間奏

 天と地が反転した世界の中で、鏡で幾度となく見た自分の顔がこちらを見つめていた。

 見開かれたその双眸と視線が絡んで、呼吸が一瞬にして停止する。乱れ尽くした色あせた髪がなびく。両手から傷だらけの拳銃がこぼれ落ちる。その首には、横一文字の赤い線が刻まれていた。

 眼前で血飛沫が舞った。鉄さびた臭いが鼻孔を焦がす。首から切り離された頭部が鈍い音とともに草むらに沈んだ。残った身体は瞬く間に切り刻まれ、肉片となった赤い塊がぼたぼたと地面に散らばった。

 鈍色の光が見える。底なしの殺意にまみれた呪いの瞳が棘を射抜いていた。身体が硬く強ばる。死を形作る恐怖に頭からのまれそうだった。お前もすぐに同じようになるのだと告げられているようで。

「イヌマキくんっ?!イヌマキく――」

 悲痛なの叫びがさえぎられたときには、弾かれるようにその痩躯が宙を舞っていた。悲鳴をあげる暇もなく大木の幹に叩きつけられた肉体が、力なくずり落ちていく。黒い着物姿の男が太刀を片手にに近づいた。

 激情で目の前が真っ赤に染まっていた。を助けようと身をよじった途端、「じっとしぃや」と苛立ち混じりの声が頬を打った。強い呪言の代償で深く傷ついた気道をきつく締めあげられ、たちまち視野が混濁する。

 無数の橙色が消え失せて、の足元にいたはずの穴熊たちも姿を消した。一秒と経たぬうちに領域が解けていく。夜に覆われた深山特有の死んだような静寂が、仰向けの棘を襲いはじめる。

「供犠の依り代には手をだすな。あの御方ごと消されかねぬわ」

 訛りの減った厳しい語気が落ちてきた。男の足がとまると、気を取り戻したが弱々しく咳き込んだ。掠れた声音が暗闇に響きわたる。

 棘は自らにのしかかった女の呪いをにらみつけた。かろうじて呼吸ができる程度に首を絞められ、呪印が刻まれた舌を細い指で強くつまみあげられている。絞りだす声は一向に意味を含んだ言葉にならず、また呪いを纏うこともなかった。

「少々やりすぎたか。すまぬ」

 悪びれもなくそう言うと、女は小首をかしげる。

「うぬは喋れず、供犠の玩具は壊れ……さて、いかように我らを殺す?」

 手足を持ち上げようとしたものの、黒い着物姿の呪いたちに押さえつけられているせいでびくともしない。自分の無力さを叩きつけられながらも、棘は懸命に拘束から逃れようともがいた。肩が外れるのもいとわずに。

 離れで遭遇したときから、圧倒的な戦力差はわかっていた。

 双葉荘から離れた山奥まで特級呪霊と一級呪霊をなんとか誘導したものの、棘とにできたのはそこまでだった。その時点でのどを癒す薬は完全に切れていたし、強い呪言の連続使用で咽喉も内臓も限界に差しかかっていた。の喚んだ呪いも片足が切り落とされていて、放つ銃弾はまるで歯が立たなかった。

「ここは我らの土地ぞ。贖の宿業を呪う“邪”の棲まう土地ぞ。供犠の依り代ならまだしも、縁もゆかりもない余所者のうぬでは分が悪い。呪言の効果も無に等しい。もうわかっておろうに、何故降伏せぬ。そう足掻いたところで――」
「棘くんっ!今助けるから、だからっ!」

 懸命な叫びが静寂を裂くようにこだまする。けれど、棘のほうへ駆け出そうとしたの首根っこを男が軽々と摘まみあげてしまう。の足が地面から浮いて、低いうめき声がこぼれ落ちた。

