間奏 -前-

 浅い呼吸を繰り返すだけで、焼け付くような痛みが走った。柔い咽喉の内側は、きっと火傷でもしたかのように真っ赤に爛れていることだろう。激しい炎症を起こした気管支が狭くなったせいか、咳が溢れて止まらなかった。初めは空咳だったはずが、湿り気を帯びた咳にすっかり変わっている。血液を含んだ痰が絡むたび、喉を上下させてそれを奥へと押し込めた。

 棘はそれらを不快だと思うだけで、さほど気にも留めなかった。喉を中心として広がる疼痛よりも、もっと別の場所が痛かったから。喉の痛みなど、霞んでしまうほどに。

「準一級に加えて一級までおでましとは。向こうもずいぶん張り切ってるじゃないか」

 パンダが言うと、棘は前を見据えた。パンダの視線を追うように。

 そこは立ち並ぶマンションの中に設けられた公園だった。子育てを意識しているのだろう、至る所に花や緑が溢れ、子供が遊ぶための遊具が数多く設置されていた。

 マンションで暮らす小さな子供達が遊んでいてもおかしくない時間帯だったが、そこに人の姿はなかった。住民の避難誘導は一時間前に完了している。今回はガス漏れを理由に避難を促したようだった。

 すでに公園は子供が遊ぶには相応しくない様相へと変わり果てていた。遊具の一部は粉々に破壊され、草花は無残に踏みつけられていた。青い芝生は大きく捲れて、茶色の土が露わになっている。元の面影など、もうどこにも残っていなかった。

 パンダの視線の先には、象を模した鮮やかな滑り台があった。そしてその上には苔の生えた大きな蟹がいた。巨大化したハサミを振り回し、棘達を激しく威嚇していた。蟹の周りを大人ほどの大きさを持つ羽蟻が、ぶんぶんと羽音を立てながら飛び回っている。その蠢く六脚は全て人間の手足だった。

 傾いたぶらんこに引っかかるように、二体の羽蟻が死んでいる。伊地知から事前に聞いていたのは、人間の手足を持つ羽蟻――準一級が三体という話だったが。

「情報と違うのは、棘への嫌がらせか?」

 右の靴のつま先を地面にトントンと軽く押し当てながら、真希が首をひねった。その顔に焦りはなかった。色濃い血で汚れた薙刀を構えもせず、足の調子を入念に確かめていた。

 ハサミを打ち鳴らす一級呪霊を見つめ、パンダが答えた。

「そうだろうな。それにしたって、上の連中も馬鹿だよなあ。別の日にすればよかったのに。どうして今日にするかね」
「ああ、こいつらも相当運が悪い」

 そう言って呪いを一瞥した真希を横目に、パンダは不敵な笑みを浮かべた。大きな口を開けて、尖った白い牙を剥き出しにした。高らかに宣言するように。

「今日の棘は、底抜けに機嫌が悪いんだ」

 パンダの目の前を通り過ぎ、棘は無言で滑り台に向かっていった。棘の色素の薄い瞳を染めるのは、わずかな殺意と全てを飲み込む虚無だった。

 警戒した二体の呪霊が臨戦態勢に入るや否や、棘は制服のジッパーを素早く下ろし、薄い唇を大きく割った。

「――潰れろ」

 蟹と羽蟻のちょうどまんなか、何もない空間がぐにゃりと歪んだ。穴を穿つように歪曲した空間は、二体を巻き込んであっという間に収束した。叩き潰された羽蟻の体が真っ赤な血を噴きこぼしながら崩壊していく。しかし蟹は無事だった。間一髪のところで体を揺らして回避したらしく、左のハサミが潰れた以外の外傷はなかった。

 棘は心の中で舌打ちをした。仕留めきれなかったことに非常に腹が立った。二体まとめて殺す気だったのに。激しく咳き込みながら、ゆっくりと歩を進めた。相手を追い詰めるように。

 蟹は滑り台から飛び降りると、横向きで走り出した。棘は左に跳んで突進を躱しつつ、横歩きを続けるその姿をただ滑稽だなと思った。

 驚くほど冷静だった。肉体から感情が切り離されているようだった。一級呪霊という格上の相手すら、耳障りな雑音程度にしか感じていなかった。今の棘にはたった一人の少女のこと以外、全てがどうでもよかったから。

