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駅前の賑やかなコンビニに迷い込んだように錯覚したのは、どうやら伊地知潔高だけではないらしい。日本人平均を遥かに上回るその長躯が、開いた自動ドアの手前で突として停止する。衝突間際、寸でのところで足を止めた潔高の視界は、喪服めいた漆黒の制服にほとんど埋め尽くされていた。
不審に思った潔高が黒い背中からひょこりと顔を出せば、店内のあちらこちらに客の姿が確認できる。開放感のある巨大な窓ガラス越しに見えていた複数の影は、決して幻覚ではなかったということらしい。とはいえ、書き入れ時だろうと普段は閑散としているコンビニだけに、未だにおかしな夢でも見ているような気分だった。
自動ドアの前で立ち竦む五条悟はその唇を一文字に結び、ただ一点をじっと見つめている。
世界の果てを溶かし込んだ蒼穹の視線をわざわざ追わずともわかる。五条が注視しているのは、入って奥側のレジ前に出来た会計待ちの列ではなかった。
その客の会計を担当する、すこぶるつきの美人店員の姿だった。
溌溂さを感じさせる象牙色のポニーテールに、恭謙な微笑を彩る真っ赤なルージュ。そして黒縁眼鏡から覗く知的な眼差し。
忘れるはずもない。昨夜の記憶と寸分違わず重なるその横顔に、潔高は目を丸くした。
「え、あの
「伊地知こっち」
小声で言うと、五条は時を取り戻したように店内へと足を踏み入れた。まるで身を隠すように背中を丸めつつ、やけに混雑した雑誌売り場を足早に通り抜けていく。
潔高は五条を追った。少し身体を捩るだけで、隣の客と肩が触れ合いそうな至近距離で雑誌を捲る複数の男性客の姿に、潔高はなんだか窮屈そうだなぁとやや同情めいた感想を抱く。
店奥の飲料コーナーを経由し、レジから程近い菓子類の陳列棚の前で五条は両膝を折った。大人しく後に続いた潔高の頭上に、ぽんと小さな疑問符が浮かぶ。
どうして五条はわざわざ遠回りをしたのだろう。どう考えてもレジ前を通ったほうが近道だというのに。
しかも意味不明な遠回りをしたにも拘わらず、当の五条は一向に菓子を選ぶ気配がない。我が物顔で通路に屈み込んだままだ。
黒くて丸いサングラスを掛けた、異様に背の高い白髪のイケメンが、俗に言うヤンキー座りで狭い通路を占拠している。加えて曲線を描く背中からは、声を掛けるのも憚られるほどの機嫌の悪さが否応なく伝わってくる。
となれば、通路を抜けてレジへ向かおうとする客たちが、揃いも揃ってそそくさと引き返すのは無理もないだろう。誰しも命は惜しいはずだ。
そうは言っても、五条のそれは他の客に対する迷惑行為である。固い握り拳を作ってなけなしの勇気を振り絞ると、潔高は五条の機嫌を窺いながらそうっと小声で話し掛けた。
「……あ、あの、そんなところに座ると他の方の迷惑に――」
「シッ!」
唇に人差し指を添えた五条の鋭い眼光に、潔高は身を仰け反って怯んだ。途切れた言葉と共に生唾を飲み込めば、すぐに五条は蒼穹の視線をレジのほうへと投げる。
今まさに五条が占拠するその場所が、レジに立つ美人店員からは決して見えない絶妙な位置だと気づいたのは、女のひどく不思議そうな口調が潔高の耳朶を打った瞬間だった。
「わたしの好きなタイプ、ですか?」
「そうそう。おねーさんの好きなタイプ教えてよ」
会計中の男性客が放ったと思わしき食い気味で軽薄な物言いに、潔高はようやく合点がいった。
普段とは比べ物にならないほど客足の多い、それも男性客ばかりで賑わう店内。不自然なほど混んだ雑誌売り場に、会計待ちの長蛇の列。駐車場で聞いた男子高校生の台詞。極めつけは、陳列棚にこそこそ隠れて様子を窺う不審者、もとい五条悟の存在だろう。
どうやら客たちの目当てはレジを打つ美人店員――であるらしい。
――……まさに誘蛾灯。
潔高は最も近い場所にいる厄介な白い蛾を見下ろした後、陳列棚の向こうに見えるに視線を滑らせる。
