反撃 -後-

さん、合流地点までもう少しです。頑張ってください」
「はい」

 一瞬でも気を抜けば、激痛に意識を取られそうだった。こぼれそうになる悲鳴を歯を食いしばって耐えながら、懸命に足を前へと進める。体力が削られている中で急勾配の細い山道をのぼるのは、肺が潰れそうになるほど苦しかった。

「ほら、少しずつ近づいてきましたよ」

 わたしの左肩を担ぐ伊地知さんは前方を見据えたまま、絶えず言葉を紡ぎ続けている。その額には大粒の汗が浮かび、重力に従うようにあごを伝って流れ落ちていく。間を置くことなくずっと喋り続けているのは、意識が霞みはじめたわたしのためだろう。

「狗巻くんは無事です。絶対に合流できます」
「それってよくある死亡フラグじゃないですか……」
「ちっ違いますよ!」

 気丈に歩けたのはほんの数分のことで、右腕を切断された痛みはわたしを頭から串刺しにした。すぐにひとりで立っているのも難しくなり、今は伊地知さんに支えられてなんとか歩行できている状態だ。

 少しずつではあるものの、右腕の切断面から血が流れている。きっと止血が不十分なのだろう。だからといって足をとめている暇はなかったし、ここには医者もいなければ充分な医療器具も揃っていない。幸い伊地知さんは気づいていないか、もしくは気づかぬふりをしてくれている。棘くんとの合流が最優先事項であることに変わりはなかった。

 激痛に襲われながら、多量の血液を流しながら、それでも失神もせずかろうじて動けているのは、当然ながらわたしの精神力によるものではない。わたしの肉体がイザナミさんによって創り出された“贋物”だからだ。人並み以上の耐久性を備えていることは救いだった。

 目線だけで辺りを見回しながら、伊地知さんが小さな声で呟いた。

「……襲ってきませんね。視線は感じますが、敵意はまるで感じられません」
「指揮を取っていたのがさっきの一級だったんだと思います。でも、ちょっと変ですね」
「変?」
「たとえ指揮系統が乱れても、こちらが攻撃対象なら少しくらいは襲ってきそうなものなんですけど……」

 わたしが一旦言葉を切ると、伊地知さんの視線が泳いだ。数秒の沈黙を挟んで、意を決したように息を吸いこむ。

「あの、さん、狗巻くんと合流したら――」
「逃げないですよ。治療もしません」
「……こんなひどい状態でどうやって戦うつもりですか。もう無茶苦茶ですよ……今だって、立っているのでやっとでしょう」
「たかが右腕一本です。ちゃんと銃は持てますから」

 言いながら、銃を掴んだままの左手を持ちあげてみせる。伊地知さんが下唇を噛んだとき、前方でなにかが破裂するような爆発音が響き渡った。困惑を含んだ悲鳴がすぐ隣から聞こえる。

「い、今の音はっ?!」
「棘くんの攻撃だと思います」

 淡々とした返答に眼鏡の奥の双眸が凍りつく。痩せたかんばせから血の気がみるみる引いていく。

「あ、あんなに強い呪言を使ったら、狗巻くんが」
「あの音は呪言じゃないですよ。C-4を用いた小型のプラスチック爆弾です」

 もつれるような語調を遮って足を前に踏みだせば、いきなり厳しい表情になった伊地知さんが非難の声を放った。

「どういうことですか!さん、あなたって人は本当に!」

 珍しく怒鳴り散らす伊地知さんに、ぺろっと悪戯っぽく舌をだしてみせる。

「……あれ?知ってました?」
「知ってるも何も軍事利用されている立派な兵器じゃないですか!違法に作ったってことですよね?!どうしてそんな危険な物を!というか誰の許可で――」
「その“危険”の基準ってなんですか?」

 その問いかけに、伊地知さんは面食らったようだった。わたしは歩く速度をあげながら飄々と言葉を継ぐ。

「道具を必要としない棘くんの呪言や伏黒くんの式神のほうが、“見えない”わたしにとってはどんな兵器よりも怖い。五条先生の術式なんて天変地異と同じです。五条先生に比べれば、わたしの作った“呪具”なんて可愛いものだと思いますけどね」
「だからって……」

 けれどそれ以上の責め句は無駄だと察したのだろう、伊地知さんはすぐに話の矛先を変えた。

「呪い相手に使用できるほどの威力があるんですか?」
「五条先生のお墨付きです。虎杖くんに練り込んでもらった呪力と相性もいいらしくて」
「虎杖くんまで巻き込んで……」
「あ、呪力コントロールの修行もかねてますから」
「そういう話をしてるんじゃありません!」

