周波数

 真四角のこじんまりとした部屋に、呪文を紡ぐ声がこだまする。

「――我が怨恨を己が魂に刻め」
「領域展開――略式・百鬼夜行」

 身体の内側で“つながる”感じがした。あばら骨のちょうど中心から、肉や臓器に向かって一本の細い糸がピンとのびている感覚。すべての意識が張りつめた糸を伝って、内側に引っぱりこまれそうになる。

 とても強い力だった。けれどもそれを押しとどめ、逆に引っぱりだそうとする。少しずつ、ゆっくりと。すると冷たいなにかが血管を押し広げながら、鼓動とともに身体の末端までめぐりはじめる。大きく肺を膨らませるたび、指先がじわじわと冷たくなるような気がする。きっとこれが呪力と呼ばれるものなのだろう。

 照明の消えた部屋に、橙色の光がぽつぽつと浮かびあがる。それは壁一面に張り巡らされた護符を照らし、床のタイルにわたしたちの影を作りだした。空調設備は見あたらないというのに、地下室は少しだけ肌寒い。

 わたしはひざをついて、足元をぐるりと囲んでいた四匹の穴熊に手をのばす。当然のように二本足で立つ穴熊たちのちっちゃな手には、和楽器が大切そうに握られている。一匹は笙を、一匹は太鼓を、一匹は横笛を、そして残りの一匹は鼓を。和楽器を手にした穴熊たちを順番に撫でていると、鼓を持った穴熊だけがわたしの腕を伝って頭の上によじ登ってきた。

「一緒に仕事するの、久しぶりだね」

 棘くんがうなずく。わたしはノートパソコンの電源をつけながら、灰色のタイルに腰を落とした。穴熊たちが和楽器を演奏しはじめると、賑やかな祭囃子が小さく響きだす。

「すじこ」
「弱体化も甚だしいよ。呪いだったときみたいに、イザナミさんの呪力が自由に使えるわけじゃないから」

 頭上からポンと鼓を叩く音がした。前方に灯っていた橙色の光が瞬く間に歪み、そこから黒い着物姿の少年が現れる。白い面紗をつけた少年は、衣擦れの音とともにこちらに歩み寄ってきた。墨で書かれた“壱”の文字の向こうから、穏やかな視線を感じる。

「今日もよろしくね、イヌマキくん」

 笑いかけると、砥粉色の頭が上下に揺れた。はっとした様子の棘くんがイヌマキくんの面紗をめくりあげて、「ツナマヨ」とつぶやく。ちょっと居心地が悪くなってきて、ノートパソコンの操作に集中しているふりをした。

「瓜二つでしょ。だから名前も“イヌマキくん”なんだよ」
「しゃけ」
「どうして棘くんそっくりなのかは、よくわからないけど……でも、一緒にいてくれると安心するから心強いよ。棘くんがそばにいてくれるみたいで」

 半分本当で、半分うそだった。きっと棘くんに頼りたいというわたしの甘えが、棘くんに守ってほしいという弱さが、イヌマキくんを創りあげているのだろう。心の柔らかい部分が露出しているようで、いつも情けない気分になってしまう。正直あまりいい気分とは言えなかった。

 棘くんは面紗から手を離して、わたしの隣にあぐらをかいた。頭にへばりついている穴熊を指差しながら首をかしげる。

「おかか」
「呼べるのはイヌマキくんたったひとりだけ。だから今までと同じように、力で捻じ伏せる強引な戦い方ができなくなっちゃった」
「高菜」
「その日の天候、地形、術式の相性……そういうことも加味して、事前に作戦を立てるようになったかな。わたしは基本的に逃げながら、イヌマキくんに戦ってもらうって感じ」
「いくら」
「呪いはまったく見えないけど、この子たちが位置を教えてくれるから」

