余熱

「特級三体、一級十一体、準一級二十四体、まとめて計三十八体。これ、全部が呼んだんだよね?」

 五条先生は淡々と問いかけた。聞こえる声音はいつもと変わらなかったが、どこか少し感情が読み取りにくかった。

を中心とした直径一キロ範囲内で確認されていた三級及び四級呪霊、これら全てが“変態”した途端に空間転移。展開されていた“帳”内へ侵入、対象の特級呪霊の殺害を実行。ついでに棘との治癒も施した。その後、“帳”内の全ての呪霊は消滅。いや……イザナミに取り込まれたと言ったほうが正しいかな」

 一旦そこで言葉を切ると、五条先生はわたしに鼻先を向けた。わたしは呪術高専の医務室のベッドに横たわり、白い天井灯を見つめていた。

 片手でシーツを引っぱり上げながら、怠さの残る体を横に向けた。胎児のように背中を丸めて、シーツの隙間から顔を出した。医務室の窓にはカーテンが雑に引かれ、外の様子が見てとれた。窓の向こうはすっかり真っ暗で、深い夜の香りがしていた。

「間違いはない?」
「しゃけ」
「棘には訊いてない」

 数時間前の記憶を辿った。前半は恐怖と殺意で記憶がずいぶんと曖昧だった。後半は何が起こっていたのか未だに理解できず、わたしの口からは上手く説明できないことだらけだった。

 何と答えればいいのかわからなかった。正解と不正解の判別がつかないほど、頭は混乱したままだったから。ただ、また自分が何か途方もないことをしたことだけは、五条先生の口振りから察していた。

「ごめんなさい」
「怒ってないよ。上は相当怒ってるけどね。こんな化け物だとは聞いてないってさ」
「本当にごめんなさい」

 わたしは謝罪を繰り返した。きっと五条先生が代わりに叱責を受けたのだろうと思った。申し訳なくて、逃げるように目を伏せた。

「だから言ってるだろ?は何も悪くないって。むしろよくやったと思うよ。瀕死の棘を助けたし、特級だって祓ってみせた。術師として申し分ない働きをしたんだ。もっと自分を褒めていい」
「でも」
「じゃあ僕が褒めてあげる。怖かったのに、よく頑張ったね」

 頭の上に、ポンと手が置かれた。大きな手はごつごつしていたが、とても温かかった。視界がみるみるうちに歪んで、わたしはシーツを抱きしめながら大声を上げて泣いた。

 五条先生はわたしの涙が引くのを辛抱強く待ってくれた。頭を何度も撫でながら。

 昂っていた感情が落ち着くと、彼は堪えきれないとでもいうように前のめりになった。綻ぶ笑みを隠すことなく、わたしに向かってまくし立てた。

の術式って本当に珍しいよね。その領域、後で僕も見せてもらっていい?あ、でも今日はもうこんな時間だし、明日で全然構わないんだけどさ」
「えっ」
「どんな低級でも特級や一級に変えるんだろ?しかも人語を理解するほど知能が高いと来たもんだ。いやあ、呪術師泣かせだね。がいれば僕は一生食いっぱぐれなさそうだ」

 わたしは口をポカンと開けた。くっくっと笑みを漏らす五条先生に、狗巻くんが鋭い視線を向けた。

「そんな顔しないでよ。だって興奮しちゃうでしょ?がいれば、特級や一級相手の訓練が容易になるんだ。いつでも、どこでもね。僕の夢を叶える近道ができたんだよ。これを喜ばずしてどうしろと?」

 水を差すのは悪いとは思いつつも、わたしは疑問を解決するために口を開いた。

「あの、わたしの“術式”って何ですか?」

 身に宿る“呪力”を“術式”に流し込むことで、呪術師は様々な効果を得ることができた。攻撃や防御などその効果は多種多様だが、術式は生まれながらにして刻まれているもので、呪術師の実力の八割が才能で決まるという。

 問いかけると、五条先生は喜々として答えた。

の術式はね、魂の性質を変えるんだ。領域内で限定的に格を上げることが可能みたいだね」

 言葉の意味が理解できず押し黙ると、五条先生が首を傾げた。

ってゲームはするほう?レベルの概念があるやつね」
「しないですけど……少しだけならわかります」
「元彼がしてたとか?」
「はい」

 素直に頷いてから、しまったと思った。狗巻くんが見るからに不機嫌な表情を浮かべていた。五条先生は肩を震わせながら、

「じゃあゲームに例えて説明しよっか」

と笑いを堪えつつ、ゆっくりと話し始めた。

「例えばレベル10で頭打ちのキャラがいたとする。普通はどう足掻いたってレベル11にはなれない。レベル上限解放のアイテムがないからだ。でも、それを可能にしちゃうのがの術式なんだよね」
「キャラのレベル上限解放ができる、ってことですか?」
「そう、つまりそれが魂の格を上げるってことなんだけどさ。わかりやすく言うと、は上限解放のアイテムを無限に持っていて、しかも解放できるのはレベルの最高値まで……強引にレベル100にまで引き上げられるんだよ。要するにキャラの性能をぶっ壊して、領域内でのみチート化させちゃう術式ってこと。わかった?」

