間奏 -後-

 俯いた棘は血の気を失うまで唇を噛みしめた。黙りこんだスマホはその悔しさを一身に受け止めたせいで、折り畳み式の携帯電話の如く、無残にも真っ二つに折れ曲がっている。

「狗巻くん……」

 胸骨圧迫を繰り返しながら、汗だくになった伊地知が小さく名を呼んだ。棘は顔をあげると、伏し目がちな目元に笑みを溜める。

「明太子」

 代わる、と静かに言った。もっともその静けさの下には、伊地知には到底計り知れぬ巨大な感情がさざ波を立てている。うすら寒くなるような棘の笑みに伊地知は絶句すると、目を逸らすように顔を伏せた。

 棘がゴミと化したスマホを足元に捨てた、そのとき。

「戦況を変えるのは力ではない。情報だ。そしてそれを決して無駄にしない頭脳と経験だ。この三つさえあれば、呪術など使えずとも白星をあげることは容易い」

 つい先ほどまで棘の鼓膜を震わせていた声音が、山の中にうわんと響いた。反射的にスマホに目を落とすが、画面は黒一色に染まったままだ。

 まさか。驚愕に目を瞠る棘が勢いよく振り返れば、

「呪霊を祓うこともまた然り、呪霊を騙る異形を祓うこともまた然り、だ」

 広葉樹にもたれかかるようにして、青年の姿をした呪霊が立っていた。

 喪服めいたダークスーツを着こなした痩身の青年は、巨大な黒いキャリーケースを引きながら、美しい所作でこちらへ近づいてくる。曲線を描いた茶髪の下に、理知的な笑みを浮かべて。

「い、一体どこから!」
「ワームホールだよ」

 叫んだ伊地知には一瞥も与えず答えると、青年はいずこから細い葉巻を取り出した。それを口に咥え、流れるような動作で火をつける。細葉巻の先端が橙色に滲んだ。

「術式を利用して量子空間を操れないかと思ってね。のリクエストでワームホールを作ってみたわけだが……なるほど、一方通行か。想像以上に厄介な代物だな。五条悟の空間転移より制限が多い。あれも一種の量子力学、法則にそれほど差異はないと思っていたんだが存外そうでもないらしい……これでは実用化には程遠いだろう。また一からやり直しだ」

 誰に向けられたのか定かではない言葉を切ると、青年は濃い紫煙を吐き出した。唖然とする棘に、その視線がぴたりと固定される。細葉巻からゆらゆらと煙が立ちのぼった。

「俺はお前の信用に足る人間なのか?」

 混沌の色を孕んだ三白眼が、飽食した悪魔のように細くなる。

「味方のふりをして寝首を掻く魂胆かもしれない。それでも力を借りたいと?」

 棘はこちらを値踏みするような双眸を真正面から見据え、決意と覚悟をこめて強くうなずいてみせた。

「しゃけ」
「……揃いも揃って。俺を疑うことを知らないらしいな」

 革の手袋をはめた指の間に挟んだ細い葉巻を再び咥えると、青年は持っていたキャリーケースをその場に倒した。キャリーケースの上部に乗せられていた機械が、転倒の衝撃で草の上を転がる。足のつま先にぶつかったそれを見て、棘は目を見開いた。

「AEDだよ。あとは手術道具一式と点滴と輸血、その他諸々」

 棘が顔をあげると、紫煙をくゆらせた青年と視線が深く絡んだ。

「あの女医からくすねてきた。始末書はお前が書けよ」

 青年はの傍らにしゃがみ込んだ。顎をしゃくって棘にAEDとキャリーケースを運ばせつつ、胸骨圧迫を続ける伊地知の顔を覗く。

「おい眼鏡。医学の心得は?」
「わっ、私ですかっ?!あの、いえ、その、ありませんが……」
「ふうん。だったらお前らはを見殺しにするつもりだったんだな」
「おかかっ」

