間奏 -前-

 塗装のはげた朱色の鳥居を視界に入れた途端、棘は身体の支配権を奪われたことを明確に感覚した。

 肋骨の内側からめまいがするほどの怖気が流れだし、たちまち呼吸は速く、そして浅くなっていった。身体がすくんで一歩も動けない。指の一本すらもまともに動かせなくなった棘には、いったい自分がどうして怯えているのか理解できなかった。ただ、その鳥居の向こうに行ってはいけないと叫ぶ本能がそうさせているのだということは、薄っすらと認識していた。

 もはや恐怖の対象と成り果てた古びた鳥居を、は平気な顔でくぐっていった。背中を這いずるいやな予感を体現するように、の様子はみるみるおかしくなっていく。遠目からでもわかるほど、その目はどこか虚ろで足元がひどくおぼつかない。まるで酒に酔っているかのような千鳥足だった。

 頭を左右に振ってなにかを必死で探している素振りは、とてもではないが正常とは言えなかった。そのうえ棘が鳥居の向こうに行きたくない――否、行くことができないとなれば、ただならぬことが起こっている証拠だった。

 が虚空に向かって話しはじめたとき、これは本当にまずいと焦った。また“なにか”を見ている。きっと今回は“幽霊”なんて可愛いものではない。今回ばかりは冗談ではすまされないような、途方もない“なにか”がの目に映っている。

 ――“儀式”。

 唐突にその二文字が棘の脳裏にふってきた。真新しい四月の記憶が棘を襲う。助けなければ。早くを助けなければ。そう思うのに足がまったく動かない。脳と身体がうまく繋がっていない。気持ちばかりが急いているようだった。呪言を使用しようにも、唇がぴったりと縫いつけられていて一向に開かない。

 鳥居の向こうに干渉することを、本能が強く拒絶していた。

 棘がひどい焦燥に駆られていたそのとき、突然スマホが鳴った。無機質な着信音が耳朶を打ったときには、すでに身体の支配権は棘のもとに戻ってきていた。棘の頭の中でひとつの可能性が答えを結ぶ。駆けだしながらスマホを耳に押しつければ、

「入れてあげるわ。今回だけは特別よ?」

 婉然とした響きを伝達したスマホは、それっきり口を閉ざしてしまった。



* * *




 汗のしみ込んだTシャツを頭から引っこ抜くと、わずかに残った制汗剤のすっきりとした香りが優しく鼻をくすぐった。

 ウォータータイプの制汗剤の入ったプラスチックのボトルが、ふっと脳裏をよぎる。棘が使用しているボトルはブルーだというのに、ピンクのキャップがついている。もちろん、初めからそういうデザインだったわけではない。

 もうすっかり汗の乾いたTシャツを脱衣所の竹かごに放りこみながら、との会話を思いだす。

「交換?」

 あれはついこの間、一緒に海に行ったときだった。同じメーカーの制汗剤を使っていることを知って、棘はにキャップの交換を申し出たのだ。なんというか、ちょっとだけ憧れていたから。

「いいよ」

 ピンク色したキャップをあっさりと外して、パーカー姿のがはにかんだ。

「棘くんが知ってるなんて意外かも」
「おかか」
「だって興味なさそうじゃん。だれかに教えてもらったの?」

 問いかけられた棘は答えに困った。さすがに“がSNSでいいねしてたので知りました”とは口が裂けても言えないだろう。そんなところまで見ているのかとドン引きされるのは火を見るよりも明らかだ。

 話題をすり替えるためにも、気になっていたことを尋ねることにした。

「すじこ」
「何回目って、それ訊いちゃうんだ?ところで棘くんは初めて?」
「……しゃけ」

 はぐらかしたとは対照的に、棘は素直に白状する。するとは両手で口元を覆って、半分隠れてしまった顔を軽く伏せた。その華奢な肩は丸くなり、わずかに震えているようにも見える。

