決意 -前-

 目が覚めると、ひとりだった。

 眠気の残った目蓋をゆっくり上下させて、睫毛にからんだ涙をぱたぱたと落とす。悪夢の内容は瞬く間におぼろげになっていくくせに、こびりついた恐怖だけはすぐには色あせてくれない。

 今、何時だろう。ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。

 腕で支えるように上半身を持ちあげると、薄手の掛け布団が腹まで滑り落ちた。目を動かさなくても、ここがわたしの部屋ではないことはわかっている。だから、どうして自分がここにいるのかを思いだそうとした。

 昨夜の記憶は曖昧だった。そもそも昨日は朝から眠気がすごくて、どんなふうに一日を過ごしたのかも霞みがかっている。

 一日の始まりは棘くんに渡すお弁当作りで、それから眠気をこらえて夏期講習に行った。一睡もしなかったのは、もちろん大好きな数学の授業だったから。けれど記憶が明瞭なのは、そこまでのたった十時間だけ。授業の内容は一言一句思いだせるのに、もう集中力を一滴残らず使い果たしたのだろう、そのあとの記憶はひどい虫食い状態だった。順平にDVDを返しに行こうと電車に乗ったのは覚えているものの、その前後がはっきりしない。

 そこでふと、何度も鼓膜を叩いた優しい声音がよみがえる。

「ツナマヨ」

 今にも泣きだしそうな顔で、棘くんがわたしに“好きだ”と言った。何度も何度も。記憶を少したどっただけなのに、羞恥だけではない感情で心臓が破裂しそうになる。

「ツナマヨ」

 とても不器用な告白だった。でも、まっすぐで眩しかった。それくらいわたしのことが好きなんだと思った。

 わたしはたくさん隠しごとをしていた。呪術高専での扱いのことも、生き返った虎杖くんのことも、呪術師としての焦りも。棘くんにはなにひとつ言わなかったし、今も隠していることがある。虎杖くんのこととか、悪夢の詳しい内容とか。それでも棘くんはわたしから離れていくことなく、ずっとそばにいてくれた。一緒に眠ってくれた。

 あたたかい気持ちを抱えたまま、ベッドから身体を移動させる。裸足でフローリングを踏むと、ローテーブルの上に無造作に置かれているスマホを手に取った。

 上層部からの不在着信が入っていることに気づいた瞬間、はっとなって部屋を見渡した。

 ローテーブルのそばにあるゴミ箱には、黒のプラスチックハンガーとビニール袋が乱暴に突っ込まれている。呪術高専近くのクリーニング店でもらえる安っぽいそれを見て、この部屋の主がどこへ向かったのかをなんとなく把握した。

「あー……」

 その場でうずくまって、ほこりひとつない床を見つめながら低い声でうめいた。

 どうして言ってしまったのだろう。一番隠したいことだったはずなのに。

「ツナマヨ」

 あの不器用でまっすぐな告白にほだされてしまった――そう考えたけれど、すぐにぶんぶんとかぶりを振った。

「……違う」

 違う、きっと違う。わたしは棘くんの愛情を試したのだ。

 忌み血だの、穢れだの、呪術師を辞めろだの、そんなことばかりを口喧しく言われ続けてきた。好きな人と一緒にいたい。たったそれだけの願いが拒まれるのが、“贄”の血だなんて知らなかった。

 心はすり減るように疲弊していた。眠気も重なった昨日はとことん弱りきっていた。そんなとき、空っぽになった心に大量の愛情を注ぎこまれたのだ。正常な判断ができなかったのは無理もないような気がした。

 どんなわたしでも好きだと言うなら、わたしの全部を受け入れてよ。――飛びこむような気持ちで、棘くんにぶちまけてしまったのだろう。

 本当は、本当はずっと一緒に抱えてもらいたかった。逃げずにひとりで立ち向かうのは寂しかった。後ろ盾のイザナミさんは助けてほしいときに助けてくれなくて、またわたしはひとりになったと思った。でも、棘くんはわたしの手を握って、ずっと一緒にいたいと言ってくれた。うれしかったけど、口約束なんかほしくなかった。その言葉が嘘偽りではないことをただ証明してほしかった。この人と一緒なら大丈夫だと信じるために。信じることが苦手なわたしが信じられるように。わたしの一生を背負うということは、きっとそういうことだ。わたしとの“ずっと”を願うなら――

「……重すぎ」

 自己嫌悪の波が思考を一気に押し流す。やっぱり面倒な女はごめんだと、棘くんに心変わりされないことを強く願った。今ここで振られたら、たぶんもう生きていけない。

 そのとき、玄関の扉が開く音が耳を打った。身体が一気にこわばる。なにを言われたかは大体予想がついた。別れてくれと言いだされたら――けれどもそんな不安も恐怖も皮膚一枚の下にすべて押しこめて、わたしは笑みを作った。

