侵蝕

「おそらくここにいます」

 伏黒くんは神妙な顔つきで、眼前の大きな総合病院を見つめた。建物の壁面上部には“杉沢病院”と大きな文字が躍っているものの、日が暮れてしまったせいではっきりとは視認できなかった。

 辺りはやけに静かだった。診療受付の時間が終わり、人の出入りが極端に減ったことだけが理由ではないような気がしていた。肌に突き刺さるほどの静寂が一帯を包み込み、わたしの気分をひどく落ち着かなくさせる。

 それはどうやら伏黒くんも同じようだった。彼は杉沢病院をじっと睨みつけ、微動だにしなかった。

 妙な胸騒ぎがしていた。虫の知らせというやつだろうか。息が詰まりそうで、白いニットの裾を握りしめて気を紛らせた。こういう勘は嫌に当たるので、できれば気のせいで済ませたいのだが。

「俺が一人で行きます」
「いいの?」
「むしろ先輩にはここにいてほしいんです。ただでさえ病院には呪いが吹き溜まりやすいのに、他の呪いまで呼び寄せられたら厄介です。それに加えて夜は呪いの行動が活発になる。だから先輩は魔除けとして、玄関で他の呪いの侵入を防いで下さい」

 わたしは浮かんだ疑問を口にした。

「裏口から入ってこない?」
「その可能性もありますけど、大丈夫でしょ。虎杖の奴、多分すぐそこにいるんで」

 伏黒くんはそう言うと、病院の自動ドアをくぐり抜けていった。急に心細くなり、ざわつく心を鎮めたくて、意味もなくそこらじゅうを歩いた。静かな場所に一人残されるのは、不安が募るだけだった。

 歩き回ることに疲れたわたしは、建物にもたれかかって夜空を眺めた。月は見えなかった。そういえば今日は新月だったなと思いながら、黒く塗り潰された空に浮かぶ星の数を指を折って数えた。

 うっかり同じ星を数えてしまったことでカウントが振り出しに戻ったとき、自動ドアが開く機械音が聞こえた。顎を引けば、伏黒くんが慌てた様子でドアから出てくるのが見えた。その後ろには困り顔の虎杖くんが続いていた。

先輩!今から学校に戻ります!」

 伏黒くんはこちらを一瞥もせず言うと、全速力で駆け出した。わたしは急いで追いかけた。嫌な予感が当たったのだと直感した。

「宿儺の指は?」
「学校にあるって虎杖が。おそらく呪物を狙った呪いとの戦闘は避けられない。戦う準備だけお願いできますか」
「わかった。呼べるだけ呼んでみるね」
「お願いします」

 迷うことなく住宅街を走る伏黒くんが口を閉じると、会話を黙って聞いていた虎杖くんが首を傾げた。まるで理解できないという顔で。

「お前、さっきから誰と話してんの?」
「呪いだ!俺の隣にいる!」
「呪いって……」

 真に受けていない口振りだった。虎杖くんは“呪い”の姿を探してしばらくこちらに視線を送っていたが、ついにわたしと目が合うことはなかった。彼は小さく肩をすくめた。見つけることは潔く諦めたらしい。

 虎杖くんの表情は、ますます疑り深いものへと変わっていた。見えないものを信じろというほうが無理があるし、その気持ちはわたしもよく知っている。しかし虎杖くんはそこで切って捨てるわけではなく、とりあえずは与えられた言葉を鵜呑みにしたようだった。

「お札ってそんな簡単に取れんの?」
「いや、呪力のない人間にはまず無理だ!普通はな!今回のは中のモノが強すぎる!封印も年代物、紙切れ同然だ!」

 伏黒くんは切迫していた。初めて見る顔だった。それほど宿儺の指が危険だということだった。呪力をまったく感知できないとはいえ、そんな物騒なものをいらないと言い放ったあのときのわたしはどうかしていたし、狗巻くんが叱りつけてくれてよかったと心の底から思った。

 杉沢第三高校の校舎が目に入ったとき、いきなり足が止まった。二人も同じように足を止めていたが、わたしとは違うと感覚した。彼らは自らの意志で動きを止めたのだろうが、わたしはそうではなかったから。

 動きを奪われていた。これで三度目だった。もう気のせいでは片付けられなかった。呼吸が徐々に浅くなって、思考が鈍くなっていく感じがした。体ごと薄い膜に覆われていくようだった。血の気の引いた肌から冷たい汗が噴き出している。

