杖くんはその腰を勢いよく直角に折った。彼の口にした言葉の意味を全て理解したわけではなかったが、彼なりに思うところがあることは察していた。頭を垂れたままの虎杖くんに、わたしは穏やかに笑いかけた。

「お願いだから顔を上げて。わたしは呪いだし、あれくらい平気だよ」

 そう言ったとき、くぐもった笑い声が鼓膜を叩いた。笑われるような発言だっただろうかと不安が渦を巻いたが、すぐに虎杖くんの声ではないことに気づいた。しかし、その声は間違いなく彼のほうから聞こえている。

 わたしは頭を上げた虎杖くんと顔を見合わせて、思わず「あ」と声を漏らした。

「面白いことになっているな、ムジナの娘よ」

 どこか尊大な口振りで話しているのは、虎杖くんの右の頬に現れた口腔だった。この二月あまりで非現実的なこともある程度なら受け入れられるようになっていたが、さすがにこれは難しかった。

 目を疑った。虎杖くんの口が移動したわけではなかった。ひとつ余分に付いているのだ。つい先ほどまでは存在していなかったはずだった。信じられなくて何度も瞬きを繰り返したが、その唇は消えることなく下卑た笑みを浮かべ続けている。

「何だこれっ?!」

と、虎杖くんが目を剥いているのをよそに、口腔は自在に言葉をしゃべった。

「いや、当代はお前だな。“無科”の名を冠していなければ、そんな真似は到底不可能だろう。そうか、お前はそやつをそういうふうに使ったのか。なるほど……なるほどな。俺もそこには思い至らなかった。なかなか愉快なことをするではないか」

 骨の髄にまで響く低い声音に、全身の肌がぞわりと粟立った。指の先の先まで緊張感が張り詰めていく。口の中が一瞬でからからになって、心臓から押し出される血液の速さがぐんぐん増していく感じがした。

 味わったことのない畏れを抱いていた。恐怖ではなく、畏怖だった。“彼”に決して逆らってはならないという本能だった。わたしは目を背けた。無意識だった。目を合わせることすら畏れ多いと肉体が強く訴えていた。

 それと同時に脳裏を駆け巡った感覚に、わたしはひどく戸惑った。

 ――ああ、懐かしい。

 一度も会ったこともない相手に抱くには、あまりにちぐはぐな感想だった。だからそれがわたしのものでないことにすぐに勘付くことができた。この感情はわたしのものではなく、“彼女”のものであると。

「勝手にしゃべんな!」

 苛立った様子の虎杖くんが、手のひらで自分の頬を引っ叩いた。小気味いい音がして、わたしは我に返った。もう遅いかもしれないと焦りながら、制止の言葉を紡いだ。

「ちょっと待って。わたし、宿儺さんに訊きたいことがあるの」
「はあ?コイツに訊きたいことって……」

 頬に添えられたままの彼の手の甲に、突如として口腔が出現した。音もなく現れたそれに目を瞠った。

「良いぞ、娘。愉快なものを見せてくれた礼はせねばな」

 虎杖くんは正気かとでも言いたげな目線をこちらに送った。わたしは深く頷くと、鋭く尖った白い歯を見せる唇を見つめた。顔を逸らそうとする肉体に逆らいながら。

 小さく息を吸って、全ての神経を集中させた。手に冷たい汗が滲んでいた。一言でも間違えば殺されると“彼女”の本能が告げていた。死はすぐそこにあった。足元からせり上がってくる途方もない恐怖と畏怖の感情をみとめた。わたしはそれら全てを一思いに飲み込んで、地面を踏みつける足裏にぐっと力を込めた。

 失敗してもいいと頭のどこかで考えていた。“器”である虎杖くんが存在する限り、何度でも質問をすればいいだろうと楽観視していた。だがそれは大きな思い違いだと悟った。

 きっと二度はない。確信だったし、事実だった。“彼”――両面宿儺の気を害した時点で全てが終わる。質問する権利はことごとく剥奪され、それどころか両面宿儺に消される可能性すらあった。“彼女”の呪力に両面宿儺が関わっている以上、その可能性は考えるまでもなく濃厚だった。呪いの本能に支配されたあの夜とは比べ物にならないほど、わたしは強い危機感を覚えていた。

 だからこそ小細工は不要だと思った。騙そうとか謀ろうとかいう気持ちは凪いでいた。そういった類のことは両面宿儺の気を害するだけだろう。自分の直感が正しいことを信じていた。

 やっとわたしは口を開いて、単刀直入に尋ねた。

「人間に戻りたいんですけど、どうすればいいですか?」
「諦めろ」

 即答だった。切れ味のいい端的な回答に苦笑すると、両面宿儺は言葉を続けた。

「お前はそう“在る”だけで愉快なのだ。俺の楽しみを奪うな」

 しかしその言い草は、肉体の支配権を持つ虎杖くんの気に障ったようだった。彼は顔を歪めて、抗議の声を差し込んだ。

「先輩が困ってるじゃん。ケチ臭いこと言ってないで答えてやれよ。減るわけでもないんだろ?」
「小僧に指図される筋合いはない」

 吐き捨てられた声音は、わたしに向けられるものとは異なっていた。感情が乗せられていなかった。わたしに話しているときには添えられていた、愉悦とでも呼ぶべき感情が。

 今この瞬間において、自らが両面宿儺にとって“特別”であることを悟った。それが純粋な興味によるものなのか、“無科”との繋がりによるものなのかは定かではない。だが手ごたえを感じるには充分だった。許されていることを実感していた。

