亡霊

「よくあるんですよね。狙われるのはあの離れに宿泊されたお客様……それも若いカップルのお客様や新婚のご夫婦ばかりなんですけど」

 そう言いながら脚立に足を乗せた半被姿の若い仲居に、“女湯”と白い文字で書かれた赤い暖簾を手渡した。二十歳そこそこに見える仲居は、浴場の出入口に暖簾を引っかける。

「うちの旅館、“いる”らしいですよ」
「え?」
「死んだ女の亡霊が」
「亡霊」

 オウム返しにしながら、廊下に投げ捨てられていた青い暖簾を拾う。脚立を移動させていた仲居は「ありがとうございます」と礼を言うと、慣れた手つきで今度は“男湯”の青い暖簾を吊るしていく。

「なんでも、想いを遂げられないまま生贄にされたとか」
「……生贄」
「あれ?お客様はそれ目当てじゃないんですか?この辺では昔から田植えが終わると、秋の豊作を願って“ちぎり祭り”っていう祭りを行うんです。神様への供物として捧げるのは千切った髪の毛なんですけど、ずっと昔は生きた人間の手足だったらしいですよ。つまり生贄が捧げられていたんです。どこから聞きつけたのか、ここ最近はその話目当てのお客様ばかりで……もしくは秘境好きの方ですかね」
「はあ」
「話がそれましたね。まあなんていうか、心残りがあるからって“他人の恋路に首を突っ込むな!”って話なんですけど。お客様もいい迷惑ですよね。本当にすみません」
「いえ、大丈夫です」

 とはいえ、男湯と女湯の暖簾が入れ替えられるという、超古典的なイタズラをされる日がくるとは思っていなかったけれど。

 棘くんの裸を見てしまった。それはもう、はっきりと。二泊三日の間に見ることになるだろうとは思っていたものの、まさかこんな形で目にすることになるなんて。

 裸を見たわたしよりも、見られた棘くんのほうが驚いていた。酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくして。事故とはいえ本当に申し訳ないことをしたなと思うし、わたしだって楽しみを奪われたようでちょっとショックだ。時間を巻き戻せるなら巻き戻したい。

 脚立からおりた仲居が肩をすくめた。

「しかも困ったことに、呪術師だか霊媒師だか、そういう人たちにも手出しができないんですって。だからずっと放置状態なんです。あ、理由はよく知りません。オカルトには興味ないんで」
「その話、もっと詳しく知りたいんですけど……」
「うーん……詳しい人っていうと大女将ですかね。“見える”らしいんですけど、見えるなら早くなんとかしてほしいですよ」

 手早く脚立を折りたたむと、「ごゆっくりどうぞ」と仲居は頭をさげて立ち去った。

 会釈を返して、わたしは女湯の脱衣所に足を踏み入れる。棘くんが男湯に入ってからずいぶん時間が経っているけれど、急いで風呂に入ろうという気は失せていた。今は肩までゆっくりお湯に浸かってのんびりしたい気分だ。

 中にはすでに先客がいた。前日からの宿泊客か、わたしたちより早くチェックインした客だろう。竹かごの埋まり具合から察するに、浴場には数人がいるらしい。空いている上段の竹かごに、脱いだ服をぽんぽんと投げ入れていく。

 下着に手をかけようとしたとき、浴場の扉が開いた。

 脱衣所に戻ってきたのは、妙齢の女性だった。濡れたタオルを片手に小柄な体をさらに小さく縮こませ、その童顔を伏せたまま早足で歩いてくる。わたしの使っている竹かごのちょうど真下を使っていたらしく、「すみません」と一礼した。鈴の鳴るような小声に、「申し訳ないです」と答えて半歩さがる。

 女性にそれとなく視線をやって、下着を外していた手がとまる。濡れた背中が傷だらけだったから。

 それは刃物での傷だけではなかった。肩甲骨のあたりには赤く膨らんだ火傷の大きな痕があるし、腰や臀部には真新しい青痣が痛々しく広がっている。

 けれども腕や足、首周りの肌はつるりとしていた。おそらく、露出の機会が多いからだろう。痕が残ることを、故意に避けているのだ。

 “DV”の文字が頭に浮かんで、すぐに目をそらした。きっと相手は恋人か夫だろう。見てしまったことを気取られないよう、自然な動作で下着を脱いだ。洗面具を片手に悠々と浴場へ向かう。