 わたしは二人の会話に耳を傾けているふりをすることしかできなかった。

「お前はここにいろ。部室はどこだ?」

 伏黒くんが吐き捨てるように尋ねた。その声は鋭く尖り、危機的状況がすぐそばまで迫っていることを指し示していた。

 一人で歩き出した伏黒くんを、虎杖くんは声を張って引き留めた。

「待てよ、俺も行く!やばいんだろ?!二月やそこらの付き合いだけど、友達なんだ!放っとけねえって!」

 友人を思いやる叫びに心が揺れた。本当に大切なのだろう。だが、伏黒くんが下した結論は変わらなかった。

「ここにいろ」

 虎杖くんはきつく唇を噛んだ。何もかも奪うような声音に、言葉が詰まってしまったようだった。じっと顔を伏せて、その場で立ち尽くしている。

 呪いも見えず何も知らない彼を、あえて危険に晒す必要はどこにもなかった。足手まといになるだけだからときっと伏黒くんは答えるだろうが、彼なりの優しさに思えてならなかった。

 伏黒くんは焦りの浮かんだ顔をこちらに向けた。

「急ぎましょう」

 わたしは頷いた。いつの間にか体が動くようになっていた。昼間と同じように手のひらを見つめた。脳からの電気信号は滞りなく手指に伝わっている。先ほどとは大違いだった。

 わたしの身に何か異変が起こっていた。という存在の根底を揺るがすような何かが。それは薄っすらと理解できたが、対処法はおろか原因さえもまったく見当がつかなかった。

先輩!」とひどく苛立った声が鼓膜を叩いた。ひとまず考えることは先送りにして、急いた伏黒くんの後を追いかけることに専念した。

 薄暗い校舎に足を踏み入れるや否や、心霊現象研究会の部室である家庭科準備室をまっすぐ目指した。特級呪物は虎杖くんから同好会のメンバーの手に渡っていて、貼られた札を部室でこっそり剥がしているそうだ。

 心霊現象研究会なんてあるんだと素直に驚いた。心霊現象はテレビや雑誌で年に何度も特集を組まれるほどだ、好きな人は好きなのだろう。現にわたしもちょっと興味があった。こんな体になったからこそ呪いや幽霊を多少信じるようになったが、以前のわたしであれば眉をひそめただけできっと見向きもしなかっただろう。そう思うと、なんとなく感慨深いものがあった。

 そんなことを考えていたら、突然甲高い悲鳴が校舎に響き渡った。少女の声だった。伏黒くんが足を止め、焦燥に駆られた様子で言った。

「もう部室を出たのか?!」

 彼は声のしたほうへ進むため、校舎と校舎を繋ぐ連絡通路の扉を力任せに開いた。すぐに鋭い舌打ちが聞こえて、わたしは彼の背中から覗き込むように前方を見つめた。

 おそらく呪いがそこにいるのだろう。わたしたちの進路を阻むように。

 伏黒くんがパンッと両手を鳴らした。乾いた音がうわんと響いた。彼はその手を組み合わせて、何かの形を作り出した。それは獣――それも犬や狼のような鼻の尖った生き物のように見えた。

 手影絵だと気づいたのは、薄暗い闇の中でもさらに濃い伏黒くんの影が、その生き物の形をはっきりと映し出した瞬間だった。

「邪魔だ――“玉犬”」

 黒い影は大きくうねり、歪み、そして実体を持った。彼の声に呼び起こされたのは、白と黒の二体の中型犬だった。その額には丸い紋様がみっつ浮かんでいて、家庭で飼育される犬とはまるで違う異質な存在であることを知らしめていた。

「喰っていいぞ」

 殺意を含んだ低い声を合図に、二体の犬は勢いよく駆け出した。そして何もない虚空に獰猛に喰らい付くと、大きな口を何度も開閉させた。どうやら呪いを咀嚼しているらしかった。

 伏黒くんは式神と呼ばれる存在を使役する術師だ。わたしも領域内でのみ穴熊や呪いを呼び出すことが可能だが、あれらは式神とは根本的に違うという。彼曰く、「先輩のは“神降ろし”に近いんで。その都度役割を与えて創り出してるんですよ」ということらしいが、その違いは半分程度しか理解していない。

「呼び出す限度があるかないかの差?」
「違います」
「呼び出すモノが決まってるかどうかの差?」
「違いますね」

との回答を得たため、わたしは違いを理解することをあっさり諦めている。理解したところでわたしが式神使いになれるわけでもない。術式は生まれ持ったものだ、自分の術式でどういうことができるのかを理解しておくだけで充分だろう。

