百鬼夜行

 呪霊に投げ飛ばされたことに気づいたのは、地面を転がり下駄箱に叩きつけられた後だった。

 衝撃で骨の軋む音がして、内臓が強く圧迫されるのを感じた。咳き込めば口から胃液が溢れた。縮んだ肺に少しでも酸素を取り込もうと、わたしは浅い呼吸を何度も繰り返した。

 急ぐふうな様子もなく、呪霊はこちらに歩いてきた。そして体を丸めたわたしを一瞥すると、不気味な笑みを結んだ。

 呪霊の両腕が突如として膨れ上がった。元より大きかった手がさらに巨大化し、その指先は狗巻くんへと向かっていった。

 ぞっとした。全身から血の気が引いた。下駄箱の上で力なく倒れている彼を軽々と摘まみ上げると、呪霊はわたしをじっと見つめた。薄く嗤いながら。

 巨大な左手が狗巻くんの腰から下を握った。その右手が彼の上半身に触れようとしたとき、わたしは勢いよく身を跳ね起こした。あらん限りの力を振り絞って叫んだ。

「やめてっ!」

 制止の声も空しく、彼の上半身が呪霊の右手の中に消えていく。

 にたにたと笑う呪霊は、己の頭上高く狗巻くんを掲げた。宣言するように。これから引き千切るからよく見ておけとでも言うように。

 駆け出していた。つま先が血だまりを踏む音がした。呪霊の腰辺りに全体重を乗せた体当たりをしたが、びくともしなかった。反動で跳ね飛ばされ、堪えるために踵を強く踏んだ。

 持ち上がったままの巨木のような腕に爪を立てて、必死に声を荒げた。

「離せっ!離せってば!」

 呪霊は左手を離すと、今度はわたしの右腕を掴んだ。一瞬だった。右腕の感覚がなくなっていた。軽く握りしめられただけで骨は粉々になって、皮膚から血が噴き出していた。

 頭が白く霞むほどの激痛が走り、その場に腰が落ちそうになった。焼けるような痛みに苦悶の声をこぼしながら、曲がりかけた膝を懸命に伸ばした。再び狗巻くんを掴もうとする左腕に力いっぱい噛み付いた。

 分厚い皮膚は驚くほど硬く、岩でも噛んでいるようだった。それでも歯を立てた。抗うために。息をすることも忘れて顎に力を入れた。

 しかし、それは何の反撃にもならなかった。

 鬱陶しげに、呪霊は左腕を大きく振るった。たったそれだけでわたしの体は宙に浮いていた。視界は何度か回転し、肉体が血だまりの上にべしゃりと落ちた。左足の膝から下が変な方向に曲がって、肉のひしゃげる嫌な音がした。

 気を失うかと思ったが、こめかみを地面に強くぶつけた痛みのおかげで、かえって意識が戻ってきた。

 狗巻くんの体が、今にも引き千切られようとしていた。泣きながら呻いた。やめてほしいと縋るように懇願した。聞き届けられるはずもないとわかっていながら、それでもそうするしかなかった。

 呪霊は嘲笑っていた。わたしの絶望を愉しんでいた。そうでなければ狗巻くんの体は、とっくのとうにまっぷたつになっているだろう。

 かろうじて動く左手をきつく握りしめた。惨烈な光景を見せつけようとする呪霊を睨みつける。人を呪わば穴二つ――穏やかな母の声が脳裏に響いたが、溢れんばかりに湧く殺意の前では何の制止にもならなかった。

 沸騰する殺意を掠れた声に乗せた。

「許さない」

 それは決意だった。言葉に力が宿ることを信じた。狗巻くんのように他者を呪う力にはならなくとも、自らを鼓舞する力になると信じて疑わなかった。

「お前だけは絶対に許さない」

 呪霊がピタリと手を止めた。殺意を向けられたことがよほど気に障ったのか、狗巻くんの体をこちらに放り投げてきた。彼は目を覆いたくなるほど血に塗れていたが、胴体と足はちゃんと繋がっていた。

