初任務 -後-

 確認するように問いかければ、狗巻くんが勢いよく振り返った。その瞳が大きく見開かれていくのを感じながら、わたしは言葉を続けた。身も心も支配しようとする恐怖を追い出すために。

「わたしにもちゃんと見えてるみたい。よかった、ほっとしたよ。あれが準一級?なんだかすごく強そうだね。筋骨隆々って感じで、わたしの首なんか簡単にへし折られて」
「おかかっ!」

 狗巻くんがわたしの声をかき消した。その瞬間、呪霊は前のめりになって駆け出していた。わたしたちに向かって。走ったその衝撃だけでつるりとした床が窪み、建物全体が上下に揺れていた。

 わたしは瞠目した。同時に、とても嫌な予感がした。あいつには決して立ち向かうなと本能が告げていた。生存本能だった。しかし足がすくんだ自分を鼓舞して奮い立たせねばならなかった。わたしたちの任務は、この準一級呪霊を祓うことだから。

 狗巻くんが即座に呪言を放った。

「――動くな」

 空気を裂くような一言だった。しかし実際に呪霊が身動きを封じられたかどうかまでは、確かめることはできなかった。呪言が使用された途端に手首を掴まれていたのだ。わたしは彼に手を引かれるまま走り出した。

 狗巻くんは全速力で廊下を駆けていた。その速さについていくだけで精一杯で、今にも足がもつれそうだった。彼の背中からは焦りが感じ取れた。

 わたしは階段を駆け下りながら訊いた。

「どうして逃げるの?祓わないの?」
「おかか!」
「できないって、どうして?」
「ツナ!」

 聞こえてきた言葉に耳を疑った。訊き返そうとしたとき、狗巻くんが突然足を止めた。彼の背中に鼻の頭をぶつけそうになったが、漂う空気が一変していることに気づいて息をひそめた。

 ジーッという音がほんの数秒響いたかと思うと、天井に備えつけられた蛍光灯が瞬いた。青白い電気が点いて、視界は明るくなった。

 前方から大きな物音がする。すぐにそれが足音であることを理解した。とてつもない質量を感じさせる足音だった。

 廊下の曲がり角から、呪霊は悠然と現れた。蛍光灯に照らされた肌は濃い紫色で、異形であることを証明していた。わたしは絞り出すように呟いた。

「嘘でしょ……先回りなんて、反則だよ……」
「すじこ」

 わざとだと狗巻くんは言った。まっすぐ追って来なかったことも、校舎内の電気を点けたことも、全て故意であると言ったのだ。

 となれば、呪霊の目的は明らかだった。愉悦に歪んだ口元からは、だらだらと涎がこぼれていた。

 嬲り殺す気なのだろう。この特級呪霊は、わたしたちを徹底的に追い詰めて。

「――止まれ」

 呪言で動きを封じ込めると、狗巻くんは走りながら言った。今はとにかく逃げることを優先する、と。特級相手に真正面からは立ち向かうのは得策ではない。まずは“帳”の外に出て応援を仰ぐと。

 しかし、わたしたちは“帳”に近づくことすら叶わなかった。退路を塞ぐように追い回されるせいで。呪霊は追跡を楽しんでいるらしく、未だ攻撃には移っていなかった。簡単に殺せるとでも思っているのだろう。

 狗巻くんは呪言を用いて足止めを繰り返し、何とか逃げ道を探していた。あいつが“鬼ごっこ”に夢中になっている好機を逃すわけにはいかなかった。

 呪言を使い続けた狗巻くんの声は枯れ、細かい咳が混ざり始めていた。のど薬を流し込みながら、わたしに問いかけた。

「こんぶ」
「ううん、駄目。電波が入らない」

 何度も操作しているが、スマホはまるで役に立たなかった。これでは伊地知さんにも五条先生にも連絡を取ることができない。使い物にならないスマホを、地面に思いきり叩きつけたい気分だった。

 少し慣れ始めたとはいえ、恐怖は体を這いずったままだった。準一級呪霊がどうして特級呪霊に“成った”のかはわからないと狗巻くんは言った。そして、こういうイレギュラーが起こることは決して珍しくないとも続けた。

 狗巻くんは焦燥を抱えながらも、この現状に確かな希望を見出していた。空き教室の物陰に隠れながら、怖気で震えるわたしの手を握りしめて、穏やかに笑ったのだ。

「明太子」

 逃げ切るための算段がついたのだと察した。とても心強かったし、何とかなると信じることができた。わたしの怖気はずいぶんと和らいだ。優しくて温かい手を、ぎゅっと握り返した。