 棘の顔が途端に険しくなる。眉間にしわをよせたまま、の顔を覗きこもうとした。

「おーかーかー」
「笑ってないし、馬鹿にしてないよ。ほら、最近は恋愛しない若者が増加傾向にあるらしいし」
「おかかっ」
「違う違う、喜んでるの。もうめちゃくちゃ」

 は「あー」とか「うー」とか意味の結ばない声を何度も漏らす。それから「顔が熱い」と言いながら、手をうちわのようにして真っ赤な顔をパタパタとあおいだ。

 その様子に目を丸くする。ちょっと驚きだった。そこまでが動揺していること自体珍しい。制汗剤のキャップ交換が初めてというわけでもないだろうに。

 棘が首をかしげると、はブルーのキャップがついたピンク色の制汗剤で顔を隠した。とはいえ、ボトルの幅が狭すぎてほとんど隠すことができていない。そのあざとさにいろいろなものが崩壊しそうだった。テントの中でふたりっきりだということを、はわかっているのだろうか。

 奥歯を噛んでこらえる棘を見つめたまま、は「あんまり見ないで」と恥ずかしそうに笑う。そして、降参するような口振りで続けた。

「大好きな人の“初めて”になれるのって、こんなにうれしいんだね」

 あのあとを襲わなかったことは称賛に値すると思う。耐えた。それはもう、耐えに耐えた。無言でピンクのキャップを閉めた自分に、大きな拍手を送ってやりたいほどだ。

 二の腕に残る制汗剤の香りをすんすんと嗅ぐ。好きでも嫌いでもないし、そもそも匂いに対して強いこだわりもない。が「これ好きだよ。すごくいい匂い」と言っていたから使い続けているだけで。

 ハーフパンツを脱ぎながら、のことばかり考えている事実に呆れる。この旅行のもうひとつの目的が一線を越えることだからだろう。ちょっと油断すると、あっという間に頭の中がそういうことに占拠されてしまう。

 けれど、と思う。

 イザナミを祀っていたあの社での出来事を思い返すだけで、ひどく冷めた感情が棘の心を一息に凍らせるのもまた事実だった。

 長いため息をつく。考えなければならないことが山積している。下着から足を抜き終えたとき、ふいに全身の肌が粟立った。棘の視線が一瞬で脱衣所の扉を貫く。

 呪いの気配がする。と宿泊する“桔梗の間”に残されたあの残穢と同じ気配だった。

 すべての神経が鋭敏に研ぎ澄まされていく。確かな輪郭を持った呪力は棘のにらんだ通りの色をしている。すなわちそれは、棘がよく知っている気配であることを示していた。

 ――

 そう思ったときには、呪いの気配は跡形もなく消えていた。棘の視線は扉を射抜いたまま微動だにしない。

 呪いだったころのに限りなく近い呪力だった。他のだれかならいざ知らず、棘がの呪力を間違えるなど、ありえない。

 はとっくに人間に戻っているし、この旅館に宿泊するのは初めてだと言っていた。となれば、呪いだったの本体――イザナミに関係した呪いだろうか。

 呪い特有の殺意を感じなかったのが気になったものの、すぐに昼間のことが棘の頭をかすめて扉を向こうを強くにらんだ。

 追いかけようと脱いだ下着をつかんだ途端、引き戸の向こうからペタペタとスリッパの音が聞こえてきた。きちんと足が床から浮いていない音だ。運動がまったく得意ではなさそうな。もしくは、スリッパのサイズがまるで合っていないような。

 なんとなく、いやな予感がする。しかし身構える暇もなく、引き戸が勢いよく開け放たれた。

「えっ」

 白いタオルと色浴衣を抱えたと目が合う。柔らかな瞳はまんまるに見開かれていた。

「……ツナ、マヨ」

 どうしてここに。かろうじて言葉を絞りだすと、はその目で棘の裸体を上から下までするっとなぞった。

 ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返したくらいで、がそれ以上の動揺を見せることはなかった。眉根をよせて、困ったように首をひねる。