 わたしは小さく首をひねった。

「でも上限が最高値であるレベル100になっても、レベルが100になるわけじゃないですよね?レベルアップアイテムとか、経験値とか、そういうものは必要ないんですか?」
「よく知ってるね。その通り!必ず経験値が必要になる。それがイザナミの持つ規格外の呪力ってわけだ」
「あんなことができたのは、イザナミさんのおかげってことですか?」

 笑顔を浮かべたまま、五条先生がかぶりを振った。

「正確には二人の合わせ技だよ」

 自らの影に目を落とした。微動だにしない闇を食い入るように見つめ、土壇場だったとはいえ力を貸してくれたことに感謝した。

「勘違いしないで。自身が強いわけじゃない。呪力もほとんどないし、一人の実力は正直言って四級止まりだろう。でも君がひとたび手を貸せば……まあ借りる呪力次第にはなるだろうけど、周りの呪霊はたちまち特級クラスに変わる。まあ君自身が強いより、そっちの方がずっと厄介なんだけどね。対処法、いちいち考えなくちゃいけないし」

 五条先生が少しだけ困ったように後頭部を掻いた。

「直径一キロの超大規模な領域展開が可能な上に、特級クラスをポンポン創り出すその呪力量……規格外にもほどがある。そこで大人しくしてくれているからいいものの、あんまり敵には回したくないね」
「そんなに規格外なんですか?」
「うん。呪力の総量だけで言えば、今のところ右に出る奴なんていないんじゃない?“里香”のことを思い出すね。制限を解除したあのときの彼女と同等じゃないかな」

 しばらく黙っていた狗巻くんが、やっと口を開いた。

「すじこ」
「確かにがそいつを“神様”にしたのも大きいと思う。でもそれだけじゃない。棘は気づいてる?イザナミの呪力が毎日少しずつ増えていることに」
「……おかか」
「微々たる量だからわからなくても仕方ないよ。でもこういう言葉があるだろ?塵も積もれば山となるって。しかも今日の一件でが呼んだものも含めて大量の呪霊を喰らって、まーた呪力が増えたんだよねえ。“共喰い”での呪力増幅までできるなんて、あの呪詛師が絡んでる以外に考えられない」

 わたしは眉をひそめて訊き返した。

「呪詛師ですか?」
「この指の持ち主さ」

 そう言いながら、五条先生がポケットから二本の指を取り出した。血はしっかりと拭い取られていた。いつの間に奪われていたのだろう。

「両面宿儺。呪いの王だよ」

 五条先生はその名を告げると、わたしの影を見据えた。

「千年前、イザナミに手を貸したのは間違いなく宿儺だろう。呪力を増幅させるなんて複雑なシステム、宿儺が仕組んだ以外に考えられないからね」
「何のために?」
「さあね。イザナミを発電機代わりにでもして、自分に分け与えるつもりだったのかも」

 そこで五条先生の声が止まった。沈黙が流れて、少し気が抜けたわたしは大きな欠伸を漏らした。慌てて手で口を覆ったが、案の定というべきか、五条先生にも狗巻くんにもしっかりと目撃されていた。

「ご、ごめんなさい」
「話はここまでにしよう。今日はとにかくゆっくり休んで。明日、報告書を山ほど書いてもらうから」
「うっ」
「当たり前だろ。特級も一級もあんなに簡単に呼び出してくれちゃってさ。力の使い方も含めて考えていかないと、上からどやされるんだよ?伊地知が」

 上から圧力を受けるのが五条先生なら書きたくないとごねたかもしれないが、伊地知さんであるならば話は別だった。今でも過労死しそうなのに、さらに心労を増やすのはあまりにも可哀想だった。

 医務室の扉に手をかけた五条先生が振り返り、狗巻くんを凝視した。狗巻くんは寸前まで五条先生が座っていた椅子に、今まさに腰かけようとしていた。

「あのさ、棘」

 名を呼ばれ、彼は腰を軽く浮かせたまま五条先生に視線を送った。

「こんぶ」
「僕が言おうとしてることわかるよね?」
「しゃけしゃけ」
「それならいいんだ。医務室ってほら、ちょっと背徳感あるじゃない?だからさあ」
「おかかっ!」
「はいはい。呪言で殺される前に、邪魔者は退散しまっす!」

