成駒

 そこは異様な空間だった。どれだけ目を凝らそうとも天井や壁などは見当たらず、光すら呑みこむような深い闇ばかりが広がっている。その中央だけはぼんやりと杏子色に照らされているにもかかわらず、およそ光源と呼べるものが存在しているようには見えなかった。

 いたる場所に死んだ生き物の骨が山積しており、重く淀んだ空気が充満している。その白骨の山のそばには、なにを溶かしたのか想像もつかない濃色の湖が静かに横たわる。

 濁った汚水の上に、年代物のチェステーブルが浮かんでいる。物理法則を完全に無視したそれを挟むように浮かびあがるのは、テーブルと揃いのデザインになった対のイスだ。

 この“生得領域”の主に招かれた客人は、イスから軽く背中を離すように、その細い上半身を前のめりにさせた。

「チェスにも将棋同様、“成駒”が存在するのをご存知でしょうか?」

 接戦を繰り広げる白と黒の騎士団から、三白眼の青年が黒の“歩兵”を優しくつまみあげた。相手陣地の最終列までそれを進ませると、穏やかな口調で続ける。

「では、“歩兵”を“女王”へ」

 宣言とともに、黒の“歩兵”がたちまち黒の“女王”へと形を変える。

 その様子を見つめていた着物姿の少年は頬杖をついて、呆れたように深いため息を吐きだした。顔面に刻まれた刺青がわずかにゆがむ。

「お前はまたそうやって俺の知らんルールを持ちだすだろう。ルールは前もって伝えておくのが筋だと何度言えばわかる?」
「おや、これは大変失礼しました。しかしこのゲームはチュートリアル――そう最初にお伝えしたはずですが。宿儺様ともあろう御方が、もうお忘れになってしまったと?ご自分のことを棚にあげるのが相変わらずお上手ですね」

 かつての主にしゃあしゃあと言葉を返して、青年は火のついた細い葉巻をくわえた。白い煙をくゆらせながら、チェス盤の行く末を見守る姿勢に入る。

 少年は青年のあからさまな嫌味に対して、怒りを覚えた様子はなさそうだった。むしろどこか懐かしげな光をその目に灯すと、確認するように青年の顔を見つめる。

「相手の最終列に達した歩兵のみが“成る”わけか」
「ええ、その通りです」
「当代の“無科”――のようだな」

 唇を弦月の形に吊りあげながら、先ほど女王になったばかりの黒い駒に目を落とす。

「ついに歩兵は成った。謀略をめぐらせ、果敢に攻めこみ、敵の懐にまで到達した。歩兵は女王へ――最強の駒へと変貌を遂げた。その力が受け入れられているかどうかは別として」

 少年が眼前に視線を滑らせると、わざとらしく青年が肩をすくめた。薄い唇から白い煙が細く立ちのぼる。

「確かにチェスにおいて“女王”は最強の駒ですが、決して無敵というわけではありません。どれだけ優秀な役駒だろうと、“王”を屠られればそこで“詰み”ですからね」
「だからこそ己を犠牲にしてでも王を守る、か」

 自らの言葉に嫌悪感を示すように、少年が天を仰いだ。

「恋だの愛だの下らんものに左右されおって」
「存外悪いものでもないですよ。ただそのさじ加減が難しいだけで。適量ならば幸福となり、しかし度を越せば致死量の毒となる……厄介な呪いが生まれるのもうなずけます」
「今のにとっては毒だ」

 迷いなく断言した少年を見つめて、青年は意味ありげに眉をあげる。

「甘美な毒に溺れるのもまた一興。そうして人間が無駄に足掻くからこそ、この世に呪いが産まれ堕ちるのですよ」

と含み笑いを浮かべれば、応えるように少年が毒々しい嗤笑を返した。白の“城壁”を手に取った少年を見据えつつ、葉巻からゆっくりと唇を外す。

「宿儺様がそこまでを気にかけているとは」
は俺の期待に応えた。それ相応の目はかけてやらんとな」
「俺と同じ呪いをかけると?」
「口をだすつもりか?」
「いいえ、滅相もない。しかしならば、きっと俺の予想を超える方法を見つけるだろうと思っていたものですから。宿儺様の想像すら凌駕する可能性も、まだ充分にあるかと」

