間奏 -前-
気を失ったを腕に抱きながら、棘は青白い顔で唇を震わせていた。倒れた身体の横腹に穿たれた傷から生ぬるい血が噴き出し、棘の腰から下をびしゃびしゃに濡らしている。異様な出血だった。あの呪いはを単純に刺しただけではなかったのだろう。おそらく刀をひねるようにして、内臓を深く傷付けたのだ。
血の泥濘の中、の表情はひどく穏やかだった。死を目前に迎えているのだと嫌でも理解する。命の火が少しずつ消えつつあるのが明確に感じられる。
――これだけ出血すれば、といえども。
底知れぬ絶望が棘を襲っていた。なにも考えられなかった。動揺を示すように揺れていた視界も、もう動くことはなかった。
伏せた双眸から生気が失せ、虚ろな光が灯ったそのとき、
「い、狗巻くんっ!」
はっとした。耳を打った声音に振り向けば、逃げたはずの伊地知が山の急斜面を懸命に駆けのぼっている。まだ十五分も経過していないはずだ。転落すまいと草木にしがみつきながら、最短距離で伊地知はこちらに近づいていた。
「先ほど呪霊の消失を感知しまして……お二人とも、無事ですか?!」
その問いかけで、棘は我に返った。白い顔をしたを震える身体で抱きしめる。まだ身体は温かく、浅いながらも呼吸音が聞こえていた。はまだ生きようとしていた。
「うるさい!うるさいうるさい!わたしだって抱いてほしかったよ!棘くんにわたしの初めてをもらってほしかった!」
棘を突き放そうとしたあのとき、冷静なが一瞬だけ見せた激情。自由奔放に棘を振り回しているように見えて、いつもどこかで気を遣っている。背伸びばかりで、年相応の本心は絶対に明かそうとしない。
そんなが感情的になって告げた本心。泣き崩れるほどの棘への想い。自らの幸せは度外視して、棘の幸せばかり考えているの、“本当にしたいこと”。
「……おかか」
赤く染まった唇から小さな声が漏れた。たったそれだけで、のどが焼けるように痛かった。深く傷ついた内臓も。
けれど、心のずっとずっと奥、一番大切な部分に開いた傷のほうがずっと痛いと思った。溢れそうになる涙で、前が見えなくなるほど。
棘は奥歯をぎりっと軋らせると、をその場に横たえた。一瞬で上着を脱ぐや否や、急いで止血に取りかかる。
「おかかっ!」
が危ない。棘が端的にそう告げると、急斜面をのぼり終えた伊地知はスマホを取り出した。画面を確認したあと、止血に励む棘に慌てて駆け寄る。
「狗巻くん、すみませんがスマホを貸してください」
棘の手がとまりそうになった。模範的な補助監督である伊地知が口にするはずもない台詞だったせいで。
僅かに怪訝な顔をしたものの、棘はポケットからスマホを掴み取った。伊地知に手渡す前にふと画面に目を滑らせ、左上に表示されたマークに瞠目する。
「……ツナ」
「やはり狗巻くんのスマホも……」
「すじこ」
「そうなんです。圏外なんです」
伊地知の声が震えていた。
「高専から支給されている私のスマホは衛星通信です。どこにいようと圏外になることはまずありません。先ほど、狗巻くんたちから離れている間も試してみましたが駄目でした。警察や消防はおろか、外部との連絡が一切取れません。まるで、なにかに妨害でもされているみたいに」
まるで、を生きてこの山から出さないとでも言うように。
棘の視線がの影に落ちる。あの婉然とした響きが頭の後ろで響くような気がした。血の気が引き、冷たい汗がどっと噴き出す。
「すみません、もう車は使えません。ここから急いで下山しても、近くの診療所に到着するまで早くて二時間はかかります。手術ができるような大きな病院なら、もっと時間が……」
途切れた言葉を振り払うように、棘はの止血を懸命に試みた。刻々と迫る死を遠ざけたい一心で。
棘の傍らに立つ伊地知が、ぽつりと言った。
「……さんは、始めから自分だけ死ぬつもりだったのでは?」
投げかけられた疑問に、棘は僅かに目を見開いた。掠れた言葉が淡々と続く。
「ずっと、ずっと引っかかっていました。二人とも死んでいるなら消防に連絡する必要がありますか?警察だけで充分ではありませんか?救急車は、本当に必要ですか?」
「……お、かか」
「狗巻くんのための救急車です。さんはおそらく最初から、狗巻くんだけを生かす算段だった」
