勝敗

「――それで、足音はしなくなったんですか?」

 黒いジャージ姿の伏黒くんの問いに、わたしはうなずいた。

「うん。退去の話もなくなったって」
「よかったですね」
「でも、そのあと大きな問題が起こってね」
「え、まさか他の呪いが」
「エレベーターでキスしてたのがバレちゃって」

と真面目くさった顔でさえぎれば、「くっだらねぇ……」と伏黒くんは大きなため息をついた。

 話への興味が失せたのだろう、すっと通った鼻先をまっすぐ前に向けて、パンダくんにしごかれている野薔薇ちゃんを視界に入れる。野薔薇ちゃんはパンダくんに放り投げられて、機嫌の悪い猫みたいな悲鳴をあげ続けていた。

 わたしと伏黒くんは、演習場の端で休憩中だ。正午が近づくにつれ、気温はどんどんあがっている。うるさい蝉の鳴き声が、体感温度をあげているような気がする。“狗巻”の刺繍が入った体操服に、にじんだ汗が染みこんでいく。

 基礎体力作りも含まれる訓練に参加すると決めたのはいいものの、持っている訓練着は一着だけだった。わざわざ洗い替えを買うお金がもったいないなと思っていたら、棘くんが中学時代に使っていたという夏の体操服を貸してくれたのだ。

 野薔薇ちゃんのように、訓練着にこだわりがあるわけではない。これ幸いと着ているけれど、真希ちゃんには「バカップル」とドン引きされた。ちょっとどころか、かなりショックだった。わたしにとっては、おさがりを着ているような感覚だったから。

 実家に帰ることがあったら、必ず自分の体操服を持ってこようと心に誓った。

 手をうちわのようにしてパタパタあおぎながら、伏黒くんに目を向ける。もう話を聞いてくれないのかという空気を醸しだすと、なんだかんだ言って優しい後輩は、話の続きを促してくれた。

「……それで?防犯カメラ、まったく気づかなかったんですか?」
「ちっとも頭になくて……あ、棘くんは気づいてたんだって。だからカメラにわたしが映らないようにしてくれてたらしいんだけど」
「独占欲の塊ですもんね、狗巻先輩。そりゃ見せたくないでしょ」
「でもなにしてるかなんてバレるじゃん。友だちにすっごい冷やかされたの。死ぬかと思った、恥ずかしくて」

 ミャコのにやにやした笑いを思いだすだけで、顔から火がでそうだ。熱くなってきた顔を両手で覆うと、伏黒くんがげんなりした声で言った。

「頼みますから、寮をラブホ代わりになんてしないでくださいよ。前にも言いましたけど、俺の部屋、狗巻先輩の真下なんです。でかい物音とか、そこそこ響くんで」

 指のすき間から伏黒くんを見れば、心底いやそうな顔をしている。ムッとする。とても心外だったせいで。

 両手を顔の前でぶんぶん振って、その言葉を否定するように主張してみせる。

「しないよ。伏黒くんにもみんなにも絶対迷惑かけたくないから。っていうか、そもそも一度もしてないし」
「よくそんなわかりやすいウソつけますね」
「本当だってば」

 念を押すみたいに言うと、どこかびっくりした様子の伏黒くんがこちらを見た。

先輩、狗巻先輩の部屋によく遊びにきてますよね?」
「うん」
「毎回ふたりきりですよね?」
「うん」
「なにもしないんですか?」
「ハグもキスもするけど、本当にそれだけだよ。他にはなにもないから」
「うそだろ……」

 掠れた声でつぶやいた伏黒くんは、棘くんに視線を送る。棘くんは放り投げられた野薔薇ちゃんを、その両腕でしっかり受けとめているところだった。

 あのしごき方でなにが鍛えられるんだろうと、ちょっと疑問に思う。パンダくんは近接戦闘の特訓と言っていたけれど、受け身の練習だろうか。だとしたら、とても大変そうだった。目がぐるぐる回りそうだし、胃がひっくり返って気持ち悪くなりそうだ。とにかく頑張れ、野薔薇ちゃん。

「狗巻先輩、どんだけ我慢強いんですか?ちゃんと性欲あります?」
「あると思うよ。我慢してくれてるみたい」
「でも先輩は平気な顔で煽るんでしょ。なんの修行ですかそれ、地獄すぎでしょ。それでも耐える狗巻先輩って菩薩かなにかですか?感覚バグってません?」

 ひどい言われようだ。我慢強い恋人を少しでもフォローしたくて、わたしは笑ってみせた。

「ね。本当に優しいと思う」
「それを本気で優しさだと思ってんなら、今すぐ病院行ってください」
「ちゃんとわかってるよ。でも、ほら、もう見えるわけじゃないから」
「……まさか狗巻先輩を疑ってるんですか?」
「そうじゃなくて」

 慌てて否定すると、伏黒くんが眉間にしわをよせる。余計なことを言われる前に口を開こうとしたとき、

ー!悟が呼んでんぞー!」

 突然耳に飛びこんできた真希ちゃんの声をたどれば、背の高い五条先生の姿が目に入った。五条先生はわたしと目が合うなり、校舎のほうへと歩いていく。もしかすると、ここでは聞かれたくない話なのかもしれない。

