大人

・依頼受付日時
  7月○○日
・依頼人名
  吉野 順平
・依頼人連絡先
  080-××××-△△△△
・依頼内容
  DVDに巣食う×××の確認
「こんな時間に呼びだしですか、さん」

 その建物から一歩外にでた途端、硬く冷たい声がした。凍てついた鋼鉄に似た声は、生ぬるい夏の空気とはどこかうまく噛み合わない。

 声の主は白みはじめた空に冷ややかな視線を送って、

「老人は早起きで困りますね」
「わたしたちもいつかそうなるんですよ?」

 皮肉げに響いた声にそう返すと、一級術師である七海さんは小さく肩をすくめた。表情のとぼしい顔をこちらに向けて、短い疑問を投げかける。

「また小言を?」
「小言だなんて。ちょっと注意されただけです」
「差し支えなければ、内容を訊いても?」

 問いを重ねられたことに心配の色を感じとる。とはいえ、表情に大きな変化はない。素直に答えるか一瞬迷ったけれど、ここで黙りこむほうが余計に心配をかけるような気がした。

「昨日任務で立ち入った中学校の花壇を、派手に荒らしてしまって」

 そこでやっと七海さんの表情が変わった。眉間に深いしわが刻まれて、ため息をつくようにつぶやく。

「……そんなことで」
「己が呼びだした呪いの“しつけ”もできないのか、と。その通りなのでなにも言えないんですけど」
「伏黒君が校舎を壊したときは、確かお咎めなしでしたよね?」

 わたしは苦笑いを浮かべた。

「そんなの当たり前です。血の価値が違う。“禪院”の伏黒くんは宝でも、“無科”のわたしはゴミです。待遇に差があっても文句は言えないですよ」
「……処罰は?」
「修理費を全額、給料から天引きされるそうです。つい先日もやらかしたので、本当に気をつけないと」
「そのときはなにを?」
「病院の窓を割っちゃって」

 すると七海さんは眉間に指を押し当てた。凍りついていたはずの声音に、少量の動揺が混ざる。

「そこまで弁償させるなど聞いたことがありませんが。ましてや学生の術師に」

 あまり心配をされたくなくて、わざとらしく笑ってみせた。

「仕方ないですよ。もう後ろ盾がなくなってしまいましたから」
「やり返される心配がない、ですか。わかりやすいですね」
「そのほうが扱いやすくていいです」

 きっぱりと告げると、七海さんは納得したようにうなずいた。それから左手首につけている腕時計に目を落とす。七海さんも呼びだしを受けているのだろう。とはいえ、わたしのように叱られるためではないだろうけれど。

 七海さんの脇を通りすぎようとしたとき、どこか気遣いの感じられる声音が耳に届いた。

「今から任務へ?」
「いえ、その前に食堂へ」
「朝食ですか」
「残念、ハズレです。お弁当を作るんですよ」
「お弁当?」

 表情の少ない顔を見あげると、言葉を紡ぐ前に勝手に笑みがこぼれた。黒いランチバッグをうれしそうに受けとる姿が、ふっと脳裏をよぎったせいで。

「棘くんが楽しみに待ってるので」



* * *




 いつものようになんとか仕事を終えて、近くに停車していた黒い普通車の扉を開いた。後部座席に乗りこむと、運転席に座る新田さんがこちらを振り返る。

 スポーツドリンクの入ったペットボトルを差しだして、人好きのする明るい笑みを浮かべた。

「お疲れ様っス。ちょうど買ってきたばっかなんで、超冷たいっスよ」
「お疲れ様です。ありがとうございます」
「まだ七月なのにこの暑さ、なめてるとしか思えないっスねぇ。八月なんてきっともう生きてられないっスよ。脱水にならないよう、しっかり飲んでほしいっス」
「はい」

 笑い返したあと、ペットボトルの蓋を開けた。車内に響くエンジン音が少しだけ大きくなる。「それじゃあ帰るっスよー」という間のびした声とともに、車はゆっくりと国道を走りだした。

 冷たいスポーツドリンクで水分補給をしながら、バックミラー越しに新田さんを見つめる。新田さんはスムーズに車線変更をすると、高速道路を目指して直進を続けた。

 呪術高専の補助監督を勤める新田さんとは、最近一緒に仕事をする機会が増えてきた。呪術師のサポート役を担う補助監督は大勢いるけれど、芸能人をバックアップするマネージャーのように、呪術師に対して補助監督が決まっているわけではない。任務の内容や呪いの発生した場所、呪いの強さなど、その時々によって補助監督は変わるのだ。

 先月中旬から下旬にかけて、わたしは過労死しそうなほど仕事をこなした。仕事量に比例するように、顔を合わせた補助監督も相当な数にのぼる。日帰りで関西、特に京都にも足を運んでいたから、呪術高専に勤める半数以上の補助監督と顔見知りになったといっても過言ではないだろう。

 その中でも、新田さんとは妙に馬が合った。ざっくばらんな人柄がとても好きだし、新田さんもわたしを“さん”ではなく“ちゃん”と呼んで可愛がってくれる。新田さんとの仕事は、わたしの楽しみのひとつになっていた。