 少年は沈黙すると、黒の“騎士”を弾いた。

「“王手”。――そうだな。そのほうが愉快なものを見られるか」
「ええ、きっと」

 柔らかく響いた声に少年が眉をひそめる。機嫌のよさを感じさせる響きに違和感を覚えたそのとき、青年が黒の“女王”で白の“城壁”を沈めていた。

 数手先に待ち受ける敗北に気づいた少年の顔が大きくゆがむ。

「おい待て。今の手を戻せ。違う手にしろ」
「またですか。先ほどからそればかりではないですか。宿儺様ともあろう御方がみっともない。子どもじみた真似はそろそろやめて頂きたいものですよ」
「ルールを聞いたのはついさっきだぞ?チュートリアルならば俺に華を持たせるくらいのことはせんか」
「俺が宿儺様に勝利できるのはボードゲームくらいですからね。だれが手加減なんてしますか」

 付け足された言葉とは裏腹に、青年は恭しい手つきで“女王”の位置を戻した。よみがえった“城壁”を目にとめて、少年が面倒臭そうに首を振った。

「千年も経ったというのに、まだ性根がひん曲がっておるのか。ここで綺麗さっぱり矯正してやろうか?」
「そのお言葉、そっくりそのままお返ししても?目の寄るところへ玉も寄ると言うでしょう?」

 青年は葉巻を片手に、今度は黒の“歩兵”をつまみあげる。今や優先順位が遥かに落ちたとはいえ、かつての主であることに変わりはない。

 数手先の勝利から十数手先の勝利に戦略を切り替えていると、その思考をさえぎるように、少年が口を尖らせながら言った。

「俺はお前のようなヘマはせん。たかが小娘――歩兵ごときに喰われおって。わざわざ忠告までしてやったというのに」
「生憎ですが、俺はなにも後悔していませんよ」
「お前がに与した目的は?」

 チェス盤を舐めていた青年の視線がとまった。

「ペナルティを甘んじて受け入れ、あまつさえ己の力に制限までかけた。を追いつめる結果になるとわかっていながら。その目的はなんだ?」
「残念ながら、宿儺様が考えているほど愉快な理由ではありません……ですが、そうですね。宿儺様がチェスで俺に勝ったらお答えする、ということでいかがでしょう?」

 その提案に少年がわずかな苛立ちをにじませる。少年は低い声を漏らした。

「お前に惨敗している俺に勝てと?」
「宿儺様がお望みでしたら、囲碁か将棋にでも切り替えますが」
「これで構わん。そっちのほうが勝てる気がせんわ」

 少年はとっくに気づいていた。囲碁や将棋に興じているときよりも、青年の思考時間が遥かに長いことに。西洋の盤上遊戯であるチェスが日本に伝わったのは、おそらくつい最近のことなのだろう。

 それでも不利ということに変わりはない。すべてを圧倒的な力で捻じ伏せてきた少年にとって、青年が好むようなちまちまとした頭脳戦は七面倒だった。

 黒の“歩兵”が前進し、白の“王”との間合いを詰める。少年はイスに深く腰かけると、思案にふけりながら頭に浮かんだ疑問を口にした。

「圧倒的に不利でも勝ちたいとき、お前ならどうする?」
「勝てない戦はしたくないというのが本音ですが。損失と引き換えの勝利にこだわるなど俺には理解しかねますね」
「馬鹿者。そういう話をしておるのではない」

 叱責された青年はばつが悪そうに葉巻をくわえた。なにも映らない漆黒の天井にしばらく視線を漂わせて、

「宿儺様の言うような状況に陥ったと仮定するなら、きっと今のと同じことをするでしょう。たとえその結果が引き分けでも構わない。どれだけの辛酸を嘗めようと、俺が取るだろう行動はたったひとつです」

 そこで言葉を切ると、青年は穏やかな笑みをたたえた。

「ゲームから降りなければいいんですよ。“王”さえ奪われなければ、敗北はありませんからね」



* * *




 小さな取りだしボタンを押すと、低く唸るような音がした。数秒も経たないうちに、DVDプレーヤーが丸いディスクを吐きだす。しばらく空になっていたパッケージに、熱を孕んだままのディスクをパチッとはめこんだ。