 穴熊たちに目をやれば、三匹が揃って縦に振った。ちっちゃい身体で呪いの位置を教えてくれる穴熊たちは、逃げ惑うだけのわたしよりずっと頼もしい。

 今まで大きな怪我もなく任務を完遂できているのは、イヌマキくんと穴熊たちのおかげだった。彼らのような呪霊を呼ぶ術式だからなんとかなっているものの、棘くんやパンダくんのように自ら戦う術式だったら、呪いの見えないわたしはとうの昔に死んでいるだろう。

 ノートパソコンの側面に触れる。一刻も早く呪いが見えるようになればいいのに。それに近いものは雑居ビルで見たし、順平の部屋でも似たようなものを見た。ただの見間違いかもしれない。夜ごと悪夢を見るほどの焦燥が生みだした、都合のいい幻かもしれない。

 けれど、もしかしたら。

 呪いが見えるようになる前兆という可能性もあり得るし、そうだと信じてやまなかった。

 白いDVDケースを開くと、頭上の穴熊が「しゃーっ」と激しく威嚇したのでちょっとびっくりした。棘くんに視線を滑らせれば、あからさまに不快な顔をしている。

「まさか、ディスクにも呪胎がついてるの?」
「しゃけ……」
「これ、このまま入れて大丈夫なのかな」

と言いつつ黒いディスクをセットして、ノートパソコンに飲みこんでもらう。開かなかったケースを開けられたこと、ディスクを覆い尽くすような無数の蛆虫を見たこと、その答えがディスクの映像にあるような気がしていた。

 低い読み込み音が聞こえている間に、空っぽになったDVDケースをイヌマキくんに手渡した。イヌマキくんが着物の袖からごそごそと戦闘用の大口径散弾銃を取りだして、その昏い銃口をケースに向ける。そのままわたしたちから距離を取るように、部屋の端まで離れていった。

「ツナ」
「現時点では無数の呪胎が複数個体なのか、それとも呪力の繋がった一個体なのか判別がつかないから。今ここで殺せば、ディスクの呪胎まで道連れになる可能性があるでしょ?観てもいないのにディスクが壊れてしまうこと、それだけは避けたくて」

 淡々と答えているうちに、ノートパソコンの画面が切り替わる。ディスクの再生が始まった途端、目を瞠った棘くんがネックウォーマーを引きさげた。

 画面にざりざりと映像が乱れたような砂嵐が混じる。それは途切れ途切れに数回続いたのち、やがて不明瞭な映像が映しだされた。

 色のない世界のまんなかに、井戸がぽつんとあった。その向こうには木々が鬱蒼と広がっていて、井戸の周りにはなにもない。水を汲みあげるポンプなどの設備は見当たらず、背の低い雑草が多い茂っているだけだ。

 口の中に溜まった唾を一度に飲みこんだ。似たような映像をかつて観たことがある。かの有名なホラー映画の中で。あの映画の一部分を切り取っただけかと思ったけれど、それにしては井戸が撮られた角度がずいぶん違うし、こんなに緑が深かった記憶はない。

 木々の間から、色あせた看板がうっすらと確認できる。近―く――険。おそらく、“近づくな、危険”と書かれているのだろう。看板の下部の西東京市の文字はすっかり掠れている。

 あの映画の舞台は西東京市ではなかった。となれば、一週間後の同じ時間に死ぬことはないと考えていいだろうか。それはあまりに楽観的すぎるか。

 そう思ったとき、画面の左から女が現れた。妙齢の女は上半身をおりながら、懸命になにかを引きずっている。それは人間だった。背格好から考えて男だろうか。うつ伏せになっているせいでよくわからない。ただ、引きずられても反応のない姿から、失神しているかすでに息がないか、どちらかのように思えた。

 女は男を井戸のそばまで運ぶと、その身体を抱えるようにして井戸に突き落とし――

 次の瞬間、わたしの身体がうしろに飛んでいた。棘くんに抱きかかえられる形で。

「――爆ぜろ」

 ノートパソコンが爆発したのと同時に、背後で複数の発砲音が響き渡る。白い煙をあげているノートパソコンは半壊し、原型をまったくとどめていない。

「明太子っ!」
「あーっ!壊したーっ!」
「おかかっ!」

 言っている場合かと怒鳴られる。いつのまにか肩まで降りていた穴熊のちっちゃな手が、護符だらけの天井を指す。その指の動きは星を数えるようだった。複数の個体が一度に孵ったということだろう。