 だがその希望は必ずしも二人のものであるとは限らなかった。

 地響きのような足音が近づいてきたとき、狗巻くんはわたしの薙刀を奪った。物陰から飛び出した背中がこれから何をしようとしているのか、瞬時に理解した。

 わたしは縋るように追いかけていた。怖かった。頭が真っ白になりそうだった。吐き気を催すほどの恐怖が、わたしを突き動かしていた。ここで追い縋らなければ彼がどうなるのかは、火を見るよりも明らかだった。

「おかか!」

 振り返った狗巻くんが、わたしを力強く突き飛ばした。わたしは古びた机や椅子を巻き込むようにして、大きな音を立てながら床に倒れ込んだ。悲しげな目がわたしを見下ろしていた。殴打した背中の痛みより、胸に広がる痛みのほうがずっと強かった。

「嫌だよ!わたしだけ逃げるなんて!」

 懸命に拒んだ。目に涙が滲んでいた。あいつに気づかれたならそれでもいいと思っていた。狗巻くんを置いてたった一人で逃げるほうが嫌だった。

 しかし狗巻くんは唇を一文字にきつく結んだ。名残惜しむようにわたしを一瞥すると、そのまま駆け出してしまった。その直後、重い足音がピタリと止まった。

 わたしは急いで体を跳ね起こした。廊下に出ようとしたとき、宙に浮いた何かが目の前を横切っていった。低い音が聞こえて目をやれば、狗巻くんがリノリウムの床に投げ出されていた。吹っ飛ばされたのだと遅れて気づいた。

 呪霊は興味津々といった様子で薙刀を握りしめていた。しばらく観察してからそれを両手で掴むと、いとも容易く曲げてしまった。限界まで反らされたせいだろう、薙刀は甲高い音とともにふたつに折れた。つまらなさそうにそれを後ろに放り投げると、今度はわたしに目を向けた。

 全ての汗腺から冷たい汗が噴き出す感じがした。こちらを品定めするような赤い瞳を見つめたまま、足を少しずつ後退させていった。狗巻くんのほうへと、瞬きひとつせずに。

 動くことで発生する全ての音を殺そうとした。布ずれの音すら立てないように。浅くなった呼吸を抑え込んで、刺さるような静寂を保った。

 呪霊が足を踏み出そうとしたのと、わたしが身を翻したのは同時だった。

 廊下を全速力で蹴った。背中越しに殺意を感じて、恐怖で足がすくみそうになった。瞬く間に狗巻くんとの距離が縮まった。うつ伏せになったままの彼はわたしを見つめていた。

 わたしは走りながら狗巻くんに手を差し伸べたが、見向きもされなかった。静かに口を開くと、わたしをたった一言で呪った。

「――逃げろ」

 わたしの足は勝手に加速して、狗巻くんの横を通り過ぎてしまった。愕然とした。焦って首をひねった。狗巻くんの砥粉色の後頭部が僅かに持ち上げられていた。

「――ふっ飛べ」

 その言葉は空気を大きく振動させた。堪らない爆音が轟いて、建物が上下に揺れた。狗巻くんの目と鼻の先から校舎が崩れていくのが見えた。呪霊の姿はもう確認できなかった。

 わたしは踵を返した。呪言は解けていた。白い煙が舞っている。慌てて狗巻くんに駆け寄ったが、彼は口から大量の血液を吐き散らしたまま、完全に気を失っていた。床にはヒビが刻まれていて、ここが崩れるのも時間の問題だと思った。

「言いつけ守らなくて、ごめん」

 狗巻くんの肩を担ぐと、わたしは大股で歩き出した。



 廃校舎の下駄箱に辿り着いたときにはもう、体力はほとんど残っていなかった。疲弊した体はとても重く、地面を踏む足の裏の感覚はおぼろげだった。五条先生は呪いは疲れないと言っていたが、それは真っ赤な嘘だと思った。

 “帳”までの距離は残り僅かだった。狗巻くんを担いだまま、足を大きく前に踏み出した。息は切れて、今にも膝から崩れ落ちそうだった。けれど気にしている暇はなかった。とにかく今は“帳”の外に出なければならなかった。生きるために。生きてここから帰るために。

 そのとき――ふいに感覚した。踏み出した足が小刻みにがくがくと震えた。わたしの荒い呼吸音に混ざるように、聞くだに恐ろしい足音がしていた。鳥肌が立って、たちまち涙が流れた。

