間奏

 無機質な箱の中に響いているのは、乱れた呼吸音だけだった。

 棘がを冷たい壁に追いつめてから、どれだけの時間が経っただろう。エレベーターの表示板は三階を示したまま、ずっと動いていない。

 早く帰らなければ、ただでさえ少ないの睡眠時間が減ってしまう。そんなことを頭のすみで考えながら、角度を変えて何度も唇をふさぐ。柔らかい咥内を舌でなぞるたび、のとろんとした目がうるむ。それがたまらなくて、棘はなかなか顔を離せないでいた。

 金属製の壁についていた手を、の頬に這わす。咥内を蹂躙する湿っぽい音を聞きながら、指先を少しずつ下へと移動させていく。の細い首筋をなでると、「んっ」と痺れるような声が漏れた。熱を覚えている様子に、ぞくぞくする。もっと聞いてみたいという欲望が、棘の手をふたつの膨らみへと誘っていく。

 指の腹が、の黒いセーラー服の衿ぐりに触れる。女子高生を体現したようなのこのセーラー服姿も、明日からしばらく見られなくなる。あの五条が選んだ制服とはいえ悔しいくらい似合っているので、名残惜しい気持ちが強い。

 呪術高専はようやく明日から衣替えだ。他の高校よりも、ずっと遅い衣替えではないだろうか。呪術高専生にとっての正装は冬服であるため、学生であっても仕事に駆りだされる繁忙期が終わるまでは冬服で過ごしたほうがいいだろう、という教師たちの判断によるものだった。

 カスタマイズ自由な冬服と同様、夏服も自分好みに変更できる。棘はの夏服がずっと気になっていた。とはいえ、は仕事熱心だ。仕事の量が減るまでは冬服で過ごすのかもしれない。どうするのか気になったけれど、突っこんで訊くと変な目で見られそうなので、胸の内にそっとしまっておいた。

 衿ぐりを伝うように、そうっと指を動かしていく。の胸元を飾る黒いリボンに手をかける。すると、は棘の手首をやんわり両手でつかんで、長い口付けから逃れるように顔をそむけた。

「だーめ」

 甘ったるい声とともに、挑発的な視線が棘を射抜く。

「それ以上はだめだよ、棘くん」

 唾液に濡れた唇が淫靡な弧を描く。エレベーターの白い天井灯に照らされて、柔らかいそれは蠱惑的な光を宿している。

 頭がくらくらしそうになりながらも、棘は眉間にしわを寄せて不満を示してみせる。は困ったように肩をすくめた。

「何回も言ってるけど……心の準備、まだできてないから」

 同じ台詞を寮の自室でも何度か聞いたけれど、の準備はなかなか整わないようだった。

 なにを今さら、と思う。

 にとって、棘は初めての彼氏ではない。付き合ってきた男の数は三人より多いと明言していたものの、未だに何番目の彼氏なのかを教えてもらっていない。追及してもはぐらかされるばかりで、真実は闇の中である。つまり、はそれほど恋愛経験が豊富だということだろう。

 リボンから遠ざかった己の指に目を落とす。こういうことはとっくに済ませているはずだ。棘と違って。

 心の準備という見え透いたうそを聞くたび、棘はどう反応すべきか悩んでしまう。そうやって気遣われるのが、本当はいやだった。が初めてではないことは理解しているし、自分がそうだからといって、にも不慣れな感じを求めているわけではないのに。

「ツナマヨ」
「うん、言ったよ。“人間に戻ったらね”って」
「おかか」
「もう少しだけ時間がほしいの。わかって?」

 懇願する瞳に見つめられて、すぐに棘は小さくうなずいた。強引だったかもしれないとひどく後悔する。欲を押しつけたことで、怖がらせてしまったのかも――そんな思いさえ湧いてきて、視線が自然と床に落ちていく。

 付き合う前は、と付き合えるだけで充分だと思っていた。それで棘の欲しいものがすべて手に入ると信じていた。棘は両手を強く握りしめて、蓋ができないほどの欲望を必死で押さえつける。

 がもっと欲しい。やっと手に入れたの愛情を、もっと深いところで確かめたい。持て余すほどのへの愛情を、もっと知ってほしい。棘がをどれだけ愛しているか――言葉にはできない分、行動で示したかった。

 けれど、嫌われたくない気持ちのほうがずっと大きい。好きなら自制してみせろと言った五条の言葉が、耳の奥にこびりついている。

 は棘のそばにいるために、“ふつう”の人生を手放した。特級呪霊のイザナミと取引をして、呪術師であり続けることを選んだ。だからきっとこの先、何度でもチャンスはあるだろうし、いつかの“心の準備”が整う日がくるに違いない。