 いけしゃあしゃあと答えると、伊地知さんがやかましく騒ぎ立てた。その瞬間、二度目の爆発音が鼓膜を叩く。今度は熱を含んだ爆風が顔を撫でた。棘くんはすぐそこにいるらしい。

 虎杖くんと一緒に作ったプラスチック爆弾は、前もって双葉荘に送っていたものだ。イザナミさんの調査となれば、なにかが起こる可能性もゼロではないだろうと思って。とはいえ棘くんに黙って用意していたものなので、作戦会議では「お、か、か!」ときつくお灸を据えられてしまったのだけれど。

 と、そのとき――目の前の深緑が大きく揺れ動いた。身構えた途端、枝葉をかきわけるように砥粉色の頭が飛びだしてくる。緊迫した双眸がわたしを捉えるや否や、

「こんぶっ!」

 鬼気迫る響きにわたしは身体を後ろに引いた。棘くんはしなやかに上体をひねると、手に掴んでいた爆弾を多い茂った緑の中へ勢いよく投擲する。わたしは伊地知さんに向かって叫んだ。

「目を閉じて息を止めて!」

 刹那、爆弾は炸裂した。強烈な閃光と催涙効果をもたらす煙が立ちこめ、地鳴りのような雄叫びが腹の底まで響く。特級呪霊の苦悶の声がこだましていた。

 口の周りを血で汚した棘くんが駆け寄ってくる。鮮血に彩られた唇が小刻みに震えているのは、わたしの右腕に目を落としたせいだろう。乱れた呼吸を繰り返す棘くんの白い顔がさらに蒼白になる。

「高菜」
「まだ死んでないよ。棘くんは?」
「……すじこ」

 かすれた濁声に苦笑を返すと、白い煙を見つめていた伊地知さんが割りこんできた。

「あれもプラスチック爆弾ですか?」
「さっきのとはちょっと違います。爆薬にマグネシウム、アルミニウム、アンモニアを混ぜ込んだ特製の催涙閃光弾です」

 棘くんの朱唇がゆがみ、「おかか」と顔前で腕を交差させて罰点を作る。足止め用の催涙閃光弾が底をついたらしい。膨らみのなくなった黒いリュックに目をやりながら、わたしはすぐに尋ねる。

「他も全部?」
「しゃけ……」
「そっか」

 特級呪霊と距離を置くために後退しつつ、伊地知さんから逃れるように身体を離した。そしてその場で軽く頭をさげる。

「ここまでありがとうございました」
「……さん?」
「伊地知さんは逃げてください」

 眉根をよせた伊地知さんが何度もかぶりを振る。

「最後までお手伝いすると――」
「二十分……いえ、十五分経ったらここに戻ってきてください。死体が転がっていると思うので高専と警察、それから消防に連絡をお願いします。ついでに五条先生にも」

 怒り狂った咆哮が空気を震わせていた。棘くんの顔に焦燥の色が走る。もたもたしている時間はない。

「……十五分」
「安心してください、伊地知さんが巻き込まれないように多く見積もってますから」

 口角を強引に引っぱりあげて笑みを作る。両膝が笑っていることに気づかれていないだろうか。自分の命が残り五分で終わるとは考えたくなかったし、少しでも気を抜けば涙が溢れてしまいそうだった。誰よりも守りたかったはずの棘くんを巻き込んだ自らの弱さが、今はただひたすらに憎かった。

 急いた様子で、棘くんが青ざめた伊地知さんの背中を強く押した。

「狗巻くん」
「ツナッ」
「……さんをどうかお願いします」
「明太子」

 翳りも衒いもない無邪気な笑みを一瞥して、伊地知さんが山道を駆けおりていく。伊地知さんは一度も振り返らなかった。その背中を見送るより早く、後方から草を踏みつける音がした。眼前に迫った死の恐怖にいななく左手に強い力をこめる。

「さてと。カッコつけちゃったし、精一杯頑張ろっか」
「しゃけしゃけ」
「あんまり奮闘すると伊地知さんを巻きこんじゃうからほどほどにね」
「いくら」
「伊地知さんまで道連れにするのは可哀想じゃん」

 軽口をたたき合いつつわたしは後退し、棘くんはわたしを守るように前に移動する。瞬間、目の前で白い光が閃いた。一刀に切断された草木が音を立てて落ち、その向こう側に太刀を構えた呪霊の姿が見える。意味を成さない言葉をぶつぶつと呟きながら、わたしたちを静かに見据えている。