 この温泉には美肌効果があるという。彼女の肌が少しでも綺麗になればいいなと願いながら、汗をかいても崩れなかった優秀なアイメイクを丁寧に落としていった。

 浴場には広々とした内湯と開放感のある露天風呂、二種類の風呂が用意されていた。内湯でしばらく身体を温めたあと、せっかくなので露天風呂にも入ることにした。部屋にもあるけれど、展望できる景色はまるで違うだろう。

 小高い竹林に囲まれた露天風呂では、OLらしき二人組が楽しそうに会話をしている。邪魔にならないよう、少し離れた場所に腰をおろした。

 倦怠感の残るふくらはぎをもみほぐしていると、

「ここってさ、殺人事件とか起きそうだよね」

と、非常に不謹慎な会話が聞こえてきた。盗み聞きは失礼だと思うけれど、双葉荘に呪いの影があることとなにか関係があるかもしれない。その呪いとイザナミさんとの接点の有無も気になるから、些細な情報だろうと今は手に入れておきたかった。

 昨日塗ったばかりの桜色のペディキュアを見つめて、こっそりと聞き耳をたてる。情報収集は調査の基本だと言い訳をしながら。

「あんたテレビ観すぎだよ」
「なに言ってんの。だって山奥にある温泉旅館だよ?しかも変な言い伝えまで残ってるんだよ?うってつけじゃん。それにさ、さっきでてった女の人って彼氏にロビーで怒鳴られてた人でしょ?ほら、雰囲気でてきた」
「でもそれ言うならさ、あの気難しそうなおじさんは?いかにも売れない作家っぽい」
「ああ、真っ先に殺されそうな」
「そうそう。で、原稿にダイイングメッセージが残されてるわけよ」
「言い伝えのことが血文字でね。え、探偵は?」
「探偵はー……じゃあ、あの子にしよ」
「あの子?」
「いたでしょ。ここくるときにすれ違ったダウナー系の」
「あっ、金髪のサブカル男子!」

 ここでまさかの大抜擢だよ棘くん。深く俯いて必死で笑いをこらえながら、もう片方のふくらはぎに指を添える。

「でも残念なところがひとつあって」
「なに?」
「犯人を追い詰める崖がどこにもない」
「そこなんだよねー」

 そもそも火サスの舞台になるには、いささか建物が綺麗すぎやしないか。心の中でツッコミながら、のぼせる前に湯からあがった。

 簡単なヘアアレンジとうすいメイクを施したあと、小走りでロビーに向かう。

 淡いブルーのマスクをつけた棘くんが、ソファに深く腰かけている。伏し目がちな視線の先には、傾いた日に照らされる橙色の庭園があった。感情の欠けた冷たい目が暖かい景色をなぞっているのがどこか奇妙で、けれど抗いがたい魅力にあふれていた。

 孤独を感じさせる物静かな横顔に、ことごとく目を奪われる。

 さすが名探偵、絵になる。

 裸を見てしまった気まずさが一瞬頭をもたげたものの、変に気を遣うのは逆効果な気がした。わざと足音を立てて近づくと、棘くんがやっとこちらを向いた。

 冷たかった眼差しに、柔らかな光がにじむ。ソファからするりと立ちあがると、頭をちょっと傾けて嬉しそうに笑った。その待ちわびた表情に胸が詰まる。穏やかな照明を浴びた髪がきらきらしている。

 そんな顔をするのは、ずるい。

 もっと早く戻ればよかった。浴衣に覆われた肌がひどく熱い。まるで風呂あがりみたいに。

 うずく感情はメイクの下に押しこめて、いつも通り笑ってみせる。

「待たせちゃってごめんね」
「おかか」

と言いながら、棘くんはわたしをじっと見つめた。裸を見たことを改めて責められるのかと思いきや、砥粉色の頭がやや垂れさがって少し驚く。

「どうしたの?」

 棘くんはマスクを引きおろすと、照れ臭そうに小さく唇を動かした。

 可愛い。

 その言葉に、わたしの肩が跳ねあがる。勝手に頬がゆるんでいく。野薔薇ちゃんにアドバイスをもらいながら、頑張って新たなヘアアレンジを覚えた甲斐があったというものだ。

「ありがとう」
「すじこ」
「うん。さくっと調査終わらせて、早く部屋でのんびりしよっか」

 まだ外は明るいし、ロビーには従業員や宿泊客がちらほら見える。あからさまなことは言えなかった。察した棘くんがすました顔でうなずく。その瞳には、もうわずかに熱が浮かんでいる。それはきっと、わたしも同じだろう。