 左手を支えにして地面を這いずった。虫の息の狗巻くんを守るように、上体を起こした。

 ふいに、耳元で舌足らずな幼子の声が聞こえた。

 ――おべべが赤ぅ赤ぅなったら、連れていかれるん。
 ――神さんに連れていかれんのに。

 ありったけの憎悪を乗せて、わたしは声を放った。

「お前を連れていく。手足を千切って、“神様”のところへ」

 そして続けた。ほとんど意識していなかった。唇が勝手に言葉を紡いでいた。

「――我が怨恨を己が魂に刻め」
「領域展開――略式・百鬼夜行」

 骨の髄まで揺さぶられる感覚がした。呪霊と目が合ったが、わたしは恐怖を抱いただけだった。

 不思議だった。剥き出しにしていたはずの殺意も憎悪も敵意も、もうどこにもなかったから。あれほど血が滾っていたことが嘘のようだった。そこだけ切り取られたかのように、ぽっかりと穴が開いていた。

 呪霊がこちらに一歩踏み出した瞬間、その装いがたちまち変化した。ボロボロの薄汚れた布を纏っていたはずが、白い着物装束へと様変わりしている。呪霊の顔つきや体躯との相性が悪いのだろう、ひどく珍妙な格好になっていた。いったい何がどうなっているのかはわからなかったが、その格好が似合わないことだけは理解できた。

 突然のことに困惑していると、校舎から漏れていた白い光が全て消えた。辺りは暗闇に包まれて、わたしはさらに驚きを重ねた。

 夜を溶かし込んだ闇の中、ちょうどわたしの斜め前方に、ふわっと橙色が浮かび上がった。見ているだけで安堵するような、穏やかで優しい光だった。それは次々に現れて、連なりながら闇を明るく照らしていった。

 灯りに目を奪われていたせいで、すぐに気づくことができなかった。わたしの目の前に、小さな動物がいることに。

 それは濃い茶色の毛並みを持つ動物だった。尖った鼻筋の毛だけが雪のように白く、目の周りは少し黒っぽかった。パンダくんみたいだなと思いつつ記憶を辿り、数秒も経たぬうちにその名を探し当てた。

 穴熊だ。わたしの目と鼻の先に穴熊がいた。貉と呼ぶべきだろうか。しかも一匹ではなかった。四匹の穴熊が横に整列して、黒くて丸いつぶらな瞳をわたしを向けている。

 彼らは当然のように二本足で立ち、その小さな手には和楽器が握られていた。一匹は笙を、一匹は太鼓を、一匹は横笛を、そして残りの一匹は鼓を。楽器をとても大切そうに抱えた姿は、まるでちょっとした置物のようだった。

 四匹は顔を見合わせるなり、楽しそうに和楽器を演奏し始めた。

「これって……」

 思わず呟いていた。耳覚えのある曲だったから。それはイザナミさんが暮らしていた山で聞いた、あの祭囃子だった。

 突如、呪霊が咆哮した。空気がびりびりと震えて、喉奥から小さな悲鳴が漏れた。わたしは腰を後退させて、狗巻くんを庇うために左腕を大きく開いた。伸ばした指が、がたがたと震えた。

 呪霊が強く地面を踏んだ。跳ねるように駆け出してくる。

 小さな鼓を肩に担いだ穴熊が、少し慌てた様子でちっちゃな手を器用に広げた。

 そして、ポンと鼓を打った。

 斜め前に灯っていた橙色の光が、ぐねぐねと歪み始めた。瞬く間にそこから黒い着物姿の大男が現れ、すとんと地に降り立った。

 顔に白い布を垂らした図体のでかい男だった。顎下まで落ちた面紗には、黒々とした墨で“壱”と書かれている。着物越しでもわかるほど鍛えられた男の背からは、虹色に光る昆虫の翅が生えていた。

 精悍さを感じさせる男は、わたしに向かって右の親指を立てた。そして片足だけでくるりと半回転すると、突進を仕掛けてきた呪霊に真正面からぶつかった。筋肉を叩きつけ合う鈍い音が鼓膜を叩いた。

 激しい殴り合いが始まっていた。男が右で顔をぶん殴ると、呪霊も同じように右でやり返した。泥臭い拳の応酬だった。

 唖然としていたら、再び鼓の音が聞こえた。

 ポンと響き渡る鼓の音とともに、今度は“弐”の面紗を付けた黒い着物の女が現れた。彼女の下半身は蛇だった。光沢のある鱗が橙色に照らされて、ぬらぬらと美しく光っている。

