間奏 -後-

「迷惑かけてごめんね」

 灯りが消えた女子寮の前で、は灰色の地面に視線を落とした。寝起きの気だるさはすっかり抜けていて、その声には、起き抜け特有の甘ったるさはひと欠片も残っていない。

 いつもと変わらぬの声音が、棘にひどく情けない思いを抱かせる。なにか言葉を返さなくてはと思うのに、一向にのどが震える気配はない。だんまりを続ける棘に気を遣うように、は目を伏せたまま早口で言った。

「きっと体力がないからだね。もっと鍛えなくちゃ。訓練にはちゃんとでられるようにするから。今日も迎えにきてくれてありがとう」

 どこかぎこちない笑みを作ると、は棘の反応を待つことなくその身を翻した。あ――と思ったときには、棘の手はの手首をつかんでいた。ほとんど無意識だった。五条から投げられた言葉が、幼馴染から明かされた言葉が、棘の意識と感覚の深い場所まで到達しているせいだと思った。

 言うべきことは思いつかない。けれど、ここで帰してはいけない。それは直感だった。

 振り返ったの顔には、戸惑いの色が浮かんでいる。ふたりの間に重い沈黙が流れた。引きとめたくせになおも口を開かない棘のことを、はただじっと見つめているだけだった。

 やがて棘は小さな声で、おにぎりの具を口にした。

「高菜」
「悩み?……ないよ。ひとつもない」
「おかか」
「本当だよ」
「高菜」
「……順平、棘くんに倒れたって言ったの?」

 険しい顔でつぶやいたは、呆れた様子で首を振る。

「別に倒れたわけじゃなくて、ちょっと眠気に耐えられなかっただけ。大袈裟だよ」
「おかか」
「だからそれは体力がないからで」
「おかかっ」

 強くさえぎると、が眉尻を小さくさげた。「本当なんだけどな」とこぼれ落ちた声はまるで空洞で、とても本当のことを言っているようには思えなかった。

 いつまでも本当のことを語ろうとしないに対して、これ以上なにを言えばいいのかわからない。けれど、幼馴染に叩きつけられた言葉が脳裏をめぐるたび、手に加わる力が少しずつ強くなっていった。今ここで手を離してはいけない。きっとまた、うやむやにされてしまうだろう。それだけは理解できていた。

「棘くん、怖い顔してる。あ、もしかしてやきもち?」

 茶化すような言葉に、笑みを返す余裕はどこにもなかった。真剣な顔で黙する棘を認識すると、は居心地が悪そうに手元に目を落とす。

「心配させたいわけじゃないのにな」
「高菜」
「大丈夫だから、心配しないで?」
「おかかっ」
「どうして信じてくれないの?」

 その冷え切った声音が、棘ととの間に大きな溝を築いていく。手のひらから伝わる体温は確かなのに、は分厚い隔たりの向こう側にいるようだった。口を閉じているこの瞬間にも、少しずつ距離が開いていく感じがした。

 嫌われたくなかった。別れたくなかった。だとしても、棘はここで言わなくてはならなかった。これ以上、を傷つけるわけにはいかないから。都合のいいを見るのは、もうたくさんだった。

「おかか」

 信じていないのはのほうだろ――思いがけない棘の強い語気に、は気圧されたようだった。

「……ちゃんと信じてるよ?」
「おかか」
「どこが、って……」

 幼馴染は愛情の証明が足りないと言っていた。安心させられるほど伝わっていないのなら、棘の伝え方も悪いのだろう。五条の言葉も理解できない鈍感さだって、これから直していかなくてはならないとも思う。

 だからといって、今までの行動すべてが愛情の証明として不足していたとあっさり切り捨てられるのは、さすがに納得できなかった。棘としては、けっこうあからさまな愛情表現をしていたと思うのだが。

 どれほど遅い時間だろうと塾帰りのを迎えに行くし、がなにかしたいと言えばできる限りサポートしようと努めているし、本当はもっと一緒に過ごしたいけれど我慢しているのだ。