まさか仮病を使って任務をサボった理由が、コンビニでアルバイトをするためだとは思ってもみなかった。術師であるはずのが何故という疑問は尽きないが、五条がそれに対して潔高の求めるような答えを与えるとは到底思えない。何か込み入った事情があるに違いないと、ひどく曖昧な結論で己を納得させた。
ダサくなって然るべき青い制服を自然に着こなすは、小さめのレジ袋にペットボトル飲料を詰めながら男性客の問いに答えた。
「ドラゴンタイプが好きです。弱点が少なくて強いので。わたしのガブリアス、げきりん使える6Vなのでちょっと自慢なんですよ」
「ええっと、それってゲームの話だよね?そうじゃなくて男!好きな男のタイプ!」
「ダイゴさんです。ホウエン地方チャンピオンの」
「一旦ゲームの話から離れて?!」
上擦った声で食い下がる男性客の様子に潔高が苦笑すると同時に、顔を引きつらせた五条が「げ。最悪」と呻くように沈黙を破った。瞠目した潔高が再び瞳を下方へ落とす。
「何がですが?ダイゴさんって方、五条さんとはタイプが違うんですか?」
「“けっきょく ボクが いちばん つよくて すごいんだよね”」
「……は、はい?」
「僕とダイゴって似てるところ多くない?最強、イケメン、実家金持ち。つまりが好きなのは僕ってことだよね?いや~公衆の面前で惚気なんて照れるな~」
何言ってんだコイツ、と露骨に書かれた顔をしなかった自分をたっぷり褒めてやりたい気分だった。五条のそれは飛躍した論理というより、ただの痛々しい妄想である。無論、それがどこまで本気の発言なのかは、全く定かではないのだが。
呆れ返った潔高は短く息を吐くと、気を取り直したように話題を戻した。
「じゃあさっき“最悪”って言ったのは――」
「の手持ちだよ」
「……手持ち?」
ポカンとした顔で訊き返せば、五条が肩をすくめて項垂れる。
「げきりん持ちってマジか~……しかも6V。乱数調整?何にせよガチ勢じゃん。しくったな、ノリでバトルなんか誘うんじゃなかった。マニューラで抜いて氷四倍で仕留めるか?……どうせ即逃げられんのがオチだよな……けどのことだし3タテ狙ってくるはず……アイツが使いそうなのはみちづれゲンガー、耐久ハピナス、あとは――」
「あ、あのぅ、一体何の話ですか?」
「負けられない戦いの話に決まってんでしょ」
即答した五条は固く拳を握り締めた。不敵な笑みを口端に結ぶや、青よりもなお蒼い双眸をレジのほうへと投げる。
「見てろよ。ラティオスのメガネりゅうせいぐんで絶対負かして――って、アレ?」
虚を突かれたような乾いた声音が耳朶を打った、その直後だった。
「お客様、通路の邪魔です」
はっとした潔高が振り向けば、目と鼻の先に青い制服の女性店員が立っている。
――いつの間に。
全く足音がしなかった。僅かな気配さえ気取ることも出来なかった潔高は、半ば反射的に身体を強張らせた。五条は潔高を見上げ、道化師めいた軽薄な笑みを浮かべる。
「クセになってんだよ、音殺して歩くの。ってククルーマウンテンに住んでるからさ」
「なってないし住んでない。適当なこと言わないでくれる?特質系の五条くん」
じとりと五条を睨め付けると、はすぐに阿るような媚笑を拵えた。
「さっきの話。残念だけど、わたしバンギラス持ってるよ」
「やっぱそう来るよな。どうせハチマキ持たせた攻撃特化型だろ?りゅうせいぐん対策っつったらそれが定石だし」
どこか諦めた様子で五条は膝を伸ばして立ち上がる。右手で軽く後頭部を掻くと、開き直ったように無邪気に笑ってみせた。
「手加減して?」
「やだ」
「じゃあハンデ!ハンデちょーだい!」
「絶対やだ。五条くんをコテンパンにしたい」
「されたくない。ちょっとくらい手ぇ抜いてよ」
「じゃあ調整中の雨パ使ってもいい?ダブルバトルでも良いよ」
「6タテする気満々だろ……」
げんなりした顔で五条が嘆く。軽快なふたりの応酬に潔高は目を瞬いた。
