間奏 -前-

「あの……会って早々こんなこと言うの、すごいアレなんですけど」

 幼馴染は口ごもりながらも、やや時間をかけて切りだした。

と別れてもらえませんか」

 その穏やかな口調とは裏腹に、棘を射抜く視線には途方もない嫌悪感が含まれている。それはもはや憎悪に等しかった。


* * *




 木陰に置いていたタオルを片手に、メッセージの通知が表示されたスマホに目を落とす。

“勉強がしたいので、今日も訓練をお休みします”

 肋骨をすり抜けるように、寂しい風が吹きこむ。その文字の並びを何度見つめたところで、に会えるわけではない。ひどく空虚な感情が呼び起こされるだけだった。

 棘が小さく息を吐きだしていると、気づいたパンダが何気ない口調で尋ねる。

「どうした?浮かない顔して」
「こんぶ」
「えっ、また?最近多いな。もう繁忙期はほとんど終わっただろ。なにしてんだ、勉強か?」
「しゃけ」
「そっか……まあ、が決めたことだし、俺がとやかく言うことじゃないけどさ……、呪術師が本業じゃないのか?基礎連で体力つけるのだって大事だぞ」

 パンダの苦言に棘は返事をすることなく、スマホから手を離した。

 は任務を積極的にこなしているし、任務がないときは高専の座学にだって必ず参加している。決しておろそかにしているわけではないだろうけれど、呪術師としての成長を望んでいるようには感じられなかった。

 呪いが見えないから、どれだけ頑張っても無駄だと考えているのかもしれない。そう結論付けたくなる気持ちはわからないでもない。でも、だからといって嘘をついてサボるのはいかがなものかと思ってしまう。

 訓練を休んでいる理由が真っ赤な嘘であることくらい、薄々気づいていた。

 電話をかけると必ずといっていいほど、遠くのほうから騒がしい音が聞こえるのだ。の言う通りそこが塾だというなら、漏れ聞こえてくるのは人の声のはずだろう。しかしスマホのスピーカーが届けてくるのは、テレビが発するさまざまな音の重なり――映画やゲームに近い効果音だった。

 もしそれだけなら、部屋でサボってテレビを観ているのかと詰問することもできただろう。

 棘がになにも言えない理由。それは、の声に混じって時おり男の声が聞こえてくるせいだ。しかも何故か驚いたような声ばかりだった。

 あれは決してテレビの音などではない。は一度目こそ声の主を友だちだと説明していたものの、今ではもうなにも言わなくなっていた。ただその男の声がするたび、はどこか焦った様子で、通話を早く切りあげようとするようになっただけだ。

 人間に戻ってからというもの、はどこか焦っているように見える。舞いこんだ仕事を黙々とこなし、大学受験のために塾へ通い、“窓”として活動するため情報収集に明け暮れている。時間が足りないのだろう、デートに誘ってもすべて断られる始末だ。

 仕方がないと思ってずっと我慢してきた。デートをしなくても恋人であることには変わりがないと納得してきた。けれどもこれほど頻繁に、それも嘘をついてまで棘以外の男と会っているとなれば、話は変わってくるだろう。

 疑いそうになるたび、そんなわけがないと自分を叱咤した。は棘と生きることを選んだのだ。しかもそれはつい先月のことである。こんな短期間で棘に愛想を尽かすわけがないと信じたい。

 しかし心変わりしていないなら、なおさらが棘に下手な嘘をついてまで訓練をサボって男とテレビを観ている理由が、ちょっとよくわからないのだが。

 尋ねようかとも思ったけれど無理だった。は自分の気持ちを信じてもらうことができなかったために、今まで何人もの恋人と別れてきたという。少しでも疑うような態度をとれば、を傷つけてしまうだろう。そんなこと、絶対にできるはずがない。

 呪術師でいることに嫌気が差したのだろうか。

 呪いが見えないにもかかわらず、はまったく降格されなかった。つまりそれは上層部からの死刑宣告に等しい。特級呪霊イザナミ――“黄泉国の主宰神”として圧倒的な力を持って顕現した特級仮想怨霊と繋がるは、規定側にとって一日も早く消し去りたい邪魔者であることに違いない。

 が抱える任務の量は尋常ではない。しかしそれはの意思であり、上層部からの圧力ではないはずだ。それに上から嫌がらせを受けているような話をから聞いたことがないし、似たような噂すら棘の耳には一切伝わってきていない。

 となれば、呪いが見えない焦りがを現実逃避させているのだろうか。

 術師である棘を相手に選んだ手前、引くに引けなくなっているのかもしれない。男友だちとふたりでテレビを観ながら、棘や高専の愚痴を言っている可能性がないわけではない。けれど。

