思い出

「海で遊びたーい」
「おかか」
「いいじゃん。もう元気なのに」
「おかか」
「棘くんのケチ」

 口を尖らせて不満を表現してみせると、触れるだけの口付けがふってくる。こちらを見おろす棘くんの表情は、いつもと変わらず物静かだ。いさめるように「おかか」と言いながら、湿り気の残るわたしの髪を飽きもせずになでている。

 テントの薄闇でもくっきり見える、その気だるげな瞳を見つめ返して、ぶうぶうと文句をたれた。

「もう巨大クラーケンはいないのに?」
「お、か、か」
「まだいっぱい時間あるじゃん。遊びたいよ」
「おかかおかか」
「ちょっとくらい泳ごうよ」
「こんぶ」

 もう充分泳いだだろうと呆れた声が返ってきたので、今度は頬を膨らませてみせる。棘くんはまた軽くキスを落とすと、これで我慢しろとでも言いたげな顔をした。

「つまんない」

 目が覚めてからずっと、テントの中で身体を休めることを強いられている。棘くんにひざまくらをしてもらっているけれど、ちっとも柔らかくない。むしろ固くて寝心地が悪い。だからといって返品はしないけれど。

 ひざまくらというには鍛えすぎだと思いつつ、テントからの移動を許してくれない棘くんをにらみつける。開いたカーテンから見える、夏の日差しが恋しくて仕方がないというのに。

 じっとりとねめつけていると、棘くんが表情ひとつ変えずに口を開いた。

「すじこ」
「パーカーのまま泳ぐ」
「おかか」
「透けないよ」
「おかかっ」

 白いパーカーの裾を指でいじりながら、いつもよりずっと過保護な恋人から目をそらす。溺れて死にかけていたところを助けてもらったのだから、これ以上は強く言えなかった。

 巨大クラーケンの正体は、やはり呪いだったそうだ。しかも三級呪霊だという。蠅頭だと思っていたから少し驚いてしまった。“巨大クラーケンがでるかもしれない”というわずかな恐怖――そんな人々の“負の感情”が三級呪霊として顕現させたのではないかと、棘くんは言っていた。

 聞けば、噂通りイカやタコのような姿をした呪いだったらしい。見えたなら炙り焼きにしてやったのに。買ったばかりの水着を無残に破られたことを、かなり根に持っている。けっこう高かったのし、お気に入りだったのに。

 そういえば、と棘くんに再び視線を戻す。わたしは眉間にぐっと力をこめた。

「見たよね」

 今度は棘くんが目をそらす番だった。落ち着かない様子で淡いブルーのマスクに触れて、その位置を何度も変えている。逃げられると思うなよ。ジト目で退路をふさいでやった。

「見た」
「しゃけ……」
「触った?」

 尋ねると、棘くんのすました顔が明後日のほうを向く。どうやらこのまましらばっくれるつもりらしい。

「触ったんでしょ?」
「……」
「うそついたってバレバレだよ?」
「…………」
「正直に言わないなら二度と触らせてあげないからね」
「………………しゃけ」
「棘くんのえっち」

 その一言で棘くんの表情が崩れた。わたしを射抜く鋭い視線が、言いがかりはやめろと告げている。助けるときにうっかり触ってしまっただけだということは、もちろん理解しているけれど。

「助けてくれてありがとう。本当に死んじゃうかと思った」
「おかかっ」
「ごめんなさい……」

 大きなため息が落ちてくる。いったい何度目のため息だろう。今日だけで両手では足りないほど、棘くんのため息を聞いた気がする。呆れすぎて、もう怒る気にもなれないようだ。