 もう少し会話を続けてもいいだろうと判断し、畳み掛けるように質問を重ねた。

「イザナミさんと話す方法が知りたいんです。それも教えてもらえませんか?」
「お前の足元にいるではないか。反応はあるだろう?」
「はい。でも、これではどうしても会話にならなくて。直接会って話がしたいんですけど……」

 わたしは言い淀んだ。次の言葉を考えていたら、両面宿儺が確かめるように訊いてきた。どこか馬鹿にしている口振りで。

「……会う?会ってどうする?体を返してくれとでも頼み込むつもりか?」
「はい。それしかないので」

 はっきりと答えると、閉じた唇をじっと凝視した。決意を示すために。覚悟を伝えるために。眉間に銃弾を撃ち込むような明確な殺意をもって。視線だけで全てが伝わればいいと願いながら。

 やがて両面宿儺は、にやりと笑みを作った。その笑みに深く安堵したが、顔には決して出さなかった。わたしは両面宿儺の言葉を待った。

「ほう……興が乗った。娘、お前の名は?」
――」
「それはいらん。贄のお前が冠するは“無科”のみ、それ以外は不要だ。俺はお前の名を訊いている」
と言います」

 すると唇はぴたりと閉じてしまった。何かを考え込むように。その横一文字が割れたのは、数秒経った後だった。両面宿儺は滑らかに言葉を紡いでいった。

よ。全ての物事には道理がある。辿るべき道とでも言うべきか。それを捻じ曲げて事を成そうなど傲慢にも程があるよな」
「はい」
「ならばお前は何を間違えた?」

 問いかけられたわたしは、答えを探すためにゆっくりと目を伏せた。与えられた言葉を何度も何度も頭の中で反芻した。噛み砕き、解体していった。本質を探るために。隠された真意を見つけ出すために。

 それからぽかんと口を開いた。「あ、そっか」と勝手に声が漏れていた。

 頭の後ろで何かが弾けていく感じがした。すでに全てが繋がっていた。眼前に突き出された答えはあまりに単純だった。どうして今まで気づかなかったのか不思議なくらいだった。あれほど膨大な資料で裏打ちせずとも、種はすぐそこに転がっていたのだ。

 確信が身を貫いていた。――わたしは正しかったのだ、と。

 汗の滲んだ手が震えていた。体を打ち震わせているのは、喜びではなく安堵だった。ずっと渦巻いていた不安が一気に晴れていって、澄んだ青空が見えていた。後は手の中に収まる小さな種を育て上げるだけだった。どうやって水を与えていくか、これからはそれを考えていかなければならなかった。

 わたしの様子を見た両面宿儺は、愉悦に歪んだ大きな笑い声を上げた。

「当代は殊更に聡いな。いや、狡猾と言ったほうが正しいか。だからこそお前たちムジナは面白い。そうではなくては価値などないが」

 その言葉に小さな笑みを返した。笑うだけの余裕は戻ってきていた。わたしは虎杖くんとの距離を詰めて、その場で深く頭を下げた。

「宿儺さん、本当にありがとうございます」
「礼など腹の足しにもならん。己の価値を示せ。そして俺を魅せてみろ」
「精一杯善処します」
「何をぬるいことを。お前に求めるのは俺を楽しませる結果、それのみだ。他はいらん。無理なら潔く死ね」

 投げつけられた乱暴な単語に、腰を曲げた状態で苦笑した。両面宿儺の望むような結果にならなければ、その言葉通り死んで償うしかないのだろう。元より狭かった退路が塞がれていくことを感覚したが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 手の震えが治まったところで、そうっと顔を上げた。虎杖くんの手の甲には口腔が浮かんだままだった。会話は終わったものだと思っていたから、わたしの肩は大袈裟に跳ねた。

 何か無茶なことでも命じられるのかと身構えたとき、両面宿儺は真面目くさった口調で言った。

「魂を蝕むその呪詛だけは決して疑うな。しっぺ返しを喰らうぞ」

 告げられた言葉の意味を理解するより早く、口腔は虎杖くんの手の甲から瞬く間に消えてしまった。緊張の糸が一気に解けていくのを感じた。ほんの数分話していただけなのに、どっと疲れがのしかかっていた。

 大きく膨らませた肺から少しずつ息を吐き出しつつ、最後の言葉だけが理解できなかったなと思った。棘くんの呪言のことを指しているのは間違いないだろうが、“しっぺ返しを喰らう”とはどういう意味だろう。わたしに呪いをかけているのは棘くんだ。呪詛をかけたほうがペナルティを受けるのが道理ではないのだろうか。

 あの両面宿儺が無意味なことを言うとは到底考えられなかった。すっきりしない謎だけが残されて、わたしは肩をすくめた。

「満足したの?」

 ずっと黙してくれていた虎杖くんが首をかしげた。わたしはこくこくと首を縦に振った。

「うん、大満足。ありがとう、虎杖くん」
「あれで何がわかったんだ?」
「ほとんど全部かな」

 にっこり笑ってみせると、彼はほっとしたような笑みを返してくれた。一刻も早くしっぺ返しの意味に辿り着きたかったが、今はタクシー乗り場に辿り着くほうが先だった。案内看板を追って、虎杖くんと一緒にタクシー乗り場へ向かった。

 気がかりをどうにかしたくて、タクシーの後部座席で言葉の意味を考え続けた。しかし呪術高専に到着するまでに答えを導き出すことはかなわなかった。


≪ 前へ  目次  次へ ≫