「“窓”になりたい――ですか?」

 伊地知さんは理解が及ばないという口振りで、わたしの言葉を丁寧に繰り返した。指紋ひとつないバックミラー越しに、ぱちりと目が合う。冗談ではないかを確認するような視線に、ちょっとだけ身体が強張った。

 大手進学塾への入塾を決めた次の日、任務を終えたわたしを迎えにきてくれたのは伊地知さんだった。呪術師を支える補助監督として呪術高専に勤める伊地知さんは、模範的な安全運転で黒塗りの普通車を走行させている。

 数多く在籍する補助監督の中で、伊地知さんは一番の働き者だ。俗な言い方をすれば“社畜”というやつだ。必然的に仕事をともにする機会も多くなり、高専での相談事のほとんどを伊地知さんに持ちかけるようになっていた。

「厳密には、“窓”っぽい役目をしたいんです」
「と言いますと?」

 先を促す伊地知さんの言葉に、ほっと安堵する。伊地知さんに相談してよかった。きっと他の人だったら、最初から聞く耳すら持たなかっただろう。

 伊地知さんは超がつくほど真面目だと思う。女子高生の戯言にも真剣に取り合ってくれるところが、わたしはとても好きだった。

「昨日、ある家に棲みついた呪いを狗巻くんが祓ってくれました。家主である女性にも取り憑いていて……でもあんな人的被害がでていたのに、“窓”からの通報は一件もありませんでした」

 “窓”とは呪術師ではないものの、呪いを視認できる高専関係者のことをいう。呪霊の目撃情報を高専に通報するだけでなく、残穢の痕跡を追って捜査に協力までしてくれているのだ。呪術師はその報告に従って仕事に赴くことがほとんどだった。

 伊地知さんは信号を確認しながら、法定速度内で車を右折させた。

「その件なら狗巻君から報告があがっています。建物の中、それも民家というのは発見が遅くなる場合がほとんどです。通報があることのほうが珍しいんですよ。そのこととなにか関係が?」
「昨日みたいに人的被害がでているのに、通報されていない呪いはたくさんいると思うんです」
「そうですね……“窓”の数は少なくないですが、すべての呪いを把握できているわけではありません。高専とつながりのない一般の方で、高専への通報という手段を知っているのはほんの一握りでしょうし」

 そこで一旦言葉を区切ると、伊地知さんは再びバックミラー越しにわたしを見やる。

「だから“窓”になりたいと?」
「はい」
「ですがさんは呪いが見えませんよね?」
「だから“窓”っぽい役目なんです」

 わたしは深く顎を引いて、じっと手元を見つめた。ピンクベージュの爪の先端がはげている。任務中に転んだときに削れてしまったのだろう。

「わたしが見るわけじゃないから、“窓”っぽい役目って、すごく曖昧な言い方になるんですけど……通報されていない呪いの情報を集めて高専に報告する――それくらいのことは、きっとできるから」
「なにを言ってるんですか」

 伊地知さんの呆れたような声が飛んでくる。

さんは特級術師(仮)として多くの呪いを祓っています。今日だってそうでしょう。なにもできないという認識、それ自体が誤りです。そうやってできることを探しているならお門違いですよ」
「それはわたしの力じゃありません。わたしはイザナミさんがいなきゃ呪術のひとつも使えない、ただの凡人です」

 ひざの上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。

「でも凡人には凡人なりのやり方があるから」

 言い終えると顔をあげて、運転席のほうへ軽く身を乗りだした。

「伊地知さんが忙しいのはわかってます。無理を言って本当にごめんなさい。でもお願いします、全部教えてください。“窓”に関する規定の詳細とか、“窓”の心構えとか、通報の流れとか……そういうことをすべて」
「どうしてそこまで?」

 気おされた様子の伊地知さんに、わたしは笑いかける。

「わたしにできるやり方で、ひとりでも多くの人の力になりたいんです。みんなと同じ、呪術師として」



* * *




 雑居ビルをでるなり、ミャコはわたしに抱きついてきた。すすり泣きながら、怖気に震える手ですがりつくみたいに。

 責められることだって覚悟していたのに、腕の中から聞こえる涙声は、決してわたしをなじることはなかった。

「だって怒れないじゃん……の顔、真っ青だしさ……」
「……ごめんね。なにもできない役立たずで」
「ううん……こっちこそごめん」
「絶対になんとかする。だから安心して?」
「うん……」