 の手首をぎゅっとつかむ。好きだと囁くだけが愛情表現ではないはずだろうに。

 そもそも棘はになにかを強要した覚えはない。一人前の呪術師になってくれとか、いい大学に入ってくれとか、頼りがいのある人間になってくれとか、なにも言ったことがない。棘との関係を続けるためにが必死になっているのだとしても、そこに棘の意思はなにひとつ反映されていない。

 勝手に思い込んで、勝手に行動しているのは、ではないか。

 を想う棘の言葉や態度をどう受け取るかは、それこその自由だ。頼むからちゃんと受け取ってくれと思ってしまうのは、はたして傲慢なのだろうか。

「こんぶ。すじこ。明太子」

 不安にさせているなら、なにが足りないのかを言葉で教えてほしかった。大丈夫という言葉に隠された本音を見抜けるほど、察しのいい人間ではない。どんな理不尽なことを言われても絶対に怒りはしない。だから、ひとりで悩んでひとりで傷つくのはやめてほしかった。

 謝罪を織り交ぜながら言葉を重ねていると、の唇がようやく開いた。

「棘くんはなにも悪くないよ。ごめんなさい。悪いのはわたしのほう」
「こんぶっ」
「ううん……棘くんには言わない。言いたくないの」
「ツナ」
「棘くんは知らなくていいことだから」

 明確な拒絶の中に、やっと取っ掛かりを見つける。その先を促すために揺れる双眸を見据えた。やがては顔をそむけて、大きくかぶりを振った。

 けれど、それだけだった。はなにかに耐えるように、口をつぐみ続けるだけだった。

 だから棘は心に少しずつ浮かびあがる淡い期待を、しっかりと手にした。は己の手を振りほどいて、この場を立ち去ろうとしていない。その迷いに賭けようと思った。

「ツナマヨ」

 たった一言のおにぎりの具に、棘は己の気持ちをすべて乗せた。まっすぐに気持ちをぶつけた。だれよりもが好きだという気持ちを。自分を追い詰めるほど頑張らなくても、棘との関係は続いていくのだから。が続けたいと願ってくれる限り。

 の肩が小さく震える。縮こまった身体がわずかにうしろに逃げたことを認識すると、流れる動作で己の手をの手首から手のほうへと移動させる。手のひらをぴったりと重ねるように、指をからめて逃げ場を奪っていく。

「ツナマヨ」

 今できることは、言葉で伝えること。行動で伝わらないのなら、言葉で示すしかなかった。伝わるまで言い続けるしかないような気がした。ほんの少しでも伝わればいいと願いながら、恥ずかしさをこらえて何度も愛の言葉を繰り返す。

「ツナマヨ」

 好きだとか、愛してるとか、がいないと駄目だとか。ありふれた言葉をありったけ絞りだす。が冷たく黙りこんでいるせいだろう、そういう甘ったるい雰囲気でもないし、重ねられていく言葉がうすら寒く耳に響く。こっぱずかしくてたまらない。口の中は乾いてぱさぱさだった。

 パンダや恵にこれほど格好悪いところを見られたら、爆笑される前に死を選ぶかもしれない。見られた相手が五条なら、迷うことなくこの場で舌を噛み切るだろう。だれも見ていない深夜でよかったと思いながら、考えつくだけの愛の告白を、懸命におにぎりの具に乗せていく。

 どれだけ格好悪くても、口を閉じるわけにはいかなかった。信じてくれと言うのは簡単だ。けれどもそれではは決してガラスの靴を落とさない。自らガラスの靴を手渡してくれるように、言葉と行動で不安を取り除いていくしかないのだ。

