計画

・依頼受付日時
  7月××日
・依頼人名
  双葉 ツヤ子
・依頼人連絡先
  090-○○○○-△△△△
・依頼内容
  温泉宿に棲みつく×××の成敗
「いつもより爪短いね。切りすぎたの?」

 棘くんの骨ばった左手を見つめる。丸みを帯びた縦長の爪には、のびているところがほとんどなかった。俗に言う深爪というやつだ。左だけかと思って、右も確かめる。右手の爪もすべて、ほぼ深爪状態だった。

 ろくに整備されていない山道を、年季の入ったバスが進む。上下左右の揺れにともなって、わたしの視界もガタゴト揺れている。だからといって、見間違いというわけもないだろう。

 見るたび丁寧に切り揃えられている棘くんの爪は、いつだって白い部分がほんの少し残されている。けれどもここまで短いところを見るのは、今日が初めてのことだった。

 バスの窓から外を眺めていた棘くんが、ちらっとわたしに目をやった。特になにかを口にすることもなく、再び窓の外に視線を戻す。

 カラーマスクのヒモが引っかかるその耳が、ほんの少し赤く染まっているように見えるのは、きっと気のせいではないはずだ。

 意図的に深爪にされた長い指を見つめる。ふふっと笑みをこぼすと、棘くんの肩に頭をのせた。肩がわずかに強ばったのがわかって、目を伏せながら静かにつぶやく。

「これなら絶対に痛くないね」

 返事の代わりに、ぎゅっと手を握られる。緊張が伝わってくるような、けれど優しい力加減だった。

「棘くんのそういうとこ、すごく好き」

 わたしの頭に棘くんが顔をよせる。淡いイエローのマスクが引き下げられた気配がする。

「ツナマヨ」

 頭のてっぺん近くになにかが触れる感触と、かすかに聞こえた小さなリップ音。心臓の脈打つ速さが少し増したような気がした。それに続いて穏やかな重みが頭に加わって、思わず頬をゆるませる。

 反対側の窓が、視界の端に入った。いつまでも代わり映えしない深緑の景色が、ゆるやかに流れていく。

 古びたバスはたったふたりの乗客を乗せて、山奥深くの温泉宿へ向かう。



* * *




 入浴を終えてルームウェアに着替えたわたしは、たいして重くもないプラスチック製の書類ケースを抱えて男子寮へ向かった。

 呪術高専は緑に囲まれているせいで、虫がとても多い。男子寮の玄関にはやけに明るいLEDの照明のほかに、屋外用の誘蛾灯が設置されている。誘蛾灯におびき寄せられた虫たちの、高圧電流によって感電死したときの弾けるような破裂音が、断続的に熱帯夜の静寂を引き裂いていた。

 青い誘蛾灯の下には、小さな虫の死骸が大量に散乱している。この間ちょっと興味本位で調べてみれば、誘蛾灯に流れている電流は約7000V、二次短絡電流の値は19mAほどらしい。時と場合にもよるけれど、人間はおよそ20mAで痙攣して動けなくなって、50mAでは命の危険に晒されるという。

 多少の呪力を流しさえすれば、呪いも虫や人と同じように感電死するのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、わたしは黒い死骸の山を軽々と飛び越えて、いつものように男子寮の扉を開けた。

 羽虫の侵入を防ぐため、素早く扉を閉める。玄関には白いブタの蚊取り線香が置かれていて、効果がありそうな深みのある香りがあたりに充満していた。

 一階の談話室から白い灯りが漏れている。わたしは安っぽいスリッパを拝借すると、談話室をひょこっと覗きこんだ。

 談話室にいたのはパンダくんと伏黒くんだった。大きな机の上には問題集やらプリントやらが乱雑に広げられている。大量のスナック菓子と黒い炭酸飲料の入ったペットボトルまで置かれているから、さながらパーティーのようだった。

 わたしに気づいた伏黒くんが、シャーペンを片手に顔をあげる。

先輩、なにしてるんですか?」
「棘くんと約束してたんだけど……」

 さらさらの砥粉頭がどこにも見えない。伏黒くんは問題集に目を落としながら、

「風呂です。そのうち戻ってきますよ」
「じゃあここで待ってるね」
「勝手にどうぞ」

 わたしは棘くんが座っていたであろうソファを陣取った。書類ケースを脇に置くと、棘くんが飲みかけていた炭酸飲料を半分まで減らし、コンソメ味のポテチやキャラメルポップコーンを次々に口へと放りこんだ。