「アニメ映画だからどんな話かと思ったら、すっげーSFだったな」

 虎杖くんの言葉に誘われるように、重みを増したパッケージに目を落とす。他人の夢を共有する装置をめぐる不思議な物語を思い返すだけで、口端が勝手にゆるむ感じがした。

「こういう話すごく好きだよ。もともとSFは大好きだけど、これは格別だったかも。まだ頭が痺れてふわふわしてる」
「わかる。世界観にぶん殴られた」

 うなずく虎杖くんの太ももの間では、黒い人形が眠りこけている。クマのような風貌のそれは、校長先生お手製の“呪骸”だ。呪骸とは、その身に呪いを宿した完全自立型の人形のことである。いつでもどこでも呪骸を縫っている校長先生は、傀儡呪術学と呼ばれる分野の第一人者らしく、だれも肩を並べることができないほどの卓越した技術を持ち合わせているらしい。

 虎杖くんが触れているのは訓練用の呪骸だ。常に一定の呪力を流しこまなければ容赦なく殴打してくるという、なんとも危険な代物だった。

 どんな感情下でも呪力を一定に保つ訓練として、虎杖くんはここのところずっと映画を観ているそうだ。地下の隠れ処に持ちこまれている映画のジャンルは多岐に渡るし、制作された年代もさまざまだった。古いモノクロ映画から最新のCG映画まで、無造作に選んだとしか思えないラインナップである。

 わたしがここに呼ばれたのは、訓練のレベルをあげるためだった。五条先生に課された役目はいたって簡単で、映画を観ている虎杖くんにひたすら話しかけて邪魔をする、たったそれだけだ。多くの映画好きからひんしゅくを買うに違いない迷惑行為だけれど、それが役目だというからには仕方あるまい。

 とはいえ、己の役割さえ忘れて、夢中になって観てしまった。色鮮やかなパッケージを裏返す。どうやら同名の小説が原作であるらしい。

 読んでみようかなと思いつつ、いつまでもパッケージに目を奪われていると、虎杖くんが「先輩はさ!」と話を切りだした。ゆるやかに視線を滑らせれば、虎杖くんのあどけない表情が視界に入る。

「この映画みたいに、もしも他人の夢の中に入れるとしたらどうする?こいつの夢を覗きてぇ!とかある?先輩なら、やっぱり彼氏の夢とか?」

 わたしは曖昧に笑った。相手が虎杖くんではなかったら、きっとうなずいていただろう。根っからの善人であり境遇の似通った虎杖くんだからこそ、わたしの唇は静かに本音を紡ぎだす。

「だれでもいいから、わたしの夢に入ってほしいな」
「先輩自身の?」

 会話に前のめりになった虎杖くんに、小さくうなずいて見せる。言葉を待つような沈黙を割いて、淡々と付け加える。

「悪夢を終わらせてほしくて」

 すると虎杖くんは緊張したような面持ちで問いを重ねた。

「どんな悪夢か訊いてもいい?」
「呪術師に向いてないって言われる夢」

 声は震えなかったけれど、代わりに指先が震えていた。虎杖くんがソファから立ちあがる。呪骸を抱えたままわたしのすぐそばでひざを折ると、不安げな瞳でこちらを覗きこんできた。

「夢は記憶の整理だって言うじゃん。だれかに言われたとか?」
「毎日言われてるかも」
「だれに?」
「内緒」

 口端を柔和に引きあげると、虎杖くんが眉をひそめた。震える指先を手のひらに巻きこんで、ぎゅっと固い拳を作る。

「悪夢を見るのは、わたしの心が弱いからだと思う。もっと強くなればいいだけだってわかってるけど、なかなかうまくいかなくて」

 歯痒さをにじませたそのとき、無機質な着信音が響き渡った。虎杖くんとわたしの視線が音の在り処をたどる。ローテーブルの上に置いているわたしのスマホが震えていた。画面に表示された名前が、わたしの眉間からしわを奪い去る。