 穴熊はちっちゃな手で次々と鼓を打った。鼓の音に合わせて、黒い着物姿の異形どもが灯りの中から出現する。皆一様に面紗を付け、その白い布には数字の大字が順に記されていた。

 しばらく口をあんぐり開けていたが、はっと我に返った。

 わたしは振り向いて狗巻くんの胸に耳を押し当てた。心臓はまだかろうじて動いている。おびただしいほど出血しているが、絶対に諦めたくなかった。腹に空いた穴を塞がなければと目を動かした。

 前方では異形どもが呪霊と苛烈な肉弾戦を繰り広げている。今ここで何が起こっているのかは理解がつかない。しかし足止めをしてくれているなら好機だろう。早く狗巻くんを“帳”から連れ出し、救急車を呼んで、一刻も早く病院に運ばなければならない。

 なすべきことは頭に入っていた。今はとにかく止血が先だとカーディガンをもたもた脱いでいたら、“弐”の面紗を付けた女がわたしの潰れた右腕に手を伸ばした。走る痛みは鋭く、反射的に小さく唸った。何か酷いことをされるのかと身構えたが、女は細い指をそうっと這わせただけだった。

 女の慈しむような手つきに期待感を抱く。わたしは確かめるように訊いた。

「……治してくれるんですか?」

 女が面紗の向こうで笑ったような気がした。

「わたしはいいので先に狗巻くんを治してもらえませんか?」

と早口で懇願すれば、彼女はこっくりと頷いた。狗巻くんの腹に手を触れると、そこだけが淡い光に包まれた。

 “伍”の面紗を付けた男がやってきて、彼女の隣に腰を下ろした。兎の耳が生えた男は、力を添えるように光に手をかざした。ついで尖った角を持つ男も加わった。面紗には“捌”の数字が浮かんでいた。眩い光はますます濃くなって、狗巻くん腹の傷は瞬く間に塞がっていった。

 狗巻くんが小さく呻いた。放り出されていた彼の指先が少し震えて、わたしは泣きながらぬくもりの戻った手を左手で握りしめた。

 そのとき、猛烈な叫びが耳をつんざいた。顔を上げれば、呪霊の左腕が肩口から引き千切られていた。異形どもが呪霊の体を押さえ、その大樹の幹のように太い腕を“壱”の男が両手で引っこ抜いたのだ。

 白い着物が赤く染まっていく。呪霊は激しく暴れた。その拍子に肉体を押さえつけていた異形どもは吹っ飛ばされ、打ちどころが悪かった一部の異形は息絶えたようだった。

 呪霊が得意げに咆哮した途端、その横っ面を跳ねた“参”の男が蹴り飛ばした。呪霊の体が横に飛ぶ。地面に両手をついて体制を持ち直そうとしたが、“肆”の男が待ち構えていたように腕を振るってそのまま転倒させた。

 数字の大きな面紗の異形が集まってきて、呪霊にしがみついた。動きを奪うように。“陸”の女が拘束された呪霊の腹に強烈な踵落としを叩き込み、“壱”の男は呪霊の右腕を抱えるように掴んだ。再び雄叫びのような悲鳴が響き渡り、わたしは恐怖で軽く目を閉じた。