 次第にの焦点が小刻みに移動し、頬に赤みがさしていく。あわせた手のひらに広がる湿り気は、いったいどちらのものだろう。

 羞恥から逃れようとが目を閉じようとしたのが見えて、「おかか」とまっすぐ言い放つ。ちゃんと聞いてほしかったから。は恥ずかしそうに呻き声を漏らした。

 恥ずかしいのはこっちのほうだし、告白のレパートリーがなさすぎて二巡目に突入している言葉もある。例えば好きと愛してるのふたつ。もしかしたら三巡目かもしれない。ふざけていると思われかねない気がして、内心焦りながら別の言葉を探そうとする。

 恋愛映画や恋愛小説にもっと触れておけばよかったと後悔したそのとき、唐突に無機質な着信音が流れはじめた。棘のスマホからではない。顔を真っ赤にしたがポケットからスマホを取りだすなり、りんごのような頬から赤みがさっと消え失せた。

 しかめっ面で画面を睨みつけるばかりで、なかなか応答しようとしないに違和感を覚えた棘は、着信音に負けないくらいの声量で問いかける。

「こんぶ」
「あとで折り返すよ」
「おかか」
「ううん、あとでいいから」
「おかか」

 会話を続けている間も、その音が途切れることはなかった。だれからの着信なのだろう。棘が疑問を抱いていると、が大きなため息を吐きだす。細い指がスマホの画面に触れれば、着信音はぱったりとやんだ。

 は肩をすくめたあと、告白を続けようとしていた棘に視線を送った。どこかあきらめたような瞳をじっと見つめ返す。

「棘くん、そんなにわたしの寝不足の理由が知りたいの?」
「しゃけ」
「今の電話がだれからかも?」
「……しゃけ」
「そこまで知りたいなら、呪言でもなんでも使えばいいのに。簡単だよ?わたしには脳を呪力で守るなんて高度なことができないから、きっとすぐに聞きだせるはずだし」
「おかか」
「どうして?」

 問いかけられて、わずかに目を伏せる。の言う通りだった。狗巻家相伝の呪言は、人間ではなく呪霊相手に特化した呪術だ。とはいえ、は呪力が少ないために自力で脳を守ることができない。棘の呪言が容易く通用する相手のひとりだろう。

 沈黙を破るように棘はかぶりを振った。への気持ちを、態度と行動で示しながら。

「おかか」

 相手に呪言を決して使いたくなどなかった。が好きだからこそ、呪言を使うことは絶対にできなかった。

 反則技に頼るような関係でいたくないし、なによりそれは恋人であるを信用していないという証明にほかならない。信頼を失って、嫌われるのが怖かった。ただでさえ不安な気持ちにさせているというのに、これ以上信頼を欠くような真似をしてどうするのだろう。

「使わないの?」
「おかか」
「それならこう言おうか?使っていいよ」

 は棘の手をほどくと、蒸れたマスクをゆっくり引きさげた。ぬるい空気に触れた口元が少し涼しく感じる。

「わたしは絶対に抵抗しない。だから、使って?」

 そこに隠された真意を汲み取れないほど、棘は鈍感な男ではないつもりだった。

「おかか」
「棘くん」
「おかかっ」
「……そっか。棘くんは馬鹿だなあ」
「ツナマヨ」

 のことが好きなだけだから。視線をからめてきっぱりと告げれば、はさげた口端をゆるめた。

「うん、もう降参。わたしの負けだよ」

 棘の好きな穏やかな笑みを宿すと、

「だから今夜、棘くんの部屋に泊めて?」

 ありとあらゆる思考がまとめて吹き飛んだ。話のつながりが見えてこない。岩のように硬直した棘を見て、は勢いよく噴きだした。



* * *




「最近、ひとりで眠るのが怖いんだ。怖い夢を見るから」

 ルームウェアに着替えたは、備えつけのクーラーの音が小さく響く棘の部屋で、ひざを深く抱えてそう言った。棘はの話に耳を傾けながら、氷の入ったふたつのグラスに麦茶を注いでいく。

