賭け

・依頼受付日時
  7月××日
・依頼人名
  多鹿 美弥子
・依頼人連絡先
  070-△△△△-○○○○
・依頼内容
  雑居ビル三階に現れる×××の除霊
 目の前に、大きな輪っかがぶらさがっていた。

 それは薄暗い部屋の天井からのびていた。部屋には湿った土のにおいが充満していて、床にぽつんと置かれたろうそくの灯りだけが頼りだった。

 杏子色に照らしだされた麻縄に、わたしは震える手をのばす。滑らかな触り心地だった。どうやらずいぶん使いこまれているらしい。輪っかをたぐり寄せて、するりと首に通していく。

 裸足が踏みしめている木製の台を、じっと見下ろす。その拍子に、なにかが落ちていくのが見えた。泣いていることに気づいて、乾いた唇をわずかに開く。

「みんな死ねばいい」

 涙とともにこぼれていくのは、呪詛の言葉だった。

「みんなみんな死ねばいい」

 壊れた人形のように何度も繰り返したあと、足元の台を力任せに蹴り飛ばした。怒りをぶつけるみたいに。支えがなくなって、がくんと身体が落ちる。その瞬間、麻縄が首を強く圧迫した。皮も肉もすべて通り越して、じかに骨に食いこんでいく感じがした。

 痛かった。苦しかった。涙があとからあとからあふれた。

 なにかが焦げるような異臭が鼻をつく。台を蹴飛ばした弾みでろうそくが倒れたらしい。ろうそくの火は床にばらまかれた半紙に燃え移っていた。呪詛の言葉を書き連ねた半紙が大きな炎と化していく。

 おぼろげになっていく視界に、ふっと人影が浮かびあがった。闇を溶かした長い前髪から、薄暗いたれ目がはっきりと覗く。

「本当は怖いんだよね。見えないものは、信じられないから」

 燃え盛る炎の中で、こちらを見あげた彼が優しい笑みを浮かべた。涙に濡れた目蓋をぎゅっと閉じる。頬に生ぬるいものが伝う。

 聞きたくなかった。その先だけは、どうしても。

さんは――」

 その一言は麻縄よりもずっときつく、わたしの首を絞めていく。意識がもうろうとしはじめたとき、突然、圧迫感がすとんと抜け落ちた。

 軽快で無遠慮な音楽に、濁った意識が引きあげられる。音の発生源をもぞもぞと探していた手が、細い充電ケーブルをつかんだ。枕元からのびるそれをたどるようにして、ようやくスマホを手に取った。

 小さくうめきながら、重たい目蓋をこじ開ける。画面にぱたたっと水滴が落ちて、そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。

 まただ、また。ルームウェアの袖口で乱暴に目元をぬぐう。涙でにじんだ液晶画面に表示された“狗巻棘”の名を確認して、それから時刻に目をやった。うっと息が詰まる。冷たい水でも被ったみたいに、頭がはっきりしてくる。

 鳴り続けるスマホの応答ボタンを押した。

「こんぶ」

 起き抜けの脳に響くおにぎりの具は、とても優しかった。その声音には心配の色さえ浮かんでいる。逆に強い焦りが生まれて、わたしは下手な言い訳もせずに謝った。

「ごめんね、寝坊した」
「高菜」
「アラームに気づかなくて」

 布団から這いでると、スマホを耳にあてたまま洗面台へ向かう。

「今から準備するね。ごめんねってパンダくんと真希ちゃんに伝えてくれる?」
「おかか」
「そういうわけにはいかないよ。全力で急ぐから」

 大きな鏡に映るわたしの顔色は、あまりよくなかった。目の下にうっすらと浮かぶ青色のクマは、昨日よりも色濃く見える。思わず「うわ……」と小さな声を漏らした。

 ここ最近、ずっと変な夢を見ているせいだ。

 内容はよく覚えていない。起きるとたちまち夢の中身を忘れてしまうから。ただはっきりと言えるのは、繰り返し同じ夢を見ているということだった。

 それも、とびっきりの悪夢を。

「高菜」
「ううん、なんでもない。電話してくれて本当にありがとう」

 心配そうな声をはねのけると、一呼吸置いてから「ツナマヨ」という言葉が返ってくる。どういたしまして。そう告げる声はいつも通り優しくて穏やかで、透明な朝の日差しみたいだと思った。

 わたしとは対照的だ。繰り返される悪夢に、泥のような夜を突きつけられるわたしとは。

 沈黙したスマホを洗面台の脇に置いて、白い水栓のレバーをあげる。勢いよくあふれだす水が排水口へと流れていく様子を見つめた。ごぼごぼともがくような音が聞こえる。

 夢の内容が不確かにもかかわらず、同じ夢を見ていると断言できるのは、目覚める直前に必ず同じ言葉を聞いているからだった。それがだれの声なのかはわからない。でも。

さんは――呪術師に向いてないよ」

 その言葉だけは、はっきりと覚えている。



* * *




 身支度を終えたわたしは、長い廊下を駆けていた。一心不乱に。集合場所である二年生の教室に、一秒でも早くたどりつくために。

「こら、。廊下は走っちゃダメだよ」

 ふいにそんな声がして、ピタッと足を止めた。この声は、もしや。

 反射的に振り返ると、廊下のまんなかに五条先生が立っていた。いつからうしろにいたのだろう。足音はおろか、まるで気配がしなかった。

 さすが最強だなと素直に感心したけれど、すぐに走っていた目的を思い出した。急いでいるとはいえ、無視をするのはさすがに失礼だろう。一応、相手は教師なのだから。それほど尊敬はしていないけれど。