 影を媒体とした彼の式神を見るのはこれが初めてだった。面倒臭いの一点張りで、今までどれだけ頼んでも見せてくれなかったから。

 二体の犬は口の周りを舌で舐め回していた。忠実な式神は術師の指示通り、あっという間に呪いを喰らい尽くしてしまったらしい。普通の犬と変わらない仕草に笑みをこぼしていたら、すぐそばから鋭い指示が飛んできた。

「何をぽやっとしてるんですか!先輩も早く領域を!」
「わかった!」

 やっと言い慣れてきた言葉を紡ごうとしたそのとき、体からふっと力が抜けた。驚く暇もなかった。膝が曲がり、冷たい床にぺたりと尻をついた。無意識だった。何が起こっているのか、まったく理解が追い付かなかった。

 頭がガクンと落ちて、自らの足だけが見えていた。膝が小刻みに震えている。怯えているわけでも、寒さで凍りつきそうなわけでもない。痙攣を起こす理由がわからなかった。

 わたしは目を剥いた。否、勝手に目が見開かれていったというほうが正しい。途方もない焦りが沸き起こっていた。立ち上がろうとしたが、腰が浮かないどころか、まったく力が入らなかった。筋肉が微動だにしないのだ。さっきまで、どうやって体を動かしていたのだろう。動くという概念を忘れてしまったかのようだった。

 驚きの代わりに口から溢れたのは、蚊の鳴くような細い声だった。

「――ひとつ、右をちぎったら」
「――ふたつ、左をちぎったら」
「――みっつとよっつで足がない」
「――おべべが真っ赤に染まったら」
「――おいで、おいでと声がする」
「――かくりよへと声がする」

 垂れた頭が独りでに、すうっと持ち上がった。伏黒くんが怪訝な顔でこちらを見下ろしていた。

「……先輩?」
「連れて“逝って”あげる」

 衝動がわたしを貫いた。おぞましい殺意が体中で大きな渦を成していた。

「――我が渇望を己が魂に刻め」
「領域展開――百鬼夜行・簒奪……」

 呪文は最後まで続かなかった。右手首に鈍い衝撃が来たから。時間が止まったと、空気が凍りついたと錯覚したが、長くは続かなかった。右手首を中心に鋭い痛みが走り、頭の中で何かがちかちか弾け飛んだ。

 黒い犬に噛まれていることを理解した次の瞬間には、横っ腹にも激しい痛みが穿たれた。思考を白く染めるほどの激痛に苦悶の声が漏れた。目を落とせば、白い犬が左の脇腹に容赦なく鋭利な牙を立てていた。

 生ぬるい血液が床にぼたぼたと落ちていく。あまりの痛みに体をもんどり打ったが、それが刺さったままの牙をより深い場所に誘い、わたしは堪えきれず悲鳴を上げた。

「呪物の影響だなんて、馬鹿なことは言わないで下さいよ……」

 冷や汗を滲ませた伏黒くんが、わたしをきつく睨みつけていた。

 浅い呼吸を繰り返しながら、わたしは口元に小さく笑みを作った。痛みで顔は引き攣っていたが、それくらいなら可能だった。途端に二匹の犬は牙を抜いて、術師のもとに駆けていった。空いた穴から血が絶え間なく噴き出していくのを感じた。

「手荒な真似をしました、すいません。何がどうなってるんですか?」
「ごめん」
「今この状況であんたまで敵に回ったら終わりです。しっかりして下さい」
「ごめん」
「昨日は何もなかったじゃないですか。札を外したからですか?」
「ごめん。わからない」

 俯くと涙が次から次へと溢れた。痛みのせいではなかった。伏黒くんを殺そうとした悲しみが涙となってこぼれ落ちていた。信じたくなかった。声もなく泣きながら懇願した。

「早く行って……殺したくて堪らない」

 激痛すら覆い隠すほどの衝動が、再びわたしを支配しようとしていた。寸でのところで食い止めるので精一杯だった。今のこの状態で彼と決して目を合わせてはいけないと思った。それは直感であり、確信だった。

「正気に戻ったら、すぐに追いかけるから」
「……はい、待ってます。俺、先輩を殺したくないんで」
「ありがとう」

 伏黒くんの逸る足音が遠ざかり、やがてわたしは立ち上がった。頭がぼんやりしているからか、体は大きくふらついた。右肩を壁に押しつけてゆっくり進んだ。体が動かなくなるよりずっとましだと言い聞かせながら。