昨夜と同じだった。いつも軽薄で強引で我儘で本音がどこにあるのかわからない“最強”ならぬ“最凶”の暴君・五条悟が、惜しげもなく年相応の少年らしさを見せながら、ひどく楽しそうに会話を弾ませている。とやり取りする五条には普段の百倍、いやそれ以上の親しみを覚えられる気がした。
――……これが恋の力かぁ。
しみじみと感じ入りながらに瞳を送ると、視線に気づいたが片手でさっと胸の名札を隠した。不自然なその行動に僅かな疑問を抱くこともなく、ようやく表情を弛緩させた潔高がその場で軽く頭を下げた。
「は、初めまして、こんにちは。伊地知潔高と言います。東京呪術高専の一年です。五条さんからお噂は、か、かねがね……」
途中から何を言えばいいのかわからなくなり、緊張した声音があっという間に尻すぼみになる。潔高がやや垂れ下がった首を持ち上げれば、視界の中央にはの華やかな花笑みが据えられている。屈託ないそれに、どくんと心臓が大きく脈打った。
「伊地知くん、初めまして。わたしは――」
「ねぇ、どうなってんのコレ」
微笑を添えた柔らかな自己紹介を遮ったのは、他でもない五条だった。のそれを掻き消すような声音の大きさに、明らかな牽制の色を見る。
子どもか。こちとら魔王の女に手を出すような命知らずではないのだが。
まだ死にたくない村人Aの潔高が呆れた表情を滲ませると同時に、五条はに対して間断なく言葉を継いだ。
「いつもはこうじゃないでしょ。しかも男ばっか」
するとは悪戯な笑顔を挟むように、ピースサインを得意げに添える。
「いえーい!大繁盛!」
「いえーい!じゃねーよ客寄せパンダ!」
眉を吊り上げた五条の鋭い罵声に打たれたは、両のピースサインを崩して唇の近くで握り拳を作った。機嫌が良さそうに口をぱくぱくさせ始めたに、五条は胡乱な瞳を向ける。
「……何してんの?」
「パンダの物真似だよ。笹をむしゃむしゃ食べてるところ。わからなかった?」
問いかけられた五条は額を押さえつつ視線を落とすと、「……ホントそういうとこだよ」と小さく溜息混じりに独り言ちた。垂れた前髪で不自然に隠されたその表情から、潔高は鋭敏に察する。
ああ、多分これは“馬鹿なが可愛すぎてどうしよう”って反応だ。
意中の相手の言葉や行動のひとつひとつに一喜一憂するその光景ほど、微笑ましいものはない。それがかの暴虐の王と言うなら尚更である。ニヤニヤする潔高に気づいたのだろう、五条は額に添えた手を離すや、照れ隠しのようにを厳しく睨み付けた。
「全ッ然似てねーよ。腹減りすぎて頭でもイカレたのかと思ったっつの」
「あ、ひどい。でも確かに休憩時間全部返上して働いてるから、お腹ペコペコで今にも倒れそうだけどね。今夜の晩餐は特に期待しております」
身体をやや前のめりにさせたが、にっこりと無邪気に笑った。うわぁ、と潔高は思った。これは殺傷能力が高い。見事に不意打ちを喰らったらしい五条は、明後日の方角に視線を逸らして小声で問いかけた。
「……何食べたいんだよ」
「お肉!」
寸分の迷いもないの即答に、五条が大きく顔を歪めた。
「えぇ?またぁ?昨日も一昨日も食ったじゃん。俺、今夜は魚の気分なんだけど」
「やだ。お肉以外認めません」
「作る俺に選択権があるってわかってんの?つーか何でそんなに肉が良いんだよ」
「お肉食べてるとね、“あ~明日も頑張ろ~やる気だそ~”って思うんだ」
「張りのねぇ声。ホントにやる気出てんの?それ」
「うん、一応。だから今日は分厚いお肉がいいな」
「それなら牛一頭丸々買って来てあげよっか?」
「もしかしてセルフで捌くの?えー……血抜きの方法わかんないな……」
屠殺に抵抗はないのかと内心怯える潔高の横で、が不思議そうに首を傾げた。
「どうしてここに?授業は?」
「今日も任務。今はその帰りだよ。しかも二日連続、可愛い後輩と一緒の任務でさ。せっかくだし何かスイーツでも奢ってあげよっかな~って」
「そうなんだ。五条くん優しいね」
「でしょ?」
ふふんと得意げに胸を張る五条の笑みに、潔高はようやく納得した。