「えっと、それはこっちの台詞だよ。ここ、女湯だよ?」
「おかか……」
「えっ、本当?」

 棘は何度もうなずいた。白いフェイスタオルでさりげなく前を隠しながら。

 間違えるはずがない。青い暖簾には確かに男湯と書いていた。浴場には棘の他にも客が入っている。埋まった竹かごを視線をやれば、男物の洋服が乱雑に放り込まれていた。先客が変質者でもない限り、ここは男湯で間違いないだろう。

「おかか」
「……そっか」

 は納得いかない様子だったけれど、「ごめんね」と眉尻をさげて引き戸の扉を閉めた。すき間なく閉まった扉を呆然と見つめ、しんと静まり返った脱衣所で状況の把握に努める。顔の一点に身体の熱が集中していることをやっと認識した。

 見られた。それはもう、はっきりと。しかもは驚きこそすれ、まったく動じていなかった。

 女子ならあそこは「きゃーっ!」と甲高い悲鳴をあげるところではないのだろうか。男の裸など見慣れているということか。それとも棘の身体があまりに見栄えせず、反応に値しなかっただけかもしれない。だとしたら、けっこうへこむのだが。

 陰鬱な気分になってきたとき、再び引き戸の向こうから人の気配がした。

「棘くん、まだそこにいる?」

 不安げなの声音に、肩がびくっと跳ねあがる。ぐるぐると頭が混乱しすぎたせいで、スリッパの音に気づけなかったとはなんたる不覚。再び扉が開いたらと思うと冷や汗が噴きだした。

 隠しきれていなかった下半身を瞬時にタオルで覆いつつ、まだ熱の冷めない顔を向ける。

「しゃけ」
「どうしよう。暖簾が外されてる」

 の困り果てた声が続く。

「ちゃんとかかってたよね?」
「しゃけ」
「そうだよね。どうしてだろ。だれかのイタズラ?」
「こんぶ」
「ううん、外に怪しい人はいなかったよ。ただ暖簾は廊下に投げ捨てられてて……」

 歩幅の狭い足音がペタペタと数歩遠ざかる。

「とりあえず従業員さん呼んでくるね。暖簾が外れてるから、人が入ってくることはないと思う。あとはこっちでなんとかしておくから」
「いくら」
「見ちゃってごめんなさい。じゃあ、またあとで」

 いつもの穏やかさを取り戻した声は、あっという間に消えてしまった。心臓が脈打つ音だけがやけにはっきりと聞こえる。

 暖簾を入れ替えた挙句に廊下に投げ捨てたのは、おそらくさっきの呪いで間違いないはずだ。その目的はよくわからないけれど、あとでと一緒に考えればいいだろう。

 もちろん気配をたどって呪いを追いかけることも考えたものの、やめておいた。もう近くにはいないような気がしたし、あの時間差でがここにきたということは、は呪いと確実に出くわしているはずなのだ。だというのに、が危害を加えられた様子はどこにもなかった。なにか術をかけられた形跡すらも。

 安全とは断言しがたいけれど、今は殺意も持たない意味不明な相手を追跡できるような気分ではない。山に登るより疲れた気がする。さっさと風呂に入ろうと、棘は浴場へ続く磨りガラスの引き戸を開いた。

 いつもより時間をかけて身体を洗っている最中ものことが頭から離れなくて、棘は椅子から立ちあがるまでに何度も項垂れた。

 蛇の目が刻まれた口元を隠しつつ、露天風呂に肩まで浸かる。

 多くの銭湯や温泉施設と同様に、双葉荘も刺青がある客の入場規制を行っている。棘は特別に許されていたものの、おおっぴらにするのはどうかと思ったから。

 周囲への配慮から意図的に温泉を避けてきた棘が、温泉旅行に行くと聞いたときに真っ先に浮かんだ憂慮。や旅館に迷惑をかけるのではないかという思いを恐る恐るに伝えたところ、

「わたしが旅館の人に説明するよ。だから、ちゃんとわかってくれるところに泊まろ?棘くんが悲しい気持ちになるような旅行にはしたくないの」

と笑顔で言ってくれた。自分たちが呪術師であること、それ故に棘には刺青が刻まれていること、反社会的勢力との繋がりを示すものではないこと――が言葉を尽くして旅館側に理解を求めてくれたおかげで、棘はこうして大浴場の入浴を特別に許可されたのだ。