さんが、呪術師を辞めたいんじゃないかって?」

 ひとりで考えていても埒が明かないので、その夜、海外にいる憂太に相談を持ちかけてみた。向こうとの時差はわからないものの、憂太はあっさりと電話に応じてくれた。

「しゃけ」
「僕に訊いてどうするの?尋ねる相手を間違えてるよ」

 もっともな言葉になにも言えなくなる。その口振りから察するに、憂太はなにかを知っているのだろう。

 棘にはなにも言わないくせに、憂太には本音をさらけだす。は付き合う前からそんなところがあったけれど、今日ほどその事実に落ち込んだことはない。

 どうして自分のことを頼らず、憂太ばかりを頼るのだろう。そんな嘆きは言葉となってこぼれ落ちていた。

「すじこ」
「だって嫌われてもいいからね。ある意味どうでもいい相手だから、なんでも気兼ねなく話せるんだ。でも、それは僕も同じだよ。さんのことは大切だけど、別に嫌われてもいいと思ってるから」
「……ツナ」
「好きだからなにも言えないんだよ」

 憂太は小さく笑うと、ゆっくりと噛み砕くように続ける。

さんは狗巻君のことだけを考えてる。狗巻君の幸せだけを真剣に。それは絶対に忘れないで」

 通話は一方的に終了し、回線が途切れる無慈悲な音が鼓膜にこびりつく。棘の双眸が困惑に揺れる。の想いを疑ったのだろうと、心臓めがけて鋭利な刃を突き立てられたようだったから。

 棘はしばらく、スマホから手を離せなかった。



* * *




 の目の下に青いクマが見られるようになったのは、西東京市の枯れ井戸の底から白骨遺体が発見されたあと――つまり、夏休みが始まってすぐのことだった。

「棘くんおはよう。はい、今日のお弁当。唐揚げ、うまくできたんだよ」

 うれしそうに笑うの瞳は、虚ろな眠気でいっぱいだ。は黒いランチバッグを差しだしながら、大きなあくびをひとつ落とした。

 雑居ビルに続いて、棘には見えない“なにか”を見たは、殺害された男性の遺体が眠る場所を言い当てた。自らの身に起こる不可思議な現象を、“棘たちとは見えている世界の周波数が違う”と分析していた。

 棘はがなにを見ていても構わなかった。それがにとって都合のいいものなら。そこに多少の悲哀と恐怖があれど。

 しかし、先日の一件は明らかになにかがおかしい。は自分にとって都合のいいものを見ているのだろうか。その周波数は、本当に自身が望んだものなのだろうか。

 が重そうな目蓋をぱちぱちと上下させる。時期から推測して、の寝不足と見えない“なにか”を見たことは決して無関係ではないだろう。

 青いクマの浮かぶ顔を覗きこんでいると、は棘のマスクをぐいっと下ろして、唇に軽く触れるだけのキスをした。

「おはようのキスだよ?」

 ちょっと照れたような笑顔に胸が詰まって、気づけばを抱きしめていた。

 ここのところずっと、一瞬でもの気持ちを疑った自分に腹が立って仕方がなかった。は呪胎がへばりついたDVDを棘に隠すことはなかったし、なによりが呼びだした呪霊は棘と瓜二つの顔をしていた。イザナミから聞いた話では、あれは術師にとって一番好きな相手の形を模した呪霊を壱番目に呼ぶという術式らしい。ということは、の気持ちはまだ棘にあるのだ。

 相変わらず嘘を重ねて男友だちと映画三昧なのは気になる。嘘をつかなければならないほど、なにか後ろめたいことがあるのだろうか。

 とはいえ今はそんなことより、の睡眠不足のほうが重要な問題である。

 くわっとあくびをする小さな声を拾いあげる。どうしてそんなに寝不足なのだろう。

「高菜」
「どうしたの?ちょっと眠いだけだよ。大袈裟だね?」
「おかか」
「お弁当作るための早起きじゃなくて……えっと、朝から勉強してて」

 今、明らかにごまかした。棘が問い詰めようとすると、は再び口付けてきた。今度はしっかりと押しつけるように。乾いていた唇が、リップだかグロスだかによって、わずかな水気を帯びる。

