間奏 -後-

 特級仮想怨霊“イザナミ”は、呪いの王“両面宿儺”の右腕と称された呪詛師“無科継夜”の成れの果てだ。

 両面宿儺について語られた資料はそれこそ山ほどあるにも関わらず、無科継夜に関する資料は呪術高専にもほとんど存在していない。となれば、日本中のどこを探したところで紙切れひとつでてきやしないだろう。おそらく、無科継夜自身が意図的に消し去っているのだから。

 棘が必死の思いで見つけだした資料といえば、無科の家系図と呪詛師としての戦績、そして無科継夜についての口伝をまとめた薄っぺらい書物だけだった。

 贄の一族“無科家”の当主を務めていた男が、あの両面宿儺に与した理由は憶測の域をでない。“仲間”をほとんど作ろうとしなかった両面宿儺に気に入られていたその理由も。

 ただ、男が関与した戦はすべて両面宿儺側の圧勝という形で幕を閉じている。中でも驚くべきは、両面宿儺が一度も姿を見せなかった戦だろう。男は自身と数人の非術師のみで、優秀な呪術師たちの拠点のひとつだった大きな屋敷を、たった一晩のうちに陥落させてしまったのだから。

 口伝によれば、中国から伝来した“孫子”や“呉子”などの兵法書をそらんじられるほど嗜んでいた男は、およそ呪詛師とは呼べない戦法ばかりを好んでいたらしい。

 天候、地形、地勢――まるで星を読むように戦術を組み立て、必ずといっていいほど運を味方につけた。一対一で戦うことが一般的だった当時にしては、非常にめずらしい戦い方だったことだろうし、口伝には“彼にはいつも未来が見えていた”という一文まで記されていた。

「俺には呪術の才能がない」

 それが口癖だった男は二十歳にも満たぬうちに死んだ。そして死後、呪いに“成った”。紛い物とはいえ、“神”になるために。

 とはいえ、死亡の正確な日時やその死因もすべてが闇に葬られている。資料が少なすぎて、自殺か他殺かすらもまったく判別がつかない。

 あの男はどうして呪いになったのだろう。山奥に堂々と居座り、自らの子孫を贄として千年もの長い間ただ貪り続け、ひたすらに呪力を増大させた。

 棘にはわからなかった。おそらくは我が子も、その孫たちも己の腹へと収めた男の気持ちが、これっぽっちも。

 呪いの考えることなど、棘には到底理解できるものではないのかもしれない。けれどあの男はまだ人間としての自我を失っていない。それは断言できる。そうでなければ、があれほど肩入れすることなどないだろう。

 そして今、己が末裔であるに執着している理由はなんだ。本心からか、欺くための単なる演技か、それとも――。

 イザナミが無科継夜であることを、はまだ知らない。



* * *




 浴衣に着替えた棘は、空調の効いたロビーでを待つことにした。

 自販機で買った紙パックのコーヒー牛乳を片手に、冷えたソファに深く腰かける。ストローをくわえながら、ハーフパンツにしまい込んだままのスマホを取りだした。

 着信履歴に残されている最新のそれには数字の羅列はなく、ただ“非通知”とだけ表示されている。日付を遡るように画面をすべらせ、数日前の履歴を確かめるようになぞる。“非通知”の三文字が棘の胸をひどく落ち着かなくさせた。

 一度目は海で溺れたを助けるため。二度目もおそらく目的は同じだろう。様子がおかしくなったを助けるためだ。

「入れてあげるわ。今回だけは特別よ?」

 婉然とした響きが、棘の頭の中でうわんと響いた気がした。

 あのあとを問い質してみたものの、記憶は混濁していてはっきりしなかった。しばらく注意深く観察してみたものの、下山中に変わった様子はなかったし、あの女からの一方的な連絡も一切ない。

 ふたりで海に行ったとき、は言った。イザナミが望む“死の形”がある、と。

 イザナミが事を起こすなら、自らに縁の深いこの地の他にないだろう。イザナミが祀られていた社で“なにか”を見た。風呂場で出会った中年男の話。そして、客間に残されていた呪いのに瓜ふたつの残穢。

 ――それでもを助けたのは、“死の形”の条件が揃っていないから?

