先輩
スマホで検索した地図を指で示しながら、わたしは東堂くんを見あげる。東堂くんはその怪物じみた長身をやや丸めて、食い入るように小さな画面を見つめていた。「――それで、会場がここですよね。海浜幕張駅をでたら、まずは案内板に従って歩いてください。とても大きな建物のようなので、おそらく迷わずたどり着けるはずです」
「会場がいくつもあるのは厄介だな」
「そうですか?駅までの乗り換えのほうが厄介だと思いますよ。ここから会場まで、最低三回は乗り換える必要がありますし」
長身アイドル“高田ちゃん”の個別握手会が行われる幕張メッセは、この呪術高専からずいぶん離れた位置にある。ただでさえ東京は鉄道路線が複雑なのだ。ここが東京郊外とはいえ、列車の乗り換え回数が少なくないとなれば、迷う可能性は必然的に高くなるだろう。
東京とその近郊に詳しくないという東堂くんに請われるまま、わたしはスマホを片手に最短ルートを説明していた。
わたしもそこまで詳しくないし、そもそも幕張メッセに足を運んだことすらない。けれど、わたしにはスマホがある。情報技術のめまぐるしい発達のおかけで、スマホのナビアプリさえあれば、説明はそれほどむずかしくない。
ふたりでのろのろと正門に向かいながら、眉根をよせる東堂くんに乗り換えアプリの検索結果を見せる。なじみのない駅名に目が滑るのか、東堂くんの顔はますます険しくなった。
高田ちゃんはここ最近、メディア露出が激増している。アイドルに明るくないわたしでも顔と名前が一致するくらい、さまざまな媒体で高田ちゃんを見かける。身長180センチという一度見たら忘れられないスタイルだけでなく、バイタリティあふれる性格と天性のアドリブ力が、バラエティ番組やラジオ番組などで重宝されるのだろう。
メディア露出に伴って知名度も人気もぐんぐん上昇し、個別握手会は首都東京だけではなく、日本の各主要都市で開催されることが多いそうだ。
京都で暮らしている東堂くんは、いつも京都や大阪といった関西で催される個別握手会に参加しているらしい。けれど今回は運悪く抽選にことごとく外れてしまい、仕方なく東京会場に足を運ぶことにしたという。参加を見送るという選択肢はなかったようだ。
結婚したいほど大好きな高田ちゃんのために、はるばる東京までやってきた東堂くんは、
「最近の高田ちゃんの人気を考えれば、東京が当たっただけでも幸運だったと言えるが」
と凄味のある声で言っていた。本物のファンだなとちょっと感動した。
だからこそ、東京まで足を運んだのに参加できなかった、というのはあまりにも不憫だ。伏黒くんに大怪我を負わせた恨みはあれど、困っているなら手を貸さないわけにはいかないだろう。
「悪いがスクショを送ってくれ」
「了解です」
今しがた教えてもらったばかりの連絡先に、スクショをぽんぽんと送りつける。幕張メッセまでの道順を解説したサイトのURLも、ついでに張りつけておいた。
スマホばかり真剣に見ていたせいで、気づくのが遅れてしまった。わたしたちのすぐ目の前に、真希ちゃんたちがいることに。
気づいたのは、東堂くんが急に足をとめたからだった。「うわっ」と情けない声をだしながら岩のように頑丈な背中に額をぶつけてしまったものの、東堂くんが怒ることはなかった。わたしはその巨体からひょこっと顔をだして、真希ちゃんたちの姿を視界におさめる。
思わず目を瞠った。ここにいないはずの少女の姿を見つけたせいで。
野薔薇ちゃんに羽交い絞めにされているのは、どこからどう見ても禪院真依そのひとだった。夜よりもなお深い黒のボブヘアが、野薔薇ちゃんの腕の中でぐしゃぐしゃに乱れている。
なんとなく察した。東堂くんと同じように交流会の打ち合わせに同行した真依ちゃんは、東堂くんが伏黒くんを襲撃したように、野薔薇ちゃんに襲いかかったのだろう。もはや呪霊と同等の質の悪さだ。交流会まで待てなかったのかと呆れることしかできない。
「帰るぞ、真依」
声をかけられて、やっとふたりは東堂くんの存在に気づいたようだった。野薔薇ちゃんが驚いた隙をつくように拘束から逃れると、真依ちゃんは瞬時に体勢を整える。
その様子を見た東堂くんが、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「楽しんでるようだな」
「冗談!私はこれからなんですけど」
と涼しい顔を作って、真依ちゃんは漆黒の拳銃をかまえる。
どうやらまだやる気らしい。見たところ野薔薇ちゃんも怪我を負わされたようだし、早く医務室に連れていったほうがよさそうだ。さっさとあきらめて、東堂くんと一緒に大人しく帰ってほしいのだけれど。
