血飛沫
ひどく短く、それでいて鈍い衝撃音が鼓膜を震わせた。脱衣所の壁に右手をついたわたしを見つめる伏し目がちな薄茶色が、困惑を覚えたようにふらふらと泳ぎはじめる。マスクで覆い隠されたかんばせに鼻先を近づけると、皮膚を押しあげる喉仏が大きく上下した。「だからこの方法が一番安全なんだってば」
何度も繰り返した言葉を、飽きもせずにもう一度口にする。棘くんの瞳に反論の色が走ったとき、隙など与えないようにその顔の真横に左手をついた。腹の底に響く衝撃音が再び耳を打つ。棘くんの肩がびくっとわずかに持ちあがった。
男の子相手に壁ドンなんて、人生で初めての経験である。
「ずっと探したけど、結局どこにもいなかったじゃん。伊地知さんだって、残穢は発見できても姿は一度も捉えられなかったって言ってた。下手に追いかけ回すより、この離れにおびきだすほうがリスクが低いし簡単だよ。棘くんだってわかってるでしょ?」
「おか――」
「拒否するなら代替案を要求します」
否定をさえぎって平坦な口振りで告げると、棘くんの視線がつるりとした床に落ちる。どうやら返す言葉がないらしい。
棘くんもわかっているのだ。わたしの提案が最も安全で最も効果的であることを。それでも賛成しきれないのは込みあげる羞恥のせいか、それとも敵の思い通りになどなりたくないという反発心か。
少しでも気が変わるようにと、表情をやわらげて首をかたむける。
「ね?わたしと一緒に露天風呂に入ろ?背中流し合いっこしよ?それからその流れで――」
「おかかっ」
顔を伏せた棘くんが強い語気でかぶりを振る。どうしてこうも頑ななのだろう。困ったなあと思っていると、棘くんがわたしをにらみつけてきた。
「すじこ。いくら。明太子」
「……見られる?ええっと、どういう意味?見せつけるのが目的だよ?」
「こんぶ」
「仕事じゃないけど仕事みたいなものじゃん。割り切ることも大事だと思う」
けれど棘くんはなおも首を左右に振った。わたしたちにとって初めての時間を、そんなふうに使うなんて気に喰わないといったところだろう。
わたしだって、思うところがないわけではない。
とはいえ、かの呪いの行きすぎたイタズラに、旅館の宿泊客はもちろん従業員までもが迷惑しているのだ。階段から突き落とされたとき、棘くんがいなかったら死んでいたかもしれない以上、注意もせずに見逃すわけにはいかない。呪いをどうにかするのが、呪術師としての責務ではないのだろうか。
壁に両手をついたまま、俯いている棘くんを正面から見据えた。
「わかった。作戦変更する」
棘くんの頭が勢いよく持ちあがる。双眸に安堵の色が浮かんだ瞬間、わたしは壁から手を離して棘くんに背を向けた。
「わたしイケメン捕まえてくる」
どう考えても苦肉の策ではあるものの、こうなったら仕方あるまい。わからずやの棘くんなんて嫉妬に狂ってしまえ。
そうも都合よく一人旅をしているイケメンが見つかるとは思えないけれど、と考えたところで、天才的なひらめきが脳髄を直撃した。
――これだ、これしかない!