 強い呪言を使用した反動で、内臓までもが深い傷を負っていた。胃の一部が破れている感じがした。しかし棘は血が垂れる唇を軽々とこじ開けた。たいした怪我ではないと判断して。

 今はもっと別の場所が刺すように痛んでいるのだ。その痛みに比べれば、どうということはなかった。

 両の踵を強く踏みしめて、こちらに猛然と向かってくる呪霊に向かって呪言を放った。棘の肋骨の下で燻る怒りを、ありったけぶつけるように。

「――堕ちろ」

 空間にひずみができた途端、そこだけが抜け落ちるように抉られ、ついで真下に落ちた。地鳴りじみた轟音が一帯に鳴り響き、蟹の硬い体がひしゃげながら棘の視界から一瞬で消失した。落下したのは蟹の体だけではなかった。滑り台を始めとした色とりどりの遊具も、踏み荒らされた草花も植えられたばかりの木々も、何もかもが落っこちていた。ぽっかりと口を開いた、直径二十メートルほどの巨大な穴の中に。

 内臓がきつく捻れたような気がした。棘は立っていられず膝から崩折れると、背中を丸めて口から大量の血液を撒き散らした。土の色は茶から赤へ変わり、びちゃびちゃに濡れていた。

「ちょっと無茶し過ぎだぞ」

 駆けつけたパンダが棘の背中を何度も擦った。鉄臭い液体がせり上がり、棘はまた吐いた。

「憂さ晴らしにはなったかよ」

 頭上から冷めた真希の声が降ってきたが、棘は何も言えなかった。視界は赤く、薄っすらと涙が滲んでいた。吐き気は治まらず、口から生暖かい体液がこぼれ落ちていくのをぼんやりと見ていた。

 引き裂かれるような痛みが走っていた。咽喉でも内臓でもない場所が痛みを持っていた。棘は荒い呼吸を繰り返しながら、拳を強く握りしめた。仕事をこなせば少しは気が紛れるだろうと期待していたのに。状況は何ひとつ変わっていなくて、ただ無性に腹が立った。

、今頃はもう新幹線の中かな」
「多分な。焼肉弁当食べるって張り切ってたぞ。どうしても加熱式が食べてみたいんだと」

 ぼやけた棘の脳裏に、角ばった弁当箱から伸びる紐を引っぱるの姿が浮かんだ。無邪気に笑いながら湯気の立つ弁当をキラキラした目で見つめると、今度はその視線を隣席へと移動させた。そこにいるのは棘ではなく、後輩である恵だった。

 かっと目の奥が熱くなった。一刻も早く忘れたくて、数回かぶりを振った。パンダに肩を貸してもらいつつ立ち上がると、また咳き込んだ。ひどく息苦しくて、喉がひゅうひゅう鳴っていた。

 “帳”が解けて、青く澄んだ空が現れる。“帳”を展開した補助監督である伊地知が、よろよろの棘に気づいて駆け寄ってきた。パンダとともに肩を担ぐと、公園のすぐそばに停めていた送迎車に急いで向かった。

「狗巻準一級術師、大丈夫ですか。戻り次第すぐに治療を始められるよう連絡を入れておきますので、もう少しだけ辛抱下さい」
「しゃけ」

 がらがらのだみ声で頷きながら、棘は後部座席に乗りこんだ。パンダがその後に続いたが、巨躯のパンダが乗るだけで後部座席はぎゅうぎゅう詰めになった。

 棘はちょっと窮屈だった。しかしそれはパンダも同じことだった。棘は重たい体を小さく縮こませて、パンダが少しでも楽になれるようにした。「悪いな」とパンダが眉尻を下げると、棘はかぶりを振った。毛並みのいい体毛が頬に当たってくすぐったかった。真希は当然のように助手席に座った。

 黒い普通車が閑散とした道路を走り出した。パンダが伊地知に今回の報告を始めた。聞き耳を立てながら、棘はぼうっと窓の外を見つめた。

 は恵との移動を楽しんでいる頃だろう。きっと浮かれているに違いない。好みの男と一緒にいられるのだから当然だった。もしも棘がと遠出できるとなれば、同じように浮き足立つことは目に見えているから。

 ぎりっと奥歯を噛みしめた。考えたくなどないのに、のことが頭にこびりついて離れなかった。昨晩は満足に眠れなかったというのに、今日のことを考えるだけで眠気など一気に吹き飛んだ。