 泣きじゃくるミャコを駅まで送り届けたあと、ひとりで雑居ビルの前まで戻ってきた。スマホを素早く操作して、耳に押し当てる。

「――もしもし、伊地知さんですか?」

 わたしは簡単に説明をした。雑居ビルで聞いた足音、そしてエレベーターが閉じる瞬間に見たもの。伊地知さんは話を理解すると、驚くほどあっさりと告げた。

「残念ですが、その内容ではこちらは動けません。つまり仕事として依頼することは現状不可能です。さんを疑っているわけではなく、人的被害がないこと、そして見えていないことが問題なんです。呪いが確認できず、だれも被害を受けていないなら、それはただの怪談話にすぎません」

 耳を傾けながら、雑居ビルの三階の窓を見つめる。なんとなく気分が落ち着かない。

「でも、だれかの足を見ました」
「一瞬ですよね?見間違いの可能性は充分に考えられます。そもそもさんには呪いが見えないのでは?」
「突然見えるようになった……とか」
「信用できません」

 ぴしゃりと切り捨てられる。今の今までずっと見えていなかったのだ。それもそうかと肩を落とし、それでも懸命に食いさがった。

「どうしても確認してもらえませんか?」
「ええ、申し訳ないのですが……東京は人口に比例して呪いが多いのはご存知でしょう?“窓”の調査を要する案件は山ほどあります。そこに人員を割くことはできませんよ」
「じゃあ、もしだれかが被害を受ければ……すぐに確認してくれますか?」

 問いかければ、伊地知さんの声が急に低くなった。

「まさか自分が怪我をしようなんて考えてませんよね?」

 察しがいいなと思いつつ、雑居ビルにつま先を向ける。わたしが雑居ビルに入ろうとしたとき、「ああもう、わかりましたっ」と半ば吐き捨てるような声が聞こえた。足をとめて、呆れ返った声が続くのを待つ。

「こういう件にうってつけの適任がいます。その方に話を通しておきますから、そのまま高専に帰ってきてください。絶対になにもしないでくださいよ。それから、寄り道は厳禁です。未成年がこんな時間まで私用で出歩くなんて、いったいなにを考えてるんですか。いいですね?」
「ありがとうございます!」

 飛び乗った列車が高専の最寄駅に到着したときには、夜の十一時を過ぎていた。ずいぶん遅くなってしまったなと思いながら、疲れた身体を引きずって列車から降りる。

 見慣れた駅の改札が目に入り、すぐさま歩みをとめた。全身から音を立てて、血の気が引いていく。強い焦りで視線がふらふら泳ぐのがわかった。

 “うってつけの適任”って、まさか。

 急いでスマホをポケットから取りだして、履歴から伊地知さんの名前をタップする。呼びだし音が途切れた途端、わたしは声を張りあげた。

「どうして言うんですか!」
「彼以上の適任がいますか?二つ返事で快諾して頂きましたよ」
「黙ってるつもりだったのに!」
「一番頼りになる方だと思いますが」

 その堂々とした物言いに下唇を噛む。こらえきれなかった本音がぽろっと漏れた。

「……だとしても、一番頼りたくなかったのに」
「えっ?」
「伊地知さんが一生独身で終わる呪いをかけておきます!」

 大声で宣言するやいなや、一方的に通話を切った。最悪だ。陰鬱な気持ちを抱えたまま、再び改札に目をやる。

 改札口をふさぐように、棘くんが立っている。しかも仁王立ちだった。棘くんの鋭い視線から逃げたい一心で、参考書の入った重いスクールバッグを片手でかかげる。顔を隠すみたいに。

 足元に目を落としつつ、改札口へとじりじり近づく。パスケースをかざすと、閉じていた改札がパタンと開いた。スクールバッグで視界を覆ったまま通り抜けようとしたのに、棘くんにスクールバッグを奪い取られてしまう。「わっ」と声が漏れた。