思い立ったわたしは脱衣所から足早に退出して居間に踏み入れる。夕食のしゃぶしゃぶの残り香が肺を満たしていく。つやつやと光るローテーブルの上には、長方形のスマホが放置されたままだった。
スマホを取ろうとした瞬間、その手を棘くんに掴まれてしまう。手首を握る力は強くて、痛みに顔をしかめそうになった。目をあげると、険しい顔をした棘くんと視線が絡む。
「すじこ」
「五条先生に電話しようと思って。伏黒くんか五条先生を瞬間移動でこの部屋に――」
「おかかっ!」
めずらしく声を荒げた棘くんに目をしばたたかせる。さらさらの前髪の向こうで、眉間がきつく寄せられているのが見えた。
わたしは噴きだしそうになりながら、茶目っ気たっぷりな声音で問いかける。
「イケメンを捕まえないといけないんだけどな?」
数秒の沈黙をはさんで、棘くんの空いている手がゆっくりと持ちあがる。顔は深く伏せられて、前髪が垂れ下がっていた。浮かぶ表情ははっきり見えない。
緩慢な動きで骨ばった指が折られていく。わずかに折れ曲がった人差し指が、棘くん自身を指差した。
「ツナマヨ」
イケメンならここにいますが――どこか投げやりな響きに、わたしは伏せた顔をのぞき込んだ。
「顔が見えないとイケメンかどうか判断しかねます」
「…………しゃけ」
渋々といった様子で真っ赤な顔をこちらにさらす。
「そのマスクも取って頂かないとちょっと」
「しゃけ……」
単に引き下ろすのではなく、耳に引っかかったゴム紐に指をかける。蛇の目を模した刺青が露わになって、棘くんの整った顔立ちを食い入るように見つめた。どこか眠そうな印象を与える大きな瞳に映っているのは、わたしひとりだけだった。
わたしがとうとう噴きだすと、棘くんもつられたように笑った。
「お兄さん超イケメンですね。わたしのタイプど真ん中です、どうしよう」
「ツナ」
「もしよかったら、わたしと露天風呂でいちゃいちゃしませんか?」
「こんぶ。明太子。おかか」
こんなに可愛い子に誘われたら断れないな、と棘くんが困り果てたように肩をすくめる。それからいたずらっぽく、自らの唇に人差し指を押しあてた。
「すじこ」
「もちろん。彼女さんには内緒で」
「高菜」
「わたしも彼氏には秘密にしますので」
「しゃけしゃけ」
茶番を楽しむようにうなずいた棘くんが、わたしを熱っぽい目で見つめる。目蓋を閉じると、唇にあたたかい感触が落ちてきた。棘くんの唇は一度離れて、再び隙間を埋めるように重ねられる。今度は優しく食まれた。唇をわずかに割ると、熱い舌が這入り込んでくる。唾液を絡め合う音がかすかに聞こえる。
全身の肌に欲を孕んだ熱が宿って、ようやく唇が離れていく。
「覚悟はできた?」
「しゃけ」
ようやくわたしのワガママに付き合ってくれる気になったらしい。
いつも思うけれど、伏黒くんの効果は絶大だ。きっとわたしが飽きることなく“伏黒くんの顔が好き”という不変の事実を連呼し続けているせいだろう。伏黒くんを引き合いにだせば、なんでも願いを叶えてくれるのではないかとさえ思ってしまう。
奥の手として大切に取っておこうと思いつつ、わたしを見つめる棘くんの手を取った。
「露天風呂、一緒に入ろっか?」
「しゃけしゃけ」
棘くんは耳まで真っ赤になった顔でうなずいた。
* * *
数分と経たぬうちに脱衣所に戻ってきたわたしは、緊張した面持ちの棘くんに向かって両手を差しだした。
「はい、脱がせてください」
すると、まるで河童でも見たかのような顔をされてしまい、ばつが悪くなったわたしは伸ばした両手を仕方なく下ろした。脱がせるところから愉しむものだと思っていたのだけれど、存外そうでもないらしい。
「脱がせてほしかったのに……」
小さな文句をひとつ落として、肩をすくめながら棘くんに背を向ける。浴衣の帯を解こうとしたら、腰のあたりからぬっと棘くんの手が伸びてきた。首だけで振り返れば、唇を重ねられて目を見開いた。
「こんぶ。ツナマヨ」
煽ったのはだから、と掠れた声が耳をなぞる。欲を孕んだ視線が朱色の帯を舐めていることに気づいて、途端に身体が緊張する。
うしろから抱きしめるみたいな恰好で、棘くんがのろのろと結んだ帯を解いていく。勿体ぶった手つきなのはきっとわざとだろう。わたしは首をひねって、棘くんの顎関節をなぞるように唇を這わせていく。