「ツナ」
「言えないよ。だって怖い夢を見るから寝不足なんて、子どもみたいで格好悪いじゃん」
「おかか」
「そうかなあ」

 冷えた麦茶をちびちびと飲むを横目に、棘は麦茶ポットを小さな冷蔵庫にしまい込む。

 のルームウェアは夏らしく薄手で、半袖とハーフパンツから伸びる素肌に嫌でも視線が釘付けになってしまう。ふつふつと浮かぶ邪念を懸命に追い払いつつ、ローテーブルを挟むようにの向かいに腰を落として麦茶を一口飲んだ。

 女子寮でシャワーをすませたあと、はスマホを片手に棘の部屋にやってきた。

 棘はもちろんを止めた。時刻はすでに深夜にさしかかっている。弱っているにつけ込んで事を起こすような真似は絶対にしたくないし、もちろん事を起こす気など毛頭ない。とはいえ、目も当てられないほど格好悪い真似をしてでも繋ぎ止めたい相手を前にして、理性が崩壊しないとも言い切れない。

 できることなら寮の談話室で話をしたかったのに、は断固として首を縦に振らなかった。結局、棘が折れる羽目になったというわけである。

 これが惚れた弱みというやつかと自分に呆れていたら、がじっとりとした目で棘をにらんでいることに気づいた。

「棘くん、遠い」
「おかか」
「ううん、遠いと思う」
「おかか」
「もっと近くに座って」
「おかかっ」
「これじゃ部屋にきた意味ないじゃん」

 むくれた様子のは抱えたひざをほどいて立ちあがると、棘のすぐ右隣にぺたりと座った。すぐさま左に移動しようとしたのに、右腕をがっちり捕らえられてしまう。二の腕に触れる柔らかい感触に、小さくのどが鳴った。

 みるみる身体が強ばる棘を見たは、意地の悪い笑みを浮かべる。

「お、おかか……」
「うん、わざとだよ?」
「ツナ……」
「さっきの仕返し。今度は棘くんが恥ずかしい思いをする番だからね」

 もう充分恥ずかしい思いをしたのだが。それにこれは恥ずかしいというより――と思ったそのとき、がスマホを差しだしてきた。

「この番号に見覚えある?」

 棘はの手元だけを注視する。余計な場所に視線を滑らせてはいけない。大きく開いたのルームウェアの衿ぐりに目を向けることは、すなわち理性の崩壊を招くことになるからだ。

 画面に表示された数字の羅列をしばらく見つめて、はたと思い至る。棘の脳内からあらゆる邪念がたちまち吹き飛んだ。

「すじこ」
「そう。さっきの着信は上層部から」

 抑揚のない声が淡々と耳に響いた。その言葉の意味するところを理解した途端、体温が抜け落ちる感じがした。

「高菜」
「これでも五条先生のおかげでマシになったんだよ」
「いくら」
「狗巻棘との関係を認めることはできない」

 は遠い目をしながら、穏やかな口調で告げた。

「高専に通い続けるって決めたとき、そう言われた」

 棘の中ですべてが繋がっていく。呪言師である棘の隣に立つために、生まれも育ちも違う棘との関係を続けていくために、は必死になっているのだとばかり思っていた。

 これはそんな次元の話ではない。呪術界の汚泥をかき集めたような上層部の面々を思いだす。あのときの五条の言葉を噛み砕きながら、棘はに向かって深く頭をさげた。

「こんぶ!」
「謝らないで。ずっと黙ってたのはわたしだから」
「こんぶっ!」

 は小刻みに震える棘の手からスマホを取りあげると、「仕方ないよ」といつものように笑った。

「イザナミさん――特級呪霊と繋がってるってだけじゃない。わたしは贄だから」

 頭が垂れたままの棘の肩に、は頬をよせる。

「贄は穢れ。無科は忌み血。死ぬべき存在。儀式のための人の形をした道具。あの人たちにとって、わたしは人間じゃないし」

 歌うように続いた言葉に、棘は首を横に振る。

「おかか」
「今は贄という存在そのものが身近じゃないから、若い子たちにはまったく理解できないだろうって五条先生が言ってた。でも御三家や上層部にはそういう意識がまだ根強く残ってるんだって」
「ツナ」
「供物として捧げられて穢れを受けたのに、まだこうして生きていること……それ自体、上は気に入らないんだろうね。それに今はイザナミさんも身動きが取れないし、嫌がらせをされても仕方ないと思うよ」
「おかか」
「狗巻の血に穢れた血を混ぜることは絶対に許さない。それが上層部の結論だから」

