呪言 -前-

 もう一度赤い血文字を目に焼き付けていたそのとき、込み上げる笑みを掻き消すような轟音が空気を震わせた。肩が大きく跳ねて、わたしは反射的に振り返った。地震でも起こったかのように、建物全体が小刻みに揺れていた。校舎のどこかが崩れたのだろうと悟った。

 影に憑かれた右手は再び鏡をなぞった。

“モドレ”

 鏡に塗り重ねられた鮮やかな血液を見つめ、すぐにかぶりを振った。

「伏黒くんが待ってるから」

 言い終わるより早く、足裏に体重をぐっと乗せて駆け出した。体の主導権を奪おうとする強烈な殺意を抑え込みながら。

 できないことではなかった。脳に絶え間なく届けられる激痛だけを鋭敏に感覚し、沸騰する殺意から目を逸らせばいいだけだった。痛みのせいであぶら汗が滲み、口で呼吸するほど息は荒くなっていたが、脇腹を押さえて大きな物音がするほうへと急いだ。

 わたしを襲う異変の原因がわかったのは僥倖だった。すっきりしない気持ちは消え失せていたし、対処法はいたってシンプルだった。狗巻くんとの物理的距離を縮めること、それはとても簡単なことだった。今はそれを叶えるのが困難な状況だというだけで。

 東京に戻っている暇はなかった。自分の命が危ういからと、この場を去る選択肢はなかった。わたしの幸せを願ってくれた伏黒くんに全てを押し付け、彼の期待を裏切って生き延びることに何の意味があるのだろう。

 おそらくこのまま狗巻くんと離れ続ければ、わたしは自我を失って正真正銘の“呪い”と成るはずだ。推測の域を出ないが、きっと魂も消滅してしまうのだろう。イザナミさんにとっては不本意な形で。そうでなければ、彼女がわたしを引き留める理由がない。

 宿儺の指の影響か仙台に出張に来たからか、はたしてどちらが原因かは定かではないが、“呪い”としての本能がずっと疼いている。イザナミさん自らが急かしているということは、消失までの時間はそれほど長くないと考えていいだろう。ここから東京に戻るまで約三時間半。狡猾な彼女が時間を計算できないわけがないから、その時間はこの状態でもかろうじて自我を保つことができるはずだ。

 充分だと思った。消滅まで残り五分とか十分とかだったならもっと焦ったかもしれないが、万が一消えることになったとしても、狗巻くんや皆に別れを言う時間くらいはありそうだったから。

 涙が出るほどの痛みに意識を向けて、自らの形を強く感覚した。魂の形を。わたしの在り方を。今できることはそれだけだった。

 物音はどんどん近づいていた。空いた教室の窓の向こうは、校舎を繋ぐ連絡通路の屋上だった。そこに尻をついた伏黒くんと身構える虎杖くんの姿が見えた。暗い中でも、伏黒くんが頭から血を流しているのがはっきりと確認できた。

 指先がぶるっと震えた。心臓から血が逆流するような感じがした。猛烈な殺意に押し流されそうになりながらも、わたしは教室を駆け抜け、窓を開けて屋上へ飛び出た。

 虎杖くんの視線は何もない場所に定まったまま動かなかった。そこに呪いがいるのだろうと判断して、足元に転がるコンクリートの破片を力いっぱい投げつけた。

 破片が空中で弾かれ、屋上はガタガタと揺れた。相当な巨体を誇る呪いなのだろう、それが動いたことによって伏黒くんとやっと目が合った。それだけで体内の血液が一気に湧き上がった。闇より昏い衝動を奥歯で懸命に噛み殺した。

先輩!」
「遅くなってごめん。でも領域は使えない!」

 そう叫んだ瞬間、目の前の空気が震えた。避けなければと思うより早く、パーカー姿の背中が視界を遮っていた。

「女の子に手ぇ出すんじゃねえよっ!」

 虎杖くんが虚空に回し蹴りを喰らわせた。鈍い音が鼓膜を叩き、呪いが倒れたと思しき衝撃で屋上のコンクリートにヒビが入った。呪いの位置を認識したわたしは、再びコンクリート片を左手に掴んだ。

