一年生
ここは東京都ではない――そんな錯覚を抱かせるほどの山深い場所に、呪術高専は存在している。東京はどこもかしこも高層ビルばかりだと思っていたけれど、案外そうでもないらしい。みずみずしい深緑に覆われているおかげだろう、ここは七月半ばでもびっくりするほど気温が低い。とはいえ、都心と比べればの話だけれど。
枝葉のさざめきをかき消すような、鋭利に尖った声が鼓膜を叩いた。
「お通夜かよ」
わたしたちはひときわ太い樹木から顔をだして、真希ちゃんのしゃんとのびた背中を見つめる。一年生がどこにいるのかわからなくて、探すのに手間取ってしまった。その結果がこれだ。
パンダくんは手で顔を覆い、棘くんは顔色ひとつ変えず状況を見守っている。
「あちゃー……間に合わなかったか」
「しゃけ」
「真希ちゃんに叱られる……」
肩を落としていると、棘くんにぽんぽんと軽く頭を叩かれた。慰めてくれているようだけれど、それはなんの慰めにもならない。どうして早く言わなかったのかと、叱られるのはわたしだ。代わりに棘くんが叱られればいいのに。とても意地の悪いことを考えながら、再び真希ちゃんに視線を送る。
真希ちゃんが向かい合っているのは、たったふたりになってしまった一年生――伏黒恵くんと釘崎野薔薇ちゃんだ。荘厳な建物に続く石畳の階段に、ふたりは腰をおろしている。
伏黒くんとは面識があるし、会うたびにしつこく話しかけている。後輩を気遣っているわけではなく、ただその顔立ちが好みだという邪な理由で。
でも野薔薇ちゃんとはまったくの初対面だった。タイミングが悪いのだろう、女子寮でも一度も顔を合わせていない。ただ、五条先生からは何度も話に聞いている。東京に強い憧れを持った、今どきの女の子だと。
野薔薇ちゃんのオレンジベージュの髪色に胸が高鳴る。自分で染めているのだろうかと思ったそのとき、伏黒くんが真希ちゃんに冷めた視線を送った。
「禪院先輩」
「私を名字で呼ぶんじゃ――」
これ以上はまずいと思ったのか、パンダくんが大きく身を乗りだした。
「真希。真希!」
切羽詰まった声に気づいた真希ちゃんが振り返る。顔に冷や汗を浮かべたパンダくんが、切迫した様子で続けた。
「まじで死んでるんですよ。昨日!一年坊がひとり!」
「おかか!」
棘くんが同意するように声を張ると、真希ちゃんの顔がみるみる引きつった。
「は、や、く、言、え、や」
と、一音ずつ区切りながら言い終えるや否や、怒りを爆発させるみたいに叫んだ。
「これじゃ私が血も涙もねぇ鬼みてぇだろ?!」
「実際そんな感じだぞ!」
「ツナマヨ」
怒りを煽るような言葉に、真希ちゃんがぶるぶると肩を震わせる。
あっ、まずい。
瞬時に危険を察知したわたしは、その場から離れることを選んだ。伏黒くんと野薔薇ちゃんのほうにそろりと足を向けると、背中越しに騒々しい声が聞こえてくる。真希ちゃんには心の中で何度も詫びておいた。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二年生に、一年生は呆れた視線をよこしていた。ふたりの視線をさえぎるように立ちふさがると、わたしは頭をさげて謝罪する。
「虎杖くんのこと、本当にごめんなさい。五条先生から聞いてたんだけど、わたしのタイミングが悪くて」
「いや、別にいいですよ」
伏黒くんはあっさり言うと、わたしをじっと見つめた。今日も格別に顔がいいなと思っていたら、考えを見透かした伏黒くんが肩をすくめた。よく飽きないですねと言いたげな表情で。
「で、この人が先輩。ほぼ一般人」
ふいに図星を突かれて言葉が詰まる。胸が痛い。伏黒くんは呪術高専にきたばかりの野薔薇ちゃんに、二年生のことを紹介していたのだろう。おそらく、偏りながらも的を射たその独特の視点から。
「一般人がなんでここに」と怪訝な顔をしている野薔薇ちゃんに、わたしはへらへらと笑ってみせる。
「です。よろしくお願いします」
「いやー、すまんな。喪中に」
差しこまれたその声に振り返れば、パンダくんが許しを請うみたいに手を合わせていた。
