溺没
「海だーっ!」「しゃけーっ!」
列車とバスを乗り継いで数時間。ようやく例の海水浴場に到着したわたしたちは、太陽に照らされた青い海を前に、浮き立つ心を抑えられずにいた。
朝早くに呪術高専を出発したものの、乗り換えの回数が多く、ずいぶん時間がかかってしまった。それでも神奈川県内の海水浴場でよかったと思う。これがもし千葉県だったら、もっと移動時間が必要だっただろうから。
白い入道雲がぽつぽつ浮かぶ空を視界におさめる。朝は比較的すごしやすい気温だったのに、たった数時間で肌に汗がにじむ気温に変わってしまった。スマホの天気アプリによれば、今日の予想最高気温は三十五度らしい。
猛暑日になるらしいから、あまり日に当たりすぎないようにしよう――棘くんはバスの中で心配そうに言ってくれた。さすがにここまで暑いと、日にあたるだけで体力を消耗するだろう。日陰でのんびりするほうが楽しいかもしれない。
広大な海に目を奪われている棘くんを、こっそり見つめる。今日は棘くんとの久しぶりのデートだ。ついでにいえば、付き合うようになって初めてのデートだ。猛暑日かもしれないとはいえ、晴れただけ幸運だと思うべきだろう。
棘くんがわたしの手を引きながら、焼けた砂浜を進む。今日の棘くんは口端に刻まれた“蛇の目”を、カラーマスクで隠している。この炎天下でいつもの黒いネックウォーマーは命取りだろう。ちなみにマスクの色は、わたしが選んだ淡いパープルだ。ポップな感じがとても可愛いし、棘くんの砥粉色の髪によく似合っていると思う。
砂浜には海水浴客の姿が多く見受けられるものの、人がごった返しているという印象はない。今日の予想最高気温を考えれば、この客入りもうなずける。
海の家からそれほど遠くないところに、運よく空いた場所を見つけた。棘くんはタオルや飲み物などが入ったトートバッグをわたしに手渡すと、肩からぶら下げていた丸いキャリーバッグのファスナーを開ける。
待つこと数分。砂浜の上に現れた青色の大きなテントに、わたしは歓声をあげて拍手をした。ちょっとうれしそうな棘くんは、そのままペグで手際よくテントの周りを固定していく。あの小さなバッグに、よくその質量がおさまっていたものだ。技術の進歩は素晴らしい。
折りたたみ式パラソルを買うか、サンシェードテントを買うかで、昨日ちょっとだけ言い合いになった。
海といえばパラソルのイメージが強い。だからわたしはパラソルがよかったのに、棘くんはテントにしようと言い張った。日よけとして使うならテントのほうが優秀だ、というのが棘くんの主張である。
お互いの主張は平行線をたどるばかりで、ちっとも結論がでなかった。結局は棘くんに“自分が全額払うから任せてほしい”と押し切られ、フルクローズタイプのサンシェードテントを持参することになったのだ。
頑丈そうな真新しいテントを覗きこむ。UVカット率98%だというその中は意外と広く、少しだけ薄暗い。これなら太陽の位置に関係なく日かげが保たれるし、背面には通気性を重視した構造も施されているから、想像よりもうんと涼しい。それになんだか秘密基地のようで、自然と心が弾む。
ペグでの固定を終えた棘くんが立ちあがる。
「棘くんが正解だったね。これ、すごくいいよ」
「しゃけしゃけ」
わたしは手をかかげて敬礼をする。
「これからアウトドアのことは棘くんに一任します」
「明太子」
びしっと答礼してくれた棘くんと小さく笑い合ったあと、わたしはTシャツの裾をつかんだ。棘くんがぎょっとした顔で、声をうわずらせる。
「おかかっ」
「だって水着、下に着てきたし。棘くんは違うの?」
「しゃ、しゃけ」
そうだけど、と歯切れの悪い答えが返ってくる。棘くんには事前に水着をお披露目するという百倍返しのサプライズを行っている。今さらわたしの水着姿に照れているわけではないはずだけれど。
