引鉄

「そんなに好きなんだな、刀祢樹」

 虎杖くんはどこか感心した様子で言った。古めかしい出入口に設置された“都立呪術高等専門学校”の看板に背中を預けながら、彼は記憶を辿るように続けた。

「顔がいいのはもちろんだけど、雰囲気も演技力もあるからなー……人気が出るのわかるよ。去年の秋ドラマの新人刑事役は、すっげー当たり役だったし」
「そうなの!あれから人気が爆発したんだよ!今年は映画も三本決まってるし、来週から刀祢くんが起用された缶コーヒーのCMも始まるし、それから」
「完璧にチェックしてんじゃん」

 けらけらと楽しそうな笑い声が聞こえて、わたしは慌てて口を噤んだ。熱を込めて話し過ぎてしまったと羞恥で肩を縮こませた。

 わたしたちが呪術高専に到着したのは正午を少し過ぎた頃だった。五条先生から告げられた約束の時間までは充分すぎるほどの余裕があった。虎杖くんは一人で待つと言ったのだが、見知らぬ土地でたった一人待ち続けるのは心細いだろうなと思った。だから五条先生がやってくるまでの間、二人で他愛ない話をして時間を潰すことにした。

 虎杖くんはとても気さくな少年だった。加えてまったく人見知りしない質だったから、わたしが話題を振るとたくさんの言葉を返してくれた。

 テレビっ子だという彼とは、テレビドラマの話で大いに盛り上がった。彼はドラマにも俳優にも詳しかったし、ジャンルを問わず観ているようだった。

 今はどのドラマを観ているかという話から刀祢樹の話に変わり、わたしは堰を切ったように延々としゃべり続けてしまった。ここ最近、刀祢樹の話をほとんど口にしていなかったせいだろう。虎杖くんが楽しそうに相槌を打ってくれるものだから、つい調子に乗ってしまった。

 わたしは苦笑いを浮かべながら謝った。

「一方的に話しちゃってごめんね。月9も佳境だし、勝手に盛り上がっちゃった」
「いや、全然いいよ。話がうまいから聞くの楽しいし。でもそんなに好きだと思ってなかったからびっくりした。刀祢樹の話は他の人とはしないの?」
「……うん。意図的に避けてるから」

 その返答に虎杖くんは眉をひそめた。

「え、何で?」
「わたしが刀祢樹の話をしてたって、すぐにバラされるから。わたしの好きな人に」
「あー……勘違いされたくないから黙ってようってこと?」

 同情の視線をくれた彼に、わたしは大きくかぶりを振ってみせた。げんなりした気持ちが伝わるように、少し大袈裟に。

「最近は謝るまでしつこくキスされるからもう言わないでおこうって決めただけ」

 一息に言い切ると、虎杖くんの眉間のシワが深くなった。

「好きな人?それ彼氏って言わない?」
「好きな人で合ってるよ。だって付き合ってないから。そういうことをするだけの関係ってわけでもないけど」
「ただの友達……ってわけねえよな。相手も先輩も本気?」
「うん」
「何で付き合わねえの?」

 真っ当な疑問にすぐに答えられなかった。誤魔化そうと思えば、そうすることも可能だった。他の人にそうしているみたいに。

 しかしわたしは、あえてそうしなかった。虎杖くんにならば本当のことを話してもいいと思ったから。むしろ反応が気になっていた。正直で快活で性根のいい彼が、いったいどういう反応を見せるのか知りたかった。

 晴れた空を仰ぎ見ながら、ぽつぽつと言った。

「向こうは呪術師、こっちは呪いだからね。呪術師は呪いを祓うのが仕事だよ。体裁を考えると、そんな危ない橋は渡れないでしょ?」
「わかんねえ」

 虎杖くんは間髪入れずに言った。考える様子もなかった。まるでそれが当然だとでも言うふうに。

「周りなんて関係ねえじゃん。先輩が呪術師と恋愛したら誰か死ぬわけ?違うよな?言いたい奴には言わせておけばいいって。何にだって文句言いたい奴は出てくるもんだしさ。気にし過ぎだと思うけどな」

 考えていたよりずっと中身の詰まった言葉に、わたしは面食らってしまった。何があっても決してぶれない芯のようなものを、彼の中に確かに感じた。濁りのない彼の目に焦点を合わせて、同意を示すために深く頷いた。