 血を垂れ流し続ける脇腹を左手で押さえつつ、すぐ近くのトイレに向かった。手洗い場の蛇口をひねって勢いよく水を出すと、上半身を折り曲げて頭から冷水を被った。水温は低く、頭は一気に冷えていった。殺意で沸騰した脳髄が、少しずつ冷静さを取り戻していった。

 体を起こして、大きく息を吸い込んだ。胸を膨らませ、長く静かに吐き出した。呼吸するだけで腹の傷に響いたが、痛みのあるほうが安心できた。意識を奪われないで済みそうで。

 鏡を見つめれば、青白い顔をしたわたしが映っていた。髪から滴る水滴のせいで、幽霊のような有り様だった。左手に付いた血を洗い流すと、ずぶ濡れの顔を手のひらで乱暴に拭った。

 宿儺の指のせいだろうか。だとしたら、あの逢魔時ではどうして自我を保っていられたのだろう。すでに指が呪霊に取り込まれていたからか。それなら異形から指を受け取ったとき、何故わたしは暴走しなかったのだろう。

 心臓が異常な動悸を起こし、それに伴うように殺意がどくっと溢れた。膝から崩れ落ちそうになって、思わず陶器製の手洗い器を両手で掴んだ。右手首に痛みが走り、意識が混濁しそうになる。耐えろ、耐えろ、耐えろ。叱咤するように何度も自分に言い聞かせた。

 必死で足を踏ん張っていたとき、右手に黒い何かが巻きついた。既視感を覚えて記憶を辿れば、ついさっき伏黒くんの足元で蠢いていた黒い影と同じだった。

 黒い影は右手を覆い尽くすと、強引に主導権を握った。抗おうとしたが不可能だった。ものすごい力だった。右手はがたがたと震え、指先は手首からこぼれた血で真っ赤に染まっていた。

 手は目の前の鏡へと向かっていた。指の腹はすぐにつるりとした表面に触れた。六月の外気のせいか、少しひんやりとしていた。黒い影に侵された指は、左右上下に動き出した。

 鏡の上に赤い線が引かれていった。やがてそれは文字となり、言葉となった。真っ赤な血液で描かれた言葉に、わたしはぐっと息を呑んだ。

“モドレ”

 暗闇の中に浮かぶ赤い文字の羅列に呼吸が浅くなっていく。目を大きく見開いて、ひどく混乱した頭でその言葉の意味を噛み砕こうとした。理解するために。彼女の意図を紐解くために。

“モドレ”

 上塗りするように何度も同じ言葉が書かれていった。鏡は血で真っ赤に染まったが、それでも指は止まらなかった。

“モドレモドレモドレモドレモドレモドレモドレ”

 右手の動きは加速していった。わたしが痛みに呻いても、生ぬるい血液で狂ったように言葉を書き連ね続けた。鏡から滴り落ちた血が、白い陶器の手洗い器にぽつぽつと赤い染みを作った。

「そんなに伏黒くんを殺したいの?」

 問いかけると、指がピタリと止まった。図星かと思った。どうしても伏黒くんを殺したいのだろう。わたしのときと同じように。

 指は再び動き出した。しつこいなと呆れながら鏡に目をやって、わたしは「え」と声を漏らした。まったく別の言葉が、ぬめりを帯びた真新しい血で書かれていたから。

“トーキョー”

 わたしは眉をひそめた。刹那、全身の毛が逆立つのがわかった。

「東京って、まさか」

 あの逢魔時には存在して、この新月の夜には存在しないモノ。水の中でわたしを絡め取ったあの声。わたしと彼女を繋ぎ止める楔。ああ、とわたしは呟いた。体が異変をきたしたのは、宿儺の指のせいではなかった。

 わたしは笑った。体を折るようにして、声を上げて笑った。鋭い痛みが疼いたがやめられなかった。手洗い器に手をついたまま、しばらく笑い続けた。

 どうしてすぐに気づかなかったのだろう。呪いになってからというもの、片時も離れたことがなかった。彼とここまで距離が開いてしまったのは、今回が初めてではないか。

 気だるさを纏った穏やかな笑顔を思い出す。会いたい気持ちがじわりと滲んだ。

「……遠距離恋愛、絶対できないじゃん」


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