少し考えこんで、棘くんに向かって両手を差しだした。
「あ、脱がせたいんでしょ?仕方ないなあ、はいどうぞ」
「おかか……すじこ……」
「え、別に意地悪してるわけじゃないけど……」
どうやら違ったらしい。となれば、わたしが着替えているところを他人に見られたくないのだろう。だれもわたしのことをいちいち見ていないし、見ていたとしてもすぐに忘れてしまうと思う。ただ水着姿になるだけなのに、どうしてそこまで気にするのだろう。
上が駄目なら下から脱ぐかと、スキニージーンズの前ボタンを外す。棘くんは慌てた様子で背を向けた。別に見てもいいのにと思いながらジーンズをおろそうとして、「あっ」と違和感を覚える。咄嗟に漏れた声を拾いあげた棘くんが、反射的に振り向いた。
「ツナ」
「どうしよう、一緒に脱げそう。フリルが引っかかって」
「お……おかかっ!」
棘くんがものすごい剣幕でわたしをテントに押しこめる。びっくりしていたらカーテンのファスナーを素早く閉められて、あっという間に薄暗いテントの中に閉じこめられてしまった。
「すじこっ!」
「はーい……」
怒られてしまった。もぞもぞと色の淡いジーンズをずらしながら、外にいる棘くんに話しかける。
「棘くん、呪詛師の件って調べてくれた?」
「おかか」
「ん、そっか」
「こんぶ」
「ううん。急かしてるわけじゃないんだけど、ちょっと気になることがあって」
「ツナ」
その短い言葉から緊張感が伝わってくる。わたしはジーンズから足を抜いた。
「塾の先生がね、婚活アプリでイケメンから宗教の勧誘を受けたんだって。悲しい感情がなくなれば世界が平和になる、だから悲しい感情を失くしましょう――ざっくり言うとそんな感じの宗教らしいんだけど、どこかで聞いたような話じゃない?」
「すじこ」
「だから今そのイケメンと連絡を取ろうと試みています」
「高菜」
心配そうな声を聞きながら、Tシャツを脱いでいく。
「大丈夫だよ。連絡を取ってくれてるのはさとみちゃんだから」
「……おかか」
まさか。面白いほど引きつった声音に、笑いを堪えながら続ける。
「そう、五条さとみちゃん。モデル級のすっごい美女だよ。プロフィール写真が奇跡の一枚すぎて、どうでもいい男から大量にメッセージきてるって大爆笑してたけど」
「こんぶ……」
「こっちはさとみちゃんからの連絡待ち。しばらく時間がほしいって言ってたから、動きだすのは来月になるかな。それまでは似たような宗教に関わっている人がいないか、もう少しだけ調べてみるつもり」
「しゃけ。明太子」
わたしは内側からファスナーを開けて、テントからそっと顔をだす。
「大変長らくお待たせしました」
こちらを見下ろしている棘くんの目がわずかに揺れる。トートバッグに手をつっこむと、
「じゃあ、日焼け止め塗って?」
と明るく言いながら、金色のパッケージの日焼け止めを差しだした。それをじっと見つめた棘くんは、「しゃけ」とぎこちなくうなずく。
テントの中で背を向けると、棘くんがすぐうしろにひざをついた。日焼け止めを振る音が、鼓膜を小刻みに叩いた。
「こんぶ」
「背中だけでいいよ。あ、それとも前も塗りたいとか?……棘くんのえっち」
「おかかっ」
「ちょっとだけならいいよ?」
「お……おかか」
「今ちょっと悩んだよね?」
わたしの手のひらにも日焼け止めをだしてもらう。足や腕に日焼け止めをのばしながら、肩甲骨に広がる冷たい感触を感覚する。
棘くんはひどく緊張した手つきで、ちまちまと日焼け止めを塗っている。それでは塗り終わるころには日が暮れてしまうだろう。もっと大胆に塗ってくれてかまわないのに。
わたしが笑い転げるまで、そう時間はかからなかった。
* * *
「貴重品だけあずけてきてくれる?」
「しゃけ」
