遭遇

 次の仕事場へ向かった伊地知さんと別れ、わたしはひとり呪術高専に帰ってきた。その足で真っ先に向かったのは、今なお虎杖くんを匿い続ける例の隠れ処だった。

「コレ、五条先生から。先輩に渡しといて、って」

 いつものように呪骸を抱える虎杖くんから手渡されたのは、見覚えのある茶封筒だった。

「中身なんなの?」
「外泊許可証だよ。これのためにここに通ってるから」
「うわっ、そういうことか!なんだよー!俺の修行に付き合ってくれてんの、お人好しだからだと思ってたのに!」

 虎杖くんが手足をのばして叫んだ。「ごめんごめん」と謝りながら、図書館で借りた分厚い専門書のまんなか辺りに茶封筒を差しこむ。

「彼氏とどっか行くの?夏休みだし遠出とか?」
「うん、そのつもりだよ。思う存分いちゃいちゃできるところに行くんだ」

 今朝の棘くんの落ち込みようったらなかった。せっかく上手に生姜焼きができたというのに、まともに口もつけず「おかか……」とずっと項垂れていた。チャンスだったのに、とぼやきながら。

「そろそろ構ってあげないと、なにされるかわかんないっスよ?」

 新田さんのあの忠告はどうやら現実になりつつあるらしい。由々しき事態である。

 ともあれ。

「一昨日からずっと一緒に寝てるんじゃなかったっけ?」
「そうだよ。でも寝るだけ。お風呂と着替えは禁止されてるから」
「してねぇの?いちゃいちゃ。絶好のチャンスじゃん」

 伏黒くんと似たようなことを訊いてくる虎杖くん。考えることはみんな一緒なのだろう。

「うん、してない」
「彼氏は床で寝てるとか?」
「ううん、隣で寝てるよ。狭くて仕方ない」
「先輩のせいじゃね?……っていうかマジでなにもねぇの?手ぇだしてくるだろ、ふつう」
「ないない。キスだけだよ」
「え、なんでそこで自制できんの?……先輩の彼氏すげえ……半端ねぇ彼氏力……」
「でも昨日真っ白のTシャツで部屋に行ったら怒られた」
「なんで」
「透けてたから」
「容赦ない夏の暴力ッ」

 一晩経っても未だに納得できていない。あれは見えることを前提としたカップ付きのハーフトップだ。花柄のレース生地がとってもオシャレで可愛いし、通気性がいいのもポイントが高い。ブラとはまったく違うものだとどれだけ説明しても、棘くんは頑として理解を示してくれなかった。

「だから透けないTシャツに着替えさせられたよ。しかもバンドT。多少気が紛れるって言ってたけど、そんなものなの?」
「バンドT?どんな?」
「ばりオシャレなツアーTシャツ」

と答えた瞬間、耳をつんざく轟音が響きわたった。

 肩がびくっと大きく跳ねて、反射的に音のしたほうに鼻先を向ける。地上からだ。なにかが連続で破裂したような爆音が鼓膜を叩き続ける。

「なに今の?!敵襲?!」
「わたし見てくる!虎杖くんはここからでないで!五条先生がくるまでは絶対に!」
「わ、わかった!」

 いやな予感が背中を這いずる。わたしは強く地面を蹴って、階段を一気に駆けあがった。

 音を頼りにした先には、懸造の立派な本堂があった。本堂を支える舞台下、むきだしになった木造部分の一部が、無残にも破壊されている。

 いったい何事だろう。まさか呪霊による襲撃だろうか。こういうとき呪いが見えないのは本当に厄介だなと思っていたら、音もなく前方に黒い影が浮かびあがった。見あげるより早く、上空からなにかが降ってくる。

 腹の底にまでその重量を感じさせる着地音が、耳を激しく打った。

 わたしのすぐ近くに降り立ったのは、恐ろしく背の高い半裸の男だった。顔に大きな傷あとがあり、墨を溶かしたような長髪を後頭部でひとつにまとめている。なにより目を引くのは、そのとことん鍛え抜かれた肉体だろう。廃校に出現したあの特級呪霊のことを思いだしてしまったほど、とにかく図体がでかくて強そうだった。

 只者ではないことを瞬時に悟る。男はわたしの存在に気づくと、かすかに眉を動かした。

「お前……もしや」

 向けられる殺気の鋭さに、ぐっと息が詰まった。恐怖で一歩も動けない。冷や汗が噴きだした瞬間、わたしと男の間にうっすらと影が落ちる。

 軽い着地音とともに割って入ってきたのは、

「明太子!」

 男に引けを取らない殺気をむきだしにした棘くんだった。わたしは思わず上空に視線を送る。本堂の高さは地上から約十二メートルほど。おそらく四階建てのビルに相当する高さだろう。