 棘くんは両足をつくと、小さく息を吸いこんだ。

「――捻れろ」

 呪言を発した棘くんがすぐに視線を転じる。その目の先をなにかが切り裂いた。遅れて聞こえた発砲音に、弾丸が放たれたことを認識する。護符だらけの壁を駆ける異形の姿を視界の端に捉えた棘くんが、なにもいない場所を向いて唇を開いた。

「――止まれ」

 呪言が呪霊の動きを奪った隙に、壁を蹴って宙に飛んだイヌマキくんの手に握られた銃から次々と弾丸が飛びだす。耳をつんざくような銃声がしばらく響き渡り、あとに残されていたのは痛いほどの静寂だけだった。

 孵った呪いに面紗の一部を破られたらしいイヌマキくんは、まったく感情のないかんばせをこちらに向けた。棘くんと同じ顔をしているのに、薄茶色の瞳は死んだように濁っていて、光というものがまるで感じられなかった。

「おかか」と棘くんが掠れた声で言うと、イヌマキくんは小さくうなずく。今度は銃口が縦にふたつ並んだ二連型の拳銃で、壊れたノートパソコンを何度か撃った。なにかが割れるような音を鼓膜が捉える。

 借り物のディスクが木っ端微塵に破壊されてしまった。仕方ないとはわかっていながらも肩を落とさずにはいられなかった。順平には頭をさげるしかないだろう。

 穴熊たちの奏でる祭囃子が小さくなっていく。役目を終えたイヌマキくんと穴熊たちは、挨拶もそこそこにたちまち姿を消した。

 照明がついた気味の悪い部屋で、棘くんが心配そうに顔を覗きこんでくる。

「高菜」
「平気。棘くんのおかげだよ。守ってくれてありがとう」
「おかか」
「それにしても怖かったね。映画の丸パクリなのが気になったけど」
「……おかか」

 その怪訝な表情に違和感を覚える。

「……まさか、観てないの?」
「すじこ」

 画面はずっと真っ暗で、なにも映っていなかった。がなにか見ている様子だったから、すぐに言いだせなかったけど。

 棘くんの返答に寒気がした。口の中がからからに乾いていく。また――“また”だ。術師である棘くんの目には映らず、役立たずのわたしの目には映るもの。この世に存在しない二文字が頭を掠める。呪術師が揃って否定する存在が、わたしの目にだけ見えているとでも言うつもりか。

 震える身体を縮こませていると、棘くんに抱きよせられた。背中をトントンと優しく叩かれて、わたしの中に焦りが生まれる。動揺を見透かされている自分が情けなくて、奥歯をきつく噛みしめた。

「ツナ」
「なに、って……古い井戸が映って、そこに女の人がでてきて、それから男の人を……」

 わたしは言い終える前に、スマホを取りだしていた。



* * *




「いったいなにがでてくるんですか?」

 額から噴きだす汗をハンカチで拭いながら、クールビズとは無縁の格好をした伊地知さんが尋ねる。伊地知さんの視線の先には古びた井戸があり、それを囲うように筋肉質な男たちが作業を進めている。

 木陰で涼をとるわたしと棘くんは顔を見合わせた。

「徳川埋蔵金です」
「ツナマヨ」
「絶対うそでしょう」
「あっ、そんなこと言う伊地知さんにはびた一文あげませんからね」
「しゃけしゃけっ」
「こんなに協力しているのに?!」

 件のDVDを観た三日後、わたしと棘くんは西東京市にいた。

 どうしてもあの映像の場所を特定したかったわたしは、伊地知さんに無理をお願いすることにした。ヒントは使われていない井戸、そして西東京市と書かれたあの看板。たったそれだけだったのに、伊地知さんは一日と経たずに場所を特定してしまった。さすが優秀な社畜の伊地知さんである。