 必死で両足をばたつかせるを見て、「健気やねぇ」と女は小さくため息を吐いた。呆れ返った様子でぼそっと声を継ぐ。

「あの女も阿呆やわ。なんで庇ったんやろ」

 訛りの強い言葉に棘が確信を掴んだとき、前触れもなく棘の舌が解放された。戸惑いよりも焦燥が勝る。わずかな隙を見逃すわけにはいかなかった。

 呪言を放とうとしたときにはすでに、女と呪いたちは棘の身体から距離を置いていた。白い面紗を着けた女が棘を見下ろしながら、歌うように滑らかに告げる。

「消えよ。星が告げた。ついに呪詛が集う。供犠に満ちた呪詛はその身を穿ち、吊るす。魔は既に哭いたのだ。うぬには真に人たるや者の囀りが聞こえぬか。供犠に僅かな時も残されておらぬ。ならば生き急ぐこともなかろうや」

 言葉の意味を半分も理解できなかったし、そもそもそんな余裕はどこにもなかった。殺さなければ。早く殺さなければ。目の前の呪いを祓うことで、棘の頭はいっぱいだった。

 そこにどんな理由があろうとも、人を殺めた呪いを見逃すわけにはいかない。呪術師として生きると棘は決めたのだから。

 けれども脳髄はすぐに女の向こうに立ちつくす男を認識する。そして、勝つ算段がひとつもないことを棘にきっぱりと告げるのだ。

 棘を満たすのは絶望だった。死の輪郭が明瞭に浮かびあがっている。ここで棘が下手に動けばの命も危ういだろう。言葉の通じる女はまだしも、意味不明な言葉を繰り返している男は見境がない。仮に女を祓えたとしても、女という手綱を失った男に満身創痍の棘がひとりで太刀打ちできるとは思えない。

 選択肢は逃走、ただそれだけだった。白銀の髪が脳裏をちらついて、悔しさに奥歯を噛んだ。五条のように強ければ、そうしたら。

「この地の罪過は我らが裁く。余所者は去れ」

 女は冷酷に吐き捨てると、意味を成さない言葉を繰り返す男とともに、闇に染まった山の奥へと消えていった。今さら全身からどっと冷や汗が噴く。生きた心地がしなかった。

 身体に力がまったく入らず、満天の星をぼんやりと見つめる。草を踏みしめる不規則な音が耳をなでた。

「……見逃されたの?」

 右足を引きずって、が棘のもとに歩いてきた。痛みをこらえるように、わずかに顔をしかめながら。

 地面に仰向けになったまま、棘はうなずくこともできず、かろうじて動く左腕で顔を隠した。鼻の奥に、血の匂いがべったりと焦げついている。



* * *




 脱臼した右肩を嵌め直していると、高専への連絡を終えたが桔梗の間に戻ってきた。捻挫で腫れあがった右足を引きずるようにして。

 机の上に置いた白い包帯を手に取って、半裸になった棘の後ろにひざをつく。

「棘くんは帰ってこい、だって」

 棘の肩に包帯を巻きながら、は淡々と告げた。あっという間に血の気が引く。棘が険しい顔でかぶりを振れば、泣きたくなるほど穏やかな声が返ってきた。

「駄目だよ。死にたいの?」
「おかかっ」
「馬鹿なこと言わないで。これは上層部の決定だよ。狗巻棘は帰還せよ。逆らうのは得策じゃない」

 が立ち上がると、棘も慌てて立ち上がった。棘に背を向けたの手を強く握り、憤りをぶつけるように抗議する。

「おかかっ!」
「今すぐ帰って。わたしが死ねば必ず五条先生が動いてくれる。あの人は最強だよ。だから安心して?」
「こんぶっ!」
「ううん、ここで死んだほうがいいと思うんだ。イザナミさんの思惑は果たされないまま終わるんだもん、きっとそのほうがいいよ。それに死ねばイザナミさんに会えるし、なにを企んでたのか直接訊いてみようかなって」

 淀みなく言葉を紡ぐと、は棘を振り返った。棘はすべての言葉を失った。の顔には、すっきりと晴れやかな笑顔が浮かんでいる。

「ばいばい、棘くん。わたしを彼女に選んでくれて、ありがとう」

 目頭がかっと熱くなって、視界が涙で揺らぐ。は笑みを刻んだまま、「たくさん食べて、ちゃんと生きてね」と芯に響くほど優しい声色で続けた。棘は顔を伏せて何度も頭を左右に振る。必死で拒絶を示す。