 はやる気持ちを抑えつつ、朝の挨拶を口にした。夏でも変わらぬ、暑苦しい黒の目隠しの向こうを見透かすように。

「おはようございます」
「おはよう。どうしたの?寝坊でもした?」

 わたしがうなずくと、五条先生は納得したように言った。

「珍しいこともあるもんだね。もしかして、悠仁が昨日死んだからかな」

 びっくりしすぎて、訊き返すこともできなかった。五条先生は息をするように冗談を言う人だけれど、ここまで質の悪い嘘をつく人ではない。その証拠に、五条先生の表情にはうっすらと陰りが含まれているように見える。

の体に変化は?」
「……いいえ、なにも」
「そっか。それならよかった」

 五条先生は笑った。

「呪術師が死ぬのは、なにも珍しいことじゃないよ」

 なんと言えばいいのかわからなくて、木の床にぽたっと目を落とした。五条先生にとっては珍しいことではなくても、わたしにとっては初めての経験だから。虎杖くんの快活な笑顔が脳裏をよぎって、両手を強く握りしめた。

 科学技術の進歩にともなって、幽霊や妖怪といった非科学的な存在が科学的根拠に基づいて否定されるようになった。しかし、めまぐるしい発展を続ける現代社会の影には今でも、科学では到底説明できない存在が静かに身を潜めている。

 ――“呪い”。または、“呪霊”。

 “呪力”を持つ人間にしか認識できないその存在は、人間の負の感情から生みだされ、最悪の場合、人間を死に至らしめる。その数は年間およそ一万人。途方もない数だろう。

 しかも厄介なことに、呪いは呪いでしか祓えない。その呪いを祓うことを生業としているのが“呪術師”だった。

 呪いと対峙する以上、呪術師には常に命の危険が付きまとう。だから少しでも生存率をあげるため、呪術師は学生の頃から呪いとの関わり方や戦い方を学ぶのだ。この呪術高等専門学校で。

 ひとつ年下の虎杖悠仁くんは、先月呪術高等専門学校――略して呪術高専――に編入したばかりだった。知り合って間もない後輩のことを思い返しながら、わたしは顔をあげた。記憶に刻まれた尊大な声音が、耳の奥でうわんと響いている。

「宿儺さんがいたのに?」

 その問いに、五条先生が間断なく首をひねった。

「というと?」
「あの宿儺さんが、“器”をみすみす殺すとは思えなくて。イザナミさんですら、何度もわたしを助けてくれましたから」

 虎杖くんは千年前に死んだ最悪の呪詛師“両面宿儺”の指を食べて、その魂に呪いを宿してしまった稀有な少年だ。宿儺さんの“器”になった虎杖くんとわたしの境遇は、ちょっと似ているところがある。経緯は少し違うけれど、わたしの魂にも呪いが宿っているから。

 わたしの場合は、“ちぎり祭り”という奇祭に巻き込まれてしまったことが原因だった。“手足を千切る”ことで“神と契る”儀式の中で“生贄”になったわたしは、自らの肉体と魂を引き換えに“神様”を呼んでしまったのだ。

 無論、本物の神様などではない。その正体は、宿儺さんの腹心だったという狡猾な特級呪霊だ。わたしは名もない彼女のことを“神様”として扱い、イザナミさんと呼んで敬っている。

 本来なら儀式が終わった時点で、イザナミさんに殺されるはずだった。でもいくつもの偶然が重なって、わたしは呪いになって運よく一命をとりとめた。

 それから紆余曲折あったものの、こうして無事人間に戻ることができたし、今もイザナミさんは“わたしだけの神様”として、ほどほどに力を貸してくれている。

 呪術高専に通いはじめて早三ヶ月。何度か命の危機に直面したけれど、イザナミさんはそのたびにわたしを助けてくれた。それが自分のためだったとはいえ。

 宿儺さんだって、きっと同じだろう。

 虎杖くんのような“器”には、千年という気の遠くなるような長い間、ずっと廻り逢えなかったのだ。利用価値のある虎杖くんを見殺しにするはずがないし、死んだ人間を蘇らせるくらい訳ないだろう。“呪いの王”と称される宿儺さんなら、絶対に。