 足をのばしてくつろぎながら、パンダくんと伏黒くんを交互に見つめる。

「みんなで夏休みの宿題?いいなあ、楽しそう」
「パンダ先輩の企画です。俺は強制参加なんでまったく楽しくないですよ」
「こうでもしないと宿題なんてやらないだろ。普通科目は特にな。あ、も持ってきていいぞ」

 ポテチをもぐもぐと頬張りながら、棘くんの数学の問題集に目をやる。高専という場所ゆえか、中学で習う数学の総復習がメインの問題集は、この夏休みのためにわざわざ作られたものだと聞いている。ちなみに理数の問題集を作ったのは社畜代表の伊地知さんである。曰く、“ふつうの学校”を偽るのも大変らしい。

 眼前の問題集の解答欄は空白ばかりで、書きこみもほとんど見られない。きっと手をつけて間もないのだろう。

「わたし、もう終わってるんだよね」
「は?」
「自由研究以外は全部終わっちゃったんだ」

 ぽつっと答えてウェットティッシュを探していたら、パンダくんが驚愕の声を放った。

「いつの間に?!まだ休み入って一週間とかそこらだろ?!」
「塾の休憩中に終わらせたよ」
「普通科目以外もか!?」
「ううん、それは任務の移動中に。伊地知さんと新田さんに質問しながらサクサクと」

 ようやく見つけたウェットティッシュで、指についた油を丁寧に拭きとる。パンダくんと伏黒くんが顔を見合わせて、

「なるほど、その手があったな……」
「卒業生に訊くのはたしかに効率的ですよね……」

 呟く声を聞きながら、わたしは棘くん愛用のシャーペンを手にとった。宿題をするには少し低い机に向かうと、白い解答欄にするするとペン先をすべらせていく。

 それを見た伏黒くんが怪訝な様子で尋ねてきた。

「いいんですか?勝手に答え書いて」
「うん。怒られるのは棘くんだからね」

と答えつつ、ページをめくって次に問題に目を移す。

「わたしの顔に油性ペンで名前書いた仕返しだよ」
「狗巻先輩に黙って加茂さんに会うからですよ。しかもわざわざ京都校まで出向くなんて、自分から殺されに行くようなもんでしょ。先輩、早死にしたいんですか?」
「違うよ」

 空集合の記号を書きながら、わたしは不満を漏らすように言葉を継いだ。

「京都でなにかあれば疑われるのは京都校なんだよ?交流会も控えてるのに余計な騒ぎなんか起こすわけないじゃん。棘くんはなにもわかってないと思うなあ」
「わかってないのはだろ。確実に袋叩きにされる状況で、単身京都に乗り込むのほうが、俺には信じられないけどな」

 パンダくんはすっかり呆れているようだった。お小言を右から左へと聞き流したわたしは、一片の迷いもなく次々と解答欄を埋めていく。

 やがて。

「でーきたっ!」
「早っ!」

 問題集とシャーペンをまとめて机に置いた。代わりにポテチを手にとって、ぱりぱりとした触感をじっくりと味わう。香ばしいコンソメ味が疲れた脳に染みわたっていくような気がする。なんとも言いがたい達成感だった。

「本当にもう終わったんですか?」

 まだ信じられないらしい伏黒くんが、確かめるように問題集をパラパラとめくっていく。

「マジで全部埋まってる……」
「だって二回目だよ?」
「計算式は?」
「頭の中」
「これ、完全に答えを丸写しした感じになってますよね……」
「五条先生に叱られればいいと思う」

 ひとの顔に油性ペンでデカデカと“狗巻棘”なんて書くからだ。日焼け止めですんなり落ちたからよかったようなものの、落書きに気づくことなくあのまま外にでていたらと思うと肝が冷える。楽巌寺さんに公衆の面前で悪口を言われるより、ずっと恥ずかしい思いをしたはずだろう。

 喉を潤そうとペットボトルをつかんだとき、伏黒くんがこちらに問題集を差しだしてきた。

「……先輩、この図形の問題なんですけど」
「コラ恵!に聞くな!」
「そうだよ!自分で考えないと!」

 パンダくんとわたしは可愛い後輩からの質問を即座に突き返した。ムッとした伏黒くんは問題集を睨みつけると、

「呪術師に数学なんて必要ないでしょ。先輩みたいに大学受験するわけでもないのに」
「それを言われるとなあ。はどう思う?」
「スーパーの値引きとバーゲンの割引の計算に使えるから勉強して損はないよ。30%オフの商品が値引き後さらに20%オフ!って言われたとき、結局いくらになるのかすぐに答えられるようになるからね。すっごく便利だよ?」
「……まあ、その理屈なら、勉強する理由はわかりますけど」
って意外と苦労してるよな……」