「我慢しなくていいのに」
「……おかか」
「大事にしてくれてありがとう」
礼に笑みを添えると、棘くんが驚いたように瞬きをした。ややあって「明太子」と自信に満ちた笑顔で応えてくれる。好きだから当然だろ、と付け足された言葉に、わたしはうれしくて、でもちょっと恥ずかしくて、逃げるように顔をそむけた。
「おかか」
「照れてないよ」
「お、か、か」
「気のせいじゃないかな」
「いくら」
「今ちょっと目にゴミが」
「ツナマヨッ」
身体をよじって顔を伏せていたのに、急に首筋を舐められて、ひゃあと変な声が溢れてしまった。棘くんの笑いを噛み殺した声が聞こえて、「もう」と口角をあげながら顔をあげる。
「早く脱がせてよ」
「こんぶ」
ゆっくり堪能しないと。真面目くさった顔で言うものだから、わたしは呪印の刻まれたほっぺたを人差し指で突き刺した。
「どうせ邪魔されちゃうんだから、さっさと終わらせよう?」
「しゃけ」
「あ、それとも先にわたしが脱がせてあげよっか?」
うしろに手を回して棘くんの帯を掴むと、「おかかっ」と叱られてしまった。脱がされたいけど、脱がしたい気持ちもあるのだ。棘くんといると欲望はまるで尽きなくて、生き物としての、女としての自らの輪郭が、眼前にはっきりと浮かびあがってくるようだった。
もどかしい手つきが帯の結び目を解いたとき、棘くんの呼吸がとまったのがわかった。
「――おかかっ!」
怒号のような大声が耳元で響き、熱に侵されていた脳味噌が一気に覚醒する。呪霊の気配を察知した棘くんの鼻先が瞬く間にわたしからそれる。その表情は明らかに切羽詰まったものだった。
「こんぶっ!」
「どうして?!」
「いくらっ!」
双葉荘には離れがもうひとつある。“藤の間”――わたしたちが宿泊している“桔梗の間”と対になるよう造られた部屋だった。
血相を変えた棘くんがわたしの帯を結び直そうとして、わたしは反射的にそれを制していた。いつもどこか感情を欠いたような棘くんの表情がここまで乱れているということは、それはつまり。
「先に行って。すぐに追いつくから」
短く差し込んだ言葉に棘くんは首肯を返し、身をひるがえすと強くつま先を踏んで部屋をでていった。俊足かつ健脚を誇る棘くんならきっと間に合ってくれるはずだ。乱れた浴衣を手早く直し、わたしもそのあとを追いかける。
反対側の“藤の間”に到着するころには、わたしの息は完全にあがっていた。
部屋と廊下を繋ぐ扉の前には、浴衣姿の宿泊客がまばらに立ち尽くしている。淀んだ空気が流れている感じがした。いやな予感を振り払うように、「すみません」と言いながら客たちをかきわけて部屋をのぞき込んだ。
荒れた呼吸もとまるほどの、噎せ返るような血臭が鼻をついた。壁紙も畳も何もかもが血だらけだった。壁は爪で引っかかれたように抉られ、照明は壊れかけて不規則な点滅を繰り返している。
何者かと争ったような形跡が残る部屋の片すみに、呆然と棘くんが立っている。その身体の向こうに赤く染まった塊がふたつ折り重なっているのが見えて、わたしは一瞬で呼吸の仕方を忘れてしまった。
わたしに気づいた棘くんが静かに目を伏せる。砥粉色の頭が左右に振られたとき、背中越しに震える声音を聞いた。
「殺人事件……」
「起こっちゃったじゃん……」
野次馬と化した二人組のOLのか細い声で我に返ると、開け放たれたままの扉を後ろ手で勢いよく閉める。「ちょっと!」と抗議するような言葉が耳を打ったけれど、気にもとめないで棘くんを一瞥した。ばつが悪くなって、すぐに血まみれの畳に目を落とす。
「……ごめんなさい、わたしのせいだ。殺すわけないって、勝手に思いこんでた。本当にごめんなさい」
「おかか」
「警察には?」
「しゃけ」
「わかった」
即答するなり、わたしはスマホに耳をあてた。見ても気分が悪くなるだけだという棘くんの制止を笑顔でかわして、惨い状態になった“人だったはずのなにか”に視線を送る。
「伊地知さんですか?何度もごめんなさい。死人がでました。……いいえ、ふたりですね。近くにいたのに不甲斐ないです……はい……はい、了解です。諸々の連絡をお願いできますか?……あ、もう旅館の方が警察にも消防にも連絡を……でも詳しく調べる時間が……ありがとうございます。もちろんです。大丈夫です、そういう仕事ですし……今回の責任はすべてわたしにあると上に伝えてもらえますか?……いいえ、彼は無関係です」