「男の子だったの」とつぶやくと、棘くんが眉をひそめた。

「ツナ」
「妹が溺れたって必死な顔で言うから、どうにかしてあげたかったんだ」
「高菜」
「呪いに捕まってたけど……もうお兄ちゃんに会えたかな」
「しゃけ」

 優しい即答に笑みを返す。わたしは溺れたときのことを思いだしながら続けた。

「死にかけても助けてくれないとは思ってなかったよ。イザナミさん、どうして助けてくれなかったんだろう。わたしが死んでもいいってこと?」
「おかか」

 棘くんは自分のことを指さした。

「棘くんがいたから?」
「すじこ。いくら。こんぶ」
「誓約書?!うわー……初めて聞いた。そんなのあったんだね」
「しゃけ」

 わたしは棘くんをじっと見つめる。

「どうして棘くんを巻きこんでるんだろう」
「ツナマヨ」
「ううん、恋人だとかそういう意味じゃなくて。棘くんに生命保護権を譲渡して、イザナミさんにどんなメリットがあるのかなって」
「すじこ」
「棘くんの歪んだ呪い……でもそれを利用したいんだとしたら――あ、そっか。やっぱりわたしを殺したいから、生命保護権は邪魔なんだ」
「おかか」
「今日助けたのは、イザナミさんが望む“死の形”があるからだと思うよ。ちぎり祭りのときみたいに、儀式の最後で殺される必要がある、とか」
「いくら」
「うん、イザナミさんはなにか企んでる。でも今ここで考えたって仕方ないし、帰ったら五条先生に誓約書見せてもらおっか」

と提案すると、棘くんは真面目な顔で何度もうなずいた。

「あーあ。棘くんいいなー」
「ツナ」
「わたしもイザナミさんと話したいよ。なに考えてんだろ」
「おかか」
「一方的でも手がかりはつかめるかもしれないじゃん」

 むくれていると、棘くんに頭をなでられた。わたしが笑って見つめ返すと、やがて薄闇にただよう空気に熱が混じりはじめる。わたしの髪をすく手つきはどこかぎこちない。うっすらと浮かぶ期待を感じとる。

 たまらなくなって、棘くんの首に両手を引っかけた。顔を至近距離まで引きよせると、目の前の相手にしか聞こえないほどの声量でささやく。

「海に行くのは、だめなんでしょ?」
「おかか」
「じゃあ棘くんとこういうことは、してもいい?」
「……しゃけ」

 肯定の単語とともに、マスクが指でおろされる。期待に震える心臓が、ものすごい速さで血液を身体に送りだす。

 どちらからともなく、唇が触れあった。湧きあがる熱を分かちあうようなキスは、次第に互いの酸素を奪うだけのそれに変わっていく。わたしの口から甘ったるい声が漏れはじめると、棘くんはようやく唇を離した。

 己の口端を伝う唾液を指ですくいとりながら、欲に濡れた瞳に言う。

「あのとき、もっと苦しかったな」
「高菜」

 ひどく心配そうな声に、小さく首をふる。

「窒息死するなら、棘くんとのキスで死にたいよ」
「すじこ」

 だったらここで死んでみる?――そのいたずらっぽい問いかけに、わたしは笑ってうなずいた。棘くんはわたしの頭をシートの上にそっと移動させると、ひざ立ちになってカーテンのファスナーを下ろす。日差しがさえぎられ、闇がより深くなる。テントの中の温度がぐんとあがったような気がした。

 棘くんはわたしの隣に寝そべると、鼻の頭がくっつくくらい顔を近づけてきた。わたしの顔に張りついた髪を、ゆっくりと指で除けていく。その姿を見つめながら、わたしは棘くんのマスクを両手で外した。

「テントにしたのって、このため?」
「おかか」
「どうだか」

 それからわたしたちは、互いを貪るようなキスを繰り返した。テントからはみでた足が、すっかり日に焼けてしまうまで。



* * *




 日焼けした足が砂浜を踏んだのは、日が傾きはじめたころだった。海の家でトウモロコシやイカ焼きやカキ氷をたらふく食べて、元気が戻ったことを証明したわたしは、とうとう棘くんからの許しを得ることができた。