 先に動いたのは棘くんだった。

 人間離れした跳躍力で呪いに迫れば、迎えるように白刃がきらめく。けれど棘くんの瞳は斬撃を完全に捕捉していた。きっと相手の動きや速さに目が慣れてきたのだろう。横一線に振るわれた刀は宙を切って風を起こしただけだった。

 地面に這いつくばるように躯体を屈めていた棘くんは、息つく暇もなく相手の懐に潜りこんだ。太刀を持つ右手首を左手で掴むと、呪いの太い腕を捻じるようにして動きを奪う。

 呪霊が棘くんに向かって拳を振りあげたときには、

「――当たれ」

と呪われた言葉で照準を固定されたレーザー光線が右肩を貫いていた。引鉄に引っかけたわたしの人差し指はずっと震えたままで、棘くんの後押しがなければきっと外していたことだろう。

 口から多量の血を噴きながらも、棘くんが力任せに絶対零度で凍りついた腕を引き千切る。こぼれ落ちた得物が草むらに沈んだ瞬間――凍結したはずの右肩の切断面が膨張した。覗いていた白い骨の周りを真っ赤な肉が埋め尽くす。

 血相を変えた棘くんがつま先で地面を蹴ったもののすでに遅い。無傷だった呪いの左手が棘くんの衿を掴みあげると、そのままわたしに向かって投げつけてきた。

 互いの距離が短すぎて、受け身をとることすらできなかった。棘くんとぶつかった凄まじい衝撃が身体の前面に襲いかかる。負傷した右肘にまで重たい衝撃が走り、どこかに意識が飛びそうになるのを気力を尽くして懸命にこらえた。

 気づけば、わたしたちはもつれるように地面に倒れていた。呻きながら目蓋をこじ開けると、妙に目の前が白い。頭を強く打ったのかもしれないと他人事のように思った。

 深緑の奥でなにかを呟いている呪いの新しい右腕には、先ほどと変わらず白刃が握られている。わたしは再び多量の血液をふりこぼしはじめた己の右腕を目でなぞった。細い息をなんとか整えようと試みながら、かすれた声を懸命に押しだす。

「……いいな、アレ」
「おか、か……」

 呪霊の再生力を羨んだわたしに“どこが?”と言い放つと、息も絶え絶えに棘くんは身体を起こした。わたしは地面に倒れ込んだまま、ともすれば血で滑りそうになる鈍色の銃をのろのろと持ちあげる。宙を彷徨う左手を棘くんが固定した。昏い銃口は頭部に向けられている。

「――当たれ」

 放たれたレーザー光線は白い面紗ごと頭部を撃ち抜いたけれど、数秒も経たぬうちに赤い肉片が膨らみ、元の形を縁取っていった。まるで逆再生でもするかのように。

「こんぶ」
「……やっぱり駄目か」

 有効な攻撃手段はわたしの手に収まるレーザー冷却装置だけだった。あの再生能力に限界はないのだろうか。それさえなんとかできれば希望は見えてくるはずだった。

 呪力は無限に湧くものではない。ならば再生させ続ければいつかは――棘くんもわたしと同じ考えのようだった。視線を絡めてうなずき合う。呪言で照準を合わせながら引鉄を引き続けたのも束の間、五度目のレーザーは発射されることなく銃は沈黙した。

「こんなときに……」

 呪力切れを起こした兵器に棘くんが手を添える。わたしは強くかぶりを振って、気力だけで身体を持ちあげる。

「駄目」
「おかかっ!」
「棘くんの呪力は他に使ってほしいから」

 棘くんの呪力も限界が見えている。これ以上の無駄撃ちはできなかった。

 立ち尽くす呪霊の焦点は定まらず、次の動きがまったく読めない。理性的な生き物とはほど遠い感じがした。

 それでも、眼前の敵がこちらの攻撃をまるで避けようとしないのは、その再生能力に頼り切っているせいだということは理解できた。ならばとわたしは顔をあげる。

「呪力を乗せて思いっきり叫んで」
「……こんぶ」
「呪言じゃなくて、いつものおにぎりの具で」

 前触れもなく呪いの足が動くや否や、目にもとまらぬ速さでこちらとの距離を一気に詰めた。横薙ぎの一線が視界で閃く直前、わたしの腰を抱えた棘くんが大きく後ろへ跳んでいた。