「そうだね。わたしもそう思うよ。でも、ここは古い考えばかりだから」
「……そっか」

 虎杖くんは小さく笑うと、すぐに神妙な顔つきになって続けた。

「そいつに一回会ってみたいな。先輩にそんな顔させる奴って、どんな奴なんだろ。刀祢樹にそっくりとか?……まさか伏黒じゃねえよな?うわ、やべえ。気になってきた」
「そんな顔って、どんな顔?」
「絶対守ってやるって覚悟が滲んだ男前な顔。刀祢樹の数倍カッコいいよ」

 わたしはポカンと口を開き、それから声を上げて笑った。そんなことを言われるとは、つゆほども思っていなかったから。

 だがその反応は虎杖くんの意図しないところだったのか、彼は少し不満げな様子で説明した。

「だって先輩が自分の考えを曲げてでも付き合わねえ!って決めるほどの相手だろ?気になるのは当然じゃん」
「考えを曲げてるわけじゃないよ。人間に戻ることを最優先にしてるだけ」
「ふうん……じゃあ、そういうことにしとく」
「うん、そういうことにしておいて」

 わたしが笑うと、虎杖くんは訝しげに問うた。

「ねえ、その相手って伏黒?」
「違うよ」
「じゃあどんな人?」
「優しくて欲張りな人。虎杖くんはきっとびっくりすると思う」

 語彙がおにぎりの具だけだと知ったら、彼はどんな反応を見せるのだろう。ちょっと驚かせたかった。だから何を訊かれても、その点だけはしっかり伏せておいた。

 虎杖くんに棘くんとの出会いをちょうど話し終えたとき、

「やっほー!悠仁!」

と、弾むような声がした。鼻先を向ければ、門の内側で五条先生が手を振っていた。わたしは目を瞠った。どうやら彼はずっと高専内にいたらしい。てっきり何か別の予定があって多忙だから、代わりにわたしを迎えに寄越したのだと思っていた。勘違いだった。両面宿儺との時間を作るために、わたしを東京駅に向かわせたのだろう。

 わたしは挨拶もそこそこに二人と別れ、その足で資料室に向かった。置きっぱなしだったクリアファイルと弁当を持って、閑散とした中庭で昼食を平らげた。分厚い資料をじっくり眺めながら。

 弁当の出来は我ながら良かった。冷めてもそれほど味が落ちていなかった。これなら不味いとは言われないだろうと結論付けて、資料室に戻って調べ物に取り掛かった。

 窓から差し込む焼けたような橙色の光が弱まってきたとき、資料室の扉が大きな音とともに勢いよく開け放たれた。

「こんぶっ!」

 静かな部屋いっぱいに、おにぎりの具が響き渡った。反射的に肩が大きく跳ねた。取り出した資料を元の場所に片付けていたわたしは、本棚から顔だけを出した。

 扉に手をかけたままの棘くんは、ぜいぜいと肩で息をしていた。ここまで全速力で走ってきたのだろう。その右手には黒いランチバッグが握られていた。

「おかえり、棘くん。お仕事お疲れ様」

 わたしはそれだけ言うと、手に持っていた資料を空いた隙間に差し込んだ。本棚にはみっちりと資料が詰め込まれていた。取り出すのも大変だが、片付けるのも一苦労だった。背表紙を強く押していると、急いた足音が真っ直ぐ近付いてきた。

「ツナ!」の声がしたと思ったら、後ろから力いっぱい抱きしめられた。その拍子で腕に抱えていた二冊の本を落っことしそうになったが、何とか堪えることができた。できれば片付けた後にしてほしかったなと思いながら、わたしは腕に残る資料を本棚に詰め込んでいった。

「ツナマヨ」
「うん、おかえり。お疲れ様」
「すじこ」
「同棲してる気分?……あー、お弁当渡したし、おかえりって言ったから?」
「しゃけしゃけ」
「そうかなあ」

 適当に返事をして、最後の一冊を元の場所に戻した。この一冊を戻すのが最も困難だったから、意識は完全にそちらに向いていた。幅のある背表紙を力任せに押し込んで、元通りにできたことに満足していると、棘くんが悲壮感に満ちた声を上げた。

「おかか……」

 わたしは顔をしかめた。決して冷たくしたわけではないし、機嫌が悪いわけでもない。ただそれどころではないだけだった。きちんと片付けなければ、資料室の使用許可を剥奪されてしまうのだ。今は確かめたいことが山ほどあるのに、ここで出入り禁止にされるわけにはいかなかった。