片眉をあげた棘くんをちらっと見たあと、わたしはその場に屈んで赤い肉の塊をまじまじ観察した。なにか少しでも手がかりを掴みたくて。
「そうです、狗巻準一級術師に指示をだしたのはわたしです。責を問うならわたしを……はい、わたしが責任をもってなんとかします。大丈夫ですよ、カッコカリでも特級ですから……また連絡します」
通話を終えた途端、棘くんに頭を強く掴まれた。
「痛い痛い痛いっ」
わたしの頭はバスケットボールではなかったはずだが。暴力反対と思いながら見上げると、こちらをねめつけるような双眸と視線が深く絡んだ。わたしは長いため息を落とす。
「上司のわたしが責任を取るのは当然じゃん」
「お、か、かっ!」
「わたしの首ひとつで事が丸く収まるんだよ?それでいいと思うけどなぁ」
納得できない様子の棘くんが口を開くまえに、「わたしが殺したんだから責任くらい取らせてよ」と小さな声で付け足しておいた。心配されたくなかったから、口端を無理に引っぱりあげるようにして。
苦虫を噛み潰して、それを飲み下しもせずに口の中に溜めているような顔で、棘くんが屈んだわたしを見下ろしている。あごを持ちあげて、わたしは問いを投げかけた。
「棘くんはどうする?先に寝ても構わないよ?」
「おかかっ」
強い口調で言い放つと、棘くんはわたしの隣でひざを折った。きっと最後まで付き合ってくれるということなのだろう。
「ありがとう。なにも見えないから心強いや」
「明太子」
「うん。今からは、れっきとした仕事だよ」
* * *
“は見るな”と棘くんがうるさいので、わたしは死体ではなく部屋をくなまく調べることにした。
「部屋にはカギがかかってたんだよね?」
「しゃけ」
部屋のカギを体当たりでぶっ壊すという、身体能力を活かした超古典的な方法を用いて部屋に侵入したのは、死体とにらみ合っている棘くんそのひとだった。わたしは離れの大きな丸い窓に近づいていく。
「窓にもカギがかかってる。密室だったなら、呪いはどうやって部屋に入ったんだろう」
「おかか」
わたしの推理をあっさり否定した棘くんが、丸い窓の隣を指で示す。そこにぐるぐると円を描くように。
「ツナ」
「残穢?……もしかして術式で透過したってこと?」
「しゃけしゃけ」
「あ、それ反則。ミステリー小説なら酷評されるよ」
苦い顔で言うと、棘くんは肩をすくめた。
「でも透過能力があるなら捕まえられないはずだよね。逃げるにはうってつけだもん」
「高菜」
「大丈夫。一級の呪いならなんとかなるよ。イヌマキくんも一級同等の強さだし、棘くんと同じくらい足が速いし」
一旦言葉を切って、わたしは棘くんに首をかしげてみせる。
「それで、なにかわかった?」
「しゃけ」
その骨ばった指が死体を示す。血飛沫を浴びた白い皮膚には、真新しい青痣がいくつも広がっていた。
「痣?……それって、もしかして」
脱衣所で聞いた鈴の鳴るような声音を思いだしていると、「おかか」と棘くんが両手を交差させて小さなバツ印を作った。ぶんぶんとかぶりを振りながら。
「すじこ」
――そう、きっと彼らは“禁忌”を犯したのだ。この部屋で絶対にしてはいけないことをしてしまった。呪霊の逆鱗に触れてしまった。そうでなければ、死ぬ理由がどこにもない。
「こんぶっ!」
と、そのとき血相を変えて棘くんが振り返る。わたしの前に立ち塞がるように素早く移動すると、なにもいない虚空に鼻先を向けた。棘くんの背中がなにかの予感に震えたのは、その次の瞬間だった。
「お、かか……」
「棘くん、どうしよう」
動揺に揺れる声音に応えるように、わたしは口を開いていた。明るい声とは裏腹に、冷たい汗が全身の皮膚から噴きだしている。電流でも流されたように、ひざがガクガクと震えだす。
「わたしにも見えてるんだ。はっきりと」
点滅を繰り返す照明が作りだした、いびつな丸い影。そこから両手を使って這いでてきたのは、白い面紗を着けた黒い着物姿の男だった。意味を結ばない言葉をぼそぼそと繰り返しながら、品定めでもするようにこちらを視界に入れている。
知らぬ間に、皮膚が焼けるほどの殺意の中に突き落とされていた。
わたしは右足を半歩引いた。突きつけられた死の恐怖から逃れたい一心で。
「……特級じゃん」