幼馴染
「ー!元気してたー?!」「もちろん!凪さんも元気?!」
「元気元気!」
柔らかい腕の中は苦い煙草の匂いがこびりついていて、懐かしさを含んだ安心感で肺がいっぱいになる。年始の力強い禁煙宣言はどこへやら、そう簡単にやめられるものでもないらしい。
母の親友である凪さんは玄関で裸足のまま、わたしをきつく抱きしめる。
「ますます可愛くなっちゃって」
「ありがとう。ね、凪さん痩せた?お正月より細くなってない?」
「そりゃ年末年始は太るでしょ」
「そうかもしれないけど……」
「大丈夫よ、毎年ちゃんと健診も行ってるし。お母さんのことがあったから心配?」
「……うん」
たまたま子宮に大きな腫瘍が見つかった母は、先月子宮をすべて摘出する手術を行ったばかりだ。腫瘍がはっきり良性だとわかったのは今月初めのことで、それまではずっと不安な日々を過ごしていた。
悪い想像をしなかった日はないし、当たり前の健康がいかに大切かを思い知った。わたしにとって家族同然の凪さんも病気になったら――そんなこと、考えたくもない。
「私がすっごく強いの、は知ってるでしょ?」
「でも」
「もう、そうやってすぐ重く考える。の悪いクセだよ」
頭をぐしゃぐしゃと撫でつけられて、目頭に熱が生まれた。煙草の苦い匂いにしばらく包まっていると、
「いつまでそうしてるの?ご飯冷めるけど」
どこか無気力な声が飛んできて、凪さんから身体を離す。ローファーを脱ぎながら廊下の先に視線を送り、顔を覗かせている幼馴染に開口一番謝罪した。
「順平、急にごめんね」
「いいよ、こっちは暇だし。は?平日は塾だって言ってなかった?」
「その帰りだよ。今日は英語だけだったから早かったんだ」
「お疲れ。あ、頼まれてた件はこっちで適当にリストアップしたから、先にご飯食べてよ」
「ご飯なに?」
「わかるだろ?」
すんすんと鼻を鳴らすと、鼻腔をくすぐる香辛料の香りに唾液がみるみる湧いてくる。
「凪さん特製の辛口カレー?」
「正解」
「やった!」
吉野凪とその一人息子である吉野順平とは、わたしが生まれたときから深い親交がある。凪さんが東京の実家、つまりこの一軒家に戻る数年前までは、ほとんど毎日顔を合わせていた。凪さんはわたしを実の娘のように可愛がってくれたし、順平とは双子の姉弟のように育ってきた。
会う頻度がめっきり減った今でも、ふたりは変わらず、わたしの大切な家族だ。
「新しい彼氏できたって?」
にやにやした凪さんが二本目の缶ビールをつかんだ。
「しかも東京に転校してきたのは、その彼氏と一緒にいたいからなんでしょ?」
「うん」
「転校って。また別れるのにバカだろ」
カレーを口いっぱいに頬張ったまま、首を真横にひねった。呆れ返った声の主を強くにらみつける。順平はカレーをスプーンですくいながら、どうでもよさそうに言葉を継いだ。
「どうせ年末には別れたって電話してくるよ」
「妙にリアルだからやめて……」
肩を落としてつぶやくと、凪さんが突然笑いだした。酔いが回ってきたのだろう。わたしのことを笑っているのかと思いきや、凪さんの視線は順平に転じている。
「順平振られたわねぇ。可哀想に」
「に彼氏できるたびに言ってるだろ、酔っぱらい」
「絶対と結婚するっ!ってみんなに言いふらしてたのにねぇ」
「はあ?!いつの話だよ!」
声を荒げた順平に向かって、わたしは真面目くさった調子で告げた。
「三十路になってもお互い一人だったら、そのときは家族になろうね」
「あーはいはい。そんなこと言ってだけ先に結婚するんだよ。わかってるから」
「そのときは呼ぶからご祝儀弾んでよ。できれば百万くらいポンと」
「うわ……絶対行きたくない……」
それからしばらく凪さんはひとりで大笑いを続けて、わたしと順平を置いてけぼりにした。
適当に話をあわせていたら、ぷつっと電池が切れたみたいに眠りに落ちてしまった。いつものことだ。順平がテーブルに突っ伏した凪さんに夏掛けをかけている間に、わたしは食器洗いを済ませた。