「元気が足りなくて。でもちょっと元気でた。ありがとう」
「高菜」
「もう、眠いだけだってば。すごく眠いだけ。本当だよ?」
「ツナ」

 その寝不足の理由を尋ねたのに、は曖昧に笑うだけだった。棘の拘束から逃れると、スクールバッグを肩にぶらさげたまま、くるりと方向転換する。

「こんぶ」
「塾でーす。夏期講習頑張ってきまーす」

 間延びした返事を口にして、振り向きざまに朗らかな笑顔を浮かべる。眠そうな視線を棘から外し、少し重たい足取りで歩いていってしまう。

 駅まで見送ろうかと思ったけれど、足が動かなかった。わずかでもを疑ったのだという罪悪感が、尾を引いているせいで。

 の背中が見えなくなるまで、寮の前で立ち尽くした。の寝不足の理由を考えながら。

 きっと棘たちと周波数が違うことに思い悩んでいるのだろう。がそれを望んでいないとしたら、に干渉できる存在などたったひとりだけだ。

 思案をめぐらせている間に午後を迎え、飲み物がなくなったので自動販売機に向かった。冷たいスポーツ飲料はどれもこれも、赤い“売切”の文字が点灯している。

 炭酸飲料を手に演習場に戻ろうとしたとき、遠目にの姿が見えた。夏期講習が終わったのだろうか。今日は終日塾にこもると言っていたはずだが。

 細い通路に消えたのあとを追いかけると、古い蔵にたどりついた。一度も立ち入ったことのない場所に一瞬ためらいを覚えたものの、意を決して重い金属製の扉を力任せにこじ開ける。

 足を踏み入れれば、呪物の気配を至るところから感じた。宝物庫だろうか。湿った土の匂いを肺へ送りこみながら歩いていると、

「あちゃー……シンデレラを追いかけてきちゃったか」

 虚言を弄する者独特の、うわついた色に染まる声。物陰からひょこっと姿を現したのは、ではなく五条だった。

 五条は普段と変わらぬ軽薄な笑みを浮かべる。

「どうして僕がここにいるのかって顔だね?教えてあげるよ。死んだ悠仁が両面宿儺という猛毒に耐えられた理由を、硝子がずっと調べてくれててさ。僕はそのお手伝いってわけだ。ここには宿儺に関する資料が多く保管されているからね。ところで棘はなんでここに?」
「すじこ」
?見間違いじゃない?」

 聞き間違いでなければ、この男はさっきシンデレラと言わなかったか。疑いの眼差しを向けても、五条は白々しい笑みを濃くするばかりだった。

 を匿っている可能性が高い。しばらく蔵の中を探し続け、床も壁も舐めるように視線を這わせてみたものの、の姿はついぞ見つけることができなかった。

 問い質したところで、煙に巻かれるのが関の山だろう。しかし多忙な五条と偶然出会えたのは幸運だったかもしれない。能天気な顔をしている五条に、棘は確かめるように問いかけた。

「すじこ」
「ああ、イザナミなら死者の呪力が見えてもおかしくないよ。紛い物とはいえ“死者との繋がりを持つ神”として顕現しているからね。確実に見えているだろう。それがどうかした?」
「高菜」
「見えるからって困ることは……え?ちょっと待って、まさかが見てるの?」

 予想外の五条の質問に、棘の顔がたちまち曇る。不安をあおられた棘は、たどたどしく首肯した。

「こんぶ……」
「その可能性がないわけじゃない。でもがイザナミと視界を共有しているとしたら、呪いが見えていないことの説明がつかないだろ」
「おかか……」
「最近に変わったことは?」
「ツナ」
「ひどい寝不足だってことは僕も知ってるよ。他には?」

 重ねられた問いに、言葉が詰まる。口を一文字に結んだ棘を見おろして、五条が鼻を鳴らした。その顔にはいつもの人を喰ったような笑みはない。

「あっそ。これではっきりしたわけだ。棘はのことをなにも見ていない」
「……おかか」
「見てないよ。今までが棘のためにどれだけ悪役を演じてきたと思ってるの?」

 戸惑ったように棘は五条を見あげる。発言意図がつかめない。手のひらがじっとりと汗ばむのを感じる。

「努力という魔法で着飾ったしか見えてないんだね。ガラスの靴がなきゃ本当のは見つけられないって?笑わせるなよ王子様。あのシンデレラは靴を落とすほど間抜けじゃないだろ」

 そこでようやく五条の口元に笑みが生まれる。それは棘を侮蔑するような嗤笑だった。

「都合のいいものを見てるのはさ、じゃなくて棘のほうなんじゃない?」



* * *




 寮のベッドになだれこんで、かれこれ数時間が経過している。夕食を摂る気にもなれず、シャワーを浴びる気にもなれない。一歩も動きたくないし、今はもうなにもしたくない。

 五条の発言すべてに理解が及んだわけではない。けれど、五条が棘を責め立てるのは当たり前だった。笑ってはぐらかすに、それ以上強く踏みこめないでいる。嫌われるのが怖くて。

 充電が完了したスマホに視線を滑らせる。デジタル時計が夜の十時を示す。から連絡が返ってこない。幼馴染のDVDを壊してしまった件を、直接謝りに行ったらしい。夕食もご馳走になると言っていたから、遅くなるのは当然だろう。けれども。

 すっきりしない気持ちが立ちこめる。嘘をついてまでが昼間会っている男は、その幼馴染なのだろうか。幼馴染というからには、着飾ったではなく、きっと本当のを見ているのだろう。

 ――本当のって?