日焼け止めを塗る、たったそれだけのことにどれだけ時間をかけたのだろう。ずっと緊張していた棘くんだけではなく、わたしにも原因があるような気がする。
棘くんの背中に日焼け止めを塗るとき、背骨をなぞってみたり、ちょっといやらしい手つきで塗ってみたり、とにかく驚かせることに全力だった。あとは指で背中に文字を書いて、なにを書いたか当ててもらう遊びもした。
気づけば、もう一時間以上が経っている。まだここから一歩も動いていないのに。
ちょっと自分に呆れていたら、棘くんが首をかしげた。
「ツナ」
「ううん、ここで待ってる。だってここ涼しいし」
「おかか」
「ちゃんと待ってるから。だれにもついていかないよ?」
「おかかっ」
「棘くん以外には興味ないでーす。ほら、虫よけもあるし」
薬指で円を描くピンクゴールドを見せつける。海に入るからとついさっき外そうとしたら、本気でにらまれた。たとえ指が千切れても、外すことを許してはくれないだろうなと思う。
心配性の棘くんは白いパーカーを脱ぐと、わたしの肩に引っかけた。ほどよく鍛えられた身体があらわになって、心臓がばくばくと音を立てる。気づかれないように、パーカーを着るふりをして顔を伏せた。
シックな紺色の水着一枚になった棘くんは、どこか気乗りしない様子で貴重品の入ったカバンを抱える。
「いってらっしゃーい」
「……こんぶ」
渋々うなずいて、棘くんが海の家へと歩いていく。わたしを何度も振り返りながら。勝手にどこかへ行かないか、それがとにかく心配なのだろう。懐いた犬みたいだなと思いながら、棘くんが見えなくなるまで小さく手を振り続けた。
巨大クラーケンがでるという位置は、日焼け止めを塗っている間に棘くんと一緒に確認済みだ。棘くんとなにもいないことを確かめて、あとは海水浴デートをたっぷり楽しみたい。
大きなあくびをしながら海水浴客を眺めていると、小さな子どもが走っている姿が見えた。元気だなあと思ったのは一瞬のことで、すぐにぎょっとする。
小学生くらいの男の子は泣きながら、迷うことなくこちらに向かって走ってきたのだ。
「おねえちゃんたすけてっ!」
「えっ」
「いもうとが……いもうとがむこうでおぼれてっ!」
テントの前でひざをついた男の子がわんわん泣いている。あまりに突然の出来事に頭がついていかない。混乱に陥りながらも、わたしは男の子の肩に手を置いた。
「わかった。すぐにわたしがライフセーバーさんを呼んで――」
「おねえちゃんはやくっ!」
男の子はわたしの手首をつかんで立ちあがる。その様子に違和感を覚えたわたしは、手首を引っぱる男の子に抵抗を示した。
「ちょ、ちょっと待って。せめて棘くんがくるまでは」
「はやく!いもうとがしんじゃうよ!はやくたすけてっ!」
「でも棘くんがいないと」
「おねえちゃんっ!」
「……わかった。急ごう」
脱いだパーカーをテントに置くと、ビーチサンダルを履いて熱い砂浜を全力で駆けだした。男の子の手を引きながら。海水浴客をうまくかわして、波打ちぎわまでものの十数秒で到着する。
「どっち?」
「あっち!」
男の子が指で示すのは、件の巨大クラーケンが出没する方角だった。
「ぼく、あぶないっていったのに、ひとりでずっとむこうまでいっちゃった……」
「大丈夫だよ。わたしが迎えに行くから」
「ほんとう?」
「うん。だから先に行って待ってて。妹さんは、必ず君のところまで送り届けるから」
「……おねえちゃん、ありがとう」
瞬きをしたときにはもう、男の子の姿は忽然と消えていた。
わたしは迷うことなく海に飛びこんだ。この気温のせいだろう、海水の温度は少しぬるかった。テントや海の家からずいぶん離れた場所に向かって平泳ぎで進んでいく。
ミャコによれば、件の巨大クラーケンは海水浴客の足を引っぱるのだという。いつの間にか、周りには人がいなくなっていた。遊泳可能区域の端っこにいるのかもしれない。