空になったアルミ缶を回収していると、ためらったような視線を感じた。
「転校したのって、本当に彼氏のため?」
「違うよ。お母さんから離れたかっただけ」
「おばさんから?」
「別に嫌いとかじゃなくて、離れたほうがお互いうまくいくと思ったから」
「自立ってこと?」
問いかけられて、かぶりを振る。洗ったアルミ缶をゴミ箱に放りこんだ。
「繋がりをもっと希薄にしたほうが、穏やかな気持ちのまま好きでいられるだろうなって。家族って近すぎて、逆にむずかしいよね」
* * *
頼んでいたものが部屋にあるというので、順平の制止を振りきって部屋に押し入った。まるで自分の家のように闊歩しているけれど、この一軒家に足を踏み入れたのは今日が初めてである。間取りは違えど昔となにも変わらない空気が、わたしをひどく安心させているせいだろう。
順平の部屋は取っ散らかっていた。お世辞にも綺麗とは言いがたい部屋を見渡して改めて思うのは、やっぱり棘くんの部屋は異常なほど綺麗だということだ。単純に物が少ないからかもしれないけれど。
「ほら、これだよ」
と言って順平から差しだされたルーズリーフには、映画のタイトルがずらりと並んでいる。表面だけでなく裏面までもすき間なく埋め尽くされており、その数はいったいどれほどのものだろうか。
ジャンルも年代も関係なく、観たほうがいい映画をできるだけたくさん教えてほしい――そうお願いしたのはわたしだ。でも、さすがにここまで書き連ねてくるとは思っていなかった。順平の映画好きを甘く見ていたかもしれない。
目を瞬かせていると、順平がひどい早口で切りだした。
「多くてごめん。なんでもいいって言われると逆に絞りきれなくて。が好きそうなSF映画には印つけてるから、それだけ観てもいいと思うよ」
「ううん、すごく助かる。ありがとう」
ルーズリーフの罫線で整列する文字をしばらく追いかけて、上から四行目あたりでつまずいた。意味不明なタイトルが理解できず、顔をあげる。
「ミミズ人間シリーズ……これ面白いの?」
「スプラッタ映画だから、は好きじゃないかもしれないけど……あ、観るなら2にして」
「わかった」
適当にうなずき視線を戻そうとして、ふいに背の高い本棚が視界に入った。小難しい哲学書だけではなく、DVDやブルーレイのパッケージも並んでいる。
目を滑らせていたとき、背にタイトルが刻まれていない一本があることに気づいた。見るからに怪しげな一本に、思わず手がのびてしまう。
「なにこれ。えっちなやつ?」
「違うから」
切り捨てるような即答に、疑いの種が芽吹く。ますます怪しい。じっとりとねめつければ、「それならもっとうまく隠すよ」と真っ当な答えが返ってきた。それもそうかと納得したけれど、なんとなく気になってケースに目を落とした。
ケースは真っ白で、内容はおろかタイトルすら印刷されていない。不思議に思っていると、順平がぽつっと言った。
「それさ、正月の福袋に入ってたんだよね」
「福袋?」
「そう。中古DVDの詰め合わせ」
中身を見たいという好奇心がうずく。側面のへこんだ部分に指を引っかけたとき、順平が困ったように肩をすくめた。
「それ、開かないよ」
「えっ?」
しかしその言葉とは裏腹に、軽い音とともにケースが開いた。開いたと思いながらディスクを確認しようとして、のどが笛のように小さく鳴った。呼吸ができなくなる。ケースを床に落とした音が遅れて聞こえた。
ケースの中に虫がいる。それも一匹や二匹ではない。無数の小さな白い幼虫が這っている。
たぶん蛆だ。蛆。蛆虫が湧いている。ケースから溢れんばかりの蛆が蠢く光景に、吐き気を伴った怖気が込みあげる。
「え、うそ。開いた?」
驚いた声を漏らす順平がケースを拾いあげたときには、蛆虫は一匹残らず消えてなくなっていた。代わりに黒く染まったディスクが目に入る。