そもそも潔高やその他大勢を軽く顎で使うような、天上天下唯我独尊男・五条悟が「奢ってあげる」と言い出すこと自体おかしいと思っていたのだ。何か裏があるかもしれない、一体どういう風の吹き回しだ――などとこっそり疑いの目を向けていたのだが、どうやらここで働くに格好を付けるためだったらしい。
後輩を利用して好感度を上げようとは小癪な。
「ていうかこんなに駄弁ってていいわけ?レジから殺気篭もった視線感じんだけど。そろそろ怒られんじゃない?」
「休憩です、休憩。優しい五条くん、わたし喉乾いたなぁ」
「あーはいはい、どうせ喋り疲れたんでしょ。何がご所望で?」
その問いに顔を綻ばせたは口を開こうとして、しかしすぐにやめた。五条のかんばせに険しげな表情が色濃く滲んだせいで。
潔高が蒼穹の視線を辿るようにして振り返れば、そこには駐車場で見かけたあの男子高校生が佇立していた。
熱を帯びた真摯な眼差しから、が目当てであることはすぐにわかった。どこか幼さの残る顔立ちの少年は勇を鼓舞するように息を吸い込むと、顔を真っ赤にしながら拙い語調で口火を切った。
「あ、あの、お、おねーさんに、き、訊きたいことがあるんスけどっ!」
「はい。何でしょうか」
「れ、連絡先教えてくださいぃっ!」
――ナ、ナ、ナンパだーッ!
予想を違えぬ期待通りの展開が、野次馬の潔高を無意味に高揚させる。不慣れだが、それ故に直球の台詞を放った少年に驚愕と尊敬の眼差しを惜しみなく送った。
と、そのとき。
「駄目だよ」
落ちた沈黙を破るように、怜悧な声音がまっすぐ響いた。緊張を孕んだその冷たい空気が、一瞬にして潔高の呼吸を奪う。それは蒼の視線で穿たれた少年も例外ではないようだった。
たった一言で場を支配した“最強”はの背後に立つと、見せ付けるような所作でを後ろからきつく抱き締めた。黒のサングラスを勿体ぶるように外しながら、形の良い唇に挑発的な微笑を結ぶ。
「彼女、僕のだから」
妄想も大概にしろ。さんが可哀想である。
とはいえ、その堂々とした立ち居振る舞いと圧倒的な顔面偏差値の高さは、結果として充分すぎる効果を見せた。真正面から見据えられた少年は言葉もなくたじろぎ、遠巻きにこちらの様子を窺っていた目当ての客たちはこぞって敗北を突き付けられたのだ。
勝ち目など微塵もないあからさまな牽制に、店内が絶望に満ちた重苦しい空気に包まれる。
ばつが悪そうに少年が目を逸らした直後、くぐもった小さな笑い声が潔高の鼓膜を叩いた。潔高は怪訝に眉根を寄せて、その声の主を見つめた。
五条の大きな身体にすっぽりと収まったが、己を閉じ込めた張本人を見上げてくすくすと笑っている。空気の読めない場違いな視線に、五条が厳しく眉をひそめた。
「……何笑ってんの」
「“僕”」
「……え?」
「だから、“僕”。五条くんに“僕”なんて一人称似合わないよ」
「うるせーよ。ほっとけ」
茶化されたことで毒気を抜かれたのだろう、五条は照れ隠しのように吐き捨てた。は五条の手をそうっと優しく解くようにして拘束から逃れると、ひどく気まずげに目を伏せた少年に柔らかな微笑を向けた。
「連絡先ですよね?構わないですよ。わたし、彼と付き合っているわけではないですし」
「今はね?!」
耳朶を強く打ったやや情けない声音に、潔高は目を大きく見開いて驚いた。
「えっ、まさか将来的に付き合うつもりなんですか?」
「ふっふっふ。当然でしょ」
不敵な笑みと共に肯定すると、五条はその言葉に説得力を持たせるように胸の前で腕を組んだ。
「だから他の女の子は全員切った。後は家にも適当に話付けて、ちゃんと告白するつもりだよ」
「話を付ける?」
「御三家なんてどこも“交際=結婚”っていう“奥ゆかしい思想”に染まった奴らばっかだから。 “五条家現当主”の伴侶を決めるのは無論この僕だ。のことは誰にも文句なんて言わせないけど、一応各方面にはそれとなく報告くらいしておかないと後々面倒でさ。に何かあってからじゃマズいし」
