幽霊

 タブレット端末に表示された資料から目線をあげると、肩が触れるほど近くにいた棘くんも一緒に顔をあげた。

「――以上が、“窓”を務める者の心得なんだって。簡単に要約すると、“死ぬな”ってことだね。自分の命を最優先して、危ないと思ったらすぐに逃げること」

 真後ろのコンビニで買った、ミルクティー味のフラッペを口に含む。もうすっかり溶けてしまったけれど、まだ冷たくておいしい。生ぬるい身体の内側が冷えていく感じがする。

 もう一口と思ったのに、何食わぬ顔をした棘くんに簡単に奪われてしまう。ネックウォーマーを引きさげながら、棘くんがジロリとわたしをにらんだ。

「いくら」
「うっ……肝に銘じます。棘くんもね?」
「しゃけしゃけ」

 雑居ビルの最寄り駅で待ち合わせをしようと提案したのに、棘くんは塾までわざわざ迎えにきてくれた。訊けば伊地知さんから念を押されたというわけではなく、少しでも長くわたしとの時間を持ちたいという理由からだった。

 空になったプラスチックの容器をゴミ箱に捨て、棘くんはわたしと手をつないだ。その冷えきった指に「つめたっ」と悲鳴をあげたのに、驚くほど無反応だった。骨張った手でネックウォーマーをすっと引きあげる。隠れた口元に、ひどく意地悪な笑みを宿っているのが見えた。

「わざとでしょ?」
「おかか」
「しかも全部飲んじゃうし」
「おかか」
「言い訳が雑すぎだよ」

 笑いを噛み殺しながら歩を進める。わたしとの時間を欲しがった棘くんは、とても楽しそうに目を細めた。

 今は呪術師にとっての繁忙期にあたる。というのも、呪いが好む人間の負の感情は、冬の終わりから春にかけて蓄積されるからだ。呪いが最も活動的になるのは初夏である梅雨時で、梅雨明け宣言がだされてもなお、わたしたちの繁忙期は続いている。

 パンダくん曰くもうすぐ落ち着くそうだけれど、その兆しはまったく見えてこない。塾代などに費やすお金を稼ぎたくて、仕事を優先的に回してほしいと頼んでいるせいだろう。

 今日は朝早くから任務が立て続けに三件入っていたので、棘くんとはほとんど顔を合わせていない。日課になりつつある手作り弁当を渡すために、男子寮の前で簡単な挨拶を交わしたくらいだ。

 伏し目がちなその横顔をこっそり盗み見る。けれど一秒も経たないうちに、その気だるげな瞳と視線が絡んだ。この熱帯夜でもネックウォーマーを手放さない棘くんは、小さく首をかしげる。

「なんでもないよ」と言うと、棘くんはしばらく考えこんだあと、少しだけ不満そうに告げた。

「すじこ」
「そうだね。最近デートしてないかも」
「おかか」

 してないかもじゃなくて、全然してない。きっぱり告げると、つないだ手を強く握る。

 棘くんと付き合う前から、週末は必ず“東京観光”という名の食べ歩きデートを楽しんでいた。人間に戻ったあとの楽しみを残しておきたい――そう言って、わざと行かなかった場所はたくさんある。

