足音

「それじゃ、今日はここまで」

 中年の男性講師の声を合図に、広げた参考書とノートを閉じる。教室の壁に備えつけられた丸い時計の針は、夜の九時を示していた。

 あっという間の一時間だった。くわっと大きなあくびをする。この眠気は寝不足ではなく、単なる疲労が原因だろう。真希ちゃんのしごきは決して軽くなかった。身体がすでにひどい筋肉痛を訴えているほどだ。

 狗巻棘め。可愛い彼女を売って罪悪感はないのか。

 しかもわたしが真希ちゃんに追い回されて悲鳴をあげても、地面に倒れこんで半べそをかいても、いつもの涼しい顔でわたしを観察していただけだった。目が合っても助ける素振りすら一切なく、にこやかに手を振っていた。鬼か。

 数列の極限について書き殴られたホワイトボードを目に焼きつけていると、教室の扉が待ちわびたかのように開け放たれた。

 ひどく驚いた様子の講師の脇を通り抜けてきたのは、多鹿美弥子だった。都内の有名女子高に通う同い年のミャコは、バンッと音を立てて机に手をつき、

!どうだった?!」

と、血相を変えて尋ねてくる。その勢いに押されるみたいに、言葉がぽろっとこぼれ落ちた。

「わかりやすいし、楽しかったよ」
「数学楽しいとかありえない……じゃなくて!」
「ごめん……頑張ったけどダメだった」
「うそ?!なんで?!」

 赤いグロスの塗られた唇が大きくゆがむ。任務先に向かう車内での会話を思いだすだけで、わたしの気分は一気に重くなっていった。

「人的被害がでていないなら動くことはできません、って。その手の通報はイタズラも含めて山ほどあるし、現れはじめて日も浅いならなおさら人員を割くことは――」
「その話は私も電話したときに聞いた」
「金銭的な損失が大きいとも言ってみたけど、関係ないって答えだったよ。それが規定だからって」
「なにそれ!」

 肩をさげたミャコが、早口でまくしたてる。

「だれかが怪我したり病んだりしないと動いてくれないってわけ?こんなに困ってるのに?」
「なんの力にもなれなくて、本当にごめんなさい」
「あー……ううん、が悪いわけじゃないよ。働きかけてくれてありがと」

と、ミャコは口元にぎこちない笑みが浮かべた。ちょっと視線をさまよわせてから、もどかしげに口火を切る。

「じゃあさ、どういうときならすぐ動いてくれるの?」

 その問いにすぐに答えることはできなかった。「えーっと……」と数時間前の記憶をたどりながら、わたしは順番に指を折っていく。

「すでに人的被害がでている場合。甚大な人的被害が想定される場合。呪術師が対象に遭遇、祓う必要性があると判断した場合。対象の等級が――」
ってジュジュツシだよね?!」

 キラキラした瞳がわたしを見つめる。わたしはすぐさま顔を伏せて、参考書をスクールバッグに詰めこんだ。

「……行かないよ?」
「なんで?この間みたいにぱぱっと退治してよ!」
「あれはミャコのお母さんが憑りつかれて様子がおかしいって聞いたからで」
「似たようなもんだって!マジでめっちゃ困ってんの!しか頼れる人がいないんだってば!」
「……だって幽霊なんでしょ?」
「そう!幽霊!姿は見えないけど足音は聞こえる!」
「幽霊なんていないって」
「じゃあ確かめてよ!」
「うーん……」

 あまり気乗りしないけれど、ミャコの目は真剣そのものだ。困っているというのは本当だろう。しばらく考えたあと、わたしは小さな声で言った。

「偶然だよ?」

 ミャコの顔がぱあっと明るくなる。こくこくと何度もうなずいた。

「うん!うんうん!偶然!」
「偶然例のビルに通りかかって、たまたま入ることになっただけ。それでいい?」
ー!ありがとー!」

 浮足立つミャコに背を押されるように、進学塾をでた。辺りはすっかり闇に包まれている。ミャコはスクールバッグの中から白い紙の束を取りだすと、それをわたしに手渡した。

「はい、これ頼まれてたやつ。ここ数年の古文の過去問」
「ありがとう、すごく助かる。どうしても傾向つかんでおきたくて」
「こんな真面目ちゃんが霊媒師とか、まだ信じらんないよ」
「霊媒師……」