 が上層部の決定に逆らわないのは、棘のためだ。呪術師として生きるしかない棘のための行動だった。不甲斐なさに涙がとまらない。をさっさと“処分”したい上の連中にとっては好機だろう。

 逃げようと言ったところでは首を縦に振らない。生きる方法が限られている棘のことを考えて、きっとひとりで死ぬことを選ぶ。だれも恨むことなく、朗らかな笑顔で。

 だからといって、はいそうですかと見送れるはずがなかった。認められるはずがなかった。繋いだ手が離れないよう、必死で指を深く絡める。

 自分に今なにができるかを必死で考える。とはいえ散らかった頭にはの死という逃れようもない現実が横たわる。まったく思考に結びつかない。それでも棘は最悪の未来を回避するためのすべを見つけだそうとする。

「棘くん、離して」
「おかか。すじこ。ツナマヨ」

 死をすんなりと受け入れていることが信じられなくて、枯れた声で棘は理由を問うた。ただの時間稼ぎのつもりだったのに、の笑顔が引きつる。はっとした。棘は自らの胸を空いた手で掴んだ。訴えかけるように。

「こんぶ、明太子、いくら」

 死にたいわけじゃないだろ――そう言うと、はしばらく沈思して、それから「じゃあ、一分だけ本当のことを言うね」と呆れたように笑った。

「あーあ、妬いちゃうな」

 茶目っぽい口調で切りだされた言葉に、棘は大きく目を瞠った。

「棘くんはこれから先、わたしじゃない人と結婚して幸せに暮らすんだよ。みんなに祝福されながら、わたしじゃない人との子どもをたくさん作って、愛情いっぱいに育てて、笑顔があふれる時間を過ごして、それで……それで」

 はそこで言葉を切ると、顔を深く伏せる。

「……死にたくないよ」

 掠れて聞き取りづらい声が、棘の耳に確かに届いていた。

「棘くんの隣にいるのはわたしがよかった。死にたくない。怖い。いやだ、まだ死にたくない。世界を変えようって決めたばかりだったのに、まだ棘くんに抱かれてもないのに、なんで」

 涙を含んだ響きだった。無理に作った笑顔の仮面が、の顔からはがれ落ちていく。

 棘はの手を引いて抱きよせた。細い身体はガタガタと震えている。恐怖に押し潰されそうになりながら、は懸命に己の役目を果たそうとしていた。震えを押さえこむように、棘はを強く抱きしめる。

「おかかっ」
「駄目だよ、早く帰って。わたし、絶対に化けてでてやるから。それで、棘くんがこの先恋愛ひとつできない独身男になる呪いとして、死ぬまで憑りついてやる。里香ちゃんみたいに強い呪いに転じてやる。それで我慢するから、だから」
「おかかっ!すじこっ!いくらっ!」

 怒号が口から飛びだす。の選択は思いやりでもなんでもなかった。棘を頼るでもなく、逃亡の提案をするでもなく、自らが生贄となって棘を生かす選択を受け入れると思ったのだろうか。一緒に死んでくれと言われるほうが、まだ納得もできるのに。むしろ、今の棘にはその選択が最善としか思えないというのに。

 腕の中で、が棘の胸を何度も叩いた。珍しく感情的になったがそこにいた。

「うるさい!うるさいうるさい!わたしだって抱いてほしかったよ!棘くんにわたしの初めてをもらってほしかった!」

 吼えるようなその告白に棘はポカンとした。崩れ落ちるように泣き始めたを支えながら、垂れた頭頂をじっと見つめる。

「……いくら」

 オウム返しにするように問いかけると、鼻水をすする音が聞こえた。涙で湿りきった「ない」という明朗な回答に、棘は呼吸を忘れそうになる。

「ずっと黙ってたけど、したこと、なくて」
「ツナ」

 棘はの顔をそっと覗きこんで、自らの顔を指差した。涙でぐちゃぐちゃになったが勢いよく噴きだす。

「棘くんがしたことないのは知ってるよ?」
「おかかっ」
「うん、バレバレ」
「いくら」

 一緒に笑いながら、をぎゅっと抱きしめる。絶対に手放したくない気持ちをこめて。そんなことをするくらいなら、一緒に死んだほうがマシだと伝えたくて。

 やがての腕が棘の背中に回って、棘は口端をゆるめた。「棘くんの馬鹿」とののしる声には聞こえないふりをしておく。馬鹿はのほうだ。大事なことに限って、いつも相談もなく勝手に決めて。そういうところも好きだから、もうなにも言わないけれど。