いざこざは無事に収束したようだった。叱られずに済んだと胸をなでおろした瞬間、真希ちゃんから鋭い目で射抜かれてすべてを察した。だれだ、告げ口をしたのは。
憎き犯人を探ろうとするより早く、パンダくんの言葉に意識が引っぱられた。
「だがお前たちに、“京都姉妹校交流会”に出てほしくてな」
「京都姉妹校交流会ぃ?」
ポカンとした野薔薇ちゃんが訊き返す。わたしも初耳だった。腰をあげた伏黒くんが答えてくれた。
「京都にあるもう一校の高専との交流会だ。でも、二・三年メインのイベントですよね?」
付け足されたその問いは、わたしたち二年生に向けられたものだった。うんうんとうなずいていた真希ちゃんが、ちょっと面倒くさそうに吐き捨てる。
「その三年のボンクラが停学中なんだ。人数が足んねぇ。だからお前ら出ろ」
きっと秤先輩のことを言っているのだろう。一度も会ったことはないけれど、在籍しているという話は聞いたことがある。
「交流会ってなにするの?」と尋ねた野薔薇ちゃんに、パンダくんたちはわかりやすく説明をした。
交流会は、いわば呪術師同士の戦いだ。己を知り、仲間を知ることを目的とした、殺す以外ならなんでもありの毎年恒例の呪術合戦。二日間かけて行われ、初日は団体戦、二日目は個人戦と決まっているらしい。
説明を終えた真希ちゃんが不敵な笑みを浮かべる。
「やるだろ?仲間が死んだんだもんな」
「やる」
一年生のふたりは間髪入れずに答えた。その瞳には強い決意が宿っている。
「でもしごきも交流会も、意味ないと思ったら即やめるから」
「同じく」
野薔薇ちゃんの言葉に、伏黒くんが同意する。生意気な一年生のやる気にひとり感心していたら、突然真希ちゃんに名前を呼ばれた。
「、なにぽやっとしてんだよ。お前もやるんだぞ」
「え、参加しないよ」
「はあ?」
虎杖くんはきっと戻ってくるし、わたしよりも虎杖くんが参加したほうがいい。わたしが導きだす確信は、けれども言い訳にしかすぎなかった。
ただ単に参加したくないだけだった。否応なしに同年代と比較される、そんなの御免だ。それに交流会の目的が“己を知る”ことだというなら、なおさら参加などできないだろう。
だから真っ当な不参加の理由を引きずりだして、ぽつぽつと声に乗せていった。
「イザナミさん、私用には力を貸してくれないから。でくのぼうがいたって邪魔になるだけでしょ?それに次の日全統模試なんだ。足手まといになるくらいなら、模試の勉強でもしたほうがずっといいかなって」
「お前な……」
「どうしても人数が足りなかったら参加するよ。ほら、わたしってほぼ一般人だし。ね?棘くん」
同意を求めるように笑いかけると、「しゃけ」ときっぱりした声が返ってくる。真希ちゃんが露骨にいやそうな顔をした。
「おい棘、を甘やかすな」
「ツナ」
「怪我したらって、お前な……そのためのしごきだぞ?交流会のためだけじゃねえ。ほぼ一般人なら、なおさら訓練は積んでおくべきだろうが」
「こんぶ」
必要かどうかは自身が決めることだ。そんな言葉で真希ちゃんとの会話を一方的に終わらせて、棘くんはわたしを見つめて小さく笑った。不参加でもいいけど、と前置きをするみたいに。
「すじこ」
「うん、そうだね。ちょっとだけ顔だそうかな。真依ちゃんに会いたいし」
「ツナマヨ」
「もちろん棘くんの応援も兼ねてね。あ、チアの衣装でも着よっか?」
わたしの冗談に棘くんは押し黙ってしまう。その目は真剣そのものだった。本気で悩むその姿に、これは迂闊なことを言ってしまったかもしれないとちょっと後悔した。
会話を聞いていた野薔薇ちゃんが、パンダくんに疑問を投げかけた。
「なんでサラッと会話できてんの?おにぎりの具しか話してないのに。テレパシー?」
「それではさんの左手、薬指をご覧ください」
パンダくんのかしこまった口振りに、野薔薇ちゃんの視線が導かれる。別に隠す必要はないとはいえ、こうも見つめられると恥ずかしかった。熱の集まる顔を見られたくなくて、薬指の根元で円を描く華奢なピンクゴールドに目を落とす。
野薔薇ちゃんの呟く声がした。
「あー……そういうこと」
