後輩

 時刻は午後三時を過ぎたところなのに、周囲はすっかり闇に包まれていた。まるで勘違いをした夜が強引に昼を追い出したようだった。どこもかしこも真っ暗で、連なって宙に浮かぶ橙色の丸い灯りだけが頼りだった。

「ここを取ればいいの?」

 淡い光に照らされているのは、小さくて白い手だった。ふっくらと肉付いた手は柔らかそうで、その細い指には白い糸が渡されている。それは模様を描くように、複雑に交差していた。

 もちもちした手の持ち主は幼子だった。顔には面紗が垂れ下がり、墨字で“壱”と書かれていた。黒い着物を纏った幼子は、こっくりと頷いた。

 わたしは白い糸が十字に交差した部分に、人差し指と親指を差し込んだ。しかし指先は迷っていた。あやとりをするのは初めてではないが、二人で行うあやとりはほとんど初めてに等しい。正しい位置なのか不安になりながら糸をつまむと、すぐに左右から助言が飛んできた。

先輩、取り方が甘いです」
「もっとしっかり掴まなくちゃ」

 頭を縦に振って、指先に力を込める。すると、わたしの右隣に腰を落とす伏黒くんが「あ、ちょっと待って下さい」と制止した。わたしの視界に、別の小さな指が入り込んできた。“弐”の面紗を付けた幼子が白い糸を指差しながら、彼をじっと見つめていた。

 伏黒くんは納得したように頷くと、わたしに言った。

「取るところ、そこじゃないらしいですよ」
「どこ?」
「手、放してもらえます?……多分、こうです」

 わたしの手をくぐり抜けて、伏黒くんのごつごつした指が糸と糸の僅かな隙間に差し込まれた。交差した部分を二箇所、両手でつまみ上げて、今度はその手を横に広げた。糸を掴んだまま、複雑に渡る糸の間に己の指をくぐらせる。そして、その指を真上に立てながら引っぱり上げると、幼子がするっと手を抜いた。

 伏黒くんの指を縛るように白い糸が複雑に絡み合い、幼子の手にあったときとは異なる模様を描いていた。

「今ので順番入れ替わったんで、次は先輩の番ですね」

 そう言いながら、伏黒くんが両手を差し出した。わたしは渡された白い糸と彼の顔の間で、視線を交互に行き来させた。“壱”と“弐”が別の糸を持ち出してわかりやすく次の動きを教えてくれるが、わたしの目線は彼の顔に留まる時間のほうがずっと長かった。

さん、どうしたの?」

 左隣にいる乙骨くんが訊いた。なかなか糸を掴まないわたしを心配しているらしかった。はっとなって、伏黒くんの大きな手に目を落とした。幼子の手の動きを覚えつつ、わたしはぽつんと呟いた。

「顔がいいなと思って……」
「はあ、どうも。そうやって何回も言いますけど、そんなこと言うの先輩ぐらいですよ」

 呆れたような声が返ってきて、少しだけ肩をすぼめた。わたしの美的感覚がおかしいと言われているようで、あまりいい気はしなかった。思考を読み取ったのだろう、乙骨くんが明るく同調した。

「僕も格好いいと思うよ」
「乙骨先輩まで」
「刀祢なんとかって人にそっくりだし」
「誰ですかそいつ」

 わたしは指を引っかけて糸を交差させると、その下に渡されていた糸にくぐらせ、そのまま指をピンと立ててみせた。伏黒くんが指を引き抜きながら言った。

「今の結構上手かったです」
「えっ、イケメンに褒められた……死ぬ……」

 心が打ち震える事実を真顔で口にしつつ、手を“弐”の幼子に向けた。ちっちゃな指が白い糸を掴むや否や、複雑な動きでわたしから糸をかっさらっていった。速すぎて、あまりよく見えなかった。

 伏黒くんの整ったかんばせに再び視線を送れば、乙骨くんが肩を小さく震わせた。

「さっきから顔ばっかり見てない?まさかそんなにタイプだとは思ってなかったよ」
「だって何度見ても顔がいいから。目の保養だよ」
「そんなに喜んでくれるなら、誘った甲斐があったかな」

 わたしはこくこくと頷いた。この場に伏黒くんを呼んでくれた乙骨くんには感謝しかない。跪いて高価な菓子折りでも献上すべきだろう。週末にでも銀座で美味しい菓子を買ってこようと思っていたら、乙骨くんが笑いながら続けた。