 伏黒くんはそれからしばらく黙りこんでいたけれど、結局わからなかったのだろう、こちらに視線をよこしてきた。切れ長の双眸がわたしをまっすぐ映している。いつも素っ気ない伏黒くんに真正面から見つめられる機会など、そうそうないことだった。

 魂胆をすぐに見抜いたわたしは、さっと顔をそむけた。けれど、伏黒くんは逃がしてはくれなかった。

先輩」
「うっ……そ、そこは三平方の定理を」
先輩、今は問題じゃなくて俺の顔を見てもらっていいですか」

 甘い言葉に誘導されたわたしは、伏黒くんの顔を穴が開くほど見つめ続けた。

 そして。

「……解答欄ってここ?特別に計算式も書いてあげよっか?伏黒くん、わからないところはすぐに言ってね。あ、他の教科でもいいよ?」
「完落ちかよ!チョロすぎだろ!」
「だって顔がいいから……」

 好みのイケメンに抗うことは不可能だ。「今日も顔がいい……」と呟きながら、伏黒くんから受け取った問題集に答えを書き記していく。ああ、棘くんがこの場にいなくて本当によかった。そうでなければ、また油性ペンでデカデカと名前を書かれてしまったことだろう。

「この顔に生まれたことを今日ほど感謝したことはないですよ」
「わたしは伏黒くんのご両親に毎日拝むほど感謝してるよ?」
「……それはさすがにちょっと引きますけど」

 ちょっとどころかドン引きされていることには気づかないふりをしつつ、わたしはパンダくんの手元に視線を送った。

「パンダくんは理科?」
「おう。ちょうど遺伝のところだな。メンデルの法則だ」

 大文字と小文字のアルファベットの羅列に、思わずふふっと笑い声を漏らした。

「双子は双子でも、真依ちゃんは顕性で真希ちゃんは潜性なんだよ」
「どういう意味ですか?」
「つまりね、呪力のある真依ちゃんはツルツルのエンドウ豆で、呪力のない真希ちゃんはシワシワのエンドウ豆だってこと」
「真希の前でシワシワなんて言ったら殺されるし、そもそも真希の天与呪縛は遺伝じゃないからな」

 パンダくんが険しい表情を浮かべる。「シワシワって……」と伏黒くんが顔を伏せて笑いをこらえていた。

 そんなくだらない話を続けていたら、やっと棘くんが戻ってきた。

 立ちあがったわたしがバッと両手を大きく広げると、棘くんは助走もなしにわたしの胸に飛びこんでくる。うしろによろめきながらも、風呂あがりの熱い身体をがしっと受けとめる。さながら青春ドラマの一場面のように。

「わたしの棘くんっ!」
「ツナマヨッ!」
「そういうの部屋でやってくれませんか?鬱陶しいうえに目障りです」

 げんなりした伏黒くんを視界の外に追いやって、わたしは棘くんといたずらっぽい視線を深く絡ませた。

「お待ちかねのプレゼン大会だよ!」
「明太子っ!」

 連立方程式の計算中である伏黒くんが眉をひそめた。

「なんのプレゼンですか?」
「旅行に決まってるじゃん!」
「おかか!」
「いや知りませんから」

 辛辣な後輩を一瞥することもなく、棘くんは空いたソファに深く腰を落とすと、ごく自然な手つきでわたしを足の間に座らせた。腰に腕を回す棘くんの意識を数学の問題集からそらすため、わたしは棘くんに「あーん」と手ずからポテチを食べさせる。

 ご満悦な様子の棘くんに気取られないよう、心の中でほくそ笑む。狗巻棘め、まんまと罠にかかったな。

「だから部屋へ行けって……」

 伏黒くんの呆れ返った独り言は聞かなかったことにして、先ほどの説明をすることにした。

「最高の旅行プランを考えてお互いにプレゼンするの。勝ったほうの旅行プランで週末の記念日を一緒に過ごそうって決めてるんだ」
「しゃけしゃけ」
「ふたり揃って暇なんですね」

 暇とは失礼な。

「記念日ってあれか?付き合って一ヶ月の?」
「しゃけ!」
「ていうか、それ誰が勝ち負け決めるんだ?話し合いか?」
「……いくら」
「……誰だろうね?」
「ふたり揃って馬鹿なんですね」

 馬鹿とは失礼な。

「すじこ」

と、棘くんがハーフパンツのポケットから青色のUSBを取りだした。

「えっ、うそ!棘くんパワポ作ったの?!本気じゃん!」
「こんぶ」

 勝ちは決まったと言わんばかりの得意げな顔をするので、わたしは脇に置いていた書類ケースを顔の前で掲げてみせる。

「かく言うわたしもレジュメを作りましたっ」
「お、おかかっ!」
「ふたりとも暇で馬鹿なのはおおいに結構なんですけど、そんなことよりもっとやるべきことがあるんじゃないですか?」
「たとえば?」
「夏休みの宿題とか」