 眉間に皺を寄せた伏黒くんが、ものすごい剣幕で言った。

「戦えないうえに見えないなら一般人もいいところですよ!さっさと逃げて下さい!足手まといです!」
「わかってる。でも追いかけるって約束したし」
「領域も使えねえ役立たずに何ができるんだ!」

 ちょっとびっくりして瞬きを繰り返した。伏黒くんにしては珍しく、ひどく砕けた口調だったせいで。

 どうやら彼は相当頭にきているようだったが、わたしは聞こえなかったふりをした。虎杖くんがわたしを気遣いつつ、真面目な声音で言った。

「俺もあいつの言う通りだと思う。俺達の身代わりになるために来たんだろ?でも女の子に庇ってもらうわけにはいかねえって。しかもその傷やばいよね?」
「人間じゃないから気にしないで」
「気にする!すっげー気にする!」

 虎杖くんは顔をひどくしかめて言い放った。じっとりとした視線がこちらを射抜いている。性根のいい人だなと笑みを浮かべながら、わたしは呪いが屋上を踏む大きな音を正確に捉えた。

「虎杖くんにお願いがあって」
「俺らの話は無視するわけね。オッケー、続けて」
「呪いを校舎の中に誘導したいんだけど、協力してくれる?」
「誘導?」
「校舎ごと潰して動きを奪えば逃げられるよね」

 突拍子のない提案だと拒絶されるかと思ったが、彼は意外にもわたしの案をあっさり受け入れてくれた。

「ああ、確かに。さすがのあいつでも校舎の重みには耐えられねえよな、多分。でも潰すってどうやって?」
「呪い自身に暴れてもらえばいい。虎杖くんがヒットアンドアウェイで挑発するの」
「そういうことなら!」

 この場を切り抜けるための作戦が決まった瞬間だった。コンクリートに亀裂が入り、砕けた破片が宙に浮かび上がった。呪いが飛び跳ねたのだと気づいたときには、応戦するために虎杖くんが跳躍していた。

 大声で話し過ぎたせいだと瞬時に悟った。作戦が筒抜けだったのだろう、警戒した呪いが先手を打ったのだ。明らかにわたしのミスだった。ある程度の知性を持ち合わせていることまで計算できていなかった。詰めが甘かったと下唇を噛んだ。

 虎杖くんの振るった拳は次々と命中したようだった。しかし攻撃が効いていないのか、彼の表情は重く濁っていた。彼の着地の隙を狙うように、屋上が上下に揺れた。

 腹にまで響く鈍い衝撃音が聞こえた。虎杖くんの体が吹っ飛ばされていた。時間の流れが急に遅くなった気がした。それこそコマ送りで見ているかのように。

 呪いからの攻撃を受けた彼は、今にも屋上から放り出されそうだった。その先には何もなかった。彼を受け止めてくれる壁も、咄嗟に掴めそうな柵も、落下の衝撃を和らげてくれる木々も。落ちた先にあるのは、コンクリートで舗装された地面だけだった。

「虎杖くん!」

 わたしは全速力で駆けて、虎杖くんの左手首を両手で掴んだ。見た目以上に彼の体躯には重量があった。あまりの重さにつんのめったし、力んだせいで手首と横っ腹から血が噴き出した。視界が点滅するほどの痛みに、殺意はあっという間に吹き飛んだ。

 うううと呻きながら両膝をつくとずるずる引きずられ、膝小僧の皮膚が削り取られていく感じがした。わたしまで屋上から落下しそうになるのを何とか耐えきると、そのまま彼の手を屋上の縁にびたんと押し付けた。