「もはや熱狂的なファンだよね」
「うん、すごく好き。大好き」
「変な言い方やめて下さい。先輩が好きなのは俺の顔だけでしょ。そこだけ狗巻先輩に聞かれてたらどうするんですか。呪い殺されるのは俺なんですよ」

 伏黒くんは鬱陶しげに言った。わたしは彼から視線を外し、顔を前方に向けた。

 わたしたちから少し離れた場所で、狗巻くんとパンダくん、そして真希ちゃんが面紗の異形どもと戦闘を繰り広げていた。三人を囲う異形の数は十体で、常に一定だった。誰かが一体でも倒すと、補充するように杏子色の灯りから異形が出現する仕組みになっていた。

 その様子を見守っている五条先生が、喝を入れるように手を叩いた。

「はいはい、ペース落ちてるよ!呪いを倒す気がないならちゃんと術師を叩いて!のんきにあやとりなんかさせていいの?」
「うるせえ!わかってんだよ!」

 疲労の色が見え始めた真希ちゃんが咆哮した。背丈ほどある薙刀を振るって迫る異形を切り裂くと、忌々しそうに声を荒げた。

「次から次へとキリがねえ!いったいどんだけ出てくるんだ?!数が多いっ!」
「ノルマ分は確実に出てくるだろうな。見ろ、こっちの様子を見ながら等級を決めてる。ずいぶん余力があるらしい」

 答えたパンダくんの視線の先には、祭囃子を演奏する穴熊達がいた。

「あの穴熊ども……絶対煮て食ってやる!」

 真希ちゃんが足を踏み鳴らせば、穴熊達が揃ってびくっと体を強張らせた。命の危険を察知した穴熊が、ルールに反して鼓を連続で叩いた。響き渡る鼓の音とともに異形どもが姿を現した。

 地に降り立った四体は間も置かず、一斉に真希ちゃんに襲いかかろうとした。彼女の表情に険しさが増した途端、

「――爆ぜろ」

 その言葉の意味とは裏腹に、凍てつくような声が空気を大きく震撼させた。瞬く間に異形どもの体が内側から大きく膨らんで爆発した。過剰に膨張した風船が割れるように。

 轟いた爆音に一驚し、咄嗟に目を閉じた。頭に響くような耳鳴りが残って、ちょっと気持ち悪かった。

 狗巻くんはポケットから取り出したのど薬を素早く飲むと、駆けてきた異形に向かって空になった瓶を投げつけた。異形の気が逸れた隙を突くように、今度は「――捻れろ」と別の呪言を放った。異形の体は腰から捻れ切れて、その場にぼたりと落ちた。しかしそれを見届けることなく、彼はまたのど薬を服用した。今日はこれで三本目だった。

 “ノドナオール”というのど薬を、狗巻くんは好んで使用している。スプレータイプでも蓋を開けて液剤をそのまま流し込んでしまうので、たまに心配になってしまう。はたして効いているのだろうか。用量用法を守って正しく使用しましょう、改善されない場合は必ず医師に相談しましょう、というのが医薬品のルールであるはずなのだが。

 地面に転がった黒い瓶を踏みつけ粉々にしたのは、筋肉質な巨体を誇る異形だった。“参”の面紗が荒い鼻息で揺れている。今回呼んだ中では最も大きな図体を持つ呪いだ。

 狗巻くんは“参”と距離を取るため、大きく後ろに飛んだ。ちょうどその近くには腕を組んだ五条先生が突っ立っていた。

「棘は一級含めて残り七体ね。ほらほら、早くノルマ達成させないとを恵に取られちゃうよ」

 五条先生が課したノルマは、一人につき異形を二十五体倒すことだった。

 特訓とはいえ、倒すためだけに呪いを呼ぶのは心苦しかった。彼らは呪いとはいえ、わたしの味方であり貴重な戦力だから。しかし呼び出した時点でイザナミさんに喰われることが確定しているのも事実だった。十日も経てば慣れてくるし、罪悪感だって薄れてしまう。皆が強くなるためには仕方ないのだと、言い訳ばかりが上手くなっていた。

 着実にノルマをこなす狗巻くんだが、五条先生に話しかけられると途端に調子を崩していた。五条先生の軽口など無視すればいいものを、彼は決してそうしなかった。今もまた、狗巻くんは聞かなくてもいい話に耳を貸してしまっている。