 あの有名なホラー映画のように自力で探してもよかったけれど、棘くんが怪我をするかもしれないと言って猛反対した。というわけで、井戸の底を調べてほしいと伊地知さんに頼みこんだのだ。ちなみに理由は言っていない。それでも動いてくれたのは、棘くんの口添えがあったからだろう。

さん、無茶ぶりの仕方が五条さんそっくりになってきましたよね……」
「しゃけしゃけ」
「狗巻くんもそう思います?あんな腹黒い大人にならないことを祈るばかりですよ」

 今の言葉は遠回しな五条先生への悪口だろう。告げ口してやるぞと思っていたら、井戸のほうから野太い悲鳴があがった。伊地知さんの顔が青ざめるやいなや、どよめきの輪の中に勢いよく駆けだしていく。

 ただならぬ空気が漂っている。棘くんが戸惑いの眼差しを向けた。わたしは曖昧に笑って、井戸へと歩きだす。

 青いビニールシートの上には、泥をかぶった白い骨がいくつも置かれていた。ビニールシートに両ひざをついた伊地知さんが、わたしを見あげる。

「……さん、これって」
「騙してごめんなさい。確信がなかったから」

 伊地知さんはしばらくわたしの顔を見つめたあと、関係各所に連絡を入れはじめた。伊地知さんが通話している間にも白骨の数は増えていき、とうとう頭蓋骨までもが見つかった。

 へこんだ頭蓋骨をぼんやりと眺めていたら、急に肩を叩かれた。振り向けば、紺のスーツ姿の男性と目が合う。井戸の調査を依頼された作業員とは到底思えない格好だった。

 不自然に泥だらけの男性は、どこか寂しそうに笑った。

「どうしたらいいのかわからなくて。あんな方法しか思いつかなかった」

 やっと腑に落ちる感覚がした。わたしがケースを開けられた理由も、あのディスクに蛆が湧いていた理由も。わたしは小さくかぶりを振る。

「少しはお役に立てましたか?」
「うん、どれだけ感謝しても足りないくらいだよ。見つけてくれて、本当にありがとう」

 瞬きをした次の瞬間には、男性の姿は忽然と消えていた。まるで、そこには最初からなにもいなかったように。抜けるような笑顔だけが、目蓋の裏に焼きついている。

 ずっと隣にいた棘くんが不審な顔をしていた。

「棘くん……手、繋いでもいい?」
「……しゃけ」

 指をからめながら、棘くんの手をぎゅっと握りしめる。そうっと握り返してくれるその手つきには、気遣うような優しさが含まれている。騒然とする現場に目をやったまま、ぽつぽつと言った。

「呪いは人間から漏出した、呪力の集合体。殺された人間は負の感情が強いから、漏れる呪力が多いのは当たり前……ずっと前、五条先生が教えてくれた」
「しゃけ」
「わたし、棘くんたちとは拾ってる周波数が違うのかな」
「……ツナ」
「ラジオなんかと同じだよ。前回の雑居ビルのことも、今回のDVDのことも、漏れだした呪力を誤って認識してるとしか思えない。見えている世界のチャンネルが違う」
「……」
「どうしてだろうね」

 見つかった白骨は、数年前に行方不明になった若い男性のものだということがわかった。事故ではなく他殺であることが陥没した頭蓋骨から判明し、その犯人は実の母親であることがすぐに暴かれた。報道番組は数日にわたって、母親が起こした殺人事件を騒がしく取りあげた。

 いつにもまして眠りの浅い日が続き、目覚めるたびに妙な息苦しさを覚えた。首を押さえながら身体を起こし、噎せたような咳を何度も漏らすようになった。

さんは――呪術師に向いてないよ」

 あの静かな声音とともに、首を絞められたような感覚だけが確かに残っている。