 目も覚めるような痛みを孕んだ柔い部分は、ぐずぐずに煮崩れを起こしている。とっくのとうに。昨日のあの瞬間から。原型もわからなくなるほどに。

 棘の意識が車内に戻ったのは、肩を揺り動かされたときだった。ふと気づけば、パンダの報告は終わっていた。はっとなった棘が瞬きを繰り返すと、伊地知が心配そうに言った。

「狗巻準一級術師。今回の任務に関して、何か伝達事項はありますか?」
「おかか」

 慌てて首を横に振った。助手席からわざとらしい溜め息が聞こえて、棘の体がみるみるうちに強張った。

「アイドルにきゃーきゃー言ってるようなもんだろ。真に受けてどうすんだよ」
「……しゃけ」

 指摘されずとも理解していたが、心が言うことを聞かないのだから仕方あるまい。

 決してを疑っているわけではなかった。の気持ちが棘に向き続けることを信じられないだけだった。にとって、自らが恵以上の魅力がないことは明白だったから。

 恵と比べて顔立ちはの好みではないし、上背も体格もずいぶんと劣っている。術師としての等級は現時点では棘が上だが、恵の実力から考えれば追いつかれるのは時間の問題だろう。

 そして何より、棘は呪言のせいで滑らかに会話をすることが不可能だ。はいつだって人との会話をとても楽しんでいるから、語彙の限られた棘では物足りないことも多いだろう。その証拠に、は棘以外の誰かと会話するときは喜怒哀楽がよりはっきりしていた。大口を開けて笑ったり、怒りを剥き出しにしたり、ふざけたことも言ったりする。棘と話しているときより頻度が多く感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。

 恵よりも誰よりも、を好きだという自負はある。しかしそれが棘の魅力に含まれるかどうかは定かではなかった。となれば、恵に勝る魅力など無いに等しいだろう。

 無力感が棘を包んで、急降下するみたいに気分が落ち込んだ。こめかみを車の窓にきつく押しつけた。

 恵とのデートだと驚いた声を上げたを見たとき、怒りよりも悲しみよりも先に納得してしまったのだ。自分を選ばないのは当然だろうと思ってしまった。の気持ちを信じることができなかった。

 そんな自分に腹を立てていたら、五条はとんでもないことをにこっそり告げた。棘の心が崩れるきっかけを作ったのは、間違いなく五条悟その人だった。

「回収してほしいのは宿儺の指なんだ。も見たことあるでしょ?とっても大事な物だからさ、回収できるまで帰ってこなくていいからね。現地での宿泊も覚悟しておいてよ」

 当事者であるよりも盗み聞きしていた棘のほうがずっと驚いていたし、瞬間的に湧いた怒りで目の前がちかちかしたほどだった。

 呪いであるは一般人から視認されない。仮に宿泊することになった場合、部屋を余分に取ることはできないだろう。となれば、恵と同じ部屋に宿泊する以外の選択肢がないのだ。恵がに野宿を迫るような男ではない、という前提ではあるが。

 高校生とはいえ健全な男女が同じ部屋に宿泊するのである、間違いが起こったとしても何ら不思議はない。は呪いだが、ほとんど人間のようなものだ。触れられるし、血も流れているし、ちゃんと温かい。悪い想像ばかりが頭を巡って、気がおかしくなりそうだった。

 好きな相手が自らのタイプだと公言する異性と宿泊するかもしれないのだ。平静でいられるほうがどうかしている。

 がいなくなった頃合いを見計らって五条に直談判したが、あっさりと拒否された。

「え、無理。回収するのは両面宿儺の指だ。前のように呪いが取り込めば“特級”に成るのは目に見えてる。だからは保険として連れていくよ」
「おかか」
「憂太には別の仕事があるし、僕や他の特級術師も忙しい。だったらが行くしかないよね?カッコカリでも、は特級なんだから」

 棘は言葉を失い、五条の決定を受け入れた。後輩である恵を危険に晒すほうがずっと嫌だったから。

 とはいえ、リスク回避のためにが招集されたこととが恵と宿泊することは、まったく別の話だった。

 処理できない感情が心の柔い部分をずたずたに引き裂き、膿むように痛みが増していくのを感じた。恋人でも何でもない棘には権利がなかった。が浮かれることを咎める権利も、恵と遠出するを引き留める権利も。見送りの挨拶は上手く言えず、澄ました顔で見送るので精一杯だった。

 棘は流れていく景色を見つめながら、ぽつんと呟いた。


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