 とはいえ、泳ぐことは禁止されている。ふたりで波が打ちよせる砂浜を歩くことにした。

 パーカーのポケットからスマホを取りだすと、海を眺めていた棘くんに手渡した。海水浴客の姿がずいぶんと減った広い海に背を向ける。

「撮って」
「しゃけ」

 すると棘くんはなにを思ったのか、わざわざわたしのうしろに回りこんだ。腰に腕を回して抱きしめると、わたしの顔にぴったりと頬をよせてきた。

 自撮りモードのスマホを斜め上にかかげて、「明太子」と言いながらシャッターボタンを押す。一度では物足りなかったのか、無機質な音が何度も響き渡った。

「バカップルじゃん」
「しゃけしゃけ」
「別れたら死ぬほど後悔するよ?」
「おかか」

 別れないから関係ない。きっぱりと言い切った棘くんは、ずっとスマホを握っていた。しかも二台持ちだ。わたし個人の写真は自分のスマホで撮って、ふたりの写真はわたしのスマホで撮るという、謎のこだわりを見せていた。

 中指を立てながらそろって舌をだした、ただのチンピラのような自撮りは、独り身の五条先生に送りつけてやった。誓約書のことを黙っていた腹いせだ。すぐに“ブロックしていい?”と返事がきて、ふたりでお腹を抱えて笑いころげた。

「そろそろ帰ろっか」
「しゃけ」

 帰りの列車の中で、肩を寄せあいながらスマホを見つめる。

「いっぱい撮ったね」
「しゃけ。こんぶ」
「んー……わたしが好きなのはね、これ」

 ふたりで爆笑している、ちょっと不明瞭な写真だ。キス写真を撮ることになったのに棘くんがいつまで経ってもシャッターを押さなくて、いつまでキスするんだろうと思っていたら次第に笑いがこみあげてしまった――そういう写真だった。

 ぶれているのは棘くんが笑ったせいだけれど、これはこれで悪くない。なんというか、とても自然な感じがする。

「ツナマヨ」
「棘くんも好き?あとでまとめて送るね」
「しゃけしゃけ」

 カメラロールを埋め尽くす棘くんとの写真に、勝手に頬がゆるむ。ちらりと視線を動かすと、棘くんが穏やかな瞳でスマホを覗きこんでいた。胸がじんわりと温かくなる。夏の火照りとは違うこの優しい熱を、いつまでも手放さない方法を知りたかった。

「溺れて死にそうになったときにね」
「……ツナ」
「棘くんに抱かれることもなく死ぬのはいやだな、って思った」

 ひどく緊張していた。棘くんの顔を直視できないほど。高校受験の日より、イザナミさんと取り引きをしたときより、何倍も緊張している。わたしから誘うのは怖かった。でも、棘くんがわたしの心の準備を待ってくれている以上、わたしが決めなければならなかった。

 わたしは軽く唾を飲みこんでから、強ばった唇を割った。

「来週末の金曜から、二泊三日で旅行に行きませんか」

 おそるおそる尋ねると、棘くんが小さくうなずいた。照れるのかと思いきや、意外にも口元に意地悪な笑みを宿したまま、わたしの顔を覗きこむ。わたしよりも固い皮膚に覆われた指先が、頬を優しくなぞった。

「おかか」
「えっ」
「おーかーかー」

 そんなにしたくなった?――茶目っぽい声音で尋ねられて、わたしは噴きだした。緊張もどこかへ吹っ飛んでしまう。列車の窓から、逢魔時を迎え入れる紫色の空が見えている。棘くんの手に指をからめて、余裕ぶった様子の棘くんにいたずらな笑みを返す。

「それは棘くんのほうだと思うけどなー?」
「おかか」
「本当かなー?」
「しゃけしゃけ」
「じゃあ旅行やめとこっか。また今度ね?」

 すると棘くんがこの世の終わりでも見たような顔をするものだから、もう駄目だった。上半身を前のめりにさせながら、腹を抱えて笑ってしまった。

 冗談にしては質が悪すぎる、と不機嫌になった棘くんはしばらく口をきいてくれなかった。とはいえ「露天風呂付きの部屋でいちゃいちゃしよっか」というわたしの提案で、案外あっさりと機嫌を直してくれたのだけれど。


第3章 了