 棘くんのジト目がわたしを射抜いている。視線が絡んで、うっと息が詰まる。慌てて両手で顔を覆ったけれど、棘くんは見逃してくれなかった。

「こんぶ」
「ひ、人違いでーす……」
「おかか」

 鼓膜を叩くおにぎりの具は刺々しい。そういえば、帰る連絡も入れていなかった。列車の中では眠気をこらえきれず、ずっとウトウトしていたから。

 これはまずい。痛恨のミスである。危機的状況と言わざるを得ない。ここで捕まってしまえば、約一時間に及ぶお説教コースは確定だろう。自分のせいとはいえ、今日はもう疲れたし眠たいし、それはちょっと遠慮したい。

 強引に通過しようとすると、易々と捕獲されてしまった。棘くんの腕の中に閉じこめられる形で。

「こんぶ」
「……えっと、ただいま」
「すじこ」
「そんなに怒らなくても。わたし、もう門限ないんだよ?」
「おかかっ」

 それでも連絡がなければ心配するに決まっている。強い言葉が飛んできて、わたしはぎゅっと目を閉じた。

 “でも”と“だって”のついた言い訳が、頭の中をぐるぐる回る。そのどれもが、本気で怒った棘くんを納得させるだけの理由にならないことはわかっていた。余計な言い訳はしないほうがいいだろうと、口を一文字に結ぶ。

 耳のすぐ近くから、棘くんのため息が聞こえる。身体を密着させるみたいにぴったりと抱きしめると、心の底からほっとしたような声で言う。

「ツナマヨ……」

 無事でよかったというその言葉に、もごもごと質問を返す。

「それって、どっちの意味で?」
「ツナッ!」

 どっちも!と強い声が鼓膜を叩く。ひっと頭をうしろを引きながら逃れようとすれば、棘くんがより強く抱きしめてくる。もはや拘束だった。ときめきとかドキドキとか、そんなものはどこにもない。

「いくら」
「いや、別に黙ってようとかそういうつもりは……」
「すじこ」

 間髪入れず、棘くんがじわじわとなじってくる。伊地知さんとの会話がほとんど筒抜けになっていたらしい。わたしは肩を落とすと、言い訳を考えることをやめた。

「ごめんなさい」
「おかか」
「本当にごめんなさい。二度としないから」
「おかか」
「うそじゃないよ。ちゃんと反省してる。伊地知さんにも叱られたし」
「おかかっ」

 見えもしないくせに。優しい棘くんにしては珍しい言葉に、胸が深く穿たれる感じがした。そうでも言っておかないと、わたしがまた勝手にひとりで動くと思っているのだろう。昼間に聞いた伏黒くんのどんな言葉よりも、ずっと痛い。

 視界の解像度が落ちそうになる。目を大きく開いて、涙をこらえた。

「そんなのわかってる。わたしだって確かめるつもりはなかったんだよ。頼みこまれて、断れなくて」
「こんぶ」
「棘くんに迷惑かけたくなかったから」

 わたしから身体を離し、棘くんは顔を覗きこんできた。気だるげな表情に柔らかい笑みを含ませながら。

「ツナマヨ」

 迷惑だなんて絶対に思わない。優しい声に胸がぎゅっと締めつけられる。目をそらしながら、昂る感情を抑えこむために小さく息を吸いこんだ。

 きっと棘くんは引きさがらないだろう。ちっぽけなプライドと、棘くんからの愛情。どちらが重いかなんて、秤にかけるまでもない。でも。

さんは――呪術師に向いてないよ」

 夢で聞いた静かな声が、耳にべったりとこびりついている。

 少しでも身体を離したくて、棘くんの肩に両手を乗せる。そのとき左手の薬指にピンクゴールドが見えて、自然と視線が足元に落ちた。「ちゃんと甘えなよ?」という五条先生の声が上書きされていく。うつむいたまま、ぽつっと独り言ちた。

「……それじゃなんの意味もない」
「ツナ」
「ううん。なんでもないよ」

 とはいえ、ミャコにああ言ってしまった手前、急を要しているのは事実だった。しばらく考えてから、観念するみたいに唇を割る。

「伊地知さんにどこまで聞いたの?」
「おかか」
「わかった。じゃあもう一度、最初から説明するね」
「しゃけしゃけ」

 雑居ビルで見たすべてを話し終えると、棘くんは首をひねった。

「すじこ」
「きっとそうだと思う。でも信じられないんだ。呪いだとしたら、わたしにはまったく見えないはずなのに」
「しゃけ……」

 砥粉色の頭を上下に振ったあと、不思議そうに続ける。

「いくら」

 伊地知から“窓”の話を聞いた。その突然の告白に顔を引きつらせていると、「こんぶ」と棘くんが困り顔で笑う。なんで相談してくれなかったの?――その言葉に曖昧な笑みを返した。