「まずは大女将に会いに行こう。呪いのこと、きっと知ってると思うよ」



* * *




 双葉荘の母屋は三階建てだ。一階にはロビーや大浴場、宴会場といった施設が揃っており、二階と三階はすべて客室になっている。

 ふたつの離れ“藤の間”と“桔梗の間”は母屋から対を成すように繋がっていて、このふたつを行き来するには必ず母屋を通らなければならない。露天風呂もあるし、部屋も広くて静かだ。他の客室とは特別感が段違いだと思う。

 大女将を探している途中に出会った中年の番頭は、

「亡霊が出ますからね……どうしても泊まりたいというお客様以外にはご遠慮頂いているんですよ。あんないい部屋、勿体ないですよね」

と、離れに宿泊する客が少ないことを嘆いていた。

 旅館内の残穢を観察する棘くん曰く、残穢が濃いのはやっぱり離れだそうだ。となると、狙いは離れの宿泊客で間違いはないだろう。しかも若いカップルや新婚の夫婦ばかりとなれば、

「やっぱり恋のキューピッド的な?」
「おかか」

 あんなはた迷惑な?と棘くんが苦い顔をする。わたしはこめかみに指を押し当てながら、うなるように言った。

「うーん……でも、意識はするでしょ?」
「こんぶ」

 は意識した?――棘くんが茶目っぽい笑みを浮かべた。うっとたちまち言葉に詰まる。墓穴を掘ってしまったなと思いながら、三階へ続く階段を駆け足でのぼった。

 一段飛ばしで簡単についてきた棘くんが、同じ言葉を何度も繰り返した。

「こんぶ」
「……」
「こんぶ」
「…………」
「こんぶっ」
「あっ、人の気配がする!」
「おかか!」

 はぐらかすな!と叱られたものの、軽く無視して廊下を急ぐ。開きっぱなしになった客室の扉の向こうに、畳にひざをついて掃除をする老いた女性の姿が見えた。

 落ち着いた着物がよく似合うその女性こそ、この双葉荘の大女将――双葉ツヤ子その人だった。

「あの子のことですか」

 立ち話もなんですし、と座るように促されたわたしたちは、掃除されたばかりの客室にお邪魔することにした。“桔梗の間”よりも一回り小さいけれど、簡素で繊細な和モダンの造りは変わらない。

 大女将は呪いのことを“あの子”と呼んだ。まるで親しい友人かなにかのように。

「あの子は、いつからここに?」
「ずぅっと前です。私が生まれるよりもずぅっと前から、ここにおるそうです」

 ここ最近姿を現した呪いというわけでもないらしい。棘くんと顔を見合わせていると、表情を曇らせた大女将が小さく首を左右に振った。

「別に人を殺したりはせんのです。この辺りに住んどるモンは、全部そうなんですけど」
「全部?」
「あの子らはみぃんな、“神様”の子やから」

 そこで言葉を切って、大女将は眉間にしわを作った。

「まあでも、人を殺さへん言うてもね……多少は困ってるんですよ。イタズラがすぎるというか。お客様に迷惑かけるのは、ちょっとね……」
「呪術師は祓ってくれなかったんですか?」
「ええ。“神様”を下手に刺激できへんって……」

 この土地には千年もの長い間、莫大な呪力を持つ特級呪霊が棲んでいた。下手に呪術を使えば、“敵意がある”とみなされる可能性が高かったのだろう。

 触らぬ神に祟りなし。呪術師がこの双葉荘の呪いを見過ごしたのは、なにも誤った判断ではなかった。呪いがどれだけ強くとも、人を殺さないなら蠅頭となにも変わらない。神様を敵に回してまで、無理にリスクを冒す必要はどこにもないのだから。