 ああ、いる。後ろに。あいつが。

 向こうは待っていた。わたしが振り向く瞬間を。わたしの顔が死の恐怖に歪んでいることを確かめたいのだ。わかっているからこそ、振り返ることはできなかった。視界はぼやけて、小さく開いた唇からはとうとう嗚咽が漏れた。

 狗巻くんの肩を、より強く抱いた。ぬくもりを確かめるように。狗巻くんと二人で生きて帰るのだという意志を奮い立たせたくて。

「……イザナミさん」

 わたしはその名を呼んでいた。

「イザナミさん」

 はっきりと発音した。彼女が聞き届けてくれることを祈りながら。

「イザナミさんっ!」

 腹の底から叫んでいた。そうする他に、もう何も思いつかなかった。

「ねえ、イザナミさん助けてよっ!」

 しかし足元に広がる闇は微動だにしなかった。それはそうだろう。彼女にしてみれば、わたしが死んだほうが都合がいいに決まっている。死んだわたしを黄泉へ連れていくために、彼女はここに留まっているのだから。

 後ろから笑い声が聞こえた。それは嘲笑だった。

 怖かった。それ以上に悔しかった。何もできず、怯えて逃げ惑うだけの自分がただ情けなかった。

 涙を滂沱と流しながら、わたしは体ごと振り返った。口の中まで震えて、奥歯がかちかちと小さく鳴っている。それでも勇気を残らずかき集め、卑しい笑みを浮かべる呪霊をきつく睨みつけた。それが今のわたしにできる精一杯の抵抗だった。そんなことしかできない自分がひどく哀れだと思った。

 呪霊がゆっくりと歩き出した。勿体ぶる感じで。残していた楽しみを味わうことを、ちょっと躊躇うように。

 わたしはその姿を睨み続けるだけだった。体は石のように固くなっていて、指の一本すら動かせなかった。

 こちらに向かって呪霊が腕を伸ばした。よほど嬉しいのか、大量の唾液がこぼれ落ちていった。鼻がもげそうなほどの悪臭が口から吐き出されていた。

 大きく開かれた手のひらが近づいてくる。頭を掴まれることを予感した。握り潰されて死ぬことを覚悟した。

 その刹那、わたしの視界が大きく傾いた。肩を押されたことに気づいたのは、地面に倒れ込んだ後だった。

 はっとなって視線を上げると、狗巻くんが呪霊に首を掴まれていた。呪霊は軽々と彼を持ち上げた。両足が宙に浮いて、弱々しくばたついていた。

 思わずわたしは悲鳴を上げた。しかし実際には声は出なかった。ひゅうひゅうと掠れた呼吸が漏れただけだった。

……逃げ……ろ」

 切迫した声が聞こえた。わたしはかぶりを振った。生ぬるい涙がぼたぼたとこぼれた。

 必死で頭を回転させた。この状況を打破する方法を考えつくことを信じたかった。一ヶ月半で得たものを全てひっくり返したが、何も見つからなかった。気持ちが乱れて、恐ろしさに呻き声が溢れそうになった。

 しかし、わたしの声は喉奥で堰き止められた。ふいに聞こえた苦悶の声のせいで。

 わたしは目蓋をゆっくり上下させた。

 狗巻くんの背中から何かが生えていた。赤色の尖ったものが五本、制服を破るように突き出している。瞬く間にそれは赤いぬめりを伴って手の形になった。呪霊の大きな手だった。校舎から漏れる灯りに照らされて、血液がぬらぬらと光っていた。

 腹を貫かれたのだと悟った。

 手が引き抜かれて、破れた制服の向こうは真っ赤に染まっていた。呪霊は弛緩した狗巻くんの体を放り投げた。その場にゴミでも捨てるような粗暴さで。

 遠くまで投げられた体は、下駄箱に打ちつけられた。下駄箱が倒れる鈍い音が響き渡った。

 傾いた下駄箱の上で、狗巻くんが仰向けになっていた。木製の板を伝うように、その場に血だまりができていく。鮮やかな赤色はどんどん広がっていった。

 ぐらりと世界が揺れていた。確かめたはずのぬくもりがたちまち消えていった。足に力が入らなくなった。尻がぺたりと地面についたが、地面の感触はひどく曖昧だった。まるで体から感覚が抜け落ちているようだった。

 絶望の形をした三つの赤い瞳が、わたしをじっと凝視していた。

 次は、わたしの番だった。


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