五条はうんざりした様子で肩をすくめた。交際、イコール、結婚。女に事欠かない五条の口から出たとは到底思えぬ単語に思考が鈍る。普段と変わらぬ軽薄な空気に、冗談なのか本気なのか、五条の真意がまるで読めない。
この男は一体どこまで本気なのだろう。胡乱な視線を送ったその直後、潔高は至極当然の疑問にぶつかった。五条の機嫌を損ねぬよう、言葉を選びながら問いかける。
「さんに交際を断られる可能性は考えていないんですか?」
「え?なんで断んの?」
「え?逆にどうして断られないと思ってるんですか?その自信は一体どこから?」
五条悟は条件だけ見れば間違いなく優良物件だろう。顔もスタイルも家柄も仕事も完璧だ。ここで青田買いして損はないかもしれないが、如何せん性格に難がある。難がありすぎる。
伴侶の座に着けば一生遊んで暮らせるとはいえ、だからと言って生涯を共にする相手として五条を選ぶ人間の気が知れない――というのが、入学から半年に渡って五条に振り回され続けてきた潔高の本音だった。
しかし五条は潔高が投げた至極真っ当な質問をガン無視した。携帯番号を教えるをきつく睥睨するや、その後ろ姿をビシッと指差して激しく吼え立てる。
「だから俺が告白するまでに他の奴と付き合ったら一生許さねーからな?!末代まで祟ってやっから覚悟しろ!」
「五条家って菅原道真公を祖先としてませんでした?五条さんが言うとシャレにならないと思うんですけど……」
五条が獣じみた唸り声を上げて獰猛に威嚇すると、少年は大袈裟なほど肩を震わせて怯えた。もはや涙目である。
子どもか。高専三年にもなって年下相手に大人げない真似をするんじゃない。
渦中のはといえば、しかし少年を安心させるような柔らかな微笑を拵えた。鷹揚にかぶりを振ると、その微笑みから反した全く穏やかではない台詞を吐き出す。
「気にしないでください。今の言葉も含めて全て彼の妄言です」
「辛辣すぎない?!」
「うーん、今日は何だか羽虫がうるさいですね。少しここから離れましょう」
「の馬鹿!ドS!もう知らないっ!」
わざとらしく頬を膨らませた五条がそっぽを向いた。いかに顔が整っていようとも、190センチを超える長躯の男がまるで女児の如く拗ねる姿は、これっぽっちも可愛くなかった。
その上、普段の凶行を知る潔高にとっては恐怖以外の何物でもない。潔高に対してそんな反応を取るときは潔高が地獄を見るときである。どうやら身体に染み着き始めた恐怖はどうにもならないらしい。
つんと膨れて可愛い子ぶる五条を恐る恐る見つめた。潔高の視線に気づいた五条は表情を戻し、小さく首を傾げた。
「どうかした?」
「あ、いえ……連絡先の交換、強引に止めないんだなと思って……」
「カレシでも何でもない僕に、そんな権利ないよ」
言うと、五条はを目で撫でた。連絡を寄越す時間帯を問われたは、「できればバイト終わりの真夜中が良いです。叩き起こすような気持ちで電話してください」と少年に微笑みかけている。叩き起こされても良いだなんて、まさかは少年のことがタイプなのだろうか。
楽しげに会話するを見つめる蒼の双眸に、黒く濁った嫉妬の色が走る。しかしそれも一瞬のことで、五条は潔高に視線を滑らせると言葉を継いだ。
「ま、そんな綺麗事、ただの建前なんだけどさ」
――ああ、そうか。
潔高は五条を見上げた。きっと、嫌われるのが怖いのだろう。ひどく身勝手な感情をぶつけ、その結果から距離を置かれることを極端に恐れているのだ。らしくないと思ったが、そこにはを手離すまいとする五条の、実に人間らしい願望が横たわっているような気がした。
それは間違いなく恋だった。しかし決してそれだけではないとも思った。五条の胸の内に渦巻く複雑な感情を全て汲み取ることは出来ずとも、脳裏に浮かんだ可能性だけは間違いないという確信があった。
口を閉ざすことなど出来ず、潔高はおずおずと問い掛けた。
「……つかぬことをお尋ねしますが、初恋ですか?」
「そう見える?」
肯定でも否定でもなかった。軽薄さに塗り固められた、嘘ともまこととも付かぬ曖昧な口調だった。