「やっと仕事も減ってきたっスね」
「そうですね。自由時間も増えてきました」
「って言っても、お勉強優先なんスよね?カレシとデートできてるんスか?」
「全然できてないんですよ。棘くん拗ねてます」
「うわーカワイソー」

 ちっとも心がこもっていない台詞に噴きだしていると、新田さんはしみじみと言った。

「こう言っちゃアレなんスけど、ちゃんが弱体化してよかったっスよ。ああも領域の範囲が広いと、避難誘導も根回しもけっこう大変で」
「本当にすみませんでした」
「いやいや。最近のちゃんとの仕事は気楽で好きっス。カッコカリとはいえ、やっぱ“特級”は安心感が違うっスから」
「そうでしょうか?」
「そうっスよ」
「……それならよかったです」

 呪いには、強さを示す等級が存在する。上から特級、一級、準一級、二級、準二級、三級、四級の順だ。よほどのことがない限り、呪いと同等級の術師が任務に当たる決まりになっている。

 わたしの等級は“特級(仮)”だ。与えられる仕事は特級呪霊相手の仕事も含むけれど、保有する権限は一級術師相当という、なんとも微妙な立場である。

 五条先生曰く「をさっさと殉職させたいけど、特級並みの権限は与えたくない上層部からの嫌がらせ」とのことらしい。残念ながら、上層部の目論見はまだ現実になっていないけれど。

 この等級はわたしに対する評価ではなく、イザナミさんに対する評価だ。仮に“”という一個人に等級を与えられるなら、せいぜい四級がいいところだろう。いや待てよ。呪術師を名乗る資格すら与えられない可能性のほうが、ずっと高いような気もする。

 もはや無能だなと思っていたら、新田さんが楽しそうに声を弾ませた。

「もうすぐ夏休みじゃないっスか。海にプールに花火大会、カップルのテンションぶちあげな夏のイベント目白押しっス!ちゃん、大好きなカレシとの夏の予定は?」
「夏休みは夏期講習があるので、毎日塾に通うつもりです」
「いやマジで可哀想っスね狗巻君!」



* * *




 新田さんは呪術高専のそばに車を停車させると、身を乗りだすようにこちらを振り向いた。いきなりのことに、ちょっとびっくりする。スクールバッグを引きよせていた手をとめ、新田さんの真剣な顔を見つめ返した。

ちゃんに言っておきたいことが――」

 コーラルピンクの唇が開かれたそのとき、コンコンと運転席の窓を叩く音が聞こえた。ふたりでそちらを顔を向ければ、見覚えのある白髪の男が窓越しに確認できた。

「うげっ」とカエルが潰れたような低音が、新田さんの口からこぼれ落ちる。ピッタリと閉じられていた窓が音もなくおりていく。熱気を含んだぬるい空気が、一瞬で車内の温度を上昇させた。

「五条さんじゃないっスか。どうしたんスか?」
「ねえ明、今僕のこと見て“うげっ”って言わなかった?」
「気のせいだと思いますよ」

 ぎこちなく笑う新田さんをじっくり見つめて、五条先生は「そう」とだけ言った。飄々とした空気をまとったまま、今度は別の疑問を口にする。

「今日の担当って明だったの?」
「なんか文句でも?」
「いや、むしろ感謝してるくらいだよ。今のと仕事できる奴なんて限られてるでしょ?出世に興味がないか、もしくは早死にしたいか。あとは単なる物好き。このどれかだからさ」
「そういう言い方はよくないと思うっス。しかも本人の目の前で」
「明はどれなの?」
「単なる物好きっスよ」
「それは最高だ」

 新田さんの言葉に胸を詰まらせていたら、後部座席の扉がゆっくりと開いた。五条先生がこちらを覗きこんで、まるでエスコートでもするかのように、恭しく手を差しのべる。そこでやっと五条先生が待っていたのはわたしだと気づいた。

 スクールバッグをつかんで、はたと思いだす。前を向いている新田さんに話しかけた。

「新田さん、さっき言いかけたことって」
「あー……たいしたことじゃないっス」

と言うと、首をひねるようにして、いたずらっぽい視線をくれた。

「そろそろ構ってあげないと、なにされるかわかんないっスよ?」
「え?」
「大好きなカレシのことっス。学生は遊ぶのも仕事っスから」
「明にしてはいいこと言うね」

 同意した五条先生に手をとられ、車から引きずりおろされる。さんさんとした夏の日差しが容赦なく肌に突き刺さって、思わず顔をしかめた。長時間日光を受けた地面からの熱気で、革のローファーが柔らかくなる感じがする。

 別れの挨拶をかわす間もなく、黒い普通車は走り去ってしまった。季節感のない全身黒ずくめの五条先生に目をやる。見ているだけで汗が噴きだしそうだ。もう少し涼しい格好をしてくれないだろうか。

