「ちょっと待ってよ、

 背後から投げかけられた何度目かの制止に、わたしはようやく足を止めた。

 きつく噛んだ下唇から力を抜いて、しかし表情は引きしめつつ鷹揚に振り返る。左手に持った古びたキャンドルランタンが、やけに背の高い男の白髪を柔らかな橙色に変えた。およそ二週間にも及ぶ長期出張から帰って間もないというのに、彫刻めいて整った顔にはいつもと変わらぬ飄々とした色が浮かぶだけで、疲れのひとつも滲んでいない。

 ある種の拘束具にも似た強さで繋いでいた右手を解くと、悟くんは解放されたばかりの大きな左手で困ったように頬を掻いた。

「こんな人のいないところまで連れて来てどういうつもり?やっと僕の魅力に気づいて告白でもしてくれる気になったわけ?僕はならいつでも大歓迎なんだから、ふたりきりになりたいならこんなカビ臭いところはやめようよ」

 軽口を叩く悟くんから視線を逸らし、わたしは再び前を向く。淡い橙に染まる視界に入ってきたのは、巨大な壁一面に描かれた見慣れぬ仏画だった。

 激しい火焔を背負った甲冑姿の仏様が、ひどく厳めしい顔でこちらを睥睨している。呪術高専にいくつか存在する蔵――つまり保管庫の中でも、これほど大きな仏画を見られるのはここだけだと夜蛾学長が教えてくれたのだ。

 外からの光が一片も差し込まない蔵の中は冷たく、発した声が響き渡るほど静かだった。わたしは顔を伏せると、鉛のように重い唇を懸命にこじ開けた。

「悟くん、お兄ちゃんのこと知ってたの?」
「……またその話?さっきも言った通り、僕は何も知らないよ。恵にだって電話で何度もそう伝えたはずだけど」

 伏黒くんと遊園地へ調査に赴いた日から、悟くんは呪術高専から姿を消した。術師の少ない地方都市に巣食う呪霊の祓除を目的に、約二週間の長期出張へ駆り出されてしまったのだ。

 悟くんは自他ともに認める“最強”の呪術師であり、この日本にたった四人しかいない“特級術師”のひとりだ。伊地知さんによれば、特級術師である悟くんが呪霊を祓うという術師本来の仕事もろくにせず、呪術高専でただのらりくらりと教鞭を取っていること自体、上層部からすれば大変由々しき問題なのだそうだ。だから溜まった仕事を押し付けられるようにして呪術高専を長期間留守にするのは、たいしてそう珍しくもないことらしい。

 わたしは二週間ぶりの悟くんに向き直った。「てっきり告白かと思ったのにさ」と不服そうに唇を尖らせている悟くんの姿は、わたしの目には適当に茶を濁してこの場を凌ごうとしているようにしか見えなかった。

 お兄ちゃんのことは、何度も訊いた。メールでも電話でも訊いたし、先ほども出張帰りの悟くんに労いの言葉をかけた次の瞬間に訊いた。まるで壊れた機械のように、同じことを何度も執拗に訊き続けている。

 確信があるからだ。悟くんはなんでも知っている。悟くんほど物事の真理に近いところにいる人をわたしは他に知らない。なんでも知っている悟くんなら何か必ず知っているはずだという、火を見るよりも明らかな確信。

 けれど知らぬ存ぜぬを貫き通す悟くんに、もしかすると本当にそうなのかもしれないという疑念が頭をもたげ始めていた。この確信はわたしの勘違いで、悟くんはわたしと同じように何も知らないのではないか、と。

 だから、悟くんをここに連れてきたのだ。最後の確認をするために。

「……じゃあ、わたしと指切りできる?」

 漆黒に濡れた丸いサングラスを射抜くように見据えながら、わたしは右手を前に伸ばした。小指を一本、明かりのない天井に向かってまっすぐ立てた状態で。

「悟くん、ここでわたしと指切りして。あの強そうな仏様が見ている前で。嘘ついたら針千本。本当に何も知らないなら、できるよね?」

 冷たい霜の降りたような声音が反響し、張り詰めた沈黙が流れる。

 悟くんは憤りを隠すことなく鼻先を逸らすと、「マジかよ……」と嘆息混じりに白い後頭部を掻きむしった。その声音にいつもの軽薄な色はなかった。粗暴で、それでいてどこか子どもっぽい響きが続く。