どうしようと肩をすくめたそのとき、真依ちゃんの鋭い視線が東堂くんを貫いた。正しくは、東堂くんの巨体に隠れるわたしを、だ。
「ちょっと東堂先輩、どうしてと一緒にいるんですか?」
「?なんのことだ」
振り向いた東堂くんに背中を押され、前へと追いやられる。冷や汗が浮かぶ。ここまでの計画の破綻が決定づけられて、頭がずきずきと痛んだ。
「こいつは俺の“同志”――花村莉々子だが」
「はあ?なに寝ぼけたこと言ってるんです?そいつが例のですよ。だれですか花村莉々子って」
まんまと騙されていたことに怒り狂うかと思ったのに、東堂くんは眉をひそめただけだった。ほんの十分程度の会話だったとはいえ、わたしと東堂くんの間に築かれたある種の“信頼”は、名前ひとつで揺らぐ類のものではなかったらしい。
“同志”の絆に強く感謝する。首をへし折られなくてすんだのだから。
真依ちゃんはわたしの姿を目でなぞると、歪んだ嗤笑を浮かべる。
「呪いも見えない凡愚の身で――それも“贄”の身で呪術師を続けようだなんて、心臓に毛でも生えているのかしらね。アンタなんて呪いに喰われるのが関の山よ」
いつもと変わらぬ口の悪さに肩をすくめた。
真依ちゃんと知り合ったのは先月のこと。わたしがまだ人間に戻っていないころだった。
わたしはカッコカリとはいえ数少ない特級術師のひとりとして、繁忙期はあらゆる場所へ出張に行った。古くから呪術と縁の深い京都への出張は、たった三回のみ。だのに、どういうわけかずっと真依ちゃんと一緒だった。聞けばわたしの見張りを任されていたようで、「損な役回りだね」と同情したら、しこたま嫌味を言われた。それからというもの、真依ちゃんからの風当たりは非常に強い。
加えて真依ちゃんはプライドが高い。それはもう驚くほど高い。エベレスト級のプライドの高さであるため、いつも首が痛くなってしまう。禪院家――優秀な呪術師を多数輩出することで知られる“御三家”に生まれたという自負に起因しているのだろう。
同じ禪院家、それも双子の姉である真希ちゃんとは性格がまるで違う。まさしく陰と陽。似ているのは顔と背格好だけだ。
「交流会、不参加って聞いたけど本気かしら?」
返事をしようとしたら、真希ちゃんがわたしの首根っこに腕を回してきた。わたしにぴったりと身体をくっつけたまま、挑発するような口振りで言った。
「本気だよ。お前らと戦うより、模試のほうが百倍大事らしいぜ?」
「だって全国順位でるし」
いたずらっぽく付け足すと、真依ちゃんの顔に苛立ちがにじんだ。それに頓着する様子もなく、真希ちゃんはその人差し指で、わたしのこめかみをトントンと軽く叩く。
「は“ここ”で約三十万の同級生と戦うんだ。再来年の大学受験のためにな。私やお前とは見てる世界が違う。はもっと明るい世界で生きてんだよ」
「……あっそう」
真依ちゃんは小さく吐き捨てたあと、わたしに侮蔑の視線をよこす。自分が圧倒的強者であることを誇るような目だ。
「それがいいでしょうね。なにもできずにリタイアなんて可哀想だし」
「うん、真依ちゃんがね」
にこやかな笑顔を返すと、その涼しげな表情がたちまち引きつった。真希ちゃんが声もださずに肩を震わせている。柳に風とはいかない真依ちゃんが怒りをあらわにした。
「呪いも見えないお飾りの特級が、一丁前に舐めた口きいてんじゃないわよ」
「カッコカリだよ」
「参加もしないくせに、なにを偉そうに」
「だって絶対に東京が勝つから。カッコカリとはいえ、特級のわたしが参加するまでもないじゃん」
激情に支配されたふたつの瞳を、まっすぐに見据える。
「そんなにわたしと戦いたいなら、いつでも相手するよ?手足を引き千切って、“神様”のところへ連れていってあげる」
「いい度胸じゃない……だったら今ここで後悔させてあげるわ!」
いきり立った真依ちゃんが、わたしに拳銃を向けようとする。わたしから身体を離した真希ちゃんの空気が一瞬で息の詰まるような殺気に変わった、そのとき。
東堂くんの重量感のある声音が、場の空気を瞬く間に変えてしまう。
「駄目だ。お前と違って、俺にはまだ東京に大事な用があるんだよ――高田ちゃんの個握がな!」
声を張りながらポケットから取りだしたのは、分厚い束になった握手券だった。わたしはあんぐりと口を開いた。東堂くんは高田ちゃんと何度握手をするつもりなのだろう。
みるみる戦意をそがれた真依ちゃんに、東堂くんは険しい顔で続ける。
「花村――いや、に会場までの道のりは聞いたが、初心者には易しくないらしい」
「そうそう、けっこうややこしいんですよ」
「乗り換えミスって、もし会場にたどり着けなかったら、俺はなにをしでかすかわからんぞ。ついてこい、真依」