 ストローからずずっと耳障りな音がする。もうほとんど飲み終えてしまったらしい。ストローから唇を外しながら、中年男の言葉を反芻する。あの社に入ることができるのが死者だけだと言うなら、生きている棘が入れたのは女の言葉通り“特別”だろう。

 の今の肉体は、の願いによって黄泉国の神として顕現した呪霊が、その膨大な呪力をもって一から作り直した、ある意味“紛い物の器”だ。本当の肉体は呪いの手元にあると聞いている。肉体と魂が乖離しているなら、それは“死者”と呼んでも差し支えないのかもしれない。

 ――もし“死者”の条件を満たしているなら、そもそもには“死”という概念があるのか?

 立ちあがって紙パックをゴミ箱に放りこんだあと、橙色に染まった中庭を見つめてしばらくぼんやりと考え続ける。答えを導くための手がかりはほとんどないし、今どれだけ考えても正解にはたどり着かないような気がした。それでも棘は考えることをやめられなかった。

 沈思していた棘がはっと肩を震わせたのは、ペタペタというスリッパの音が聞こえたときだった。音がしたほうに目をやれば、淡い桃色の色浴衣に身を包んだが立っている。

 頭を占めていた小難しい思考が一気に吹き飛ぶ。涼しげな浴衣からのぞく薄っすらと上気した肌は赤く染まっていて、棘の目はの姿を網膜に焼きつけることに必死だった。

 固まった膝を伸ばしてソファから立ちあがると、が柔らかな笑みを刻んだ。

「待たせちゃってごめんね」
「おかか」

 否定の単語を口にしながら、棘はを射るように見つめる。いつもと違う髪型に緊張を覚えて、逃げるように視線をさげた。

「どうしたの?」

 ちゃんと言わなければと思った。が着飾っているのはきっと棘のためでもあるだろう。マスクを引っぱると、湿気で少し蒸れた口元が涼しくなった。目を背けながら、音を殺したまま唇を動かしていく。

 可愛い。

 途端にの表情がとろけていく。まるで花がほころぶような笑顔に、照れ臭さよりも伝えてよかったという思いが込みあげる。

「ありがとう」
「すじこ」
「うん。さくっと調査終わらせて、部屋でのんびりしよっか」

 それは、まさかそういう意味だろうか。勘違いでなければいいけど、と考えてすぐに、婉然とした女の声が頭のうしろで響いた。の瞳にわずかな熱が浮かんでいる。その熱に応える前に、考えなければいけないことがある。解決しなければならないことがある。

 棘が熱を追い払うように首肯すると、は芯の通った視線を階段へと向けた。

「まずは大女将に会いに行こう。呪いのこと、きっと知ってると思うよ」



* * *




 清掃の行き届いた階段をおりる棘の動きは、ひどく緩慢だった。スリッパの音がぺたんぺたんと鳴り響いている。

「やっぱり恋のキューピッドだったね」
「おかか」

 どこか楽しそうな色が浮かぶ声音を否定する。

 大女将が語った呪いの目的は宿泊客に子作りをさせることだったのだ。自身が置かれている状況を本当に理解しているのだろうか。呪いは棘とにそういう行為をさせること、それを視覚で確かめることが目的なのに、どうして羞恥心や不快感を覚えないのだろう。

 危機感の欠如に呆れてにらみつけたものの、は平然とした様子で受け流してしまった。

「でもさ、これではっきりしたじゃん」
「いくら」
「ここに棲む呪いは“神様”の子、呪いたちは人を殺さない――イザナミさんの目的は人間を殺すことじゃないと思う」
「すじこ」
「うん、多分そう。人間を増やして殺すのが目的でもない」

 わずかな間を置いて、は足をとめた。そして「はい」と言いながら手を挙げる。棘が偉ぶって「しゃけ」と指差せば、は得意げな顔をした。

「実は人類の味方説に一票」

 いやそれはないと思いながら、棘は「おかか」とかぶりを振った。しかしは食い下がるように続ける。

「誓約書のことは、たしかにそうだけど……イザナミさん、悪いひとじゃないよ」

 呪術師が祓除すべき呪霊相手に肩入れしている様子に、棘は顔を覆いたい気持ちだった。

 短い間だったとはいえ、あの女と四六時中ともに過ごし、そして取り引きを成立させたことである種の情が湧いているのだろう。“わたしの神様”だという思いがことさら心の距離を縮めているのかもしれない。