 その言葉で棘くんの視線が問題集に向いて、わたしは伏黒くんをきつく睨みつけた。うまく気をそらしていたのに余計なことを。今ここでバレたらわたしが叱られてしまうではないか。

「さてと!プレゼンの準備しよっか!」

 わたしは笑顔で言いながら、棘くんをソファから引っぱりあげた。強引な感じは否めなかったけれど、薄茶色の視線が問題集から外れたのでよしとしたい。

 棘くんが伊地知さんから借りたらしいノートパソコンとプロジェクターを談話室へ運びこみ、わたしが前もって用意されていた真っ白のロールスクリーンを壁に設置した。

 薄暗くなった談話室で、わたしは棘くんを見つめた。パンダくんと伏黒くんもなんか面白そうだからという理由で観客として参加している。こういうイベントは人が多いほうがきっと楽しいだろう。

「じゃあ先攻は棘くんから」
「しゃけ」

 黒縁の伊達眼鏡をかけた冬服姿の棘くんがうなずく。

 どうやらインテリ感を醸しだすことで、己の言葉に説得力を持たせようとしているらしい。なにがなんでも勝ちたいのだろう。その気合いの入りようには感心せざるを得ないし、なにより眼鏡をかけた棘くんが格好よすぎて直視できない。

 そういう作戦か。なんて狡猾な。

 考えていたことが顔にでていたのか、「やっぱりふたりとも頭おかしいですよね」と伏黒くんが失礼なことを言っていた。棘くんが談話室に戻ってきてからというもの、この後輩は失礼な発言が多すぎやしないだろうか。

 赤色のレーザーポインターを片手に、棘くんがノートパソコンを操作する。スクリーンに映しだされた文字の並びに、わたしは大きく目を瞠った。

「えっ」
「いくら」
「だってそこ、わたしのプランと同じ場所だよ?」

 書類ケースから引っこぬいたA4のレジュメを差しだすと、棘くんが何度も瞬きを繰り返した。

「ツナマヨ」
「考えること一緒だったね」
「しゃけしゃけ」
「どういうことだ?」

 パンダくんの問いかけに、棘くんは「ツナ」と淡々と答える。スクリーンに浮かびあがった地名を、レーザーポインターでぐるぐると囲うように示しながら。

「イザナミが棲んでた場所?」
「しゃけ」
「それ、観光目的じゃありませんよね?なにしに行くんですか?」
「イザナミさんの目的が知りたいんだよね」

 同意を求めるように棘くんに目をやると、こくこくと首肯が返ってきた。わたしは部屋の電気を点けると、ふたりにレジュメを手渡した。今回の旅行概要の補足として、イザナミさんが交わしたという誓約書の一部が抜粋して記載されている。

 伏黒くんが呆気にとられた顔をした。

「……なんですか、これ。こんなのどう考えても」
「そう、わたしを見殺しにするための誓約書だよ。生命保護から始まって、命に関わるほとんどすべての権利が赤の他人である棘くんに譲渡されてる。つまり、わたしが死んでもイザナミさんには一切ペナルティが生じない。どうしてこんなものを書いたのか、その真意が知りたくて」

 一息にまくしたてると、パンダくんが首をひねった。

「そりゃを無傷で黄泉に連れていきたいんだろ?」
「その先は?」
「……その先だって?」
「ああ、そういうことか」

 伏黒くんが深く考えこむように口に手をあてる。

先輩が死ねば、イザナミには枷がなくなる……自由になったその先の目的ってことですよね?」
「しゃけ」
「ただ自由になりたいだけって可能性は?そもそも狗巻先輩の呪言と先輩の機転でイザナミは今の形に落ち着いたんでしょ。だったら」
「おかか」

 言葉をさえぎったのは棘くんだった。かぶりを振ると、感情を欠いた表情できっぱりと告げた。

「すじこ」
「……狗巻先輩、今なんて」
「すじこ」
「そう。イザナミさんの目的は最初から“神様に成る”ことだったんだよ」

 肌に刺さるほどの沈黙が落ちる。わたしは数ヶ月前の出来事を思い返した。

「呪いも呪術も知らないド素人に途方もない恐怖を植えつけ、“ちぎり祭り”の言い伝えを利用して“死ねば神様に連れて行かれる”ことを信じこませた。ある種の心理操作だよ。そんなことをすれば、だれだって死に際には“神様”を願うよね?」