言い終えると、わたしに向かってその大きな右手を差しだした。
「」
「はい」
「個握の感想を聞いてくれるか。“同志”として」
わたしは自らの右手を重ねる。手の大きさが違いすぎて、思わず二度見してしまう。棘くんの手よりもずっと大きくて、同じ人間だとは到底信じられなかった。軽く握られるだけでも骨まで粉々にされてしまいそうだ。絶対敵に回してはならないだろう。
これからも友好的な関係を保つため、口角をきゅっと引きあげる。
「もちろんですよ、“同志”ですから。高たんビーム、絶対してもらってくださいね」
「ああ、約束しよう」
数秒間の熱い握手を終えると、東堂くんは正門へ歩いていってしまう。その背中を見送ろうとしたとき、真希ちゃんがボソッと「浮気してたってチクってやろ」とつぶやくのが聞こえた。それは本当にやめてほしい。棘くんに首をへし折られかねない。
交流会までに、高田ちゃんのことをもっと知っておこう。テレビっ子の虎杖くんは詳しいだろうか。そんなことを考えていたら、
「もうっ、勝手な人!」
と苛立ちの爆ぜる声がした。真依ちゃんが東堂くんのあとを追いかけようとして、すぐに足をとめる。
「……忘れるところだったわ。に伝言よ」
「伝言?」
「“勝手に友だち追加するな”――私のせいにされたわよ。戻ったらなに言われるか!」
濡れ衣を着せられた真依ちゃんから視線を外し、スマホを取りだした。
「あ、よかった。返事きてる。追加拒否するかと思ったのに」
「ちょっと!聞いてるの?!」
「うん、聞いてる聞いてる……って、既読つくの早っ」
すぐさま送られてきた簡素な返事に、なんと返すべきか頭をひねる。
自分のことが眼中にない以上、もう文句を言うだけ無駄だと悟ったのだろう。真依ちゃんは怒りを静めるように息を吸いこんだ。
「アンタたち、交流会はこんなもんじゃすまないわよ」
波乱を予感させる捨て台詞を残し、今度こそ呪術高専をあとにした。
嵐が過ぎ去ったことに安堵するわたしとは裏腹に、怪我を負わされた野薔薇ちゃんは激しく憤慨していた。
「なに勝った感だしてんだ!制服置いてけゴラァ!」
「やめとけ馬鹿。ここじゃ勝っても負けても貧乏クジだ。交流会でボコボコにすんぞ」
真希ちゃんはなだめるように言うと、今度はスマホを手にしたままのわたしに目をやった。
「葵はまだしも、真依には完全に目ぇ付けられたぞ。あれでよかったのか?」
うまく答えられずに黙りこむと、真希ちゃんがわたしの額を軽くこづく。
「バーカ。野薔薇の前だからって格好つけてんじゃねぇよ」
「だって」
「はいはい。私はお前のそういうとこ、嫌いじゃねぇけどな」
静かに会話を聞いていた野薔薇ちゃんが、確かめるように口を開く。
「さん、あれって……」
「ハッタリに決まってるじゃん。わたし、ほぼ一般人だよ?」
小さく笑って肩をすくめた。
今のわたしには私用での戦闘は事実上不可能だ。つまりなんの役にも立たない木偶の坊だ。それでも“特級(仮)”という微妙な立場をエサに、敵意を持っただれかの目を引けるなら――それを使わない手はないだろう。凡人のわたしにできることなんて、今はそれくらいしかないのだから。
余計な心配をかけたくなくて、笑顔のまま野薔薇ちゃんに近づいた。買ったばかりのジャージは無残にも穴だらけになっている。内臓を破るような大怪我ではないことだけが救いだと思った。
「怪我、平気?真依ちゃんひどいね。可愛いジャージだったのに」
「まあ、ちょっと痛むけど……平気。私、弱くないし」
得意げにからからと笑った野薔薇ちゃんは、真希ちゃんに鼻先を向ける。
「ねえ、真希さん。さっきの本当なの?呪力がないって」
「本当だよ。だから、この眼鏡がねぇと呪いも見えねぇ」
表情ひとつ変えず、真希ちゃんは淡々と答えた。わたしのいないところで、なにか会話があったらしい。真希ちゃんはハーフリムの眼鏡を外すと、なんでもないことのように続ける。
「私が扱うのは“呪具”。初めから呪いがこもってるもんだ。お前らみたいに自分の呪力を流してどうこうしてるわけじゃねぇよ」
「じゃあなんで呪術師なんか……」
「嫌がらせだよ。見下されてた私が大物術師になってみろ、家の連中どんなツラすっかな。楽しみだ」
と、歯を見せて茶目っぽく笑う。真希ちゃんのそういうところが、わたしは大好きだった。
医務室のほうへつま先を向けた真希ちゃんに、わたしも続く。あんなことがあったあとだというのに、どうしてだろう。不思議と足は軽くて、気分はそれほど悪くない。
「オラ、さっさと硝子サンとこ行くぞ」
いつもの強気な口調が響く。小走りでついてきた野薔薇ちゃんは、弾んだ声で言った。
「私は真希さん尊敬してますよっ」
「あっそ」
「さんもっ」
「ありがとう」