は恵にメロメロだし、恵も満更でもなさそうだね。どうすんのさ棘。早く行かないと本当に危ないよ」
「おかか」
「あやとりって案外距離が近いだろ。うっかり恋が芽生えそうだよねえ」
「おかか!」
「そんなに怒るならさっさと殺せばいいでしょ?もたもたしすぎじゃない?」
「ツナマヨ!」
「じゃあ術師であるを潰すしかない。それはしたくないのかな?……ううん、違うか。できないんだよね?だって棘はのことが――」
「おかかっ!」

 五条先生はいつもと変わらず狗巻くんを必要以上に煽っていたし、苛立つ狗巻くんは五条先生の手の上でまんまと転がされていた。調子を狂わされているせいだろう、動きには隙ができている。駆け付けたパンダくんがフォローしているものの、攻撃を受ける回数は徐々に増加していた。

 明らかに五条先生は言い過ぎだが、狗巻くんも狗巻くんだろう。律義に耳を傾ける理由がわからなかった。どうしていちいち気に留めてしまうのだろうか。

 心底不思議に思っていたら、伏黒くんが少し安堵した様子で言った。

「さっきの、聞かれてなさそうですね」
「もし聞かれてたとしても大丈夫だと思うよ。冗談だってわかってるはずだし」

 そう答えると、伏黒くんは眉をひそめた。わたしの膝の上に“弐”の幼子がちょこんと座った。小さな体躯を後ろから抱きしめながら、伏黒くんを見つめる。彼は訝しんだ視線をこちらに寄越した。

先輩の何気ない一言が、狗巻先輩にとってどれだけの意味を持つのかわかってますか?」
「大袈裟じゃない?」
「大袈裟になるのが恋だと思うんですけど」

 突き放すような彼の言葉に首をひねれば、大きな溜め息が聞こえてきた。動きの乱れた狗巻くんを見据えつつ、伏黒くんが続けた。

先輩に関する全てに意味が宿るんですよ。あれがいい例でしょ」
「……わたし、怒られてる?」
「怒ってるというより、同情してます。狗巻先輩に」

 わたしは目蓋を何度も上下させた。伏黒くんがそんなことを言うとは思ってもみなくて。彼の心にささくれを見たような気がした。普段の彼からは想像もつかない傷をどこかに感じた。

 口を開こうとしたそのとき、パンダくんの鋭い指示が聞こえた。意識は伏黒くんから、すぐにパンダくん達のほうへと移っていった。

「真希!足止めは俺と棘でやる!先に行け!そんでを止めろ!」
「明太子!」
「簡単に言いやがって」

 吐き捨てながら真希ちゃんが疾走した。異形どもが立ち塞がったが、狗巻くんが呪言で動きを奪い、パンダくんが体当たりで薙ぎ倒した。真希ちゃんは地面を強く蹴った。生まれた僅かな隙間を縫うように。

 乙骨くんと向かい合ってあやとりをしていた“壱”の幼子が、肩を大きく震わせた。すっくと立ち上がると、距離を詰めてくる彼女のほうを向いた。研ぎ澄まされた敵意を滲ませながら。

 “壱”が両手を空高く掲げた瞬間、その手のひらから白っぽい何かが噴き出した。それは糸だった。幾重にも重なった大量の糸が、地面を覆うように降り注いでいた。

 真希ちゃんは何度も薙刀を振るったが、それでは足りなかった。濁流のような糸は彼女を飲み込み、狗巻くんやパンダくんまでも飲み込んだ。

 みるみるうちに蚕の繭のような白い塊ができあがっていた。眼前の景色が一変して、ちょと驚いた。そこから伸びる長い糸を持ったまま、てくてくと“壱”がわたしのところまでやってきた。膝に座る“弐”の幼子に糸を渡すと、“弐”がそこに口付けた。ちゅっと小さな音を立てて。

 途端、糸の端が引火した。「え」と喉から声が漏れるより早く、赤い炎が糸を伝っていった。「まずい」と呟いて伏黒くんが立ち上がる。火は繭に燃え広がり、あっという間に大きな炎と化した。テレビでしか見たことがないような大規模な火災だった。

 わたしと伏黒くんが駆け出そうとすれば、引き留めるように乙骨くんがかぶりを振った。慌てた様子もなく、それどころか鷹揚な素振りでわたしに目を向けた。穏やかな表情でゆっくりと言った。