 応答ボタンを押すと、顔を強張らせた虎杖くんが唇を横一文字に結んだ。

「こんぶ」
「今?塾にいるよ。うん、勉強中だけど――」
「うわっ!」

 悲鳴じみた声が鼓膜を叩いた。見れば、虎杖くんが呪骸に強烈な右ストレートを決められている。わたしが棘くんに嘘をついたことに動揺したのだろう。痛そうだなと思いながら、「高菜」と心配そうな問いに答える。

「ううん、大丈夫。友だちが飲み物こぼしちゃって……ごめんね。どうしたの?」
「すじこ」
「あ、基礎連今日だったんだ!ごめん、すっかり忘れてた」
「おかか」
「ううん、真希ちゃんとパンダくんにはわたしから連絡しておくね。教えてくれてありがとう。じゃあね」

 そそくさと通話を切ると、真っ赤に腫れあがった虎杖くんの頬を確認する。訓練とはいえ、これは痛そうだ。早く冷やしたほうがいいような気がする。すぐに立ちあがると、こちらを見あげた虎杖くんが首をかしげた。

「ねぇ、ウソついていいの?」
「本当のこと言っていいの?」
「多分ダメ」
「でしょ?」

 冷水を含ませたタオルを手渡したあと、次の映画を選ぶために机の上へと目を滑らせた。DVDのパッケージを順番に手にとりながら、純粋な疑問を口にする。

「どうしてDVDなんだろうね」
「どういう意味?」
「ネットで観たほうが安いのに。定額じゃん」
「自分の金じゃねぇからどうでもいいんだろ」

 どう考えても経費の無駄だ。DVDを眺めつつ、思い浮かんだ可能性を投げかける。

「ここでネットを使えば居場所がバレるから?」
「考えすぎじゃねぇ?そんな凄腕のハッカーみたいな奴、こんなところにいると思う?」
「そこまで情報社会に適応してないとは思いたくないけど――あ、次これが観たい!」

 首が外れそうな勢いで振り返れば、腫れた頬をタオルを冷やしている虎杖くんが肩をすくめた。

「ごめん。もうそれ観た」

 だからといってあきらめるわけがない。DVDのパッケージを突きだしながら、わたしは強い口調で提案する。

「もう一回観よう!どうしても!」
「え、まあ別にいいけど……なんでそんなに観たいわけ?」
「このシリーズ、すごく好きなんだよね」

 パッケージを目でなぞる。天才物理学者が数々の超常現象を科学の力で解明し、事件を解決に導くという有名なシリーズの映画版だった。わたしが手にしているのはその第二弾で、夏に観るにはピッタリの内容だろう。

「だから何回でも観たいの。物理に興味を持ったのは、このシリーズのおかげだし」
「そうなんだ」
「その子にいっぱい殴られたでしょ?感動するところいっぱいあるから」
「いや、そこまででは……」

 勢いに押された虎杖くんが、申し訳なさげに口ごもる。目を瞬かせるわたしをフォローするように、慌てた様子で言葉を継いだ。

「五条先生が用意した映画だから、変に身構えちゃってさ。あ、もちろんその映画だけじゃなくて。ここに置いてる映画、全部そういう気持ちで観てるんだ。最後にどんでん返しがあるんだろうなとか、感情を揺さぶってくるんだろうなとか……」

 わたしは首をひねった。

「訓練になってる?」
「そこなんだよなー……だから先輩が用意してくれない?」
「えっ、わたしが?どうして?」
「なんかフツーにいい映画選んでくれそうじゃん。しかも俺の趣味じゃねぇような映画をさ」

 しばらく沈思したものの、歯を見せて笑う虎杖くんの期待に応えることを選んだ。パッケージを開きつつ、おすすめの映画かあと思考をめぐらせる。映画にはそれほど詳しくないけれど、だれかアドバイスをくれる人に訊けばいいだろう。わたしの身近に映画好きがいただろうか。

 ぱっちりとした黒い瞳が脳裏をよぎる。丸いディスクをDVDプレーヤーにセットすると、笑顔で虎杖くんを振り返った。

「ちょっとだけ時間もらってもいい?」