間奏

 がいない。

 テントはもぬけの殻だった。トイレかと一瞬考えたけれど、白いパーカーが雑に脱ぎ捨てられている事実がその疑いを否定する。

 いやな予感がした。脳髄まで一息で駆けあがる焦燥が棘の手を素早く動かす。首から吊りさげた防水ケースをつかむと、ケース越しにスマホを操作した。口の中がからからに乾いていくのを感覚しながら、スマホを耳にあてる。祈るような気持ちだった。

 コール音が鼓膜を叩いた瞬間、無機質な着信音が響き渡った。テントのすみに置かれたトートバッグに視線が移り、心臓が大きく脈打った。

 ぞわっと鳥肌が立つ。振り返るやいなや、はやるつま先で焼けた砂浜を踏んだ。全速力で駆けながら、海辺にの姿を見つけようと懸命に目を凝らす。

 しつこいほど“凡人”を自称するが、たったひとりで巨大クラーケンを探しに行くとは考えられなかった。そこまで無謀なことをしでかす性格ではない。

 だとすれば、可能性はひとつだけ。はひとりではないのだろう。おそらくまた“幽霊”を見たのだ。この海水浴場では数年前に“死亡事件が複数発生”している。が幽霊を見る条件はそろっていた。

 波打ちぎわで足をとめる。打ちよせる波を踏んで、首を左右に振った。

 幽霊と巨大クラーケンの関係はわからないが、後者が呪いであることは十中八九間違いない。が遭遇していたら、そう考えるだけでひざが震えそうだった。どれだけ弱い呪いでも、相手はこちらを本気で殺すつもりで襲ってくるのだ。一瞬でも隙を見せれば足元をすくわれるし、そうやって死んでいった呪術師を何人も見てきた。

 が“特級(仮)”だろうと関係ない。殺されるときは、いともたやすく殺される。

 どうせ幽霊に助けを求められたのだろう。お人好しの無鉄砲めと腹の内で毒づきながら、何度も視線を動かす。いくら探してもの姿はどこにも見当たらない。

 募る焦りを振り払うように、棘は海に入ろうとした。こうしている時間が惜しかった。まずは巨大クラーケンが出没する場所に向かおう。手がかりはそれだけだった。やみくもでも探すしかないと覚悟を決めたそのとき、突然スマホが鳴った。

 目を落とせば、画面には非通知と表示されている。戸惑ったのは束の間のことで、頭に落ちてきた予感に賭ける気持ちが身体を支配する。気づけば応答ボタンを押して、着信に応えていた。

「守って頂戴ねって言ったでしょう」

 予感が現実に変わる。成熟した女の声にたちまち怒りが湧く。つややかで淫靡なその声は棘の反応を待つことなく、どこか苛立った様子で話しはじめた。

ちゃんね、今いたずら好きの雑魚呪霊にちょっかいだされてるの。しかもこれ、貴方が相当嫌がるやり方よ?品がないったらありゃしない。所詮は低級、野蛮の一言に尽きるわね」

 他人事のような物言いに、棘の怒りが爆ぜた。

「いくら!」
「……相変わらずなにを言ってるのかさっぱりだわ。切るわよ」
「おかか!」
「貴方と違って私は忙しいの。断熱消磁と気体分子運動論について今夜までに――」
「すじこ!」
「ああ喧しい。その口振りだと、私が助けないことに怒りを覚えているのかしら?」
「しゃけ!」
「責任転嫁はやめて頂戴。あのとき貴方は私の言葉にうなずいた。うそだったとは言わせないわよ。だから誓約書にも書いたのに……まさか五条悟に見せてもらってないの?」

 なんのことなのか見当もつかない。棘が記憶をたどるように考えこむと、

「呆れた。全部あの男のせいじゃない」

と、女が面倒臭そうに続けた。そして前のめりな早口で告げる。

「ちゃんと確認しておいて頂戴。“の生命保護に関する一切の権利を狗巻棘に譲渡する”って一文があるから。だから私はなにもしないわ。ペナルティはもうこりごりよ」

 言い切った途端、淡々とした声が響いた。

「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」

 導かれるように、空から黒い幕が垂れさがる。ここからそれほど遠くない東側の海に“帳”が下りていた。しかも範囲が異様に狭い。

「これでちゃんの居場所がわかるでしょう?さあ早く行って。もたもたしてると本当に死んじゃうわよ」
「こんぶっ!」
「当然でしょう?私は貴方の味方だもの。ちゃんを愛してくれるなら、ね」

 小さな笑い声とともに、通話が切れる。棘はスマホから手を放すなり、海に飛びこんで必死で泳いだ。無我夢中で手足を動かし、女の作った“帳”に侵入する。

 闇を溶かしこんだような黒濁した海の底に、イカやタコといった軟体動物を彷彿とさせる呪いの姿を確認した。その途端、沸騰した殺意で息がつまる。全身の毛が逆立つようだった。