 はなにも知らない。あの女の正体も、どんな経歴を持った呪詛師だったのかも。

 ここで全部ぶちまけてやろうかとも思ったけれど、そんなことをしてもあの女の機嫌を損ねるだけだろう。はあの女と直接会話ができないという。意味がわからないけれど、そういう“契約”らしい。だからこそ、棘が見限られてしまえば有用な手がかりを掴む可能性は低くなるだろうし、特級呪霊に“敵”として認識されればそれこそ面倒だった。それほど頭をめぐらせずとも、デメリットのほうが大きいのは明白だった。

 もうの勝手にすればいい、とあきらめて階段をおりていく。がどんな思いであの女に接しようと、を殺そうとするなら全力で祓うまでだし、棘はただを守ることだけに注力していればいいだけだ。難しいことなどなにもない。

「夕食の時間まで呪いを探そっか」

 の提案に、棘は平板な声を返した。

「しゃけ。いくら」
「問題はそこだよね。ここまで知能があるとなると、準一級はありえない。特級の可能性だってあると思う」
「高菜」
「お客さんも多いし、下手なことはしない。ちょっと痛い目を見てもらって、イタズラもほどほどにねって言うだけにするよ。仕事じゃないし」

 術師としてあるまじき発言に足がとまる。人を殺さないなら大丈夫だと決めつけるの短絡さが、棘にはまるで信じられなかった。今の言葉を上層部に聞かれたらと思うだけで冷や汗がにじむ。

 数多の人を喰らい続けてきた猛獣とまったく同じ種類を放し飼いにしておいて、「この子は人を食べません。この子は特別なんです」と甘っちょろいことを抜かす。がしているのはそれと同じことだった。

 棘は険しい顔で考える。イザナミの影響は術師としてのの立場を危うくするだけではないだろうか。の命を狙っていることを差し引いても、さっさと祓ったほうがいいかもしれない。

 さすがになにか言ってやらねばと思ったとき、は迷いを含んだ声をぽつりと落とした。

「甘すぎるかな?」
「しゃけしゃけ」
「でも許してくれるでしょ?」

 勝ち気な問いかけに口端をゆるめる。どうやらはすべてお見通しらしい。棘は首をひねって振り返ると、呆れた笑みを浮かべてみせた。ほど自由が似合う人間を棘は知らない。どれだけ危険な真似をしようと、自分がそばにいて守ってやればいいだけの話だった。の一番の味方でいたい、ただそれだけだった。

 棘が許したことがそれほどうれしいのか、晴れやかな表情では袖の袂からスマホを取りだす。

「ちょっと伊地知さんに連絡してみるね。なにか情報持ってるかも」
「しゃけ」

 あとは任せようと棘は一階を目指す。人を殺さないとはいえ、敵意を持って近づけば牙を剥く可能性は否めない。宿泊客も多いこの旅館で事を構えるのは得策ではないだろう。

 安全に接触する方法を考えていたそのとき、ぱちっと電流が走る感じがした。の呪力を明確に感覚した棘は血相を変えて振り返る。

「こんぶっ!」

 のうしろに、白い面紗を身につけた人型の呪いが立っていた。背恰好から考えておそらく女だろう。薄い面紗と喪服じみた黒い着物には見覚えがある。が領域展開の際に喚び出す呪いの恰好とまったく同じだった。

 一級か、と即座に呪霊の等級をはじきだす。

 おかっぱ頭の女は越しに棘を見つめたまま、の膝裏に折り曲げた自らの膝を素早く押し込んだ。棘と視線を交わしてから、ほんの一秒にも満たないうちに。無邪気な笑みを口端に宿して。「助けやななぁ」と訛りを含んだ硬質な響きが耳を打つ。

「えっ」

 素っ頓狂な声とともに、の躯体が棘に向かって落ちてくる。棘の双眸に焦燥が走る。今は呪いのことは後回しだった。降ってきた身体をなんとか受け止めたものの、踏ん張り切れずに棘の視界がぐるんと反転する。あはは、とあどけない笑い声が尻すぼみに消えていく。