まだ心臓が縮んでいる感じがする。背中に変な汗が浮いている。見間違いだろうかと思っていると、
「いかにも曰くつきだね」
順平の言葉に意識が引っぱられる。先ほどの反応から察するに、ケースは一度も開かなかったのだろう。白いケースに、黒いディスク。雰囲気は充分だった。
わたしは部屋のテレビに視線を滑らせる。
「テレビから怨霊がでてきたりして」
「幽霊なんかいないってずっと言ってなかった?」
「ちょっとだけ信じるようになったの。ほんのちょっとだけ」
「ってことは、見たんだ?」
「見てないよ」
ぼそぼそと答えると、順平は小さく笑った。でもそれ以上問い詰めてくるようなことはなく、記憶をたどるように首をひねった。
「でも、あれってVHSでしょ?」
「VHS?」
「ビデオテープのこと」
「ビデオデッキって残ってるの?」
「今はほとんど絶滅してると思うよ。確か一昨年、生産終了したはずだから」
「怨霊も時代に合わせたのかも」
「だとしたら世知辛いね」
しみじみと言った順平はケースを閉じて、わたしに差しだした。
「が先に観て」
「いいの?」
「開けたのはだし、が観るべきだよ。あ、絶対壊さないでよ。僕も観たいから」
白いケースをじっと見つめる。ずっと“開かなかった”と言うなら、おそらく“曰くつき”の代物であることに間違いないだろう。蛆虫が蠢いた光景が脳裏をよぎる。中身がちょっと気になるのはわたしも同じだ。とはいえ、まずは伊地知さんに報告して、指示を仰ぐほうがいい。
順平から受けとったルーズリーフと白いケースを片手に、大きな足音を立てないよう、ゆっくりと階段を降りていく。
「順平が元気そうでよかった」
「え?」
「ちょっと心配してたからね」
どちらかというと内向的な順平は、この春から不登校になっている。本人の口からはっきり聞いたわけではないけれど、おそらく去年から始まっていたいじめが原因だろう。凪さんは順平に学校へ行くことを強要しなかったし、わたしも順平が元気ならなんでもいいと思っている。
順平はしばらく黙りこむと、囁くように尋ねた。
「今度の彼氏って、どんな奴?」
「おにぎりの具しか語彙がない」
「は?」
その怪訝な顔に噴きだしそうになって、間一髪のところでこらえる。大声をあげれば凪さんが起きてしまうかもしれない。わたしは声のトーンを少しだけ落としながら、にっこりと笑いかける。
「わたしには勿体ないくらいの人だよ」
順平はなにも言わずに笑い返しただけだった。一瞬どこか寂しそうな色が浮かんだように見えたものの、ポンポンと背中を叩かれて意識がそれる。
「もうこんな時間だ。そろそろ帰らないと、彼氏が心配するよ」
「駅まで送ってくれる?」
「はいはい。早く靴はいて」
「お母さんみたい」
「せめてお兄ちゃんにしてよ」
「順平は弟だから」
きっぱりと言い切ると、順平は不満げに眉根をよせた。
* * *
改札口で暇そうに突っ立っている棘くんを見ても、今日はまったく驚かなかった。帰る連絡をしたとき最寄り駅への到着時間まで訊かれたので、きっと迎えにきてくれるつもりだろうと予想はしていたから。
急いで駆け寄ったというのに、険しい顔をした棘くんがひび割れた声を絞りだした。
「おかか」
「え、勝手なことってどういう意味?」
「おかかっ」
憤然とした様子の棘くんに理解が及ばない。怒りを露わにする姿に混乱していると、棘くんが強い言葉を重ねた。
「すじこ」
「なにを連れてきたって、それなんの――あ」
わたしはスクールバッグから白いケースを引っぱりだす。
「もしかして、これのこと?」
棘くんが大きく目を瞠って、こくこくと頭を上下させた。肌を刺すような怒りはすっかり引いている。
「やっぱり危ないものだったんだ。持って帰ってきてよかった」
「……おかか」
「わたしが隠し通すと思ったの?信用されてないね?」
いたずらっぽく笑うと、棘くんは深刻そうな顔で話を進めた。