「頑張れ……頑張れ……」

 彼らが敗北すれば、狗巻くんとわたしの命も危ういだろう。つい無意識に左手に力が入っていた。そのせいで、狗巻くんの目蓋が開いたことにまったく気づかなかった。

 血だらけの右腕に触れていた“弐”の女が、わたしの目の前に手をかざした。そして、ゆっくりと狗巻くんを指差した。

 わたしは目を大きく瞠った。息が詰まって、何も言葉が出てこなかった。

 瞬きを繰り返す狗巻くんの胸に、額をぴったりと押しつけた。とめどなく涙を流しながら。心臓は確かな音を立てて、血液を全身に送り出していた。

 頭に手を添えられたのがわかった。何度か優しく髪を撫でつけた後、狗巻くんは勢いよく上半身を起こした。その衝撃でわたしの頭は彼の太ももの上に滑り落ちた。

「……こんぶ!」

 血相を変えた狗巻くんが、わたしを見下ろしていた。おそらく今の今まで死んだとでも思っていたのだろう。わたしは笑って答えた。

「ちゃんと生きてるよ」

 狗巻くんは頭を左右に振って状況を確認した。その表情には困惑の色が浮かんでいた。問われる前にわたしは説明した。

「大丈夫だよ。この人達は敵じゃないと思う。多分。助けてくれたから」
「ツナ!」

 彼の言葉を反芻しながら、わたしは体を起こした。それから“弐”の女を見つめた。“弐”の女は右腕に手を添えたまま、不思議そうに首を傾げている。

「え?このお姉さん、特級呪霊なの?」
「しゃけ!ツナマヨ!」
「こっちのお兄さん二人は、一級呪霊?」

 折れた左足に手を当てている“伍”と“捌”の男が、揃って顔を上げた。ぴょこぴょこ動く兎の耳と鋭く尖った角を交互に見つめてから、狗巻くんに視線を戻した。

「狗巻くんの傷も、このお姉さんとお兄さん達が治してくれて」
「おかか!」
「えっと……そこの穴熊が鼓を叩いたら、いきなり出てきた」

 楽器を演奏し続ける穴熊達が、狗巻くんに鼻先を向けた。彼は穴熊を指差しながら、小さく首をひねった。

「すじこ」
「わたしが?……確かに、領域展開って言ったような気はするけど……」

 記憶を遡ろうとしたとき、急に右手の感覚が戻ってきた。左足の角度も元通りで、痛みはすっかり消え失せていた。

「やった!治った!ありがとう!」

 わたしが喜びの声を上げると、異形どもが拍手をしたり飛んだり跳ねたりした。どうやら同じように喜んでいるらしかった。祭囃子の曲調が陽気で華やかなものへと変わり、場を満たす空気が一気に明るくなった。

 喜びを抑えられず、両手を開いて前に突き出した。“弐”の女がおずおずとハイタッチをしてくれた。続くように皆が次々にやってきて、わたしと一緒に手を鳴らした。手のひらが血だらけの者もいたが、特に気にも留めず軽快な音をともに奏で続けた。

「こんぶ……」
「はい、狗巻くんも!」

 狗巻くんは困惑したまま、手のひらを重ねた。そして前方に視線を送り、切り出しにくそうに言った。

「ツナマヨ」
「あ、ごめん。完全に忘れてた」

 視線を左右に振ったが、あの呪霊はもうどこにもいなかった。引き千切られた手足だけが、血だまりの上に無造作に転がっていた。

 あの巨大な胴体はどこに行ったのだろうと思っていると、“壱”の男と目が合った。血の雨でも浴びたかのように、男の巨体は真っ赤に染まっていた。

 “壱”の男はこちらに歩いてくると、握った大きな拳をわたしに無言で突き出した。意図が汲み取れず首を傾げると、拳が再び突き出された。

「しゃけ」

 受け取れという意味だろうと狗巻くんが言った。わたしが両手を器のようにして差し出すと、真っ赤な何かがふたつ落とされた。血のぬめりを感じて、肩が大きく跳ねた。ひっと小さく悲鳴が漏れる。

 嫌悪感を丸出しにしながら、手の中のそれを恐る恐る観察した。

「何これ……指?」
「しゃけしゃけ」

 二本の黒ずんだ大きな指が、手のひらに乗っている。黒く染まった爪は長く、先端は鋭く尖っていた。受け取ったものの、いったいこれをどうしろというのだろう。ミイラの指を蒐集する趣味など持ち合わせていないのだが。

 わたしはぼそっと呟いた。

「いらない……」
「おかかっ!」
「特級呪物?!」

 狗巻くんに窘められ、慌てて“壱”の男に目をやった。

「ありがとうございます。こちらで預かります」

 いつの間にか、祭囃子の音は止んでいた。楽器を抱えた穴熊達が揃って頭を下げると、面紗を付けた異形どもも一様に頭を垂れた。数字の書かれた面紗がだらりと垂れ下がった。

 わたしも深々と頭を下げた。つられたのか、狗巻くんまで腰を折っていた。

「助けて下さって、本当にありがとうございました」

 頭を上げたときにはもう、穴熊達の姿は忽然と消えていた。“帳”が徐々に解けていき、視界に飛び込んだ淡い光を見つめた。視界が白く霞んで、意識が遠のき始める。

「ねえ、見て……綺麗な満月、だね……」

 力が抜けて、体が真後ろに大きく傾いた。狗巻くんに強く抱きとめられる感触がした。温かい体温に緊張の糸が解け、そこでわたしの意識はふっと途切れた。


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