「あ、おかえり」

 冬の制服に身を包んだ棘くんが、一呼吸置いて「……こんぶ」と言った。わたしが目覚めているのは想定外だったのだろう、疲れの張りついた顔から血の気が引いていく。

 蒼白になった棘くんと見つめ合う。気まずい空気が部屋を満たしていった。やがてばつが悪そうに棘くんは目をそらして、暑さから逃れるように上着を脱いだ。

 たぶん、棘くんはわたしが寝ている間にすべてを済ませるつもりだったのだ。五条先生の言葉を借りるなら、好きな女を矢面に立たせ続けた男の矜持として。寝たふりをしておくのが正解だったかもしれない。

 でもわたし、聞き分けのいい女じゃないし。心の中で言い訳をしながら、じっと床を見つめている棘くんに詰め寄った。

「余計なこと、したでしょ?」
「おかか」
「棘くん」
「おかかっ」

 険しい視線がわたしを射抜いた。あまりの勢いに思わず目を瞠ると、棘くんは戸惑った様子で顔を伏せる。強く握った拳が小刻みに震えていた。

 優しい人だから、きっと同じように傷ついてくれたのだろう。すべてを受け入れてくれるだけでよかったのに。それだけで、わたしはもう充分だったのに。

 だから言いたくなかったのだ。だれよりも守りたい人の表情が翳ることをわかっていて、どうして事実をおおっぴらにできるだろう。

 泣きたくなる気持ちに襲われながら、うつむいたままの棘くんを正面から抱きしめる。わたしの狭い腕の中で身体を緊張させたこの人も、わたしと同じ気持ちだろうと思った。

「別れなさいって言われた?」
「……おかか」
「嘘が下手。ちゃんと正直に言って?」
「…………しゃけ」

 小さい声でぼそっと答える、その不貞腐れたような態度に胸が詰まった。

 ああ、きっとこの人はなにがあってもわたしを好きでいてくれる。

 そんな確信を持ったわたしは、ひどく穏やかな気持ちで次の質問を送りだした。

「なんて答えたの?」

 棘くんは身体を離すと、わたしをまっすぐ見据えた。怒りの満ちた双眸に深く串刺しにされて、固唾を飲んだそのとき、

「お、か、かっ!」

 ぽかんとなったのは数秒のことで、すぐに笑いがこみあげてきた。

「……ふっ、ふふっ」
「こ、こんぶっ」
「いやだって馬に蹴られて死ねって……そんな、そこまで言わなくても……」
「お、おかか。すじ、こ。ツナ、いくらっ……お、かか……」

 それくらい強く言っておかないとがまた。頭に血がのぼって。そもそも向こうが悪い。確かに言いすぎたかもとは思うけど。でも。そこまで笑わなくても。

 しどろもどろになる棘くんが可笑しくて、ますます笑いがとまらない。腹を押さえてひいひい呼吸を繰り返す。しまいには涙まであふれてきて、喜ばれるでもなく褒められるでもなく、大爆笑されたことがかなりショックだったらしい棘くんは「……おかか」と叱られた犬みたいにしゅんとしていた。

 五条先生みたいに「あーはいはいそうですねー」と適当に流しておけばよかったのに。どうして自ら立場を悪くするようなことを言うのだろう。

 でも、うまく立ち回ることよりも大事な人を守ることを選んだ馬鹿正直な棘くんが、わたしは大好きで仕方がなかった。

「あーあ、めちゃくちゃ怒られるよ?五条先生が」
「おかか」
「知らないって。五条先生カワイソー」

 思ってもいないことを口にすると、今度は棘くんがわたしを抱きしめてきた。痛いくらいの抱擁に引きずっていた笑いが途端にしずまる。

「こんぶ」
「もう、なんで謝るのかな。だれも悪くないよ?」
「おかか」
「思想は環境で決まる、とわたしは思ってる。だから悪いのは世界で、個人じゃない」

 昨夜のおぼろげな記憶をたぐり寄せるように、言葉を紡いでいく。

「棘くん、昨日言ったよね?わたしも祝福される世界がいいって」
「しゃけ」
「だったらそんな世界にしちゃおっか」

 棘くんが息を呑む気配がする。わたしは弾んだ声で続けた。

「わたしにはできなくても、わたしたちならできるかもしれないよ?」

 間を置くことなく砥粉色の頭が縦に揺れる。肯定と告白を含んだおにぎりの具が、わたしをまるごと包み込んだ。

「ツナマヨ」



* * *




 作戦会議の前に着替えることを選んだ棘くんは、冬の制服からラフな部屋着姿になった。「わあ棘くんの生着替え」「いい夢見れそう」「きゃー抱いてー」とわたしは黄色い声で茶々を入れ続けた。氷の入ったグラスに麦茶を注ぎながら、ただの暇潰しで。

 いつものようにノってくれると思ったのに、今日は冗談が通じなかったのか本気で怒られたし、最後には地鳴りのような低い声で「ツナマヨ」と言われた。いつか絶対抱きつぶす。欲に濡れた目が本気だった。外泊許可証を使うのは、今日という日が忘れ去られたころにしようと心に誓った。