 気を失ったが複数の触腕に拘束され、きつく縛りあげられていた。見えているのは頭部と手足の一部くらいで、重なるように巻きついた触腕がの身体をねじるように這いずり回っている。全身をめぐる憎悪が吐き気すら呼びよせる。あの女の言う通り、棘の嫌がるやり方だ。

 棘の存在に気づいた呪いが猛り狂うようにして、次々と触腕を飛ばしてくる。水中で回転して難なくかわすと、勢いよく水を蹴って呪いとの間合いを一気に詰めた。顔にへばりつくマスクをむしり取って、呪いに焦点を合わせる。を助けだすことが最優先だった。

「――返せ」

 口から空気が漏れるのも構わず呪言を放つ。呪いの動きが瞬く間にとまり、の体躯と触腕の間にかすかに空間ができていた。

 拘束がゆるんだ隙にの手首を引くと、なにも身につけていない上半身があらわになって、思わず目を見開いた。

 一秒にも満たないわずかな時間ではあったものの、棘の思考は完全に停止した。

 脳髄が状況を把握したときには、怒りで目の前が真っ赤に染まっていた。棘の内側で途方もない呪力が渦を巻く。に手をだしたことを悔いて詫びて――そして死ね。

 を抱きよせながら、ありったけの殺意を言葉にのせる。

「――潰れろ」

 轟然とした破壊の音とともに、呪いの身体が一点に収束した。その衝撃で、生々しい色をした内腑が真っ黒の血らしきものとともに海中で弾け飛ぶ。ばらまかれた肉体は、海に溶けるように消えていった。

 猛烈な攻撃が海流を生み、棘とを一息に水面へと押しあげた。の身体をうしろから抱え、海面から頭をだす。いつの間にやら“帳”は消えてなくなり、肌が痛むほどの日差しが容赦なく照りつけていた。

 棘は激しく咳きこんだ。水中で呪言を使ったせいだろう、見事に海水を飲みこんだようだ。咳を続けながらも、ぐったりした様子のを仰向けにさせる。乱れた呼吸を押し殺し、の顔に耳をよせた。

 溺れて間もなかったのか、幸い呼吸は確認できた。安堵しつつ、何度も声をかける。

「おかかっ!おかかっ!」

 やがて、ごぼっとの口から大量の海水があふれた。その場で顔を少し横に向けて海水を吐きださせてやると、仰向けの状態のまま浜辺へ向かおうとする。

 そのとき、棘の目が海面に揺らめく青色の布地を捉えた。の水着だとすぐに気づき、視線が勝手にのあられもない姿を認識する。水面に浮かぶふたつの膨らみからぱっと目を離すと、ただよう水着に手をのばした。

 余計なことはなにも考えるなと己に言い聞かせながら、破れた布地を申し訳程度にその膨らみに乗せる。とりあえず、これで一安心だ。邪魔な雑念は追いだせるだろう。

 そう結論づけつつを運ぼうとしたとき、にわかに心臓が悲鳴をあげて大きく脈打った。

 うしろから抱きかかえているせいだろう、の身体の重みでどうしても腕が滑り、の胸に引っかかってしまうのだ。体勢が悪いのかと思い、脇の下から腕を通して肩を抱えようとしても、胸の側面が棘の腕にしっかりと触れてしまう。

 想像よりもずっと柔らかな感触に視界がちかちか弾けたけれど、血の気のないの顔が目に入って棘の煩悩を一瞬で焼き殺した。

 今は救助が最優先である。もうなにも考えるんじゃないと己を鋭く叱咤して、うしろ向きに泳いでいく。

 地面に足がつくとすぐに横抱きに抱えて、砂浜へと急いだ。意識のないを半側臥位の状態で横たえる。つい先ほどまで展開されていた“帳”の影響だろうか、周囲にはまったく人がいない。

 棘は横向きになったの背中をさする。滑らかな肌の至るところに縛りあげられた痕が克明に残され、皮膚がすり切れたために血がにじんでいる場所も多かった。

 己の不甲斐なさに目頭が熱くなる。棘は手を動かしながら、防水ケースに入ったスマホに目を落とした。これ以上の応急処置方法がわからない。すぐに家入の指示を仰ぐべきだろう。

 連絡先一覧から呪術高専の電話番号を引っぱりだしたそのとき、棘の耳が小さなうめき声を捉えた。

「高菜っ!」

 は身体を震わせて弱々しくむせたあと、うっすらと目蓋を開いた。

「……と、げく……ん」

 蚊の鳴くような声は、確かに棘の名を呼ぶ。のどの奥が打ち震えて、下唇をきつく噛んだ。

 力ない瞳がこちらを見あげてきたので、いつもと変わらぬ雰囲気を装った。揺れる双眸を見つめ返して、ぽつっとつぶやいた。少しでも呆れていることが伝わればいいと思いながら。

「高菜」
「う、ん……ほんと、ごめんね……」

 へにゃりと微笑むに覆い被さる。その頭を抱きかかえるように。棘の腕の中におさまったは、「くるしいよ」とつたない調子で笑った。