 ふたりとも異次元の身体能力だなと思う。凡人のわたしなら確実に死んでいる。

 棘くんはわたしを守るように立ちふさがると、「こんぶ。すじこ。いくら」と早口ながらも男の素性を説明してくれる。その名を聞いた途端、わたしは顔を引きつらせた。

 京都の姉妹校に通う“東堂葵”の話は、出張先でお世話になった補助監督から何度も聞かされていた。異端、化け物、規格外、人間ではない、日本語が通じない、もはや呪霊のほうが何百倍も可愛い――散々な言われようだったけれど、今ならその言葉の意味がわかる。

「質が悪すぎ……」

 交流会の打ち合わせに同行した東堂くんは、経緯は不明ではあるものの、伏黒くんに大怪我を負わせたばかりだというのだ。ふたりの間にどんなやりとりがあったのかは知る由もない。けれど。

「絶対に許せない……」
「しゃけっ……」
「伏黒くんのご尊顔によくも傷を……」
「……おーかーかー」
「死にたくなるほど後悔させてやる……」

 ありったけの憎悪を溶かした目でにらみつけると、東堂くんがにやりと口端を持ちあげた。その黒い視線はわたしではなく、呆れ返った様子の棘くんに向けられている。

「そうだ、狗巻。お前の女のタイプをはっきり訊いていなかったな。あのときお前はうまくはぐらかしただろう」

 はて、とわたしは首をかしげる。急になんの話だろう。そんなことを話すような仲にはとても見えないけれど。

 棘くんは一瞬わたしを振り返ったあと、身振り手振りを交えながら明朗な声で答えた。

「すじこ!」

 そのおにぎりの具は脳内ですぐに意味を結んだ。わたしはその場でひざを折ると、両手で顔を覆った。照れも呆れもうれしさも恥ずかしさも混ざった変な顔を、だれにも見られたくなくて。

「高菜」
「……ううん。棘くんって馬鹿だなと思って」
「おかかっ」

 失礼な!と憤慨する棘くん。しかしこの一連の会話も含め、なにひとつとして東堂くんには意味が伝わっていなかったらしく、すぐに地鳴りのような低い声が聞こえた。

「は?」
「すじこ!」
「意味がわからん」
「すじこっ!」
「いや、だから意味が」
「す、じ、こっ!」
「……通訳っ!」

 鋭い言葉に頬を打たれて、反射的に「はいっ!」と元気な返事をしてしまう。しまった、うっかり口が滑った。

「狗巻はなんと言っている」
「えーっと……」

 答えを促す東堂くんの眼光は、獰猛な獣すらもいともたやすく射殺してしまいそうだった。あまり機嫌を損ねると首をへし折られそうで怖い。わたしは屈んだまま、観念するように唇を割った。

「好きになった人が好みのタイプだそうです」

 ちょっと投げやりに言えば、棘くんは胸を張って告げた。

「しゃけ!」

 その言葉がわたしの顔に熱を呼びよせる。「意味は」と東堂くんに再び見つめられる。白いTシャツの裾を引っぱると、棘くんは視線を合わせるように地面にひざをついた。そのまま小声で棘くんにひそひそと話しかける。

「それは言わなくていいと思う」
「おかか」
「いいってば」
「おかか」
「もう答えたじゃん」
「おかかっ」
「その情報いる?いらないって絶対!」
「おかかっ!」

 棘くんは頑なだった。つまり馬鹿だった。もうどうにでもなれという気持ちで、棘くんの言葉を淡々と訳していく。

「恋人のが好みで理想のタイプです」
「しゃけ。すじこ」
「わたしの理想は伏黒くんだよ?」
「お、おかかっ……」

 この浮気者ッ!とわたしをなじりながら、棘くんが涙を拭う真似をする。「ほら、好きと理想は違うし」と茶番を続けようとしたとき、東堂くんの目から涙がこぼれ落ちていることに気づいた。茶番に参加して泣いている――というわけではなさそうだが。

「退屈だな」

 一瞬だった。呟きひとつで場の空気が変わっていた。瞬く間に戦闘態勢に戻った棘くんの背中を見つめながら、わたしもすぐにひざをのばした。そして、こちらに敵意を向ける東堂くんを上から下まで静かに観察する。