 わたしは浴衣の袖の袂に手を突っこんだ。そこからペールピンクの名刺を取りだすと、恭しい手つきで大女将に差しだした。わたしと同じように、棘くんも名刺を指で挟んでいた。ペールブルーのお揃いの名刺を。

 名刺を一枚ずつ受け取った大女将が、わたしの顔を見てちょっと不思議そうな顔をする。

「カッコカリ?」
「カッコカリです」

 にっこりと笑いかけたあと、居住まいを正して告げた。

「その亡霊、わたしたちがなんとかします」
「しゃけ」

 大女将の顔が一気に晴れやかなものに変わる。

「ほんまですか」
「あの離れ、すごく素敵な場所だから。もっとたくさんの人に泊まってもらったほうがいいと思うんです」
「ほんまにありがとうございます。よろしくお願いします」

 深く頭をさげた大女将に見送られ、部屋を後にする。別れ際、大女将は縋るようにこう言った。

「でも、どうか殺さんでください。そこまでせんでいい。あの子、悪気があってこんなことしてるんと違いますから。新しい命が生まれることを、ただ望んでるだけなんです」



* * *




 のろのろと階段をおりながら、先を行く砥粉色の頭に話しかける。

「やっぱり恋のキューピッドだったね」
「おかか」

 振り向いた棘くんが顔をしかめた。呪いの目的が宿泊客に子作りをさせることだったのだから、不快感を覚えても仕方がないだろう。わたしが平気な顔をしているのが気に食わないのか、刺すような視線をよこしているけれど、素知らぬ顔で受け流してみせる。

「でもさ、これではっきりしたじゃん」
「いくら」
「ここに棲む呪いは“神様”の子、呪いたちは人を殺さない――イザナミさんの目的は人間を殺すことじゃないと思う」
「すじこ」
「うん、多分そう。人間を増やして殺すのが目的でもない」

 双葉荘の宿泊客はこの土地の人間ではないのだ。自分の手が届かない場所で新しい命が育つことに、いったいどんなメリットがあるというのだろう。

 わたしは立ちどまって「はい」と言いながら挙手した。棘くんが「しゃけ」とわたしを指差して発言権を与える。

「実は人類の味方説に一票」
「おかか」
「誓約書のことは、たしかにそうだけど……イザナミさん、悪いひとじゃないよ」

 力は貸してくれないし、肝心なときに助けてくれないし、わたしを見殺しにする気満々だし、なにを企んでいるのか見当もつかない。多くの人間を生贄にして呪力を得てきた、忌まわしい特級呪霊だということも理解している。

 けれど、別れ際に笑顔で手をふってくれた彼女を、“敵”だと決めつけたくない気持ちがどこかにあるのだ。今も変わらずわたしに優しく接してくれていることは、紛れもない事実だから。

 すると棘くんがあきらめた顔をして、階段をおりていく。そんな言葉が聞きたいわけではなかった、とでも言うように。

 特級仮想怨霊に肩入れするわたしに、きっと呆れているのだろう。それでもなにも言わないのは棘くんの優しさだった。感覚が違うことを受け入れて認めてくれている証拠だった。その優しさに甘えるように、これからの時間の使い方について提案する。

「夕食の時間まで呪いを探そっか」
「しゃけ。いくら」
「問題はそこだよね。ここまで知能があるとなると、準一級はありえない。特級の可能性だってあると思う」
「高菜」
「お客さんも多いし、下手なことはしない。ちょっと痛い目を見てもらって、イタズラもほどほどにねって言うだけにするよ。仕事じゃないし」

 きっぱりと告げると、棘くんの足がとまった。わたしは視線を宙に這わせる。

「甘すぎるかな?」
「しゃけしゃけ」
「でも許してくれるでしょ?」

 問いかけに応えるように、棘くんが振り返る。ちょっと困ったような笑みが目元に溜まっている。肯定だと受けとって、わたしは袖の袂からスマホを取りだした。

「ちょっと伊地知さんに連絡してみるね。なにか情報持ってるかも」
「しゃけ」

 うなずいた棘くんがトントンと階段をおりていく。スマホのロックを解除して、伊地知さんの連絡先を探す。片手で画面を操作しながら右足を浮かせたとき、突然棘くんが勢いよく振り向いた。