 おそらくすべてを棘くんに話してしまったのだろう。棘くんにわたしの見張りをさせるつもりで。心配からの行動だとは理解できても、悔いの感情しか湧いてこない。

 伊地知さんに訊こうと思ったわたしが馬鹿だったのだ。最初から五条先生に相談すればよかった。後悔先に立たず。もはや開き直るしかないだろう。

 棘くんのひじにぶらさがっているスクールバッグに手をのばす。カードケースを取りだし、名刺を一枚手渡した。名刺をまじまじ見つめる棘くんに、わたしは小さな声で言う。

「だって相談したら反対するでしょ?見えもしないくせにって。高専に報告をあげて働きかけるだけだとしても」

 伏し目がちな瞳がわたしを映す。文句を言われるかと身構えたのに、棘くんの反応は意外とあっさりしたものだった。

「おかか」
「……反対しないの?どうして?」
「すじこ」
「協力させて、ってそれ本気で言ってる?」
「しゃけ」
「でも棘くんの迷惑になるし、そういうわけには」

 ムッとした様子の棘くんがわたしの額を指ではじいた。いい音がしたうえに、けっこう痛い。

 棘くんは名刺をポケットに滑りこませると、わたしの手を取った。指を深く絡めて歩きだす。優しくて温かい手に引かれ、固まっていた足がゆっくり動きだした。

「待って棘くん、ちゃんとよく考えて?これからたくさん面倒なことに巻きこまれるんだよ?どうしてもっとよく考えなかったんだって、すっごい後悔するかもしれないし」
「こんぶ」
「協力するほうが後悔すると思うよ?」
「おかか。ツナ」
「……うん、目撃情報はほしい。仕事になれば力を貸してもらえるから。でも」
「おかかっ」

 否定の単語に言葉をさえぎられる。となりを歩く棘くんの目に迷いはなくて、もうなにを言っても無駄だろうなと悟った。棘くんはびっくりするくらい優しいけれど、その分とても頑固だから。

 こんなつもりではなかったのに。すべてを台無しにしてくれた伊地知さんには感謝しかない。独身で一生を終える呪いを血眼になっても探しださなくては。

 やっとわたしがあきらめたことを察した棘くんは、

「すじこ」

 と一緒にいる時間が増えるからうれしい。そう言って、目元に笑みを溜める。つないだ手がもっと深く絡められて、わたしはついっと鼻先をそむけた。

 そんなの、ずるい。

 そんなことを言われたら、もう全部どうでもよくなってしまう。最初から頼ればよかったとすら考えてしまう。それではなんの意味もないのに。うっかりほだされそうになる。

 棘くんがぐいぐいと手を引っぱった。

「いくら」
「さっきの名刺?いっぱい配れば情報が集まってくるかなって。伊地知さんのアドバイスなんだけどね」
「明太子」
「あー……うん、そうだね。棘くんの分の名刺も作ってもらおっか」
「しゃけ」

 その提案に噴きだしてしまう。ああ、もういいか。

「わかった。お揃いっぽくなるよう、パンダくんにお願いしておくね」

 つないだ手に力をこめる。一日でも早くミャコを助けるためだ。だから今回は棘くんにほだされよう。今回だけは。

 街灯のない暗い道を歩きながら、まだ少し重たい唇を開いた。

「早速だけど、明日お願いしてもいい?塾が終わったあとだから遅くなるけど……ついてきてくれる?」
「しゃけしゃけ」
「よろしくお願いします」
「明太子」

 わたしは棘くんの黒いネックウォーマーを、空いた手で引きさげる。蛇の目を模した刺青が暗闇の中でぼんやりと見えていた。棘くんの口端に小さく笑みが宿る。

 感謝の気持ちを示すように、そこに軽くキスをすると、棘くんは「おかか」と拗ねた声を漏らした。そこじゃなくて。その一言ですべてを察する。

 ネックウォーマーを引きあげようとするも間に合わず、わたしはちっとも軽くないキスを返されてしまった。