 東堂くんは、あの伏黒くんを負傷させているのだ。棘くんがここにいるということは戦闘不能にしたのだろう。そのくせ伏黒くんから受けた傷はほとんど見受けられない。つまりほとんど手も足もだせないまま、伏黒くんは東堂くんに負けたということになる。

 ならば、まともに相手をするだけ損だろう。

「お前が噂のか。確か、仮とはいえ特級だったな」

 わたしは穏やかな笑顔を作ると、身体の前で両手をぶんぶん振ってみせる。

「あ、人違いでーす。特級術師(仮)のさんは仕事に行きました。帰りは夕方になるとかならないとか」
「わかりやすい冗談はやめろ」
「冗談じゃありませんよ。わたしの身体に流れる呪力の少なさがわからないんですか?」
「……お前ではない、か」

 意外とあっさり納得してくれた東堂くんは、訝しげな目をよこした。

「それならお前はだれだ」
「わたしは花村莉々子と言います。医者――というか、呪医になるために高専に通っていて」
「しゃけしゃけ」

 話を合わせてくれた棘くんに感謝しつつ、相手の出方を見ようとしたそのとき、

「高田ちゃんの役名と同じ名だと?」

 耳を打った想定外の言葉に唖然とする。咄嗟に口にした偽名は、先月まで放送されていた月9の登場人物の名前だった。物語にからんでいたのはほんの少しだけだったから、気づかれるわけがないと思っていたのに。

 人を見かけで判断してはいけない――まさにその通りだ。でもこの勇ましい風貌で、まさかアイドルファンだとは思わないではないか。

 しくじった、最悪だ。それでも気取られるわけにはいかなかった。ひどい焦りを笑顔の下に押しこめて、空気を切り替えるようにパチンと両手を鳴らす。

「あ、この間の月9ですよね?同じ名前だったからもう本当にびっくりしちゃって。でも逆に高田ちゃんが気になって、わたしすぐにファンになったんです!」
「……ファンだと?」
「そうなんです!高田ちゃんって歌もダンスもうまいし、好きにならないわけがないですよ!昨日公開された新曲のMV見ました?高田ちゃんの投げキッスが可愛くて!思わせぶりなところがぐっとくるっていうか!」
「……ほう」
「でも本当に最高だったのは、そのあとこっちに向かって手招きする高田ちゃんの笑顔……頭から離れないほど最高だったんです……」

 うっとりした口調で言い終えると、心臓がばくばく鳴っていることに気づいた。ちなみにこの感想はすべて、同じ塾に通う高田ちゃんファンの友だちからの受け売りである。

 東堂くんはしばらく考えこんだあと、納得したように深くうなずいた。その鋭利な双眸から再び大量の涙を流していたので、咄嗟に身構えてしまう。

「そうか……どうやら俺たちは“同志”のようだな」
「ど、同志?」

 わたしを見つめる東堂くんの視線が途端に柔らかくなった。どうやら、同じ高田ちゃんファンであることに心を許したらしい。

「こんなところに“同志”がいたとはな……高田ちゃんの役名と同じというのも運命を感じさせる。言われてみれば、高田ちゃんが演じていた花村莉々子っぽさがあるような気がしないでもない」
「えっ、本当ですか?ちょっと照れますね。高田ちゃんみたいに顔も可愛くて背も高いハイスペックな女の子に生まれたかったなあ。ところで東堂くんはどうしてここに?」

と問いかけながら、わたしは棘くんを通り越して東堂くんに近づく。笑顔を張りつけたままで。東堂くんはいたって真剣な表情で答えた。

「このあと高田ちゃんの個握があってな」
「個握って、なんですか?ごめんなさい、そういうイベントにはうとくて」
「個別握手会のことだ。一度参加すると世界が変わるぞ。まず個握に参加するには握手券が必要になるんだが――」

 東堂くんは丁寧に説明しながら正門に向かっていく。

 今は負傷した伏黒くんを安全に医務室まで運ぶことが最優先だ。東堂くんの気が変わらないように注意を引きつつ、このまま正門まで送り届けてしまおう。

 右手の甲を腰にぴったりとあてる。東堂くんから見えない位置で、棘くんに向けてこっそりピースサインを作った。

 ――東堂くんはわたしがなんとかするから、今のうちに。

 わたしの言いたいことは伝わったのだろう、棘くんの足音はたちまち遠ざかっていった。気づいているのかいないのか、どちらにせよ東堂くんはわたしとのおしゃべりに夢中だ。驚くほど饒舌になった東堂くんに、わたしは笑顔で相づちをうち続ける。