「こんぶっ!」
「えっ」

 視界が斜めに傾いて、左ひざが急に曲がったことを理解する。ひざの裏をなにかに押されたような感覚だけが、べったりとこびりついている。小学生のころ流行ったイタズラだ、そんなことが脳裏をかすめたときにはもう遅かった。

 身体が前のめりになって、あっという間に階段から落ちる。数段先を歩いていた棘くんにぶつかるような形で。大きく傾く視界の中で、切羽詰まった薄茶色の瞳がはっきり見えたような気がした。

 もつれるように転げ落ちた身体は、踊り場の壁に打ちつけられて、ようやくとまった。骨ごと揺さぶられる衝撃はあったものの、それほど痛みは感じない。わたしの身体の下から小さなうめき声が聞こえる。棘くんが庇ってくれたのは明白だった。

「うぅ……」

と、きつく閉じていた目をほどきながら、身体を起こそうとして――目を瞠った。

 棘くんの左手が、わたしの右胸を鷲づかみにしていた。

 目蓋を閉じて、ひどく険しい顔でうめいている棘くんに目を落とす。どうやらまだ気づいていないらしい。

「本当にごめんね。大丈夫?」
「……おかか」

 蚊の鳴くような声が返ってきて、ほっと安堵する。まだ頭がうまく働いていないのか、胸から手が離れない。困ったなと思いながら、棘くんの頬をぺちぺちと叩いた。

「棘くーん、起きてー」
「ツナマヨ」
「まだ死んでないと思うよ。ほら、わたしの胸、柔らかいでしょ?」

 カッと目が見開かれて、棘くんの視線がわたしの胸元に向けられる。

「こんなところで大胆だね?」

 冗談めかして笑うと、やっと状況を飲みこんだ棘くんが凄まじい速さで手を離した。両腕で顔を隠し、ぶるぶると身体を震わせる。かすかに見えている耳は真っ赤に染まっていた。

「たっ、高菜っ!」
「冗談だよ。そんなに動揺しなくても」
「おかか!」

 その様子に噴きだしながら、わたしは立ちあがる。わたしの重みがなくなると、棘くんはゆっくりと上半身を持ちあげた。真っ赤な顔は伏せたままだ。

「庇ってくれて本当にありがとう。わたしの不注意でごめんなさい。なにも気にしてないから」
「おかかっ!」
「これからもっとすごいことするんだよ?呪いの望み通り、子どもができるようなこと。ちゃんとわかってる?」

 少しでも安心してほしくて茶化すように続けたけれど、棘くんから立ちのぼる空気は怒りを過分に含んでいた。これは話をそらすしかあるまい。乱れた浴衣をその場で手早く直しながら、ひざ裏に広がった感触を思いだそうとする。

「でも階段から落とすのはさすがにやりすぎだよ。やっぱり痛い目見てもらわないと。ね?」

 同意を求めれば、棘くんがそっぽを向いた。話がそれなかったことを瞬時に察知する。こういうときは流されてくれないらしい。だからといって、あきらめる気はなかった。

「棘くん、呪いはどっちへ――」
「おかかっ」

 はもっと怒っていい。なにもかもをさえぎった鋭い声音に、わたしは肩をすくめた。わたしを傷つけたと思いこむ恋人に、心底呆れながら。

「棘くんだからだよ」
「……いくら」
「むしろ早く触ってほしいんだけどな」

 いたずらっぽく付け足すと、棘くんは目を伏せた。よろよろと立ちあがって、深く俯いたままわたしの小指を頼りなく握る。すき間を埋めるように身体をよせてきたので、その近さに驚いてしまった。しかも顔が見えないし、無言を貫いているのが怖い。圧迫感というか、ものすごい威圧感に襲われる。

 全身に緊張が走っていた。これはまずいことを言ったかもしれない。触ってほしいと言いながら、ずっと焦らしているのはだれだ。そんなふうに怒られても仕方がないことをしている自覚は、それなりにある。

 身構えていたら、棘くんが掠れた声で言った。

「……すじこ」

 早く呪いをどうにかしよう。絞りだすような提案に目を瞬かせる。その奥に隠された真意に気づいたわたしは、「それは棘くんの頑張り次第だね」と意地の悪い笑みをこぼした。