「こんぶ」
「繁忙期が終わったら行こうよ。どこへ行きたい?」
「ツナ」

 即答だった。じっとりとした目線を向けると、棘くんは慌てた様子で理由を口にした。

「明太子」
「そんなこと言って、本当は水着見たいだけでしょ。棘くんのえっち。やらしー」
「お、おかかっ」
「えー?そんなこと書いたっけ?」

 くだらない話を続けていたら、いつの間にか例の雑居ビルに到着していた。青白い足が脳裏を掠めていく。ゆるんでいたわたしの顔が一気に強張る。

 棘くんはビルを下から上まで目でなぞると、大きくかぶりを振った。

「おかか」
「強い呪いの気配はない……じゃあ、やっぱり弱い呪いのしわざ?蠅頭とか?」
「いくら」

 ホンモノの幽霊かも。真顔で淡々と言うものだから、わたしは瞬きひとつできなくなる。

「……今まで見たことある?ホンモノ」
「おかか」

 かぶりを振る姿にほっと胸をなでおろす。脅かさないでほしいと文句を言おうとしたそのとき、

「すじこ」

 棘くんはやけに説得力のある声で言い切った。自分の目に見えるものだけがすべてとは限らないから、と。

「こんぶ」

 自分に“呪い”が見えるように、にも別の“なにか”が見えていてもおかしくない。

 さあっと顔から血の気が引くような気がした。励ましでもなんでもないその言葉を、今このタイミングで告げる必要はあったのだろうか。

 唇を震わせていると、棘くんの目元に意地の悪い笑みが浮かぶ。わざとか。わざとだな。そうだと言ってほしい。

「ツナ」

 とにかく確かめようと続けて、棘くんは迷うことなくビルに入っていった。

 暗い建物の中は、不気味なほどの静寂に包まれていた。棘くんがエレベーターのボタンを押すと、うなるような機械音が響きはじめる。

 階数表示板の点滅を見ているだけで、妙にどきどきした。血液を送りだす心臓の速さが変わっているのがわかる。ミャコときたときは、それほど怖くなかったのに。頭のうしろで、あの青白い足がちらついているからだろう。あと、さっき棘くんから脅かされたのも大きい。

 棘くんに手を引かれて、エレベーターに乗りこんだ。温かい手をぎゅっと握りしめていると、やや心配した目線がよこされる。

「高菜」
「……棘くんのせいだよ?」
「おかか」
「いないって信じたいけど、見ちゃったから。余計に怖くて」

 音を立てて、扉が開いていく。ばくばくとうるさい心臓の音が、すぐ耳元で聞こえた。棘くんは薄暗い廊下を食い入るように見つめたあと、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「呪いだよね?ホンモノなわけないよね?違うよね?」

 わたしがおそるおそる問いかけると、棘くんは険しい顔で首をひねる。

「……こんぶ」

 いや、それはどうだろう。そんなもったいぶった返答に、すべてを理解してしまった。

「呪いじゃん!」
「こんぶ……」
「絶対見えてる反応だよそれ!」
「ツナツナ……」

 そう言いながら、黒いネックウォーマーの上から、自らの唇に人差し指を押しあてる。周囲を警戒するみたいな素振りで。

 訪れた沈黙の中で、ふいに鼓膜が音をとらえた。それは昨夜とまったく同じ音だった。

 ぺた、ぺた、ぺた。

 ひっ、と恐怖でのどが小さく鳴る。正体が呪いだとわかっても、うまく怖気をぬぐうことができない。赤いペディキュアに彩られた青白い足が、廊下を踏みしめる光景が目蓋の裏側に張りついている。確かに聞こえる足音に重なるように。

 気づけば、わたしは棘くんの腕にしがみついていた。ほとんど無意識だったから、自分でもびっくりした。

 こちらに目をやった棘くんは、なんだかちょっとうれしそうに見える。

 奥歯をきつく噛んだ。その余裕っぷりに、棘くんとの明確な差を感じた。ほどよく鍛えられた腕から素早く離れて、つないだ手を力任せに振りほどく。

「高菜」

 心配の色に染まった声を無視して、廊下を踏む足音に意識を集中させる。身体中を這いずりまわる恐怖を押しとどめ、わたしはエレベーターから降りた。

「イザナミさん……イザナミさん……」

 祈るように、声にだして何度も呼びかける。仕事のときは心の中で軽く呼びかけるだけで“つながる”感じがするのだけれど、今はまったく駄目だった。口にだせば応じてくれるかもしれないと淡い期待を抱きながら、わたしはぶつぶつと名前を連呼する。

「イザナミさん、イザナミさん、お願いだから力を貸してください……」

 一緒にエレベーターから降りていた棘くんが、戸惑った様子でこちらに視線を送っている。今話しかけたら許さないという空気を醸しだしつつ、両手をからめて必死で願い続けた。

 強く念じているうちに、無機質な扉が閉まった。廊下をぼうっと照らしていた光が消え失せて、視界を覆うような暗闇が落ちてくる。それを合図にするみたいに、勢いを増した足音がこちらに迫ってきた。

 ぺたぺたぺたぺたぺた。

 焦りでのどがつっかえる感じがした。いつまで経っても“つながる”感覚はない。無力感で視界がにじんだとき、

「明太子」

 ふっと表情をゆるめた棘くんが、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。それから、足を大きく一歩前に踏みだす。ネックウォーマーを引きさげると、軽く息を吸いこんだ。

「――爆ぜろ」

 空気が破裂する激しい音が、鼓膜を揺さぶる。巻き起こった風が顔に吹きつけてきて、反射的に目を細めた。棘くんの呪言の衝撃で、天井灯がふたつ割れている。ミャコに謝らないといけないなと、ぼんやり思った。