もう足は海底に届かなかった。浮いたまま周囲をきょろきょろと見渡す。
「助けにきたよ!返事をして!」
わたしが叫んだそのとき、右のほうで水しぶきが舞った。首をひねると、小さな手が天に向かってのびている。
「たす、け……」
か細い声が耳朶を打つ。急いで方向転換したとき――なにかに右の足首をつかまれた。えっ、と思った。とても強い力で沖のほうへ引っぱられそうになり、わたしはもぐって目を見開く。
小さな女の子が海面近くで溺れている。溺れているというより、なにかから逃れようと懸命にもがいているようにも見えた。
そこには女の子の他にはなにもいなかった。それなのに足をつかんでいる感覚は確かにある。わたしは目を凝らした。太陽の差しこむ明るい海が広がっているだけで、足首を強く引っぱるモノの姿も認識できない。けれど、不自然に海水が揺らめいていた。まるで、なにかがそこにいるかのように。
きっと呪いだと確信した瞬間、今度は左手首をぐんっと引かれた。あまりのことに驚いて、開いた口からあぶくがこぼれる。それでもなりふり構っていられなかった。四肢をばたつかせる女の子に手をのばし、もみじみたいにちっちゃな手をつかんだ。
――ひとりでよく頑張ったね。お兄ちゃんが待ってるよ。
女の子は目を瞠ると、すぐに安堵したような表情になった。ほっとしたのも束の間だった。次の瞬間にはわたしの自由は奪われ、視界はわたしの口からあふれたあぶくでいっぱいになっていた。
逃げようとすればするほど、身体中になにかが巻きついてくる。肌の上をぬめりを帯びたなにかが這うのがわかって、嫌悪感で顔がゆがんだ。必死にもがいても拘束は強くなるばかりで、強い痛みを感じるほどにきつく締めつけられていく。
胸が苦しくなってきて、焦燥感に駆られた。せめて息がしたい。水面に頭をだそうとすると、水着を思い切り引っぱられた。身体が海の深いところへ引きずりこまれると同時に、布が千切れる感覚がした。はっとなったときには体躯に巻きつく痛みが激痛に変わっている。皮膚も肉も骨もまとめてねじ切られそうだった。
目の前に横たわる死を、明確に感覚した。
脳裏に浮かんだ一文字が、わたしの中に途方もない恐怖を連れてくる。蹴飛ばそうと必死に足をばたつかせたけれど、呼吸が苦しくなって身体が落ちていくだけだ。視界がどんどん暗くなっていく。
――イザナミさん!
呼びかけには返答がない。すがるように何度も心の中で呼びかける。
――イザナミさんっ!
もう限界だった。息をとめていられなくなり、ごぼっと大量のあぶくがあふれる。わたしが死にそうになっても助けてくれないのか。どうやら彼女は仕事のとき以外は絶対に力を貸してくれないらしい。
海水がとめどなく身体の中へ入りこんでくる。痛みと苦しみで頭がぼうっとしてきた。
棘くんの顔が脳裏に浮かぶ。こんなところで死にたくなかった。棘くんと幸せになろうと決めたのに。まだたくさん行きたいところもあるのに。棘くんに一度も抱かれることもなく死ぬなんて、そんなの絶対にいやだった。
押さえつけようとする強い力に懸命に抗って、がむしゃらに手をのばした。明るい水面はすぐそこに見えているのに、泣きたくなるほど遠い。遠すぎて、あきらめの気持ちが顔をだした。
きっと怒るだろうな、と思った。死んだらなんの意味もないと、ものすごく怒るだろう。またひとりで勝手なことをして。そんなふうに怒鳴りつけるはずだ。今度こそ口をきいてくれなくなるかもしれない。キスで許してくれるだろうか。許してくれるといいな。
――と……げ、く…………。
わずかに残っていた意識が、次第に遠のいていく。のばした手は力なく沈み、絡めとられるように身体が落下する。水面へ向かう小さな泡だけが、きらきらと光って見えた。