 五条先生はひらひらと手を振って、颯爽と医務室から出て行った。五条悟という名の台風が去り、漂う空気は急に静かでどこか冷たいものに変わった。

 狗巻くんはわたしをじっと見つめていた。その瞳には沈痛な色が浮かぶ。ふと秘匿死刑を終えたときのことを思い出した。彼はあのときもこんな表情をしていた気がする。

 横たえていた上体を起こして、狗巻くんに向かって大きく両腕を広げた。彼は椅子から立ち上がると、躊躇いがちに抱きしめてくれた。

「また助けられちゃったね」

 狗巻くんの腰に腕を回して、ぎゅうっと抱きしめ返した。彼が躊躇っている分も補うように、強く。

「こんぶ」
「ううん、そんなことない。狗巻くんがいなかったら、とっくに諦めてたと思う。ありがとう」
「おかか」

 弱々しい声が聞こえた。彼は自らを激しく責めていた。自責の念に今にも押し潰されそうだと思った。わたしはきっぱりと告げた。

「わたしを命懸けで庇ってくれた人のことをそんなふうに言わないで。怒るよ?」

 すると、わたしを抱きしめる力が強くなった。笑みをこぼしながら、少し曲がった背中を手のひらで優しくなぞった。穴が開いていないかを確認するように。

「すごく痛かったよね。わたしもその痛みをよく知ってるから……守ってくれて、本当にありがとう」
「すじこ」
「腕?……うん、痛かった。足もね。でも、狗巻くんを失うほうが、ずっと痛いと思った」

 狗巻くんは体を離すと、わたしと深く視線を絡めた。眠気が一瞬で吹き飛んだ。熱を確かめたくてじっと見つめ返していたら、左の手首を取られた。わたしの指先が首元のジッパーに這わされる。

「こんぶ」

 したいなら自分で開けて、と狗巻くんがいたずらっぽく笑った。試されているようだった。彼に対して抱く、疼くような熱を。彼を失いたくないと言った気持ちの重さを。

 わたしはジッパーを少しずつ下ろしていった。現れる口端の刺青に、どきっと胸が鳴った。

「ずるいよ。こういうの、どこで覚えてくるの?」
「おかか」
「それに、わたしにこんなこと覚えさせていいの?勝手に下ろして、いつでもキスしちゃうかもしれないよ?」

 露わになった唇が、穏やかな弧を描いた。

「しゃけ」

 いつでもしていいから――狗巻くんはそう言うと、わたしにそうっとキスを落とした。慎ましやかなキスは回数を重ねるごとに欲を含んでいって、後頭部を狗巻くんの手で強く固定されたときにはもう、熱に浮かされて頭がぼうっとしていた。

 差し込まれた彼の舌はとても熱かった。わたしの舌に深く絡みついて、味わうように表面をなぞっていった。なぞられた場所が火傷でもしたかのように、ひどい熱を持っていた。甘美な熱の奥で何かが疼いていた。唾液の混ざる水音と溢れるわたしの呼吸音が体の内側で淫靡に響き、肌がぞわりと粟立った。心臓の脈打つ音が喧しい。もはやどちらのものかわからない唾液が唇からこぼれ、喉の奥にまで流れていく。

 あやふやだった輪郭が形を帯びていく感じがした。そこには劣情よりも大きな感情があったから。確かなものをもっと刻み込んでほしくて、狗巻くんの腰に回す腕の力をより強くした。

 咥内を満足するまで味わい尽くすと、狗巻くんの舌が消えた。わたしの口端からこぼれた唾液を丁寧に舐め取る姿を、涙の滲んだ瞳で睨みつけた。もちろん、演技だった。

「……ひどい。五条先生に言いつけてやる」

 すると狗巻くんの顔が真っ青になった。慌てふためきながらわたしを抱きしめて、顔色を窺うように何度も目線を合わせてくる。嫌われたとでも思ったのかもしれない。

「ごめん、嘘」
「おかかっ」

 わたしは頬を緩ませて、ムッとした様子の狗巻くんを抱きしめた。

「ごめんね。わがまま聞いてくれる?」
「……しゃけ」
「寝つくまでそばにいて」

 医務室の全ての天井灯が電気が消えた。目を閉じると、唇に温かい感触が落ちてきた。眉間に皺を寄せながら、わたしは両手で狗巻くんの体を押し返した。

「やだ」
「こんぶ」
「……嫌じゃないよ?ただ、さっきので完全に目が冴えたの。ますます寝られなくなる」
「ツナマヨ」
「すごくドキドキするから。だってわたし、狗巻くんのこと――」

 それより先は、言えなかった。言うだけの勇気はなかった。口を噤み、困ったように笑うのが精一杯だった。狗巻くんは少し寂しそうに笑って、わたしにもう一度キスをした。

 結局わたしはしばらく寝つけなかった。一人で真っ先に眠ってしまった狗巻くんのことを少しだけ恨みつつ、やっとの思いで意識を手放したのだった。

第二章 了



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