「すじこ」
「えっ」
「す、じ、こっ!」

 棘は声を張った。未練ならたっぷりある。だから、最後の最後まで足掻いてやりたかった。

「勝算があるの?」
「おかかっ!」
「もうっ。それ自慢することじゃないよ?犬死にはいやだな。少しくらいは痛い目に遭わせてやりたいかも」
「明太子」

と強くうなずくと、は「作戦会議しよっか」と明るく笑ってみせた。



* * *




 死がすぐそこまで迫っているというのに、不思議と心は落ち着いていた。それはも同じようだった。ひどく穏やかな表情でスニーカーの靴ひもを結び直している。

 きっと、生きて帰れないだろう。それでも、若い術師がふたり屍になったという事実は上層部を動かし、かの“最強”の耳にも伝わるはずだ。五条悟がこの地を踏む結果になりさえすれば、それでいい。術師としての役目は終わる。

「棘くん、本当にしないの?」

 どうせ死ぬんだからとは棘に詰め寄ったけれど、棘は頑として応じなかった。

 それを理由に肌を重ねることはずるいような気がしたし、棘とにとってもっとも大きな未練がなくなることが怖かった。死にたくない理由を持つ人間が土壇場で力を発揮することを棘は知っている。棘は決して生きることをあきらめたわけではなかった。

「しゃけ」
「どうしても?」
「しゃけしゃけ」
「じゃあ下着も見てくれないの?棘くんに喜んでほしくて選んだのに?」
「……ツ、ツナマヨ」

 それはちょっと見たいと恥を忍んで正直に答えると、は声をあげて楽しそうに笑った。けれど笑うだけでチラリとも見せてくれなかった。なんだそれは。答え損ではないか。期待に盛りあがった気持ちをどうしてくれる。

 しかめっ面をしつつ、いつものらしさを取り戻したことに安堵を覚える。

「死んじゃうけど、いいの?」
「しゃけ」

 何度も執拗に問われた質問に笑顔でうなずくと、はうれしそうに頬をほころばせた。

「だったら寂しくないね」
「ツナ」
「寂しいから一緒にいてって、神様を呼んでしまうことはきっとないよ」

 のどは痛んだままで呪言はまともに使えないし、もう領域を使えないは右足を捻挫していて走ることもままならない。無傷の呪霊に歯向かうこと自体無謀だろう。

 それでも一矢報いようと顔を見合わせる。五条にだけいいところを持っていかれるのは気に喰わないというのが、との結論だったから。

 双葉荘の玄関から外にでると、見覚えのある人影が飛びこんできた。

 スーツ姿の若い男が肩で息をしている。駐車場から駆けてきたのだろう、荒れた呼吸を整えながら伊地知が言った。

「……よかった。間に合いました」
「伊地知さん」

 は目を見開いた。伊地知の腕の中には無機質なアタッシュケースが収まっている。

「加茂くんから連絡がありました。に至急これを届けろ、と。高専生としてではなく加茂家次代当主としての命だ、と低い声で言われまして。少し、法定速度を超過しました」
「……メカ丸くんは」
「彼からも伝言を言付かっています。“設計書通りだ。試用運転も問題はない”と」

 驚愕を貼りつけたままのの目の前に、伊地知がアタッシュケースを差しだした。唾を飲みこみながら言葉を継ぐ。

「それから……“これを使うなら必ず勝ってみせろ”と」

 鈍色のそれを受け取ったは、棘に不敵な笑みを向けた。そこに死を受け入れる穏やかな表情はもうどこにもない。優しげな双眸には、到底納得できない理不尽を踏み越えてやろうという強い意志が宿っている。

「行こう。反撃開始だよ」