「おかか」
違う、と棘は虚脱したように呻いた。否定するために。その通りだと認めてしまう心を拒絶するために。しかし伊地知は言葉をとめなかった。
「ここで一緒に死ぬ――きっと、狗巻くんのその覚悟だけで充分だったんでしょう。それだけで、さんは」
「おかかっ!」
止血する手に力が入る。視界はうっすらと白くぼやけていた。自らの幸せも命も平気で投げ捨てて、棘の幸せばかりを願うの覚悟が、今は憎くて憎くてたまらなかった。
の頬に生ぬるい雨粒がぽたぽたと落ちる。棘は涙を拭おうとして、突然血相を変えた。の胸に耳を当て心臓の音を探るその動作に、伊地知も状況を把握したようだった。
「さん?!」
「高菜っ!」
上体を起こした棘が肘をのばし、の胸に両手を重ねる。家入から教わった心肺蘇生法の知識を頭の隅から引きずりだして、体重を乗せるように必死で胸骨を圧迫した。
「――逝くな」
それは祈りだった。願いだった。懇願だった。
「――逝くな」
額に大粒の汗が浮かぶ。呪言の反動で血泡が口からあふれる。呼吸をするのも惜しんで懸命に押し続けた。一分間に百回という速さを意識しながら。砥粉色の頭が上下に揺れる。棘はの魂を肉体に繋ぎとめようとした。
「――逝くなッ!」
棘は必死で叫んだ。のどが傷つくことも厭わず。逆流した血液が唇から涙のように滴り落ちても、決して叫ぶことをやめなかった。
の胸が棘の血で真っ赤に染まったとき、無機質な着信音が耳朶を打った。
棘は荒い呼吸を繰り返して伊地知を見あげた。伊地知の手の中に収まる黒いスマホが着信を知らせている。棘が目で訴えると、伊地知は画面に視線を落とした。
「……非通知です。代わります」
そう言った伊地知と入れ替わるように、棘はすぐさま立ちあがる。もつれるようにスマホを受け取ると、震える指で応答ボタンを操作し、スマホに耳を押しつけた。
「ああもうやっと繋がったわ。そろそろ私もお役御免かしら?千年も尽くしてやったのに薄情なものよね」
心のどこかで待ち望んでいた蠱惑的な声音に、棘の肩が持ちあがる。祈るような気持ちで次の言葉を待ったというのに、
「ちゃんの心臓、とうとう止まっちゃったわね」
しかし、まるで他人事のような口振りに棘の怒りは一瞬で頂点に達した。
「おかかっ!」
「お願いだから叫ばないで。耳が痛いわ。それに、別れの挨拶はもっとスマートに済ませるべきよ」
「こんぶ、おかか、すじこ!」
「繋がらない?……でしょうね。でもそれ、私のせいじゃないわよ」
呆れたように言うと、“の神様”である女はくすりと笑って言葉を続けた。
「ちゃんが死ぬまであと三十分ってところかしらね。あらあら可哀想。寝不足になって、上層部に啖呵を切って、周りに協力まで仰いで……あんなに足掻いたのに残念でした。ご愁傷様。心から同情するわ」
「いくらっ!」
「うるさいわね。言ったでしょう?別れの挨拶だって。私、このまま消滅するのよ」
「……ツナ」
「そう、消滅。悲しいことにね。少しは哀れんでくれる?」
その言葉とは裏腹に、ひどく楽しそうな声音が響く。
棘は目を瞬いた。五条と交わした誓約書はの命に関するすべての権利を棘に譲渡するもの――つまり、を見殺しにするためのものだったはずだ。が死んでも一切のペナルティは生じず、死んだもろとも女の存在が消えるということもない。
一体どうなっているのだろう。
混乱する棘に、女はまるで黒板の前に立つ教師のような口調で語りかけた。
「貴方も知っている通り、今この山に“神”はいないわ。いつまでも土地神が留守というわけにはいかないわよね。さて呪言師、ここでひとつ問題よ。この空いた“神”のイス――次に座るのは、一体誰でしょう?」
その質問を起爆剤にして、広葉樹に背中を預けたの小さな笑みがまざまざと蘇る。
「悪いことしちゃったな。わたしがこの土地から神様を奪ったんだから」
棘の顔が驚愕に歪む。空いた口がふさがらなかった。掠れた声を絞り出すだけで精一杯だった。
「い、くら……」
「ええ、もちろん知ってたわ。だって気の遠くなるような昔から、“無科”がずっと座り続けてきたイスだもの」
女はたおやかに答えると、冷酷な事実を告げる。