 は呪術界の“常識”を受け入れて、その中で懸命にもがいていたのだ。おそらく、自らの価値を引きあげるために。狗巻棘にふさわしい相手だと認められるために。

 五条の嗤笑の意味を余すところなく理解する。愚か者だとそしられて当然だろう。あまりの情けなさに目の前が真っ暗になりそうだった。

 なんの頼りにもならない男を目の前にしながら、はおずおずと切りだした。

「棘くん、本当にわたしでいいの?」
「……すじこ」
「わたし?わたしは棘くんがいいよ。棘くんは?」
「ツナマヨ」

 がいいとはっきり答えれば、は柔和に目を細める。よほどうれしいのか笑い声を漏らしつつ、弾んだ声で言った。

「あーあ、話すつもりなんてなかったのに」
「いくら」
「そうだよ、ずっと黙ってるつもりだったんだから。でも今日言わなくちゃ、きっと棘くんを裏切ることになると思って」
「ツナ」
「……信じてないのは、わたしのほうだった」

 わずかでもの表情が翳ったことに罪悪感がわいた。これほど頼りにならない相手を信用しろというほうが無理がある。棘は否定するために慌てて口を開いた。

「おかか。すじこ」
「変わらなくてもいいって言ってもらえるのは、うれしいよ。すごくうれしい。でもね、わたしが嫌なの。棘くんがちゃんと祝福される世界がいいから」

 ひとりよがりな発言にムッとして、棘はすぐさま「おかか」と反論する。

「……わたしも?」
「しゃけしゃけ」
「うーん、それは無理じゃないかな。そう簡単に変わるわけないよ」
「おかか」
「無理だって。だからせめて棘くんだけは――」
「おかかっ」
「……うん、そうだね。祝福してくれるような世界に変わったら、きっと素敵だろうな」
「しゃけ」
「あ、もうこんな時間。話しこんじゃったね、そろそろ寝よっか」

 一方的に話を切りあげられた気がしないでもない。まあいいか。またゆっくり話せばいいだろう。幸い、時間はたくさんあるのだから。

「早く早く」と促された棘がのろのろとベッドに仰向けに横たわると、がにやっと笑った。嫌な予感がして身構えようとしたけれど間に合わない。が棘に向かって飛びこんでくる。しかも助走までつけて。

 突然の衝撃にベッドが大きく軋んだ。重力を味方につけた肉体に内臓を圧迫されて、潰れたカエルみたいな声があふれる。棘の視界がぐらぐらと揺れている。

「こ、んぶ……」
「女の子に重いは禁句。モテないよ?」
「すじ、こ」

 うめくように問いかけると、がますます体重をかけてきた。呼吸が苦しくて仕方がない。

「……うん。わたしにはモテるけど」
「しゃけ」
「そういうのずるい。他の子には絶対言わないで」
「いくら」
「ううん。わたしがこういうことするのは棘くんだけだよ?」

 は身体を起こすと、眉間にしわをよせている棘を見下ろした。見つめ合う視線に確かな熱が混ざっていく。早く引き寄せたくて後頭部に手を添えると、がなにかを思いだしたようにカッと目を見開いた。

「あ、うそ。この間パンダくんにした」
「おかか!」
「あなたパンダっていうのね!って。ほら、金ロー再放送だったじゃん。五条先生がトウモロコシ買ってきたって言って、それで――」
「おーかーかー!」