 聞き捨てならない言葉を否定すれば、青年は嘲るように鼻で笑った。

「一緒だろ。仮に心臓が動いたとして、その先はどうするつもりだった?脳死だけじゃない、脳や身体のどこかに重度の障害が残る可能性を一瞬でも考えたか?」

 棘はたちまち声を詰まらせる。俯いた棘を見やり、青年はため息をひとつ落とした。

「そろそろ現代医学を必修科目にしたらどうだ?反転術式なんて使い手の限られたものにすがるのは馬鹿のやることだ。術師が早死にするのは逃走経路の準備不足と医療体制の甘さが原因だということを、お前たちはまだ理解していないらしいな。術師の母数は右肩下がり、呪いが見える人間の数も減少傾向にある。使い捨てのやり方を変えねば、呪術界に未来はないだろうよ」

 過剰なほどの嫌味を吐き散らしながら、革の手袋を乱雑に脱ぎ捨てる。赤く爛れたまだら模様の皮膚があらわになり、爪がないほど歪に変形した指先がキャリーケースを開き始める。

「すじこ」
「俺ならどうしたか?それを聞いてなんになる。ここにいたのは俺ではなくお前だろ」
「……しゃけ」
「常に最悪の状況を想定しろ。そして何十、何百、何千の打開策を用意しろ。絶望するな。決してあきらめるな。そうすれば運は勝手にこちらを向く」

 味わうように紫煙を吐き出すと、細葉巻を小型の携帯用灰皿に押しこんだ。己の無力さを噛みしめて沈黙する棘に、青年は悪戯っぽく八重歯を覗かせる。

「しけたツラすんなよ。お前があきらめなかったから、俺は今ここにいるんだろうが」

 その言葉に棘の顔が輝きを取り戻す。何度もうなずく棘を笑みをこぼすと、青年は伊地知に視線を移動させた。

「眼鏡。俺が執刀する。手伝え」
「執刀って……」
「ここでの腹を閉じる以外になにかあるか?」

 黙々と作業に取りかかる青年の答えは明快だった。胸骨圧迫を棘と交代した伊地知は、深呼吸を繰り返しながら顔の汗を拭った。

「呪いに手術ができるなんて」
「ちょっと待て。誰ができるなんて言った?」
「……は、はい?」
「知識はあるが手術経験はない」
「えぇっ?!」
「こっ、こんぶっ!」

 伊地知と棘は揃って驚愕した。青ざめたの顔を見下ろして、棘は一瞬この青年に協力を仰いだことを後悔しそうになった。

「誰しも必ず“一度目”を経験する、そうだろう?俺にとってはそれがたまたま今日だったというだけだ。そこまで驚くようなことか?」
「そう言われると、たしかにそうなんですが……」
「しゃけしゃけ……」
「ぶっつけ本番だが、ドラマで見たから大丈夫だろう。イメトレは完璧だし、それに今日は星回りがいいんだ。俺に運が向いている」
「ドラマで見ただけなうえに運任せなんですか?!」
「高菜っ!」
「俺、絶対に失敗しないので」
「それ絶対に失敗するやつじゃないですかーっ!」
「おかかおかかおかかーっ!」

 伊地知と棘は喚き散らした。このままではが医療ミスで殺されてしまう。二人の心配をよそにAEDを起動させた青年は、涼しい顔で黒のネクタイを外した。それをポケットに入れていたライター、そして革の手袋とともに棘に手渡す。

 ポカンとする棘に一瞥も与えず、青年はAEDの音声に耳を傾けながら指示をだした。

「呪言師、このまま全力で北へ走れ。獣道を進んでしばらくすると、大きな桜の木が見えてくるだろう」
「しゃけ」
「そこで火を起こし、そいつを全部焼け。不動明王の真言を唱えながらな。真言は小咒でいい。天にお前の思いが届いたなら必ず智慧と救済を――あいつとの縁を授けてくれるはずだ」

 指示を聞いた棘は、呪印が刻まれた自らの口を指差した。

「ツナ」
「いや、呪言のほうが都合がいい。真言は知ってるな?」
「おかか」
「はあ?お前呪術師だろ。呪術高専でなにしてんだ?とイチャイチャしてる暇があったら火界咒くらい受持しろよ。死んだら成仏できるぞ」