 霊媒師と呪術師の違いなど大差ないのだろう。細かく訂正する気も起きなくて、ぴったりと唇を閉じる。スクールバッグを閉めながら、ミャコが思いだしたように訊いた。

ってなんで大学行くの?もう働いてるのに行く必要ある?」
「安定した生活がしたくて。だから保険かけておかないとダメなんだよ」

 ほぼ一般人であるわたしは、他の呪術師とは違うから。“神様”であるイザナミさんに愛想をつかされた時点で、呪術師でいられなくなってしまうのだ。

 呪術師は国家公務員扱いだけれど、その特殊性から潰しのきかない職業である。うっかりイザナミさんの機嫌を損ねて、働き盛りに無職になるのはかなりキツい。社会全体が深刻な人手不足とはいえ、職歴欄に“呪術師”と書くような胡散臭い女を、快く雇ってくれる場所があるとは考えにくい。ただの一般人に戻ったわたしを、高専が変わらず雇い続けてくれるわけがないことも、充分に理解しているつもりだ。

 運よく働き口が見つかったとしても、危ない職種か薄月給の職場だろう。できることならお金の心配はしたくないし、明日への不安を抱く日々を過ごしたくない。

 安心と安定に満たされた穏やかな生活のためにも、絶対に保険をかけておく必要があるのだ。

 ミャコが不思議そうに首をかしげた。

「彼氏は?あのサブカル彼氏に養ってもらえばよくない?」
「それ彼氏にも言われたなぁ。でも向こうが働けなくなったとき困るでしょ?色々考えたら、両立を選ぶほうが堅実かなーって」
「彼氏はなんて?」
「わかった、って。でもきっと納得はしてないと思うよ」

 あっという間に最寄り駅に到着する。大手進学塾を選んだのは実績もひとつだけれど、そのアクセスのよさも決め手だった。

 改札口を通り抜けたミャコが、こちらを振り返る。どこか寂しそうな目をしながら。

ってさ、心のどっかで続くわけないって思ってるよね」
「え?」
「なんか必死で長続きさせようとしてる感じがする」

 パスケースをつかむ手の甲に目をやった。うっすらと浮かぶ血管が、白い天井灯に照らされている。突然足取りの重くなったわたしにぶつかることもなく、スーツ姿の通勤客が駅のホームへ消えていった。呪いだった先月ならきっと、見事に体当たりされていただろう。

 わたしは小さく笑った。

「ずっと見えてたものが、もう見えなくなっちゃったから」
「え、なにが?」
「んー……愛情?」
「向こうはちゃんと将来も考えてくれてるのに?」
「だからこそだよ」

 ミャコは難しい顔をして、しばらくホームで考えこんでいた。わたしがスクールバッグからスマホを取りだせば、なにかに気づいたようにその口を開く。

「寄り道するって連絡は?」
「今したよ。内容は言ってないけど」
「なんで言わないの?」
「迷惑かけたくないから。あ、そうだ」

 スマホをしまうついでに、カードケースを引っぱりだした。

「一応渡しておくね」

 できたばかりの名刺を一枚、両手で恭しく差しだす。街灯に照らされたペールピンクの名刺には、華奢な黒い文字が印字されている。

 デザインが得意だというパンダくんに頼んで作ってもらったものだ。ちなみにパンダくんがパソコンで作業している間、暇だったわたしは黙々と“アイラブパンダ”の腕章を作っていた。

「実はノリノリじゃん」
「違います。本当は通報もされないような、隠れた人的被害のための――」
「あーはいはい。東京都立呪術高等専門学校、特級術師……ん?」

 肩書きを読みあげていたミャコの眉根が、きつく寄った。

「カッコカリ?」
「カッコカリだよ」

と答えながら、わたしは笑いかける。

「特級術師(仮)のです。役に立てるかはわかんないけど、精一杯頑張るね」



* * *




 幽霊など存在しないというのが、わたしの自論である。

 俗に言う幽霊やら怨霊やら魑魅魍魎やらの正体が、“呪い”だからだというわけではない。だからといって、科学的根拠がないからだというわけでもない。

 科学的根拠がないのは“呪い”も同じだ。呪術師として働いている以上、“呪い”の存在は信じている。でもそれ以外の――つまり“呪い”に属さないホンモノの――幽霊の存在に関しては、非常に懐疑的なままだった。五条先生は「ホンモノなんていないよ」とせせら笑うけれど。