 そうして心の中で言い聞かせて劣情を静めていると、

「でもキスはしたい……って言ったら、わがままかな?」

と、の手が棘の頬に添えられた。熱の浮かんだ瞳に射抜かれて、無自覚だろうなと笑みがこぼれそうになる。

 どれだけ煽られても自制してみせようと思った。好きだからこそ、行動で示したかった。

「おかか」

 棘がかぶりを振ると、は微笑んだ。幸福を溶かしこんだような微笑みに、すべての意識を奪われそうになる。

「棘くん、好き。だーい好き」

 理性を吹き飛ばす言葉たちが、予告もなしに投下される。棘をいともたやすく惑わせる、砂糖菓子みたいな声音で。ぐっと息が詰まった。一呼吸置くひまもなく、の両腕が棘の首に深く絡みつき、柔らかくて長い舌が割って入ってくる。

 から漏れるくぐもった笑みに、胸が苦しくなる。顔の角度を変えるたびに、「好き」と告げるが可愛くてたまらなかった。棘は応えるように身体をより密着させながら、欲を覚えすぎないように懸命に気を払った。

 これはなかなかどうして、大変そうである。



* * *




「あのとき見たのって、結局なんだったんだろう」

 人の少ない列車の中で、はぽつんとつぶやいた。目の前の車窓からは深い夜の気配を感じる。夜ふかしさせてしまったなと思いながら首をひねれば、眠そうな両目をぱちぱちと瞬きさせると視線が絡む。

「やっぱりホンモノの幽霊?」

 その問いかけになんと答えればいいのかわからず、棘は笑みを返してごまかした。はしばらく考えこんでいたけれど、

「もう考えるのやめる。昨日みたいに眠れなくなるし」
「おかか」
「幽霊なんていないと思ってたから……ちょっと怖くて……」
「すじこ」
「ありがとう。これからは眠れないとき、すぐ電話するね」

と弾んだ声で言うと、眠気のあふれる顔を窓に向けて、流れていく景色をじっと見つめる。

 件の雑居ビルにいたのは、呪霊の中でも最も弱いとされる蠅頭だった。放置しておけばもう少し強く“成った”かもしれないけれど、足音を真似るほどの弱い力しかなかった。蠅頭に人を殺すなど到底不可能だ。

 それでも正体がわからなければ、人は恐怖をかき立てられる。退去を検討している入居者のように。ウトウトしはじめたのように。

 が棘の腕にしがみついてきたときは可愛いの一言につきたし、に頼られたようで本当にうれしかった。はいつも迷惑をかけるからと強がることが多いから、余計に。少しでも頼りになるところを見せたくて、その場で祓ってしまったけれど。

 棘はに目をやった。呪具を用いても呪いを映すことのない瞳が、眠気でぐらぐらと揺れている。

 昨日話を聞いた時点では、棘はてっきりが呪いを見たのだと思っていた。本人は自分の目を疑っているけれど、呪いが見えるようになっただけだろうと。

 でも、あの場にいた呪いは棘が祓った蠅頭だけだった。それ以外に呪いの気配はなかった。だから、がネイルサロンで見たという“幽霊”を、棘はまったく見ていない。

 はいったいなにを見たのだろう。二度も見たとなれば、もう見間違いだと断言できない。の見たものを共有できないもどかしさが、ほんのわずかな恐怖を運んでくる。

 棘の脳裏をよぎったのは、先日の五条との会話だった。

 は人間に戻っても、呪いが見えなかった。もともと見えなかったのだから、当然と言えば当然である。しかし、呪いと深く関わることで、呪いが見えるようになるケースは少なくない。例えば、呪われていた憂太がいい例だろう。憂太は解呪したあとも、以前と変わらず呪いが見えている。

 人間に戻ったは降格されることもなく、特級術師(仮)として任務に駆りだされている。呪いだったころとはわけが違う。それはも自覚があるのか、どこか焦りを覚えているような節が見られるようになった。

 棘はのことが心配だった。には呪力がまったくないわけではない。その呪力量はすずめの涙ほど、蠅頭よりも少ないかもしれないけれど、呪いを認識する分には問題ないほどの量であることは間違いなかった。

 頼りたくはなかったものの、その男以上に呪いに詳しい呪術師を、棘は知らなかった。とはいえタダで重要な情報をしゃべるとは思えなかったから、超有名老舗和菓子店のみたらし団子を片手に相談を持ちかけることにした。ちなみに梅雨明けの炎天下の中、二時間も並んで購入したものだ。