 虎杖くんの指がコンクリートの縁をぐっと掴んだ。「すみません!」と申し訳なさそうな彼に苦い笑みを返したとき、

先輩、後ろっ!」

 伏黒くんの切羽詰まった声が聞こえた。わたしは素早く立ち上がると、振り向きざまに体当たりを仕掛けた。何も見えないのに、そこには確かに何かがいた。わたしの体当たりが何の意味もなさないことはあの特級との戦いで学んでいたものの、そうする他にすべがなかった。

 腰から下が強く圧迫されたことを感覚した瞬間、肉体は宙に投げ飛ばされていた。虎杖くんとは真逆の方向だった。自力で屋上によじ登ろうとしている彼と視線が絡んだ。

 虎杖くんの目に鋭い光が宿った。自力で登り切った彼はわたしを助けようとしたが、再び屋上が大きく揺れた。呪いが彼を阻んだらしかった。

 わたしは痛みも忘れて必死で叫んだ。

「絶対逃げて!」

 重力に従って視界が急降下した。耳元で風を切る音が鳴っていた。頭だけは守ろうと両手で抱えた瞬間に、凄まじい衝撃が全身で爆ぜた。コンクリートに打ちつけられた肉体が軽く浮くほどだった。軋んだ骨が砕ける嫌な音がした。肉はひしゃげて、内臓が強く押し潰されていた。

 背中から落ちたわたしは、ごぼっと大量の血を吐き出した。吐き出し切れなかった鉄臭い液体が喉奥に流れ込んでいくのがわかって、痛みを堪えて体をよじった。白いコンクリートの上に、おびただしい量の血液を吐き散らした。もし血液が気管で詰まって窒息したら、それこそ終わりだった。

 折れた肋骨が肺に刺さっているのか、わたしの呼吸はか細いものだった。頭から串刺しにされているような痛みに襲われ、少し気を抜くだけで意識が飛んでしまいそうだった。

 激痛を帯びた体を蝕むように、苛烈な殺意がいたるところで蠢いていた。誤って領域を展開してしまわないように、きつく下唇を噛んだ。歯が食い込んでもやめられなかった。意識が塗り潰されそうなほどの痛みを感覚しても、この殺人衝動には抗えそうになかったから。

 誰彼構わず殺してやりたかった。ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。それは恐ろしい衝動だった。己から湧いた欲求ではないものに自らを支配されていくのは、恐怖以外の何でもなかった。涙が止まらなくなるほど怖かった。

 衝動を形にしないよう懸命に堪えていたせいで、近づく足音にはまったく気づかなかった。

「こりゃひどいね。火曜サスペンス劇場?殺人事件の現場みたいだよ。犯人は誰だい?」

 はっとなって空に目をやれば、五条先生がわたしを見下ろしていた。暗闇の中でも彼の銀髪はとても綺麗で、わたしのひどい姿を見ても飄々とした表情に変わりはなかった。左右の大きな手からぶら下がった白い紙袋がかすかに揺れていた。

 何故ここにいるのかとか、早く伏黒くん達を助けてほしいとか、わたしの体がおかしくなったとか、言いたいことは山ほどあったが言葉にならなかった。暴力じみた殺意が込み上げたせいで。

 意識がふっと遠のきかけた瞬間、五条先生はにっこりと笑った。

「棘のところに飛ばしてあげよっか?」

 どくっと心臓が大きく脈打って、わたしは引き戻された。答えなくてはならなかった。そうしなければ、彼は有無を言わさず狗巻くんのところに飛ばすだろうから。

 殺意を押し込めるために、かろうじて動く左手で脇腹の傷を掻きむしった。頭をちかちかさせながら、小さくかぶりを振った。狗巻くんだけは殺したくなかった。

「このまま消えていいの?人間に戻るっていうのは嘘だったんだ?」

 落っことされる質問に無言を貫いていると、五条先生は優しく続けた。

「棘に好きなだけわがまま言いなよ。あいつ、そこまで甲斐性なしじゃないからさ。大好きな女の子がこんな死にかけの状態で突然現れたら、むしろ棘のほうが死ぬほど驚くだろうけど、必ずなんとかしてくれると思うよ」