 相手が蠅頭だったのか三級呪霊だったのか、わたしにはわからない。けれど、これを喰らって無事でいられるとは考えられなかった。あまりに呆気ない終わり方に、乾いた笑いが小さくこぼれ落ちる。棘くんとわたしの差は明白だった。

 細かい破片がぱらぱらと落ちていく様子を見つめながら、ぽつっとつぶやいた。

「……帰ろっか」
「しゃけ」

 うなずく声は少し掠れている。廊下から足音が消えたことを確認して、エレベーターのボタンを押した。

 なんとなく廊下を振り返ったとき、一番手前の扉がわずかに開いているのが見えた。棘くんのTシャツの裾をくいくいと引っぱって、開いた扉を指差した。

「さっき開いてたっけ?」
「おかか」
「壊れちゃったのかな。閉めてくるね」

 呪言の衝撃は凄まじかった。鍵が壊れてしまった可能性は充分に考えられる。ちゃんとミャコに謝ろう。幽霊がでなくなったと言えば、笑って許してくれそうな気がした。

 開いた扉を押しこむついでに、ひょこっと中を覗きこむ。その瞬間、部屋の電気がぱっと点いた。突然のことに、のどが笛のように鳴る。扉のすぐそばの受付に立つ綺麗な女性と、ぱちっと目が合った。

 まつエクで誇張された大きな目をまんまるにすると、「すごい音がして、びっくりして」と震える声で言った。帰り支度でもしていたのだろう、その細い肩にはショルダーバッグがぶらさがっている。

「びっくりさせてごめんなさい。こんな時間までお仕事ですか?」

 問いかけると、女性は小さくかぶりを振った。丁寧に巻かれた長い茶髪が揺れる。

「ううん、違うよ。どこにも行けなかっただけ」
「え?」
「それから、謝るのはあたしのほう。ごめんね。昨日もさっきも、うまく声をかけられなくて」

 どこかあどけない表情で、女性がわたしに笑いかけた。

「迎えにきてくれてありがとう」

 意味不明な言葉に瞬きを繰り返していると、急に肩をトントンと叩かれた。びっくりして振り向けば、棘くんがすぐうしろにいた。

「高菜」
「あ、うん。この女の人と――って、あれ?」

 視線を戻したとき、女性の姿は忽然と消えていた。

 受付に飾られた花のそばに、写真立てが置かれていることに気づく。収められた写真に写る茶髪の女性と、暑さでしおれそうな生花――そのふたつが、頭の中でひとつの意味を結ぶ。

 すぐにでも否定したくて、明るい部屋をぐるりと見渡した。壁沿いに並べられたネイルポリッシュの小瓶や、受付に貼られたジェルネイルのメニュー表が、わたしの中に途方もない怖気を運んでくる。

 棘くんが写真立てを示しながら、首をひねった。両手をきつく握りしめていると、

「こんぶ」

 ――もしかして、見た?

 追い打ちをかける問いかけが聞こえて、認めたくない事実に冷たい汗が噴いた。

 ネイルサロンを勢いよく飛びだして、無言でエレベーターに乗りこむ。閉ボタンを押そうとすると、棘くんが慌てて追いかけてきた。ひょこっとわたしの顔を覗きこんでくる。

「高菜」

 大きくうなずいたあと、その場で深呼吸を繰り返した。見間違いだと自分に言い聞かせながら。

「見てない。気のせい。幽霊なんかいない」
「おかか」
「そこは同意してほしかったな」

 深く項垂れていると、棘くんはわたしを優しく抱きすくめてきた。ごめんごめんと言うみたいに、何度も髪をなでつける。

「すじこ」
「ううん、考えてない」
「おかか」
「……うそ。ちょっと余計なこと考えてる」
「ツナマヨ」

 忘れさせてあげようか?と問いかける声に、ある予感が落っこちてくる。心臓がばくっと音を立てた。このやりとり、どこかで。そう思いながら目をあげたときにはもう、棘くんに唇を奪われていた。

 その熱を深く感じる前に、唇が離れてしまう。名残惜しさに下唇を軽く噛むと、棘くんの目にいたずらな光が宿った。

「いくら」
「もっとしてくれたら、忘れられるかも」
「しゃけ」

 待ってましたと言わんばかりに、棘くんはわたしの唇に噛みつくようなキスをした。