 そう言われるのは心外だったが、彼は話を合わせてほしかったのだろう。付き合ってもいないのに気が早いなというのが、正直な感想ではあるのだが。

 とはいえ、棘くんの機嫌を損ねる真似は避けたほうが良さそうだった。およそ三倍になって返ってくる仕返しが怖いし、今はとにかく時間が惜しい。手中に収まる種を芽吹かせなければならないのだ。体を取り戻して、人間に戻るために。

 それは自らのためだけではなかった。わたしが躍起になって資料を漁っている理由の一端に自身の存在があることを、彼はどこまで理解しているのだろうか。

 腰に回された腕に指を這わせながら、柔らかい声で言った。

「ごめんね。どうしても調べたいことがあって、そっちに集中してて」
「おかか」
「うん、ちゃんと話せたよ。それで、両面宿儺に与した人間の中に“無科”がいることがわかったんだ。誰なのかはわからないけれど、きっとそれが突破口になると思う」
「明太子」
「本当?古い文献はまだすらすら読めないから助かるよ。ありがとう」

 棘くんの機嫌がさほど悪くなっていないことにほっとした。それから、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「お弁当、おいしかった?」
「しゃけ!」
「良かった。一番おいしかったおかずは?」
「ツナマヨ!」
「全部は何の参考にもならないんだけどなあ」

 笑みをこぼして、わたしは棘くんの腕を解いた。向かい合わせに立って、優しい光が溜まった気だるげな瞳を見つめた。多忙だったはずなのに、彼の表情からは疲労の色が微塵も見て取れなかった。

「こんぶ」と感謝を告げながら、彼はわたしの髪を優しく梳いた。こうして元気なのは弁当のおかげだと言われているようで、なんだか体がむず痒くなった。込み上げる羞恥を隠すように、わたしは真正面からに棘くんに抱きついた。彼はわたしを抱きとめると、嬉しそうに腕に閉じ込めた。

「すじこ」
「もちろん。明日も明後日も作るよ」
「しゃけ」
「ずっと?それって繁忙期が終わっても、ってこと?」
「しゃけしゃけ」
「えー……それはちょっと面倒臭い」

 素直な気持ちを口にすると、棘くんの体がひどく強張った。わたしを抱きしめる力が弱くなったような気がした。おや、と思いながら顔を覗き込めば、彼の表情筋がちょっと引き攣っていた。困っているとも悲しんでいるとも取れる、とても複雑な表情をしていた。

 自分や家族の分なら適当でも済ませられるが、棘くんに渡すとなれば一定の質は保たなければならなかった。わたしだって何もかも面倒になって、普段の弁当より格段に質の下がったものを作る日だってある。母が相手なら「ごめん」の一言で許しを得られるし、それほど気にせず堂々と渡すことができる。

 けれど、棘くんは別だった。きっと優しい棘くんは適当でもいいと言うだろうし、玉子焼きがぐちゃぐちゃでも笑って許してくれるだろう。しかし、わたしが嫌だった。好きな人に食べてもらう物だから。質の下がったものを渡すことを、自分自身が許せなかった。

 棘くんは黙っていた。わたしと視線を絡めたまま、言葉を探しているようだった。どうしても食べたいのだろうなと思った。嬉しくて堪らなくなったものの、この場の感情で決めていい内容ではないことは充分に理解していた。未来の自分が後悔している姿が、ありありと目に浮かぶのだから。

 わたしは棘くんに妥協案を提示することにした。

「じゃあ棘くんは何をくれるの?」

 気だるげな瞳が僅かに見開かれた。濃色の瞳孔を射るように見つめた。

「あげるばっかりっていうのは、嫌だな」
「……ツナマヨ」
「ううん、食材費や手間賃がほしいって言ってるわけじゃないよ。ただ、その棘くんの要求はフェアじゃないと思ってるだけ」

 弱くなった拘束から逃れると、わたしは本棚から一冊の本を抜き出した。“呪詛師の系譜”と記された黒い背表紙の本を抱えて、真剣な顔で思案している彼に笑いかけた。深く念を押すように。

「わたしに何をくれますか?」

 首をかしげたが、棘くんは何も答えなかった。視線を落とした彼の手から黒いランチバッグを奪い取るのは容易だった。本気で考え込んでいる様子の棘くんを置いて、つい先ほどまで作業をしていた机に戻ろうとした。