 パンダくんがポンと手を打った。

「わかった。ペナルティを潔く受けたのはどっちに転んだところで“神様”になれるから、ってことか。イザナミの本来の目的には支障がでないわけだ」
「そういうこと」

 切れ長の瞳が棘くんを見据える。

「神になって“なにをするか”――それを調べに行くんですね」
「しゃけしゃけ」
「呪いの本能に従って“手当たり次第に殺戮だー!”とかならわかりやすいんだけど」
「まあそうじゃないだろうな。あれだけの呪力量を保ったまま神になったんだ。おそらくもっと規模がでかいぞ。その気になれば未曽有の大災害も可能だろうな」
「人間を殺すにしても、“数”を殺したいってことですか?」
「おかか」

 今ひとつ煮え切らない顔で、棘くんが肩をすくめる。不確かなことばかりでなにもわからない、と。本当にその通りだった。

 パンダくんが頬をかきながら言った。

「水を差すようで悪いけど、それを調べに行って楽しい旅行になるのか?が殺される理由を調べるなんて、あんまりいい気分じゃないだろ?」
「わたしが長生きするためにイザナミさんの目的を探るんだよ。それに棘くんがいれば、どこにいてもなにをしても楽しいから。ね?」
「しゃけっ」

 首が落ちるかと思うほど力強い肯定に、あばら骨の内側が瞬く間に幸福でいっぱいになる。あまりのうれしさに下唇をちょっと噛んでうつむいていたら、棘くんがわたしの顔を覗きこんできた。

 感情を読みにくい瞳の奥にたしかな熱が見えている。棘くんがわたしの手に指をからめた。その熱っぽい手つきに身体がちょっと強ばる。わたしたちはじっと見つめ合った。たったの一秒が、十分にも一時間にも感じられた。身体の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。体温がどんどんあがっていく感じがした。

 とうとう棘くんの顔が近づいてきたそのとき、わざとらしい棒読みが聞こえてきた。

「あーマジで一瞬で終わりましたね、プレゼン大会」
「あいつらは見るな。呪いだと思え。ほら、宿題の続きやるぞ」
「呪いなら祓ってもいいですよね?」

 キスまであと数センチというところで、棘くんがなにかに気づいたように身体を離した。焦ったわたしがすぐに引きとめようとしたけれど、異次元の身体能力を持つ棘くんを捉えられるはずもない。

 机の上に置きっぱなしの問題集を奪うように拾いあげると、わたしから遠く離れた場所で中身に目を通した。

「あ……」
「ツナ……」

 ため息をついた棘くんはやれやれとでも言いたげにかぶりを振ると、

「こんぶ」
「えっ、お仕置き?……わたし、お仕置きされるの?」
「しゃけしゃけ」

 また油性ペンで顔に名前を書かれるのだろうか。しくじったなと思っていたのに、耳朶を打ったのは意外な言葉だった。

「すじこ」

と、言いながら理科と英語の問題集を手渡してきた。はて。

「……これがお仕置き?」
「明太子」

 一度だけうなずくと、わたしを横目にソファに座った。それからいつもと変わらない態度でスマホを操作し始める。

「すじこ」
「あ、宿……そうだね、予約はまだ……うん、ありがとう……」
「ツナ」
「宿の予約をしてくれるのはうれしいんだけど……」
「ツナマヨ」
「ううん……理科も英語も得意なんだけど……」

 嫌な予感がした。

 そうだ、棘くんは夏休みの宿題をサボりたい派の筆頭だった。自由研究も素知らぬ顔でわたしに押しつけようとしていたし、だれかが代わりに宿題をしてくれるなら万々歳なのだろう。たとえ筆跡が違っていようとも、とりあえず提出すればいいと思っているに違いない。そもそも教師からの叱責すら怖くないのかもしれない。わたしが楽巌寺さんに叱られるのがさほど怖くないように。

 はっとなったわたしは、スマホを見つめる棘くんを二度見した。

 プレゼンの日程と時間は最初から決まっていた。わたしが男子寮にやってくる時間もおおよその予測がついただろう。そのうえ今日は朝から顔に落書きをされて、虎視眈々と仕返しの機会を狙っていたのだ。わたしが“やられたらやり返す”性格であることは、棘くんならばよく知っているはずだ。

 つまり、問題集を途中で放置してお風呂に行ったのも、その問題集がわたしの大好きな数学だったのも、すべて。

 ――罠にはめられたのは、わたしだ。

「もうっ!棘くんっ!」
「ツナマヨ」

 腹立たしいほどの満面の笑みとピースサインに、わたしは思わず地団駄を踏んだ。