 その男――最強を冠する呪術師、五条悟はみたらし団子を目にすると、いともたやすく口を割った。

はさ、呪いが見えないんじゃなくて、単に見てないだけだと思うよ」

 男子寮の談話室で、五条はみたらし団子を頬ばりながら続ける。

「だれだって怖いものは見たくないだろ。臭い物に蓋をする、ってわけじゃないけどさ……はそれを望んでできるんだよ。“無科”の血……魂の性質を変えるっていう、自身の術式のせいで」
「すじこ」
「そう。見たいと思ったものだけを見てるんだ。今も昔もね。自分にとって都合のいいものしか見ていないとも言えるかな」
「こんぶ」
「うん、そういうことだと思うよ。は自分の魂の性質を変えて、意図的に呪いを見ないようにしてる。見えなくても日常生活に支障はないからね。だからって今さら呪いを見たいと思っても、すぐに見えるようになるわけでもないだろう。心に深く根づいた恐怖は、簡単にぬぐえるものでもないし」

 が認識できた呪いの数は非常に少ない。棘と喫茶店に入ったときに現れた三級呪霊。それから、イザナミと両面宿儺、廃校舎に現れた呪い――つまり、特級呪霊だけだった。仙台で遭遇した二級呪霊は、まったく見えなかったと言っていた。

 三級呪霊が見えたのは、“初めて呪いを見たから”だろう。だから仙台では二級呪霊が見えなかった。だとするなら、どうして特級呪霊は見えたのだろうか。より強い恐怖の対象になる特級呪霊こそ、認識を拒みそうなものだけれど。

「単純な理由だ。本当に命に関わる相手は見えないとまずいだろ。ある種の防衛本能だよ。まあつまりさ、が望まなくても見える呪いっていうのは、とんでもない強敵ってことだね。RPGでも絶対に回避できない相手っているだろ?そういう感じだよ。ボス戦はどうしたって逃れられないんだ」
「……しゃけ」
「え?」

 棘がつぶやいた言葉に、五条は面食らったようだった。軽くなった串を手放して、黙りこんでしまう。いつもと違うその様子に不安が込みあげる。棘はすぐに口を開いた。

「ツナ」
「いや……まさか棘がそんなことを言うとは思ってなくて」

と言いながら、五条は二本目のみたらし団子に手をのばした。

は優しいくせに打算的で、舌を巻くほど辛抱強い。あんな子は滅多にいないよ。用意周到にイザナミの裏をかいたくらいだからね」
「しゃけ」
「でも呪術師としてはイカレていない。棘の言う通りだよ。その辺の感覚は“ふつう”なんだ。ちぐはぐで、すごく変な感じがするけどさ」
「おかか」
「そうだね。だからこそはイザナミに気に入られてる。あいつの庇護欲をそそるんだろうね」
「しゃけ」
「きっと全部見えるようになったら……あっという間に潰れるよ」

 棘はその言葉にうつむいた。やがて顔をあげて、三本目のみたらし団子にかぶりついている五条に、このことは他言無用であることを伝えた。

「わかった、言わない。約束する。だからこれ、もっと買ってきてくれない?僕の中で一大ブームがくる予感がする。やばい、最高。それくらいおいしい。本当どこで買ったの?棘のセンスにびっくりだよ」

 口止め料として追加のみたらし団子を大量に要求されたものの、安いものだと思った。

 呪術師に必要な要素はいくつかある。“呪いが見える”ことはもちろん最低限の素養だ。けれど五条の言う“イカレている”かどうかは、呪術師を続けていくにあたって、命に関わるほど重要な要素だった。

 自らの命を奪おうとする相手を容赦なく殺すという、途方もない恐怖と嫌悪。これを克服できなければ、呪術師は必ず挫折する。

 棘は眠気に襲われているを見つめ続ける。

 は生まれつき呪いが見えていた棘とは違う。ついこの間まで一般人だったにそれを求めるのは、あまりに酷であるような気がした。

 任務を過剰にこなしたり、塾に行くと言いだしたり、“窓”の活動に片足を突っこんでみたり。が今どこか焦っている節があるのは明らかだ。それはきっとすべて、“呪いが見えない”ことに起因しているのだろう。は真面目で責任感が強いから。

 でも、と思う。見えて潰れてしまうくらいなら、見えないほうがずっといい。

 には見たいものだけ見ていてほしかった。それが棘には見えない“幽霊”だろうとなんだろうとかまわない。それでが幸せなら。ずっと笑っていてくれるなら。

 棘はの顔を覗きこむ。

「すじこ」
「いいの?……じゃあ、ちょっとだけ」

 へにゃりと屈託なく笑うと、は棘の肩に頭をあずけた。

「初めて東京を観光したときみたい」
「しゃけ」
「ねえ、知ってた?あのときにはもう、棘くんのこと大好きだったんだよ」

 柔らかい声音で告げられた事実に目を見開く。愛しさが込みあげて、目蓋を閉じたの頭を何度もなでた。

 の世界が、都合のいいものであふれていればいい。もしもそこに悲哀や恐怖が混ざりこんだとしても、すべて自分が忘れさせてやればいいのだ。今日のように。

 聞こえてきた静かな寝息に、棘は小さな笑みをこぼした。