「大丈夫だよ」
「でも」
「見ていて。ほら」

 次の瞬間、まるでタイミングを見計らったのように、

「――ふっ飛べ」

と、狗巻くんが炎を纏った繭ごと吹き飛ばした。勢いのついた熱風が顔を撫でつけて、わたしは思わず目を閉じた。額に滲んだ汗を拭いつつ、その場に膝をついて激しく咳き込む彼を見つめた。

「焼き殺す気かよ!」
「子供は無邪気だねえ。今回の特級は分別がついていない分、苦戦を強いられるだろうね」
を叩くほうが難しいじゃねえか!」

 真希ちゃんと五条先生の会話が聞こえてきて、わたしは慌てて言った。

「真希ちゃんごめん!大丈夫?!」
!お前覚えてろ!」
「わざとじゃないの、ごめんなさい!」

 何度も謝るわたしをよそに、“壱”は悪びれる様子もなく乙骨くんを見た。そして再び小さな手を差し出した。その手にはいつの間にか白い糸が複雑に絡んでいる。どうやらあやとりを再開したいらしい。

 咳き込んでいる狗巻くんが気にかかったが、五条先生は首を横に振った。助けることを禁じられたわたしは渋々頷くと、何もなかったかのように振舞った。

「次は乙骨くんの番だって」
「よし、任せてよ」

 乙骨くんは袖をまくるような仕草をした後、白い糸に手を伸ばした。真希ちゃんは“肆”の面紗を付けた異形を相手にしながら、乙骨くんに文句を言った。

「憂太!お前はこっち側だろうが!」
「え?さん達とあやとりするほうが楽しいし……」
「ふざけんなコラ!」

 手が止まった乙骨くんに、伏黒くんがそっと言った。

「乙骨先輩、“弐”が急かしてます」
「あ、ごめんね。はい、どうぞ」

 そうしてあやとりが再開された。また“壱”と“弐”が危険な真似をするのではないかと心配したが、二人は大人しくあやとりに興じていた。わたしに攻撃の矛先が向けられていないからだろう。

 あやとりが何巡かしたとき、伏黒くんがわたしの糸を取りながら感慨深げに言った。

「呪いとあやとりするなんて、思ってもみなかったですよ」
「わたしのこと?」
「ああ、そういえば先輩も呪いでしたね」
「忘れがちだよね」

 乙骨くんが微笑んだ。同意を示すように、わたしも笑って頷いた。

 呪いになって、もうすぐ二ヶ月が経つ。蓋を開けてみれば、呪いとして過ごす生活は人間だったときとそれほど変わっていない。わたしが人間であることを望み、人間として行動しているから。無論、その願いを叶えてくれる環境に身を置いているというのも大きい。呪術高専にいれば、誰もがわたしを認識してくれた。わたし自身、呪いであることを忘れそうになるほどだった。

「あ」と何かを思い出したように、伏黒くんが口を開いた。

先輩、明日何時にしますか?新幹線二人分取るんで、さっさと時間決めたいんですけど」

 わたしはきょとんとした。彼がいったい何を話しているのか、瞬時に理解することができなかった。

「えっと……何の話?」
「俺と仙台に行くって話は聞いてます?」

 寝耳に水だった。誰からも知らされていないことだった。わたしが伏黒くんとの予定を聞きそびれるはずがないし、忘れるなどもってのほかだった。

「仙台」
「仙台です」
「二人で?」
「二人ですね」

 その返答にわたしは何も言えなくなった。困惑で言葉が詰まっていた。助けを求めるように乙骨くんを見れば、彼は小さく首を傾げた。

「なんだかデートみたいだね」
「デートッ?!」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。自分でもびっくりした。反射的に狗巻くんを探し、すぐに目が合った。大声に反応していたらしい狗巻くんは、すでにわたしを見ていた。

 狗巻くんの瞳は凪いでいた。視線が深く絡んでも、彼が何を考えているのかさっぱりわからなかった。気だるい瞳に浮かぶ感情が読み取れないのは距離のせいだと信じたかった。

 不安だった。何の前触れもなく別れを告げられるときとよく似ていた。何か言わなくちゃと思うのに、言葉にすることはできなかった。許されていなかったから。言い訳を並べ立てることも、ましてや彼を引き留めることも。“呪い”のわたしが口にできることなど、何もなかった。

 互いに目を逸らせなくて、しばらく見つめ合ったままだった。


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