 が「絶対に露天風呂付きがいい!部屋でいちゃいちゃしたい!」とごねたのも、本当は棘のためだということはわかっている。

 棘が大浴場でいやな気持ちになったときの逃げ場を用意するために、は露天風呂付きの客室にこだわったのだろう。当の本人は「えっちしたあとそのままお風呂に入れるじゃん?」といたずらっぽく笑っていたけれど。

 愛されている。他のだれでもないにこんなに深く愛されている。からの愛情がほしくて堪らなかったあの頃の自分に、今どれだけに愛されているかを自慢してやりたいほどだった。

 それほど熱くない湯に肩まで浸かる。長湯ができそうだなと思っていたら、先に入っていた初老の男が近づいてきた。

 反射的に警戒した棘に、男は優しそうな笑みを向けた。どこかくたびれた様子の笑顔からは敵意がまったく感じられない。警戒レベルを引きさげていると、男は気さくに話しかけてきた。

「君、高校生?旅行かね?」

 正しくは高専生だけれど、似たようなものだろう。否定するにも棘は語彙が限られているためいろいろと面倒だ。

 こくこくとうなずくと、男の笑みが深くなった。右の小指をピッと立てて、「これと?」と茶目っ気たっぷりに尋ねるので、間を置いてから棘は再びうなずく。

 何故そんな俗な訊き方をするのだろう。おおかた棘の緊張を解くためだろうが、気分がいいとは言えなかった。直接訊いてくれたほうがまだマシだ。

「その年で女と旅館に泊まるのか。ませてるな」

 うるさいな、放っておけ。との楽しみにケチをつけるな。浮かぶ数多の文句は心の中にしまい込んで、棘は無口で人見知りな高校生を演じることにした。

「私は小説を書くのが仕事でね。ああ、小説といっても大衆向けの推理小説さ。秘境として有名なこの土地に泊まって、次回作の取材をしているのだが」

 なんか勝手に話しだしたぞと思いつつ、適当に首を振って相づちを打つ。作家を生業としているらしい男は、ひどく険しい顔できっぱりと告げた。

「山奥の神社には行かないほうがいい」

 ばくっと心臓が大きく跳ねる。動揺を皮膚の下に押しこみつつ、棘が怪訝な顔を作ってみせると、男があごに手をやった。

「とにかくあそこは妙だ。赤い鳥居の先に行ってはならないような気がする。現に私は足を踏み入れることができなかったし、私以外の観光客も鳥居の向こうには行けなかったと言っている。何故だかわかるかね?」

 否定の意味を込めて、小さく首を左右に振った。すると男の顔がたちまち真面目くさったものへと変わる。

「鳥居の向こうが“かくりよ”だからだよ」

 背中に怖気が走った。棘は瞬きひとつできないまま、男を無言で見つめ返す。

「“あの鳥居の向こうはかくりよや”――この辺りに住むご老人は口を揃えて言う。かくりよ……つまり死者の国のことさ。黄泉に繋がっていてね、“常世”とも言う」

 塗装の剥がれた古い鳥居の前で、棘は一歩も動けなかった。まるで足が地面に縫いつけられたように。

 ――そう、スマホが鳴るまでは。

「あの神社に入ることができるのは死者だけだ。生者である我々が入れないのは至極当然ということだよ。秘境と呼ばれる場所にはそういう逸話がよくあるが、実際に身動きが取れなくなったのはここが初めてだな。いやぁ面白い。まあそういう逸話が残っているほうが、創作意欲がかき立てられるというものだがね」

 額にうっすらと浮かんでいるのは、温泉の熱さからくる汗なのか。それとも、途方もない怖気からくる汗なのか。なんにせよ勝手に話してくれる相手でよかったと心底思う。

 棘はそれからしばらく、饒舌な男の話に耳を傾け続けた。