「どうせ死ぬんだよ?だったら最後にわたしに賭けてみない?」

 わたしを地面に下ろした棘くんは、どこか楽しそうに笑う。「こんぶ!」と言いながら。

 ――最初から賭けてる。

 その言葉は、他のどんな言葉よりもわたしを強く鼓舞した。

「回数は三回。同じ言葉をできるだけ同じ速さで繰り返して。その三回で絶対になんとかするから、呪力の出し惜しみだけはしないで」
「しゃけっ!」

 清々しいほどの肯定はわたしの背中を押す。わたしは銃から手を離し、開いた左手を前に突きだした。銃の落下音と同時に、円を描くように手首ごとひねる。

 意識は数字の海へと真っ逆さまにダイブする。意図的に呪霊の魂を触るなんて初めての試みだったけれど、不思議と怖くはなかった。“彼”に導かれているような気がしたから。

「ツナマヨッ!」

 脳髄を揺らしたのは、ただのおにぎりの具だった。なんの意味も持たない、棘くんが一番好きなおにぎりの具の名前。その響きを噛み砕く。息を深く吸いこみながら感覚する。脳内には無数の数字が浮かびあがっていた。

 そこからは単純な作業だった。数字を取捨選択し続ける。不要な数字を消し、必要な数字を足し、求める数に限りなく近づけていく。

 ――計算しろ、計算しろ、計算しろ!

 数字を揃えろ。寸分違わず合わせてみせろ。魂の情報を一から書き換えるために。

は意味を深く考えすぎ。無駄が多いんだ。もっと魂の構造を理解しろ。近似値を求めてるうちは絶対に“それ”は使えないよ”

 ノートに書き殴られた文字が頭の中で弾けていた。奥歯を軋ませながら、特級呪霊をまっすぐ見定める。

 わたしの手の中に棘くんの命があると思うと恐ろしかった。たった一度の計算ミスが棘くんの命を奪うのだと考えるだけでたちまち数字が乱れていく。心は揺れていた。迷っていたし悩んでいた。一瞬で正解が見えなくなる。思考は意味のない数字に埋め尽くされる。

 けれど相手は待ってくれなかった。わたしの動きに異変を感じたのだろう、容赦なく太刀を振るった。棘くんがわたしを強く突き飛ばす。地面に転がることで白い切っ先を寸でのところでかわしたとき、棘くんがわたしを一瞥してもう一度唇を開いた。

「ツナマヨッ!」

 一致しなかった数字が一気に崩れ落ちたのがわかった。数字は明らかに足りなかったし、余分な部分も多かった。そもそも正解が見えていない時点で、どうにもならなかった。

“好きな相手の声なんだろ?計算なんかすっ飛ばして一瞬で弾き出してみせろよ”

 あの角ばった字面に手を引かれていくようだった。意識がどんどん透明になっていく。鮮明で明瞭になり、正解はすぐそこに見えていた。周りの音は途切れたように聞こえなかった。より意識を研ぎ澄ます。必要な数字と不要な数字が輪郭を持って浮かびあがる。一心不乱に取捨選択を繰り返した。

 呪いの姿が消えて、代わりに影が伸びていた。気取られたのだろうか。なんにせよ時間はなかった。今にも脳が焼き切れそうだ。

 周囲を警戒する棘くんの前に身体を滑り込ませた瞬間、白刃がわたしの横腹を深く抉る。わたしは呪いの着物を左手で強く掴んで自らのほうへ引き寄せた。至近距離で棘くんの声をぶつける必要があったから。腹に刺さった太刀がより深く進んでいく感覚だけがそこにあった。

 ――阻まれるな。

 痛覚はもはや麻痺していた。すべての神経が打ち寄せる数字の波を正解へ導くことに集中している。血液が口から溢れても数字を睨み続けた。面紗の奥で呪いがいびつな笑みを浮かべたそのとき――耳元でぱちりと音が鳴ったような気がした。ジグソーパズルの最後のピースが綺麗にはまるように。

「棘くん!」

 それを合図にわたしと棘くんの声が重なった。

「――落禍無常」
「ツナマヨッ!」

 響きに呼応するように――特級呪霊の巨躯は瞬く間に崩壊した。崩落した肉塊が地面に赤い血だまりを作っていく。

 達成感はなかった。安堵すらも。虫にでも食われるかのように、意識が千切れかけているせいで。

「高菜!」

 膝から崩れた身体を棘くんが支えてくれた。視界の端に映っていた呪いの肉体がたちまち消失する。わたしを見下ろす棘くんの双眸は戸惑いに揺れていた。赤い唇から落ちた血液はまるで雨のようだった。

「あれは、ね……呪術じゃない、よ。科学……物理かな……」

 忘れていたはずの痛覚が戻り、ひどい寒気に襲われる。思考は次第にか細く、途切れ途切れになっていく。

「こんなことしか、思いつかなかった……たいしたこと、できなくて、ごめん……ね」
「高菜っ!」

 妙に遠くに聞こえた切羽詰まった声を最後に、わたしの意識はふっつりと途絶えた。