「高専で一番のバカップルだ。覚えておいて損はないぞ」
「バカップルじゃないよ」
パンダくんに与えられた不名誉な称号に文句を言うと、棘くんもうなずいた。真希ちゃんが呆れた様子で肩をすくめる。
「自覚ねぇのが一番厄介なんだよ。で、はどうすんだ?しごき」
どうやら不参加のお許しがでたようだった。しばらく考えこんだあと、だした結論を真希ちゃんに告げた。
「基礎体力作りはしたいよ。でも、残りの時間は任務と勉強にあてたくて。あ、繁忙期が終わるまでは任務優先でお願いします」
「勉強なら気持ち悪りぃくらいしてるだろ、ガリ勉」
「どれだけ勉強しても古文が不安だから」
得意科目は物理、好きな科目は数学という典型的な理系にとって、これといった公式のない国語は最大の敵だった。
特に古典がダメだ。漢文はまだしも、古文なんて大嫌いだ。ある程度は暗記でどうにかなるはずなのに、苦手意識のせいか、単語は右から左に流れていくし、目が滑って問題がまるで頭に入ってこない。
「呪術師としてどうなんですか、それ」
伏黒くんの容赦ない一撃が心臓を抉った。激痛。本日二度目である。胸を押さえながらサッと目をそらすと、ため息が聞こえてきた。
「人間に戻るために資料室こもって、古い文献ずっと読んでましたよね?」
「……うん」
「あれが理解できるなら模試なんて楽勝でしょ」
「えっと……棘くんが現代語訳に直してくれたから。全部」
ぼそぼそと言えば、伏黒くんが棘くんをにらみつける。
「なんで甘やかすんですか」
「おかか」
「意味がわかれば、って……全然身についてないみたいですけど。いいんですか?恋人が呪術師としてポンコツで」
その四文字に後頭部を殴打される。ポンコツ。たった四文字の殺傷能力の高さに身体が震える。とはいえ、さすがに三度目ともなれば、感じる痛みもやや軽い――いや気のせいか。
項垂れるわたしに目をやった棘くんが、ぶんぶんと首を横に振った。
「こんぶ」
「なんのフォローですかそれ。可愛さと術師としての能力は関係ないでしょ」
「いくら」
「いや俺は別に惚気が聞きたいわけじゃなくて」
少しだけ気を持ち直したわたしは、腕を組んで思案する。
伏黒くんの指摘はもっともだ。呪術師ならば、古文への苦手意識はどうにかしておいたほうがいいだろう。古い文献を読む機会だってこれからどんどん多くなるだろうし、そのたびに棘くんを呼びつけるわけにはいかない。
それに、苦手意識は努力次第でどうにかなる類の問題だ。
はたとそこで気づいた。伏黒くんに“可愛いは正義だ”と意味のわからないことを熱弁する棘くんに向かって、両手を軽くこすり合わせる。まるで拝むように。
「神様仏様狗巻様……」
「しゃけしゃけ」
「やった!ありがとう!」
意外にあっさりと、棘くんはわたしの家庭教師になることを快諾してくれた。棘くんが相手なら質問もたくさんできるし、同じことを訊いても優しく教えてくれるはずだ。
話を聞いていたパンダくんが、じっとりと棘くんをねめつけた。
「まーたそうやって部屋に二人きりになる口実ばっかり作って」
「おかか」
「嘘つけ」
真希ちゃんは呆れ顔でわたしに言う。
「塾で教わらねぇのかよ」
「教えてもらってるけど、なかなか……」
「やる気の問題か……で、今日も塾なんだろ?ガリ勉」
「うん。任務行ったその足で塾だよ」
答えると、がしっと首根っこをつかまれた。唖然とする。速すぎて、まったく見えなかった。眼鏡の奥で真希ちゃんが意地悪な笑みを浮かべている。ものすごくいやな予感がするのだけれど。
「じゃ、ちょっと準備運動していけよ。遅刻した罰は受けなきゃな?」
「それ絶対ちょっとじゃないよね?!」
「軽ーくしごいてやるだけだ。軽ーくな。安心しろ」
「やだ、絶対やだ!」
「腹くくれって。ほら行くぞ」
笑顔の真希ちゃんにずるずると引きずられる。懸命に抵抗したけれど、ローファーの靴底が削れる悲しい音が響き渡っただけだった。
助けを求めるように棘くんに鼻先を向ければ、すぐに気だるげな目がこちらを見た。ビッと天高く親指を立てながら。
「明太子」
告げ口をしたのは棘くんだった。覚えてろ。