「はーい!……ちょっと行ってくるね」
「どうぞ。むしろ早く行ってください。先輩と話しすぎると呪われるんで」

 苦笑を浮かべて立ちあがり、校舎へ足を向ける。訓練の成果はまだ全然でていないけれど、真希ちゃんに教わった息が乱れない呼吸法を繰り返して、足を動かし続けた。

 やっと五条先生に追いつく。校舎一階の曲がり角に背中をあずける五条先生は、額から汗を流すわたしの姿を見つめると、とても楽しそうに笑った。

「僕の負けだ」

 一瞬なんのことかわからなくて、瞬きを繰り返した。それからすぐに、「あ」と声を漏らす。

「それって」
「悠仁が生き返ったよ」

 それは世の理をねじ曲げるほどの力を持った、絶対的な呪いの王のおかげだった。“神様”であるイザナミさんですら、わたしを人間に戻すために相当な量の呪力を使っている。

 だというのに、復活したわけでもない宿儺さんは、いともたやすく虎杖くんの死を覆してみせた。宿儺さんが呪いの王と呼ばれるのは当然だろう。呪いとしての格が違う。

 五条先生はいつもの軽薄な口振りで続ける。

「生きていることを知られるとまずいからね、しばらく匿うことにしたんだ。話し相手が僕だけなんて味気ないし、今度遊びにきてやってよ」
「はい」
「というわけで、先見の明があるにプレゼントだ」

 言いながら、どこからともなく取りだした細長い茶封筒を手渡される。のり付けされていない封筒を傾けると、白い紙がすべり落ちてきた。

 折りたたまれたそれを開いて、ちょっとびっくりする。五条先生の顔と白い紙の間で、視線をいったりきたりさせた。

「約束の外泊許可証だよ」
「一泊分……」
「なに言ってんの。よく見て、ちゃんと二泊分でしょ」

 ふと気づく。“”と書かれた氏名欄の向こうに、うっすらと文字が透けている。同じサイズの用紙がもう一枚、ぴったりとくっついていた。

 氏名欄に記された名前だけが異なっている。そこに記名されていた名前は“狗巻棘”――つまり、棘くんの分も合わせて二泊分ということらしい。

 外泊許可証に目を落としたまま、わたしは喜びに震える声で言う。

「ありがとうございます」
「繁忙期は僕の分まで働いてもらっちゃったからね。のおかげで例年よりずいぶん楽ができたんだ。そのお礼ってことで」
「五条先生、本当にありがとうございます」

 勢いよく頭をさげると、五条先生は戸惑いの声をあげた。

「え、なに?そんなにうれしいの?」
「うれしいです。だって外泊許可の申請、すごく厳しいから。私用での外泊は絶対許してもらえないし」
「上からの監視の目が厳しいは、特にそうだろうね。そんなに喜んでもらえるならよかったよ。それ、僕が高専にいる限りは半永久的に使えるから、使いどきはよく考えて。って言っても、すぐに使うつもりだろうけどさ」

 外泊許可証を封筒にしまいながら、ぽつっと言った。

「あの賭け、冗談だと思ってました」
「ひどいな。僕を誰だと思ってるの?超イケメン最強呪術師の五条悟だよ?可愛い生徒との約束は必ず守るさ。でも、本当にいいの?棘なんかで」

 付け足されたその問いに、肩が大きく跳ねる。おそるおそる視線を持ちあげて、こちらを見据える五条先生を視界におさめる。にこやかな笑みをためた口元に、ばつが悪くなって目をそむけた。この人は本当にデリカシーがない。

「棘くんがいいんです」
「ふうん。棘のために“ふつう”の人生投げ打ったくらいだもんね」
「別に投げ打ったわけじゃないです。どれだけ愚かでも、あれが最善の選択だったと今でも思ってますから」
「でもその選択にが潰されてどうするの?」

 身体の熱が一気に氷点下まで落ちる感覚がした。にっこりと穏やかな笑みを作ると、五条先生もにこにこ笑った。

「なんの話ですか?」
「どれだけ頑張ろうと凡人は凡人だ。逆立ちしたって天才には――僕や憂太にはなれないよ」
「そうですね」
「もっと凡人であることに甘んじればいいのに。棘は君にそこまで望んでないだろ」
「でも“狗巻棘”は呪言師の末裔ですから」

 まったく表情を崩さずに事実だけを紡ぐ。すると五条先生の軽薄な空気が鋭くなった。まるで苛立っているみたいに。

「……そういうことか。お偉方のジジイになに言われたの?」
「いいえ、なにも」
「ふうん……ま、だいたいの予想はつくけどね。ああそうだ。プレッシャーかけるのはほどほどにしてやってよ。男ってけっこう繊細な生き物だからさ」
「はい」

 話が戻ってきたなと思いつつ、男性からの貴重なアドバイスを胸に刻む。もう用は済んだだろうと踵を返して、足早に五条先生のもとから去った。また引きとめられるかと構えていたのに、五条先生がわたしの名を呼ぶことはなかった。

 廊下を歩きながら、手の中におさまる茶封筒に目を落とす。さて、いつ使おうか。伏黒くんとの会話がよみがえる。我慢に我慢を重ねている棘くんは、いったいどんな反応をするだろう。少しでも喜んでくれるといいけれど。

 窓から見える青空には、白い入道雲が気持ちよさそうに浮かんでいた。


第1章 了