「こんぶ」
「“呪胎”?……呪胎がケースにくっついてる?」
「しゃけ」
「呪胎って、虎杖くんが死ぬ原因になったっていう?」
「しゃけしゃけ」
「どんな見た目なの?」
呪胎を見たことがないので、うまく想像ができない。首をかしげていたら、棘くんが指で空中に円を描いてくれた。くるくるとした動きから大きさを読みとる。寸法は親指の腹ほどだろうか。
「いくら」
「魚卵?」
「すじこ」
「魚卵でいいの?」
「明太子」
「魚卵じゃないの?」
まったく意味を結ばない“おにぎりの具”ばかり答えるせいで、正解にたどりつけない。いくらもすじこも明太子も魚卵だ。ぷちぷちの卵がケースに無数にこびりついている想像をして気持ち悪くなっていたら、笑いを噛み殺した様子で棘くんが言った。
「ツナ」
「カエルの卵」
虫の卵なら意味があったのに。それなら魚の卵と大差ないなと思いつつ、スマホを取りだして通話画面に切り替える。すぐに通話に応じてくれた伊地知さんに説明すると、その声は徐々に重くなっていった。
「呪胎、ですか」
「はい。変態すれば等級はおそらく――」
棘くんに視線を転じると、「明太子」という言葉が返ってきた。骨張った指は数字の二を示している。
「二級以上は確実だそうです。数が多いので厄介かもしれません」
「わかりました。このまま放っておくほうが危険でしょう」
そこで一度言葉が切れた。なにかを思案するような間が空いたあと、
「この場で任務として依頼するにあたり、ひとつだけ条件があります」
「はい」
「狗巻準一級術師とともに請け負って頂けますか?」
わたしが沈黙すると、伊地知さんが嘆息とともに続けた。
「あなたの言いたいことはわかります。しかし虎杖くんの二の舞を防ぐためです。特級に成る可能性がゼロではない以上、万全を期する必要があります。この意味がわかりますね?」
「はい。それで構いません」
「理解が早くて助かります。では特級術師(仮)。これよりあなたに任務を依頼します。当該呪胎の速やかな殺害をお願いできますか?」
「わかりました」
「月並みな言葉ですが、期待していますよ。一度狗巻くんに代わって頂けませんか?」
棘くんが伊地知さんと話しているのを横目に、ケースをぶんぶんと振ってみた。気づいた棘くんが血相を変えて、鋭い声音を飛ばしてくる。
「おかかっ!」
「孵った?」
「……おかか」
かぶりを振った棘くんが会話に戻ったのを確認しつつ、その場でケースを開いてみる。ぱかっという軽い音に向けられた伏し目がちの瞳と視線をからめ、小さく首をかしげる。
「孵った?」
「おかか」
「ってことは、DVDを観れば孵るのかも。夏にピッタリのホラーだね」
俄然興味が湧いてきた。呆れ顔の棘くんからスマホを受けとって、伊地知さんに問いかけた。
「このままDVDを観たいんですけど、高専の敷地内で観るのはまずいですか?」
「……それは観れば変態する可能性がある、ということで間違いありませんね?」
話が早い。沈黙を返すと、深いため息が聞こえた。
「その場で祓わない理由はなんですか?」
「借りた物なんです。壊すわけにはいかなくて」
「観たいだけではないでしょうね?」
念を押すような問いに「当たり前ですよ」と即答する。観たいだけに決まっているではないか。口が裂けても言えないけれど。
「それならあの地下室を使用してください。覚えていますか?さんが拘束されていた部屋です。あの場所なら呪いを閉じこめられます」
「刺し違えてでも殺せってことですか?」
「そんな意味ではありませんよ。危ないと思ったら閉じこめてくださいという意味です。視聴機器はノートパソコンがいいでしょう。今すぐ用意しますから、もう少し待ってください」
「無理を言ってすみません。ありがとうございます」
スマホを片付けながら、こちらを見つめる棘くんに笑いかけた。
「一緒に観よっか。とびっきり怖いホラー映画」