 瞬間、背骨が軋むような衝撃が棘を襲った。階段に背中を打ちつけ、その反動で跳ねた身体が踊り場の壁に激しく衝突する。それでも棘はを守ろうと必死だった。奥歯を食いしばりながら衝撃に耐えた。遅れてやってきた鈍痛が瞬く間に思考を停止させる。苦痛に身を折りながら、棘はただうめくことしかできない。

 うなるような小さな声が棘の耳に届く。それほど間を置くことなく、次の声が棘の意識を揺さぶった。

「本当にごめんね。大丈夫?」
「……おかか」

 焦りの色がにじんでいたから、少しでも安心させたくて唇を割る。痛みで鈍った思考がようやく浮上をはじめた。に頬をぺちぺちと叩かれて、棘はやっとすべての感覚を取り戻した。

「棘くーん、起きてー」
「ツナマヨ」
「まだ死んでないと思うよ。ほら、わたしの胸、柔らかいでしょ?」

 耳朶を打った想定外の言葉に目を瞠る。棘の視線は一瞬での胸元に向かっていた。

 あろうことか、棘の左手がの胸をわしづかみにしていた。手のひらから伝わる弾力のある柔らかさを認識して、ひっと小さくのどが鳴る。即座に顔に熱が集まって、身体がぶるぶる震えた。

「こんなところで大胆だね?」

 茶目っぽい声音に、棘は慌てて手を離す。情けないところを見られたくなくて、両腕で顔を覆い隠した。もういっそ殺してほしかった。

「たっ、高菜っ!」
「冗談だよ。そんなに動揺しなくても」

 声の主は動揺の色がまるで感じられない口調だった。ケロリとした様子に苛立ちを覚えてしまう。自分が今なにをされたのかわかっているのだろうか。引っ叩かれても文句などひとつも言えないことをしたというのに。

「おかか!」

 感情のままに文句を言えば、が噴きだしながら立ちあがった。顔を伏せたまま上半身を起こすと、は穏やかに言葉を紡いでいく。

「庇ってくれて本当にありがとう。わたしの不注意でごめんなさい。なにも気にしてないから」
「おかかっ!」
「これからもっとすごいことするんだよ?呪いの望み通り、子どもができるようなこと。ちゃんとわかってる?」

 に気を遣わせていることは明白だった。ますます気が滅入ったし、最悪だと思ったし、いっそ死にたいと陰鬱な気持ちを持て余した。棘の気持ちを汲んだのだろう、はやけに明るい声で継いだ。

「でも階段から落とすのはさすがにやりすぎだよ。やっぱり痛い目見てもらわないと。ね?」

 同意を求めるように見つめられ、棘は逃げるように顔をそらす。どうして少しも責めないのかが不思議で仕方なかった。海で溺れたを助けたときに見てしまったし、さわってしまったから、もういいということなのだろうか。恋人とはいえ、不慮の事故とはいえ、傷つけたことには違いないのに。

「棘くん、呪いはどっちへ――」
「おかかっ」

 はもっと怒っていい。棘が言うと、は困ったように肩をすくめた。数秒だけ逡巡し、そして唇をゆるやかに持ちあげる。

「棘くんだからだよ」
「……いくら」
「むしろ早く触ってほしいんだけどな」

 茶化した言葉に目を伏せる。またそんなことを言う、と棘はに呆れた。もちろん、の冗談を真に受けてしまった自分にも。

 膝に力を入れて立ちあがると、の小指に指をからめた。ぐつぐつと煮立った鍋の蓋が外れかけている。目もあてられない欲望があふれてしまいそうだった。

 このまま無言を貫くことは、身を強ばらせているを不安にさせるだけだろう。観念するように弱々しい声を絞りだした。

「……すじこ」

 今の棘には“早く呪いをどうにかしよう”と提案するので精一杯だ。を階段から落とした関西弁の一級呪霊も、を罠に嵌めんと企む狡猾な特級呪霊も。

「それは棘くんの頑張り次第だね」

 棘を惑わせる意地の悪い声が響いて、全部終わったら覚悟しておけと心の中だけでなじっておいた。