 幽霊など存在しない。その自論に複雑な理由なんてない。

 だって、見えないものは信じようがない。

「ここが伯父さんの持ってるビルなの」

 不安の入りまじった声を聞きながら、わたしは六階建ての大きな雑居ビルを見あげた。最寄り駅から徒歩三分。大通りから少し外れた位置に建つ雑居ビルは、時間帯のせいか、すべての電気がすっかり消えている。

「ニュースで観たし、自分でもちょっと調べたよ。事故物件になったんだよね?」
「そう。先月、ここの三階で殺人事件が起こったから……三階のネイルサロンで働いてた女の人が、元彼に包丁で刺されて死んじゃったんだって」

 報道番組の記憶をしばらくたどって、わたしは小さくうなずいた。

 覚えている。あれはたしか、わたしが伏黒くんとふたりで仙台へ出張に行った日だったはずだ。宿泊したホテルのテレビから、そんなニュースが流れてきていた。

 あの夜はとても怖かった。伏黒くんとの出張に嫉妬した棘くんからの、多数の不在着信が。

「足音が聞こえるのは、殺人事件があった三階だけ?」
「三階だけらしいよ。事件があった次の日から、ずっとだって。だれもいないのに、ぺたぺたって、廊下を裸足で歩く音が……」
「それは怖いね」
「全然怖くなさそうなんだけど」

 ミャコは顔をしかめると、話を続けた。

「入居してるひとたちが怖がって、退去も検討してるんだって。あと数日でどうにかできないと退去するって聞いた。ここ、場所も悪くないから賃貸収入よくてさ……」

 雑居ビルの看板にはヘアサロンやネイルサロン、法律事務所、不動産会社などの名前がずらりと並んでいる。駅から徒歩三分という立地を考えれば、当然といえば当然だろう。

 わたしはミャコとともに雑居ビルに入った。ひどく怯えるミャコは、わたしの背中にべったりとくっついている。エレベーターに乗りこんで、迷わず三階のボタンを押した。

「ど、どう?幽霊の気配とか感じる?」
「ごめん。わたし、ミャコに言ってなかったことがあって」

 やがてエレベーターは三階に到着した。もったいぶるように無機質な扉が開き、目の前に長い廊下が現れる。エレベーターの灯りにぼんやりと照らされた廊下には、人の姿はどこにもなかった。

 ただ、廊下の突き当たりは光が届かなくて真っ暗だ。なにかいるかもしれないと目を見開きながら、ぽつっと続ける。

「まったく見えないの」
「なにが?」
「幽霊が」

 エレベーターから一歩踏みだす。うしろから愕然とした声がする。

「で、でもあの日、は彼氏と一緒に」
「うん、棘くん……わたしの彼氏は“本物”だから」

 入塾した日、つまりミャコと友達になった日。ミャコの家に棲みつき、ミャコの母親に害を与えていた悪霊――もとい呪いを祓ったのは、残念ながらわたしではない。

 わたしの肩をつかむミャコの手に力が入ったとき、かすかに音が聞こえてきた。

 ぺた、ぺた、ぺた。

 廊下のずっと向こうから、こちらへ近づくように。ゆっくりと。

「うそ……」

 ミャコの声は震えていた。裸足で廊下を踏みしめる音が、少しずつ大きくなる。わたしは懸命に目を凝らした。そこに浮かぶ影や足跡の有無を確かめるみたいに。

 けれど、エレベーターの扉が閉まってしまい、廊下は完全に真っ暗になった。

 その途端、足音が加速した。全身に悪寒が走ったときにはもう、ミャコがエレベーターのボタンを連打していた。

「やだやだやだっ!」

 ミャコの泣きそうな声が乾いた廊下に響く。足音はもうすぐそばまで迫っている。呪い相手ならと心の中で戦う意思を示したけれど、わたしの身体にイザナミさんと“つながる”ような感覚は落ちてこなかった。

 額から冷たい汗が噴きだした。イザナミさんが力を貸してくれないのは、これが“私用”だからか、それとも――これが“ホンモノの幽霊”だからか。

 緩慢に開いていく扉の隙間に自らの身体を滑りこませると、ミャコはわたしを強引に引きずりこんだ。「こないで」と何度も繰り返しながら、閉ボタンを連打する。壊れてしまうのではないかと思うほど、強く強く。

 ミャコには外で待っていてもらえばよかったと後悔する。必死なミャコの姿に申し訳なさが込みあげて、逃げるように視線を足元に落とした。

 扉が完全に閉まるその瞬間――青白い裸足が、見えた。

 真っ赤なペディキュアが施された、女の足だった。