 そのとき、ふいに資料室の扉が開いた。こんな時間に誰だろうと顔を向けると、銀色の髪が目についた。

、今ちょっとだけいい?」

 きっとまた何か頼み事があるのだろうと思った。細々した使い走りを命じられるような気がした。時間を惜しむほど調べたいことはあるものの、それはひどく個人的なことであったし、高専に関わることであれば二つ返事で引き受けるつもりだった。

 わたしは五条先生に駆け寄った。彼は資料室の扉をきっちりと閉めると、廊下でわたしと向き合った。そして、いつもよりずっと落ち着いた声音で言った。

「悠仁のこと、本当にありがとう。無事に転入も決まったし万々歳だよ。それでさ、急なことでアレなんだけど」
「はい、何ですか?」

 先を促すように尋ねれば、彼の纏う空気が少し張り詰めたものに変わった。特級相手の危険な仕事だろうかとわたしは身構えた。彼はその長身を少しだけ屈めて、わたしと目線の高さを合わせようとした。

のお母さん……手術することになったって」
「え?」
「子宮に腫瘍が見つかったらしい」

 瞬きひとつできなかった。ただ、わたしの頭だけは冷静に反応していた。

「……ガンってことですか?」

 その問いに五条先生は曖昧な顔をした。

「血液検査もしてるけど、良性か悪性かは開いてみないとはっきりわからないかもしれないそうだ。でも腫瘍はかなり大きいから手術はしなくちゃいけないって。それでのお母さんは子宮の全摘を選んだ。全身麻酔による手術になるそうだよ」

 わたしはようやく目蓋を上下に動かした。唇がひどく重かったし、喉も引き攣っていた。しかし確かめておかなければならないことがあった。どうしても。

「どうして見つかったんですか?……わたしがいなくなって、時間ができたから?」

 五条先生は不意打ちを食らった様子だった。そんなことを訊かれるとは思っていなかったのだろう。ややあって、彼はゆっくりと唇を割った。

「少し前からたびたび不正出血があったらしい。今月の初めに近くの病院に行って、それから大学病院で精密検査を受けて、やっと今日わかったんだって」
「……わたしのせいじゃないですか」
「それは違うよ。のお母さんも言ってた。あの子は気にするだろうけど、それは絶対に違うからって」

 わたしは大きくかぶりを振った。目を伏せると、絡めた両手が小刻みに震えているのが見えた。

「わたしのせいで、病院に行く暇もなかったから。病院に行くお金さえ使おうとしなかったから。いつもそう。いつも何も言わないし、どれだけつらくても顔に出さない。虫歯も風邪も何もかも全部手遅れになってから病院に行って、それで」
、ちょっと落ち着いて」

 五条先生の言葉に首を横に振った。わたしは冷静だった。心は痛いほど静かで、とても落ち着いていた。誰の目から見ても明らかな事実を並べ立てているだけだった。

「わたしのせいなんです。わたしが。わたしがいなければ。わたしさえいなければ。そうしたらもっと早く見つかって、お母さんは子宮を取ることなんて」
っ!」

 強い呼びかけとともに、肩をきつく掴まれた。頭が軽く揺れるほどの強い力だった。はっと顔を上げると、頬に生ぬるいものがこぼれていった。視界がぼけやて歪んでいることに、わたしはやっと気づいた。

 五条先生がこちらを見つめていた。黒い目隠しの向こうから射抜くような視線を感じた。

「まだ悪性だって決まったわけじゃない。血液検査の結果である程度はわかるそうだから、今はその結果を待とう。それに子宮を取ることを選んだのは彼女だ。腹を痛めて産む子は後にも先にもだけで充分だからって笑って言ってた。嘘じゃないよ」
「でも」
、よく聞いて。これは未来を奪う選択じゃない。これからのことを考えて、彼女は彼女自身のために最善を選んだんだ」

 涙がどんどん溢れていた。止められなかった。

「だから自分で不安を煽るな。自分のせいにして現実から目を逸らすな。いつも冷静な君はどこへ行ったの」

 その言葉に頬を思いきり打たれ、ようやく涙が引っこんだ。すんすんと鼻水をすすった。絡めた両手に力を込めて、前進することについて考えた。五条先生の言葉に耳を傾けながら。

「手術は月末。二週間後だ。僕はちょっと忙しいから、代わりに硝子か伊地知に付き添いをしてもらおうかと思ってるんだけど、それでいい?」
「……いいえ。わたしが行きます」

 わたしは五条先生を見据えて、きっぱりと宣言した。

「手術日までに、人間に戻ります」


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