潔高が言葉もなくひとつ頷くと、五条は「そっか」と噴き出すように小さく笑った。その屈託ない年相応の笑みが、どんな言葉よりも確かな答えだった。
間もなく少年を穏やかに見送ったを視界の中央に置くと、五条はわざとらしく溜息を落とした。振り向いたを睨み付け、唇を尖らせて不平を漏らす。
「簡単に番号教えるなんてどうかしてるよ。俺には教えてくれなかったくせに」
「五条くんの番号だから別に良いかなって」
「………………は?」
「だから五条くんの番号だから別に良いかなって」
「いや、そういう意味で訊いたんじゃなくてさ」
呆気に取られた様子の五条を見つめながら、は己の耳に片手を添えた。そして男を真似たような低く濁った声音で喋り出す。
「あ、もしもし~さとみちゃんですかぁ~?」
「はぁいもしもし~さとみですぅ~連絡もらえてさとみ超うれし――なんて言うわけねーだろマジふざけんな!今やっと気づいたけど名札まで細工してんじゃねぇか、誰だよ“五条さとみ”って!」
「五条くんの双子のお姉さん」
「いねーよ!しかもさっきアイツに“真夜中に電話しろ”とか言ってなかった?え、何?まさか俺への嫌がらせ?寝不足にさせて弱らせようって魂胆?」
「五条くん、わたしミルクティーが飲みたいな。甘いやつ」
「オイコラ話を逸らすな極悪人」
どうやらは架空の人物“五条さとみ”として、己に言い寄る男たちに五条の連絡先を躊躇なく告げているらしい。五条が五条ならもである。むしろ似合いのふたりではないだろうか。
特に悪びれる様子もないを瞳の端で撫で付けながら、五条は苦い表情で後頭部を掻いた。
「その教えた番号って、古いほう?」
「そうだよ。古いほう」
「あー……じゃあ良いよ。適当に使って」
「ありがとう。恩に着ます」
案外あっさりと使用を認めた五条に対し、潔高は驚きを隠せなかった。
「良いんですか?」
「良くはないけど、の番号よか百万倍マシでしょ。電話掛けてきた奴には全員もれなく地獄行きの切符をプレゼントしまっす!」
「だから五条さんが言うと本当にシャレにならないんですってば……」
嘆きながら肩をすくめた潔高は、そこでようやく己の視界からが消えていることに気づく。はて、とその行方を捜したのも束の間のことで、は腕に大量のスイーツを抱えて戻ってきた。その足取りは軽やかに弾んでいる。
綻ぶような花笑みを口元に結んだは、プリンをひとつ、五条に向かって恭しく差し出した。
「五条くん、はいコレ」
「何コレ?……“厳選濃厚抹茶プリン”?新作じゃん。のオススメ?」
「ううん。食後に食べたいなぁと思って」
「お前……繊細な抹茶の味なんて微塵もわかんねぇくせに……」
「一口あげるよ?」
「俺が買うんだよね?それは何かおかしくない?」
「あとコレとコレとコレと、それからこっちの――」
「ああもうわかった。わかったから食いたいヤツ全部カゴに入れろ」
「やった!五条くんありがとう!」
両手を高く持ち上げて無邪気に喜ぶと、は持ってきた買い物カゴにスイーツやお菓子を大量に入れていく。呆れ返った蒼穹の双眸を物ともせず、「アイスも!」と言うや否や五条にカゴを押し付け、ひとりアイスコーナーに向かった。
どうやらの辞書に遠慮という文字は載っていないらしい。
「アイツ、多分僕のこと財布かATMだと思ってんだよね。まぁ別に良いデスケド」
「別に良いって顔してませんけど……」
「ちゃんとしてますぅ!そういう顔ですぅ!」
ムキになって返す五条のもとにが戻ってくる。片っ端から手に取ったとしか思えぬ大量のアイスが注ぎ込まれる様子を見つめながら、五条はひどく幸せそうなに問い掛けた。
「ミルクティーは?」
「あ、忘れてた!欲しい!」
「じゃあついでに俺の分もお願い」
「わたしと同じので良い?」
「うん」
「オッケー、無糖コーヒーだね」
「なんでだよ。今ミルクティーっつったろ」
「一番甘そうなミルクティー?」
「そ。一番甘そうなミルクティー」
言い聞かせるように頷くと、は「合点承知!」と茶目っぽく告げて飲料コーナーへ駆けていく。五条は潔高に視線を滑らせ、「伊地知も欲しいもの持ってきなよ」と言った。