 笑いを噛み殺しながら、を力いっぱい抱きしめる。その体重がすべてのしかかってくるものの、今度はまったく苦しくなかった。「痛い痛い痛いっ」とが弾けた声をあげる。こんなに笑っているを見るのは久しぶりのような気がして、軽率にうそをついたことを詰りながら、と存分にふざけあった。

 腹がよじれる至福の時間は、下の階に住む後輩からの「今何時だと思ってるんですか。さっさと寝てください」という怒りの電話によって強制終了した。深夜の男子寮にを連れこんでいることに一切触れなかったのは、きっと恵なりの優しさなのだろう。

 まだ笑いが尾を引いているをなだめるように、背中をとんとんと叩いてやる。

「怒られちゃった。ここからもっと面白くなるはずだったのに」
「おかか」
「ケチ」
「ツナマヨ」
「明日もここで寝ていい?」

 ためらいがちに尋ねられた棘は、ぐっと言葉に詰まった。部屋を抜け出していることが知られたら、きっと五条に咎められるに違いない。いけないことだとわかっていながら、五条への言い訳をいくつも考えている自分の思考回路にほとほと呆れてしまう。

 つぶらな瞳に射抜かれた棘は、もろ手をあげて降参した。

「……しゃけ」
「やった。じゃあ今日は大人しく寝る。おやすみ、棘くん」
「こんぶ」

 の寝息が聞こえるまで、棘は眠気に抗い続けた。



* * *




 深海を連想させる暗い場所まで落ちていた棘の意識が浮上したのは、のスマホの着信音が鼓膜を叩いたせいだった。

 目をこすりながらスマホの画面に目をやれば、時刻はまだ朝の四時半だった。

 怖い夢を見るから寝不足になったと言っていたものの、きっと理由はそれだけではないのだろう。常識を外れたその嫌がらせに怒りが湧く。のスマホをつかむと、棘は即座に着信を切った。

 深い眠りについているを起こさぬよう、そっとベッドから身体を抜く。足音に注意を払いながら洗面台に移動し、素早く準備をはじめた。クローゼットに片付けた冬の制服を手に取ると、クリーニングにだしたばかりの皺ひとつないそれに袖を通していく。

 棘の身支度が終わっても、は眠りに落ちたままだった。

 すぐに帰ってくるから、という意味を込めて、その頬に軽く口付ける。制服のジッパーを目いっぱい引きあげると、棘は早足で男子寮をでた。

 夜が明けようとしていた。白みはじめた空を見つめていると、

「おはようございます」

 前方からやってきたのは七海だった。棘が小さく会釈を返すと、スーツ姿の七海は棘を上から下まで目でなぞり、ついで納得したように深くうなずく。

「なるほど。喧嘩でも売りに行くんですか?」
「しゃけしゃけ」
「昇級どころか、ここでの立場が危うくなるのでは?」
「いくら」

 どうでもいいと即答した棘は、まったく表情を崩さない七海の脇を通り抜け、建物の中へと歩を進めていった。

 そんなものに興味はないし、興味があったならそもそも呪いだったを好きになっていないだろう。

 好きだから安心してほしい――その想いを一時の態度と行動と言葉に変えるのは簡単だ。けれどもそれではの安心に繋がらない。継続していくしかないのだ、の安心に繋がるまで。否、繋がった後も不断の努力を続けるしかあるまい。棘が考えている以上に、は不安を覚えやすいようだから。

 扉に手をかける。決してこの場にやってくるはずのない棘の姿を見た瞬間、かの老人たちは一体どんな顔をするだろう。

 こんなことをしても、なにも変わらないかもしれない。けれど、もしかしたらなにかが変わるかもしれない。そのわずかな可能性を積み重ねていった先に、きっとが祝福される世界があるはずだと、棘は信じている。

 わめく心臓を押さえつけるように何度も深呼吸を繰り返して、重い扉を勢いよく開いた。