 考えれば考えるほど頭が混乱する。迷路に迷いこむようだった。なにもせず部屋にこもっているからだと結論を下すと、跳ねるように半身を起こした。棘はその勢いのまま部屋を飛びだし、呪術高専の最寄り駅に向かって駆ける。

 駅でを待とうと思いながら夜道を進んでいると、前方から人影がこちらに向かってくるのが見えた。歩く速度はそれほど速くない。むしろ遅いくらいだろう。

 眉をひそめながら距離を詰めたとき、その影の正体が上半身を屈めた少年であることに気づいた。その背中に乗っている少女の姿に、棘は呼吸を忘れてしまう。

 その場で足をとめた棘を視界に入れた黒髪の少年が、速度をあげて近づいてくる。棘は後ずさることもできず、目を瞬かせているだけだった。

「まさか、の彼氏の……えっと、狗巻さん?」

 確認するような質問に首を振る。の幼馴染は身体を揺らしてを背負い直し、困った様子で説明を始めた。

「俺の家でぶっ倒れたんです。ひどい寝不足みたいで、しばらく寝させてたらこんな時間になってました。遅くなってすみません。電車降りるときはかろうじて起きてたんですけどね……」

 背中に送られる視線に、柔らかな光を感じた。直感する。に向けられる視線に宿った感情の名を。胸を焼くような鋭い痛みに苛立ちが滴り落ちていったそのとき、

「あの……会って早々こんなこと言うの、すごいアレなんですけど」

 幼馴染は口ごもりながらも、やや時間をかけて切りだした。

と別れてもらえませんか」

 その穏やかな口調とは裏腹に、棘を射抜く視線には途方もない嫌悪感が含まれている。それはもはや憎悪に等しかった。

 初対面の相手にそんなことを言われる筋合いはない。沸騰するような怒りが湧いた。電流でも通されたかのように身体が震えそうになり、必死の思いで抑制する。

 懸命に怪訝な表情を取り繕うと、幼馴染は調子を崩すことなく続けた。

、本気であなたのことが好きだと思います。今までの彼氏の中で一番。比べ物にならないくらい、本気です」

 そこでいったん、言葉を切る。黙りこくる棘の感情を確認するように短い間を挟んで、ゆっくりと、しかし確実に退路をふさぐように言った。

「あなたが知ってるかどうかはどうでもいいけど、って馬鹿だから、幸せを幸せとして享受できないんですよ。見えないものは信じられない、って言って。だからあなたとの関係を続けるために今必死になってるんです。自分を追い詰めて、寝不足でぶっ倒れるくらいに」

 ひざが震えていた。今にもくずおれそうだった。昼間聞いた五条の声が脳裏でうわんと響く。呪いが見えないから焦っているのだと思っていた。棘が見ていたのはの上っ面だけだった。都合のいいものを見ていたのは、間違いなく棘だ。

がそこまで努力しなきゃ安心できないほど、不安な気持ちにさせてる自覚ってありますか?への愛情の証明が足りない事実に気づいてますか?」

 着飾っていない素のを見続けてきた双眸が、棘を真正面から睨み据える。決して逃亡を許さない視線が、棘からすべての動作を奪っていく。

「好きな相手を心から安心させること……たったそれだけのことができない人間に、を渡すことはできません。の傷が浅く済むうちに別れてください。お願いします。が泣くところは、もう見たくないので」

 そう締めくくった幼馴染の表情が、わずかに崩れる。幼馴染が首をうしろにひねると、の掠れた声が聞こえてきた。

「じゅんぺ……」
?起きた?」
「んー……」

 頭がぐらぐら揺れているを地面におろすと、幼馴染はに目線を合わせて話しかける。

、大好きな彼氏が迎えにきてくれたよ。優しい彼氏でよかったね。ほら、気をつけて帰って」
「ありがと」

 小さくうなずいたが棘に鼻先を向ける。へにゃりと笑うなり、「棘くーん」と言いながら抱きついてきた。眠気でとろけているを抱きとめながら、幼馴染に視線を滑らせる。

 色濃い軽蔑に染まった黒瞳が、棘をまっすぐ見据えていた。

「僕が言ったこと、全部本気なので。それじゃ」

 呆然と立ち尽くしていると、がマスクの上からキスをしてきた。「唇の位置あってた?」と首をかしげながら、幸せそうに笑う。

 目頭が痛くなってきて、隠すようにをきつく抱きしめた。は棘の背中に腕を回して、眠気が溶けこんだ甘ったるい声で提案する。

「ね、早く帰ろ?」