 残念ながら、棘は神仏と感応できるほどの熱心な信仰心は持ち合わせていない。棘は生まれ持った呪言のせいで数え切れないほどの悲しい思いをしてきた。神仏にすがったところで、たいしてなにも変わらなかったのだ。

 神仏を決して否定するわけではないが、術師としての自分にはそのやり方は合わないだろうな、というのが棘の下した結論だった。

「ノーマクサンマンダー・バーザラダン・カン」

 青年が告げた真言を信仰心の薄い棘が唱えたところで、一体どれほどの効果があるのだろう。訝しみつつも、棘はその真言を胸に刻んだ。を助けるため、今はこの青年にすがる他ないのだ。理解したことを示すように、棘は「しゃけ」と強くうなずいた。

「すべてがお前にかかってる。俺が本当の意味で協力するかどうかは、その結果次第だ」

 言うと、青年は黒い上着を脱いで棘に投げ付けた。そして、棘には到底理解できない激励を口にする。

「ついでに持っていけ。男を見せてこい」



* * *




 ――なにかがおかしい。

 満開に咲き乱れるしだれ桜の下でひとり、棘は首をひねっていた。

 あの青年の指示通り、北を目指して全力で走り、鬱蒼と覆い茂る獣道を駆け抜け、目印となる大きな桜の木に辿り着いた。枯れ木同然の桜の下で、棘はそこらじゅうから草木を集めてくると、小さな山のように積みあげ、

「――枯れろ」

と身体に僅かに残った呪力で、青々とした草木を半ば強引に燃えやすい可燃物へと変えた。そしてすぐに火を起こした。濁った煙がもうもうと立ちのぼる。青年の言葉を思い出しながら、橙色の炎の中に黒のネクタイと革の手袋をそっと投げこんだ。

「――ノーマクサンマンダー・バーザラダン・カン」

 不動明王の小咒を唱えた瞬間、視界が白く揺らめいた。その揺れは次第に振れ幅が狭くなり、地面ごと揺さぶられてるような感覚に陥るほどだった。

 異様な揺動に棘は思わず目を閉じ、ややあって目蓋を開いたときには、枯れ木同然だったしだれ桜が、どういうわけか季節外れの満開を迎えていた。

 そして今に至る――というわけなのだが、なにかがおかしい。棘は違和感の原因を探るように、首を何度もひねる。

 枯れていたはずの桜が咲き乱れたこと。実に不可解だ。山は平地に比べて涼しいとはいえ、夏に桜が咲くのは変だ。断言できる。しかし、違和感の原因はこのしだれ桜ではない。

 魚の小骨がのどに引っかかったような気分だった。眉間にしわをよせながら、棘は淡く色づく桜を見あげ、そこでようやく気づいた。

 桜の木は、これほど大きかっただろうか。

 咲き乱れるとともに巨大化したのかとも考えたが、桜を見あげる自分の頭の重さに違和感を覚えた。身体の重心の位置がいつもと違うような。

 はっとなった棘は首の位置を元に戻した。違和感の原因に辿り着く。

 おかしいのは目の高さだ。たしかに棘は(認めたくはないものの)(それにまだ伸びる可能性はある)(だから今のところは)日本人男性の平均身長を大きく下回るほど小柄だ。しかし、だからといってここまで目線は低くなかったはずだ。

 これではまるで子どものようだと込みあげる笑みをこぼし、いやいやそんなまさかな、と確かめるように自らの手のひらを見つめ――思考が数秒停止した。

 大きめのモミジのようなちっちゃな手が、棘の眼前に映りこんでいる。全身から血の気が引いた。

「こ、こんぶっ!」

 変声期前の、鈴が鳴るような甲高い悲鳴をあげる。変わり果てたちっちゃな手で、棘はぺたぺたと顔を触る。つるりとしていて弾力がある。触り心地のいいの肌に負けず劣らずもちもちだった。

 幼児と化した棘を嘲笑う青年の底意地の悪い顔が、脳裏にありありと浮かぶ。

「おかかーっ!」

 騙されたーっ!と棘が頭を抱えて叫んでいると、

「……あれ?子ども?」

と、ひどく穏やかな声が耳を打った。

 慌てて我に返って振り向けば、そこには小柄な女が立っている。満開の桜と同じ色の着物を身に纏った妙齢の女は、幼児になった棘を上から下まで目でなぞってみせた。そして、人好きのする優しい笑みを浮かべたまま、棘と目線を合わせるように、目の前でゆっくりとひざを折った。