 五条先生はしばらく黙っていた。それから、神妙な面持ちで口を開いた。

「現時点で悠仁は死んでいる。なら、僕の言いたいことがわかるよね?」

 それはつまり、黙って見ておけ、ということだろう。どちらに転ぶかは、最強の呪術師である五条先生にもわからないのかもしれない。

 わたしがうなずくと、五条先生は笑った。いつも通りの軽薄な笑みに、頭のすみでひらめきが弾ける。口角を持ちあげながら、ちょっとした取引を持ちかけた。

「黙っておくので、もし虎杖くんが帰ってきたら外泊許可をください。一泊でいいので」
「賭けってこと?いいね。じゃあ僕が勝ったら、上の連中の皆殺しを手伝ってもらおうかな。いやぁ、が味方してくれるなら百人力だよ」
「えっ、それ割に合わないですよ。やっぱり二泊で!いや三泊!」
「はーい、追加は無理でーす。どうせ棘と旅行でしょ?リア充は一歩も外にだしたくありませーん」
「この鬼!悪魔!呪霊!呪詛師!」
「呪霊とか呪詛師はひどくない?」

 しばらくぶうぶう文句を言ったけれど、すべて聞き流された。悔しい。とはいえいつものことなので、渋々あきらめて教室へ急ごうとする。

 無駄話の時間を取り戻さねば。焦りが込みあげた矢先、五条先生に引きとめられてしまった。

、今日仕事は?」
「今日は午後から二件、ハシゴです」
「相変わらずよく働くね。感心するよ」
「遠出の仕事は五条先生が引き受けてくれるので。すごく助かってます」
「付き合いたてのカップルの邪魔をするほど、野暮な男じゃないってことさ」

 五条先生は言葉を切ると、わたしに笑みを向ける。いつもの軽薄さはどこにもなかった。

「ちゃんと甘えなよ?メイクでごまかせなくなる前に」

 呆気に取られるわたしの肩をポンと叩いて、最強の呪術師は廊下を歩いていった。

 急いでいたから、いつもより雑なメイクになった自覚はある。でも、目元のクマは綺麗に隠したし、顔色をよく見せるためにピンク色の下地も使った。完璧だと思っていたのに。

 その目聡さに寒気すら覚えつつ、廊下は走るなという忠告は無視して全力で走った。人とはぶつからないよう、細心の注意を払いながら。校舎の中は空調が効いているものの、額に汗が噴きだすほど身体は熱くなっている。心臓がどくどくうるさくて、体力のなさを痛感した。

 教室の扉を勢いよく開くと、すぐ目の前に棘くんが立っていた。

 びっくりして、肩が大きく跳ねる。棘くんはわずかに目を見開いただけで、すぐに「ツナ」と言った。廊下から聞こえる騒がしい足音がだれのものかを、その気だるげな目で確かめようとしたのだろう。

 棘くんの背中の向こうに、パンダくんの姿が見えていた。パンダくんが軽く手を振っている。その腕に巻きつけられた“アイラブパンダ”を意味する腕章は、わたしがほんの出来心で作ったものだった。ずいぶん気に入ってくれているらしい。

「おはよう、

 のほほんとした声に安堵したのも束の間のことだった。せりあがってくる罪悪感が、謝罪の言葉を口から押しだす。ひどく乱れた呼吸とともに。

「遅くなって、本当に、ごめんなさい」
「おかか」

 疲労で感覚がおぼろげな膝に手をついて、ぜいぜいと肩で息をする。たいした距離を走ったわけでもないので、ちょっと情けなかった。

 わたしの視界にペットボトルが入り込んでくる。透明な水がちゃぷんと揺れていた。目をあげると、棘くんにペットボトルを手渡された。

「高菜」
「ありがとう」

 半分くらい残っていた飲料水を、一気に飲みほす。少しぬるくなっていたけれど、火照った身体にはやけに冷たく感じられた。空になったペットボトルを見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えていく。

「もっと体力つけたほうがいいかも。夜、ちょっと走ろうかな」
「すじこ」
「え、本当?真に受けるよ?」
「しゃけしゃけ」
「うん、棘くんと一緒なら三日坊主にはならないよね」

 そこでようやく気づく。この場にいるはずの真希ちゃんの姿が、どこにも見当たらない。

「あれ、真希ちゃんは?」
「これ以上ねぼすけを待ってられないって先に行ったぞ。せっかちだから」

 答えてくれたパンダくんに、わたしは思いだすように尋ねる。

「一年生に用があったんだっけ?」
「ああ、そうだ。ちょっと話があってな」
「えっと……そのことで、残念なお知らせがあってね」

と切りだすと、パンダくんが「なんだよ、改まって」と笑った。手の中に収まる空っぽのペットボトルに目を落とす。深刻な空気をうまく作りだせるように、肩を軽く丸める。

 側面についた水滴を見つめながら、ぽつっと言った。

「虎杖くん、昨日亡くなったって」

 途端に教室の空気がしんと凍りついた。ふたりの顔がみるみるうちに強張っていく。

「マジかよ」
「おかか」
「急いで追いかけるぞ。真希が余計なことを言う前に」

 パンダくんが勢いよく立ちあがる。わたしは棘くんと目を見合わせて、小さくうなずき合った。