普段であれば後日対価を要求されそうなので絶対断るだろうが、が爆買いしている今日ならきっと何も起こらないだろう。せっかくだからと厚意に甘えて、ペットボトルの緑茶を一本買ってもらうことにした。
山盛りになった買い物カゴを片手に、五条がレジへと向かう。店を占めていたはずの男性客の姿はもうほとんど見当たらなかった。五条のあの牽制があろうとなかろうと、これほど親しげに接するふたりを見れば、への興味が失せるのも当然だろう。
ようやく店員らしくレジに立ったは、カゴに入った大量の商品を手際良く打ち込んでいく。が告げた支払い金額は潔高の予想を遥かに上回る額だったが、五条は涼しい顔で一万円札を二枚、にずいと差し出した。
「本当に全部買ってくれるんだ?」
「当たり前だろ。グッドルッキングガイ五条悟は世界一寛大なので」
「じゃあ世界一寛大な五条くんにイイコト教えてあげよっか?」
「うん。何?」
五条が尋ねると、は釣りを手渡した。そして商品を白いビニール袋に詰めながら、幸福を噛み締めるように柔らかく笑んでみせた。
「こうやって餌付けされてる間は、五条くん以外のところには絶対行かないよ」
「………………え」
「五条くんだけのわたしだからね」
少し恥ずかしそうな、しかし蕩けるような満面の花笑みに、潔高は時を忘れて釘付けになる。と初対面である潔高でそれなのだから、に想いを寄せる五条は言うまでもなかった。普段の余裕はどこへやら、完全に思考が停止している。
今の言葉は本気だろうか。いや、そんなまさかな。
ぱんぱんに膨張した白いビニール袋を三つ、黙り込んだ五条の手に握らせると、はまるで接客の手本となるような営業スマイルを拵えた。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
その言葉に我に返ったのだろう、五条は俯き気味に歩き出した。ポカンとしたままの潔高を一瞥することなく、抑揚に失せた小声で呟いた。
「……伊地知、帰るよ」
「あ、は、はいっ」
潔高の眼前を足早に横切った五条の耳は、薄っすらと朱く染まっていた。潔高は足を止めてを振り返ると、「ありがとうございました!」と一礼し、店を出た五条を追いかけた。
無駄に広い駐車場を半分ほど大股にずんずんと進んだところで、五条はようやく歩速を緩めた。「ほら」と不愛想に言いながら、潔高にペットボトルのお茶を投げ渡す。
礼を言うより早く、五条は淀みない口調できっぱりと告げた。
「コレ冷蔵庫に突っ込んだらデパ地下に最高級の黒毛和牛を買いに行く。伊地知、お前荷物持ちな」
「……は、はい?!夜蛾先生への報告は?!」
「後廻しに決まってんでしょ。それ買ってやったんだから付き合ってよ」
「え、えぇー……」
潔高の漏らした不満を黙殺すると、五条は軽やかな足取りで山道を上っていく。潔高は左手に収まる冷たいペットボトルに目を落とした。
――……ああ、やっぱり碌な目に遭わない。
肩を落として項垂れると、ふと何かを思い出したように振り向いた。どうしてそうしたのかと訊かれても“何となく”としか答えようがないのだが、とにかく潔高は特に深い意味はなく、後にしたばかりのコンビニを振り返ったのである。
「……え?」
全くの不意だった。潔高は思わず目を瞠った。が大きな窓ガラス越しに、じっと五条の背を見つめていたから。
ひどく静かな瞳だった。しかしそこには疼くような熱っぽさが確かに滲んでいた。
すぐにと視線が絡み、穏やかな微笑みを湛えたがひらひらと手を振ってみせた。何だか見てはいけないものを見たような気分だった。潔高はぎこちなく手を振り返しながら、ぽつりと呟く。
「……さん、もしかして本当に五条さんのこと――」
「伊地知ー!置いてくよー!」
「えっ?!ま、待ってくださいっ!」
――“最強”を冠する男の初恋は、意外と早く実るのかもしれない。
伊地知潔高はそんなことを考えながら、つま先を強く踏み込んだ。