「どうしたの?ボク、迷い込んできちゃったの?」

 心の底から心配している声音に、棘はひどく動揺した。なんと答えればいいのか皆目見当もつかなくて。棘が沈黙していると、女は棘を安心させるように言葉を継いだ。

「あのね、ボクが迷い込んだのはカクリヨだよ。パパとママのいる常世じゃない――って言っても、わかんないか。帰り道がわからないよね。案内してあげる」

 カクリヨ。その耳慣れない単語が、温泉で聞いた会話を掘り起こす。

「“あの鳥居の向こうはかくりよや”――この辺りに住むご老人は口を揃えて言う。かくりよ……つまり死者の国のことさ。黄泉に繋がっていてね、“常世”とも言う」

 まさか自分は死んだのかと棘は青ざめたが、すぐに女の言葉に違和感を覚える。この女は今、“パパとママのいる常世じゃない”と言った。“かくりよ”は常世や死者の国の別称のはずだ。

 棘を死者だと勘違いしているなら、女の言う“カクリヨ”は一体どこだというのだろう。

 着物の女は呆然とする棘のちっちゃな手を取ると、ひざを伸ばして立ちあがった。

「すぐに帰れるよ。大丈夫だからね」

 穏やかな笑みを見あげながら、棘は首をかしげた。この女、どこかで見たことがあるような。

「それにしても大きな服だね。引きずってるけどいいの?」
「つ、つな」
「つな?……その服ってボクのパパの――んん?」

 突然女は眉をよせて、再び棘の前でひざを折った。まっすぐに見つめられた棘は一言も話せなくなるほどだった。女の顔がひどく真剣だったせいではない。

 女のその双眸――両の虹彩に、華奢な金色の模様が重なるように浮き出ていたからだった。

「……ちょっとごめんね」

 言うと、女の唇が美しく動いた。虹彩に浮かぶガラス細工のような細い金色がたちまち色を変えていく。

「不可逆漆式――“誘”」

 決して同じ形を刻むことのない美しい金色の模様が、血を流したように真っ赤に染まった。鮮やかな赤は女の虹彩で曲線を描き、絡み合ったり離れたりを繰り返しながら、棘の瞳を釘付けにした。

 だから、突然その美しい模様を描く双眸から大粒の涙があふれたとき、棘はひどく狼狽してしまったのだ。自分のせいかと思って。

「た、たかなっ」

 目を伏せて、女は泣き崩れていた。必死に声を殺すようにして。

「たかな、たかな」とおろおろする棘に手を伸ばすと、とても狭い肩にかけていた大きすぎる上着の裾を女の手が掴んだ。手の甲の血管が青く浮き出るほど、力強く。

 ああ、そういうことか。

 女に覚えていた既視感。この女には、たしかにあの老婆の面影がある。春、イザナミの“領域”に入ったとき、儀式の中心になっていた老婆。喚んだ壱番目の姿が術者の大切な相手だと言うなら、この女こそ――

 強張っていた棘の肩がすとんと落ちる。棘は羽織っていた上着を脱ぐと、それをそっと差し出した。ちっちゃな指で上着を示したあと、両手でぎゅっと拳を作った。元気だよ、と言うみたいに。

「めんたいこっ」

 棘が満面の笑みでたどたどしく伝えると、女は顔をくしゃくしゃにして泣いた。今度こそ子どものように大声をあげて。黒い上着を掻き抱く女の背を、棘はちっちゃな手で撫で続けた。女の身体に渦巻いた悲しみが、少しでも薄まることを願って。

 数分ほど経って、女がようやく顔をあげた。

「時間がないのに本当にごめんね。もう大丈夫。今から君の願いを叶えるよ」

 手の甲で涙を拭うと、女は穏やかな笑みをたたえる。

「安心して。わたし、運命を変えられるからね」


第4章 了