 わたしは再び頭を左右に振った。彼はじっとこちらを見下ろし、わたしが話し出すのを待っていた。どれだけ痛くても、それくらいはできるだろうと言わんばかりの顔で。

 泣きながら、掠れた声を懸命に押し出した。

「……嫌です。迷惑かけたくない」
「安心して。棘は迷惑だなんて微塵も思わない。僕が保証する」
「そんなの……五条先生には」
「わかるよ。だって、僕らは大きな思い違いをしていたんだからね」

 否定するように被せられたその言葉の意味は、まるで見当もつかなかった。視線だけで先を促すと、彼はとても楽しそうに言った。

「棘は語彙がおにぎりの具だけでかなり変わってるけど、も知っている通り本当に優しい男だよ。優しすぎて損をするくらいだ。だから、優しい棘がそこまでするとは思ってなかったんだよねえ」
「……え?」
への愛情と執着を甘く見ていた。を蝕むその呪いは、呪縛なんて生易しいものじゃない」

 霞んだ視界の中で、五条先生の唇が緩やかな弧を描いた。そして、そうっと告げた。稀代の手品師が、誰にも見破れなかった手品の種明かしをこっそり行うみたいに。

「棘の呪いは日に日に強まっている。進行するその過程で、の命を天秤にかけるほど、もっともらしい理由を作り出したんだ」
「……もっともらしい、理由?」
「自分から離れるとイザナミとの縛りが弱くなるように設定してあるんだよ。もちろん無意識だろうけど。だってそうすれば正当な口実ができるだろ?を自分の目の届くところに置いておくためのね」

 何もかもが溶けていくような感じがした。激痛で朦朧とした頭でも理解できた。さっき五条先生が、決して迷惑にならないと断言した理由を。

「もしが“呪い”としての本能のままに殺戮を行えばどうなると思う?その場所が人口の多い東京だったら?直径一キロの領域内でいったいどれだけの人間が死ぬんだろうね。目障りな上層部を黙らせる策としては完璧だよ」
「それって」
「そう、脅しだよ。との関係を邪魔するなら全員殺すぞってね。もちろんが自分から離れることも絶対に許さない。今まさにその状態だろ?そうまでしなきゃ、棘はを自分のものにできないとでも思ってるのさ」

 わたしは言葉を失った。その代わりのように溢れ出る感情を堰き止められなかった。

「これは僕の持論だけど、愛ほど歪んだ呪いは――って、えっ?何で笑ってんの?」

 五条先生は溜息を吐いてその場で膝を折ると、笑みをこぼすわたしの額を指先で叩いた。ぺちっと軽い音がしただけで、痛みはまったく感じられなかった。体のあちこちで疼く激痛に上書きされただけかもしれないが。

「あのねえ……怒らないでいいわけ?今まさに殺されかけてるんだよ?」

 呆れた声が落ちてきて、わたしはひどく曖昧な顔をした。その通りだと思ったものの、感情の整理がうまくつかなかった。どういう顔をすればいいのかわからなくなった。

「ってことで、には悪いけど棘の望みを優先させるよ。棘の呪いを甘く見ていた僕にも非があるしね。はいこれ、仙台のお土産。ちゃんと皆に配ってよ?」

と言いながら、五条先生は血だらけの腹の上に白い紙袋を置いた。紙袋の底に血液が染み込みそうだったが、中身には影響がないだろうと判断した。

 痛みを堪えながら左手でそれを支えていると、五条先生がわたしの影の上に手を重ねた。

「イザナミ、お前の呪力を使うよ。呪力量で条件を改竄して今からを東京に飛ばす。をどうしても連れていきたいなら、つべこべ言わずに協力して。棘の部屋から少しでも照準をずらしてみろ、僕がお前を殺すからな」

 早口でまくし立てた彼に視線を送った。衝動の波が引いているうちに、どうしても言っておかなければならないことがあったから。

「五条先生」
「わかってる。後のことは僕に全部任せて」

 五条先生は遮ってそう言うと、にやっといたずらな笑みをくれた。


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