「あのとき私との縁を切って山に追い返していれば、まだ私がこの土地の神だった。彼女が神に選ばれることはなかったでしょうね」
しかし、は術師として生きることを選んだ。棘のそばにいたい、その一心で。
「……おかか」
「嘘じゃないわよ。だってちゃんは夜ごと夢を見ているでしょう?すこぶる悪い夢をね。そうやって毎晩少しずつ負の感情を蓄積して死ぬことで、強大な呪いに――“神”に転じるのよ。ちゃんの首を見てごらんなさい」
導かれるように視線を落とせば、の首には色濃い痣が浮かんでいる。華奢な首に巻きついて柔らかな弧を描くそれは、ずっとのそばにいた棘にも全く見覚えのないものだった。
「あの子が言っていたでしょう?“供犠に満ちた呪詛はその身を穿ち、吊るす”って。もう手遅れなのよ」
「お、おかかっ」
「無理よ。呼ばれたらおしまい。逃げるすべはない。“あれ”はそういうものだから」
狼狽する棘をたしなめるように、女は慈愛に満ちた声で優しく囁いた。
「あきらめなさい。運命を変えることはできない。それは神の所業よ。人が易々と踏み込んでいい領域じゃないの」
神の所業。その一言に棘は強く食い付いた。決してあきらめるわけにはいかなくて。
「すじこ」
「私には無理よ」
「いくら」
「いいえ、やる気の問題じゃない。本当に無理なの。この山にいたときも、それだけはどうしてもできなかった。結局、私もちゃんと同じ。見たいものだけを見ているから」
「こんぶ」
棘はその場で頭を垂れて頼み込んだ。こうして会話している間にもの命は削られていく。それでも棘は舌をとめようとしなかった。スマホの向こうにいる人物に、一縷の望みを見ていたから。
「こんぶっ」
「だから私には無理だって何度も――」
「こんぶっ、ツナマヨッ!」
「は?」
不意打ちを喰らったような、間抜けな響きを含んだ声がするりと落ちる。それは女の声ではなかった。胸骨圧迫を繰り返す伊地知を横目に、棘は懸命に口を動かした。
「こんぶ、すじこ、おかか」
「……お前、まさか俺に頼んでるのか?イザナミではなく、無科継夜に?」
驚きを孕んだ若い男の声が鼓膜を震わせる。棘は「しゃけ」と相槌を打つと、抑揚をつけることで自らの想いを正確に伝えようとした。
「いくら、明太子、ツナ」
棘はのように弁が立つわけではない。ましてや棘には呪言という大きな縛りがある。言葉を尽くして交渉することは不可能だ。
だから言葉に気持ちを乗せるしかなかった。熱意を伝えるしかなかった。
――この男が、まだ人の心を失っていないことを信じて。
「期待を裏切るようで悪いが、俺は術師としては三流もいいところだぜ?呪いが見えるだけの一般人に等しい。お前のほうがずっと優秀だろうよ」
「おかか。こんぶ」
「そうだな、一理ある。知識と経験の差は歴然だろう。だがな――」
「ツナマヨッ!」
反論を遮って棘の胸を占める決意を口にすれば、訝しむような声音が返ってくる。
「祓いたい?……助けたい、ではなく?」
「しゃけしゃけ」
「何故」
「すじこ」
「……たしかにそうだ。お前の言う通り、今を助けたところで“あれ”に見逃される道理はない」
「ツナ、いくら、こんぶ」
「無理だ。“あれ”は呪霊の名を騙る異形だ。神でも悪魔でもない化け物。この土地に神を据え、豊穣を願うだけが目的のプログラム。最強にも呪いの王にも、“あれ”は絶対に祓えない。人間にどうこうできる相手じゃない」
そこで言葉はぷつりと途絶え、代わりに聞こえてきたのは長いため息だった。駄々をこねる子どもに優しく言い聞かせるように、穏やかな声が棘の耳を打った。
「なにをしても無駄だよ。あきらめろ」
「おかか」
「お前にはなにもできない。どうせ犬死にだ」
「おかかっ」
「悪いことは言わない。を忘れて生きろ。が望むのは、お前の幸せだけなんだから」
「おかかっ!」
嫌だった。それだけは絶対に嫌だった。の柔らかな笑みが浮かぶ。棘の名を呼ぶ幸せそうな声音が響く。棘の幸せはがいなければ意味がない。手を伸ばした先にはもう、との穏やかな時間が見えているのだから。
未だ息を吹き返さないを見つめて、棘は否定の単語を腹の底から叫んだ。
「お、か、かっ!」
しかし、言葉は返ってこなかった。痛いほどの静寂が棘を襲う。スマホはすでに深い沈黙の海に沈んでいた。