 けれども当の本人はいたって平気そうな顔で、ボトムスのポケットに手を突っこんだ。

「ねぇ。棘をたっぷり構ってあげるためにも、これ、欲しくない?」

 もったいぶるように取りだしたのは、二枚の外泊許可証だった。

 驚きが込みあげるより、そのにやついた顔に呆れるほうが早かった。どうやら先日の一件で味をしめたらしい。あんなに喜ぶんじゃなかったと思いながらも、細長い指につままれた紙切れからなかなか視線が外れない。

 五条先生が外泊許可証を左右に揺り動かすと、わたしの視界も無意識に揺らめいた。

「ほらーちゃーん。だーいすきな外泊許可証だよー」
「……うう」
「ほらほらほら。ちゃんはーこれが大好きだよねー?」
「うううう」

 唸ることしかできない自分がひどく情けない。なにせ、今のわたしには逆立ちしても手に入れることのできない代物だ。のどから手がでるほど欲しい事実に頭を抱えたくなる。

「追加でもう一泊。どう?」
「……なにが条件ですか」

 目をそらして問いかけると、くつくつと五条先生は笑い声を漏らした。

の素直なところ、僕はすごく好きだよ」
「扱いやすくて?」
「そういうこと」

 大きく肩を落としつつ、呪術高専へと歩きだした五条先生のうしろをついていく。スクールバッグから日傘を取りだしていたら、五条先生が不満げに言った。

「七海が珍しく心配してたよ。僕に連絡までくれちゃってさ。老いぼれ連中に嫌がらせされてるのは知ってたけど、さすがに弁償の話までは知らなかったな。なんでもっと早く言わないの?しかも七海に言って僕には言わないなんてあんまりだろ。僕にはどうにもできないと思った?」
「それは……」

 口ごもると、五条先生は淡々と答えた。

「どうにかするのが僕の仕事だ。生徒を守るのが教師の務めだし、それには僕をだれだかわかってないんじゃない?イケメン最強呪術師五条悟だよ?不可能なんてないんだけどな」
「迷惑をかけたくなくて」
「それは迷惑とは違うでしょ」
「でも」
「だから棘のことも頼れないんだよ」

 前触れもなく棘くんを引き合いにだされて、たちまち言葉に詰まる。言いたいことはたくさんあったけれど、今の五条先生に口で勝てるような気はしなかった。乾いた唇を一文字に結ぶ。

「好きな女がここまで矢面に立たされてることを知らない棘も棘だけどね。どうでもいい女のウソは見抜けなくても、好きな女のウソくらいちゃんと見抜けよ」

 五条先生の語気は強い。わたしが大人しく規定側の言いなりになっていることが、よほど気に食わないのだろう。相当怒っているらしい五条先生と少しだけ距離をとりながら、呪術高専の門をくぐった。

 こうなることは最初からわかっていたし、それも含めてイザナミさんは忠告してくれた。考え直せと助言してくれた。それでも呪術師になることを選択したのはわたしだ。たとえ愚かな選択だとわかっていても。

 縦に長い背中を視界に入れて、黙々と歩き続ける。沈黙していたわたしが口を割ったのは、五条先生が古い蔵の扉を開けたときだった。

「こんなところに匿ってるんですか?」
「木を隠すなら森の中って言うだろ?ここには宿儺に関係した呪物が数多く保管されてる。気配を隠すにはちょうどいいのさ。それに上の連中も高専の敷地内で匿ってるなんて夢にも思わないだろうしね」

 いつもの軽薄な声音に安堵する。蔵の奥まで歩を進めると、なにもない場所で五条先生が立ちどまる。その場で膝を折って、古びた木の床に人差し指をトンと突くと、呪文のような言葉をブツブツつぶやいた。

 五条先生が人差し指を外して立ちあがる。前に右足を一歩踏みだすと、その足は木の床にめりこむように消えてしまった。ふくらはぎまで消えた右足をポカンと見つめる。

「目くらましの術だよ。さ、行こう」

 不安を拭う優しげな声に背中を押され、おそるおそる地下へ続く階段を降りた。木製の階段は一段降りるたびに軋む音が小さく響いて、ちょっと恐怖をあおられる。

 地下は年季を感じさせるレンガ造りで、想像よりも遥かに広い部屋だった。窮屈そうな印象はない。天井から吊りさがった剥きだしの電球がいくつか消えているせいか、視界はやや暗くて不明瞭だ。壁沿いに置かれた大きな液晶テレビの光がやけにまぶしく感じられる。

 スプラッター映画を映しだすテレビの前、安っぽい合皮のふたり用のソファ。そこに深く腰かける後ろ姿に声をあげそうになると、すかさず五条先生がかぶりを振った。企みを含んだ笑みに小さくうなずきながら、派手に脱色した髪に視線を送る。映画に夢中なのか、こちらにはまったく気づいていないらしい。

 五条先生が大きく息を吸いこんだ。

「訓練をレベルアップさせるため、助っ人をお呼びしました!」
「呼んでいただきました!」

 ふたりで陽気に声を張りあげると、

「えっ、先輩っ!?」

 生き返った虎杖くんが、驚愕に目を瞠って振り返った。