「……どうせ傑に聞いたんだろ、その脅し」
「うん。ずっと前に聞いた」
「あの野郎。に余計なことベラベラ吹き込んでんじゃねぇよ」

 苦虫を噛み潰したように顔を歪めると、巨大な仏画に向かって長い舌をべっと突き出した。

「毘沙門天と指切りなんてまっぴらごめんだね。いくら最強でも針千本はさすがに死ぬって」
「……お兄ちゃんのこと、やっぱり知ってたんだ」
「ああそうだよ、その通り。あーあ、最悪だよ。この調子ならもっと踏み込んだことも喋ってんな、あの馬鹿。良かれと思って言ったんだろうけど、全っ然良くねぇわ。むしろ邪魔だっつの」

 荒れた口振りをそこで止めて、堪え切れないようにため息をひとつ吐き出すと、悟くんはおもむろにサングラスを外した。横たわっていたはずの驚愕と憤怒はどこへやら、白く長い睫毛に縁取られたその青い双眸はもうすっかり凪いでいる。

 橙色の光を反射するサングラスの表面にふっと息を吹きかけて、悟くんは感情を抑えたひどく滑らかな口調で続けた。

「……僕だって樹の全てを知ってるわけじゃないよ。知ってることもあるし、知らなかったこともある。例えば戸籍の件と本物の樹の遺体の件。これは本当に寝耳に水。僕も先月初めて知ったんだからね」

 そして聞き逃しそうなほど小さな声で「……樹のヤツ、なんでそこは黙ってたんだろうな」と付け足すと、丸いサングラスを片手でかけ直した。わたしを拒絶するかのように、胸の前で深く両腕を組んでみせる。

「知らないことを抜きにしたって、僕はきっとが一番知りたいことを知ってる」
「じゃあ」
「悪いけど、僕からは何も言えない」
「……どうして?」
「男と男の約束だからね」

 その言葉がやけにはっきりと聞こえた。逸らされた縹色の瞳にどこか寂しげな光が灯るのを、わたしは見逃さなかった。

 悟くんの口端に力ない笑みが宿る。始めは演技かと疑ったけれど、すぐにそうではないことに気づいた。誰にも明かされることのない心の柔らかい部分がたしかに晒されていた。

 まるで自分の中にいる誰かと対話するように、悟くんは抑揚に欠けた平板な響きで訥々と告げる。

「だってこれは僕と樹の――いや違うな。きっとこれは、多分……俺たちと樹の約束だ。そう、俺たちの約束。だったら尚更話すことなんて、できるわけがないだろ」

 ひどく静かな声音が、ふたりきりの保管庫に沈んだ。もう何も訊けなかった。悟くんのそんなに寂しそうな顔を見るのは初めてだったから。

 わたしはしがみつくように悟くんに抱き付いた。ほとんど無意識に身体が動いていた。ひとりぼっちだと思ったせいで。悟くんがどうにもならない孤独を抱えているような気がしてならなかった。

 寂しがりの傑くんはいつだって悟くんのことを「悟はひとりでも生きていけるからね」と評していたけれど、本当にそうだろうか。それならどうしてこんなに寂しそうな目をするのだろう。どうして悔しそうに目蓋を伏せるのだろう。

 悟くんはわたしを抱きとめると、不思議そうに首をひねった。

「え、なに?どうかした?急にお腹でも痛くなったとか?……あ、まさか生理?」

 相変わらずデリカシーのないことを口にする悟くんに、今日だけは怒る気になれなかった。喪服じみた黒い上着に鼻先を軽く押し付けたまま、小さくかぶりを振る。

「……ううん、なんでもないよ」
「そう?にしても悪いね、何も教えられなくて」
「大丈夫。そんな気がしてたから」

 頭の上に柔らかな熱が落ちる。撫でるように髪を梳かれていた。「お兄ちゃんが恋しくなった?」と揶揄するように笑いながら。何と言えばいいのかわからなくて、縦か横かわからぬほど曖昧に首を振った。「もう四十九日だからね」と続けられた声音に、孤独はもうどこにも滲んでいなかった。

「恵や伊地知にはもちろん、高専のお偉方にも何も言ってないし、これから先も誰にも言うつもりはない。でもだからって樹のことを知りたいっていうの気持ちは否定しない。僕にできることがあるなら何でも協力するよ」

 身体を離したわたしに、悟くんはきっぱりと言った。わたしは視線を高く持ち上げて、小さく首を傾げる。

「……協力はしてくれるの?」
「まあね。樹との約束なんだ。“が俺のことを知りたいって言い出したときは協力してやってくれ”って。そしてこれはそんな樹からの伝言だ。俗に言う最後のお願いってやつかな」

 茶目っ気たっぷりに付け足すと、悟くんは膝を軽く折り曲げて、わたしと視線を合わせた。黒いサングラスの向こうに、柔らかさを含んだ穏やかな光が灯る。どこか悪戯に細められた縹色の双眸は、お兄ちゃんにそっくりだった。

「――“俺”を見つけて」