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 この世に神仏など存在しない。罰当たりかもしれないが、それが今日の伊地知潔高の自論である。

 その根拠はいたってシンプルだ。もしも本当にそれらが存在しているとするなら、一体どうして二日連続で最強・五条悟と共に呪霊祓除の任に当たらなければならないのだろう。

 二日連続とは嫌がらせにもほどがある。絶望と表現してもまだ足りない。もはや悪運どころの騒ぎではないし、神や仏に見放されたと嘆き悲しむ域などとうに超えているのだ。

 日頃の行いが悪いという厳しいお叱りなのか。それとも、苦難を乗り越えた先にこそ幸福があるというありがたい導きなのか。

 否。答えは“否”である。ただ単に神だの仏だのが存在していないだけだ。これほど神仏の存在を否定するに充分すぎる理由はないだろう。

 朝一番に夜蛾教諭から呪霊祓除を任じられた潔高は、世界の終焉を目前にしたような顔面蒼白の状態で、正面ロータリーに停まる社用車にふらふらと乗り込んだ。

 何故昨日に引き続き特級術師の五条とは全く等級違いの潔高が選ばれたのかといえば、本来同行するはずだった四級術師が、体調不良を理由に欠勤したからだと言う。なんでもその四級術師というのは、姉妹校交流学習制度の試験運用のため遠路はるばるやってきた、京都呪術高専の三年生らしい。

 体調不良ならば仕方ない。呪術師は常に死と隣り合わせの職業である。万全の状態で赴いても命を落とすことは少なくないからこそ、ほんの僅かでも体調に異変を感じるのであれば辞退すべきだ。自らの健康を第一にゆっくり休息を取ってほしい、というのが潔高の本音だった。

 しかし、だからと言ってそれとこれとは話が別だ。四級術師の代打とはいえ、何故よりによって一年の潔高なのだろう。もっと他に適任はいなかったのだろうか。というより、そもそも最強・五条悟に同行者は本当に必要なのだろうか。甚だ疑問である。

 無論、潔高がここまで今日の任務を嫌がることには、昨夜の一件が大きく関係していた。

 潔高は五条の密会現場をこの目で見てしまったのだ。数多の女たちとスキャンダラスで爛れた恋愛を重ねているに違いないあの五条悟が、目の前の美女のために手料理を振る舞い、ただ幸せそうに目を細め、この上なく楽しげに会話を重ねていた。

 未だに信じられないが、間違いなく五条悟はあの美女に本気だった。常に規格外で在り続けるはずの五条悟が、伊地知潔高やその他大勢と全く同じように、ただのひとりの男になっていたのだ。

 だからこそ、己の好奇心に従った潔高の覗き見が、五条の大切な逢引きに水を差してしまったのだとしたら――そう考えただけで、身体が芯から震えた。

 一発殴られるだけで済むはずがない。絶対に殺される。電動ノコギリで東京湾にすり流しにされ、深海魚の餌になるならまだ良いほうだ。まるで最初から何もいなかったように、無下限呪術で跡形もなく木っ端微塵にされることほど空しいことはない。

 悪い妄想に冷や汗が止まらなかった。運転手を務める若い補助監督に、「体調が優れませんか?顔色、すごく悪いですよ」とひどく心配した声を掛けられる。

 潔高が強張った口端を懸命に持ち上げ、精一杯の作り笑いを拵えた、そのとき。

 突として後部座席の扉が開いた。潔高の全身から音を立てて血の気が引く。虚無に支配された無表情で、“あ、死んだな。絶対死んだ”と胸の内で抑揚なく呟く。

 五条が座席に腰を落とした軽い振動に、潔高の肩がびくりと持ち上がる。お父さんお母さん今まで本当にありがとう。最期に家族への感謝の言葉を心にたくさん並べていると、五条が俯く潔高に視線を滑らせて小さく笑んだ。

「おはよ。今日も伊地知なんだ?」

 耳朶を打ったのは、意外にも普段と何ら変わらぬ口調だった。

 潔高は瞬きを繰り返しながら垂れた頭を持ち上げ、そうっと視界に五条を入れる。こちらを見つめるその軽薄な眼差しに、敵意や殺意は微塵も感じられない。

「お、おはようございます……何のお役にも立ちませんが、よ、よろしくお願いします……」
「うん、よろしく」

 言うと、五条は潔高から窓の外へと視線を滑らせる。あまりにもあっさりとしたその対応に、潔高はポカンとなった。いつもの五条なら鬼の首を取ったようにうるさく騒ぎ立てるはずだ。一体どうして。

 とはいえ、いつ話題に持ち出されるかはわからない。

 潔高は戦々恐々として縮み上がっていたが、一級呪霊が潜む墓地までの長い道中も、一瞬で呪霊を祓い墓地を半壊させた後も、一貫して涼しい表情の五条は昨夜の一件について何も口にしなかった。何も口にしないどころか、潔高に必要以上に絡んでくることもなかった。

 ――……なんか、逆に怖い。

 一切触れて来ない五条に対して気味の悪さを覚えたものの、自らの隣に座る五条にちらりと視線を這わせ、潔高は確信する。今日の五条はどう見ても機嫌が良い。

 もしかすると、潔高が立ち去った後、五条はあの美女と上手くいったのかもしれない。恋愛経験に乏しい潔高には全く想像が及ばないような、俗に言うところの“熱い一夜”を過ごしてすこぶる機嫌が良いのだろう。

 絶対そうだ。そうに決まっている。そうでなければ五条が何も触れて来ないことに対する説明が付かないではないか。

 この世に神仏など存在しない。今日の伊地知潔高が立てた、罰当たりかもしれない自論がガラガラと崩壊していく。結局全てただの杞憂で、昨日の伊地知潔高が正しかったのだ。

 神様仏様ありがとうございます。あなた方が存在しないなんて言ってごめんなさい。本当にありがとうございます。生きて無事に呪術高専に帰れそうです。本当に本当にありがとうございます。安堵に満ちた潔高が胸の内で都合良く手のひらを返した。

 と、そのとき。

「なぁ伊地知ぃ~」

 気色悪い猫撫で声が、潔高の鼓膜をべったりと叩いた。驚きのあまり瞬断した脳髄が現実を受け止めるより早く、わざとらしく媚びた声の主――五条悟が潔高のすぐ隣に移動する。

 まるで肩でも組むように潔高の首に己の肘を深く引っ掛けるや、五条は力任せに潔高を引き寄せてみせた。必然的に首が絞まる形となり、潔高の口から「ぐえっ」と潰れたカエルにも似た濁った悲鳴がこぼれ落ちる。

 背筋を這い上がる嫌な予感に身体を硬直させると、五条は飽食した悪魔にも似た嗤笑を浮かべ、先ほどと全く同じ台詞を吐いた。

「なぁ伊地知ぃ~」
「は、はいっ!な、ななな何でしょうか……」
「昨日さぁ、覗き見したでしょ?」

 突然の死刑宣告に潔高は一瞬で凍り付いた。情緒という名のジェットコースターが激しい回転と共に急降下していく。やはり神も仏もこの世には存在しなかったのだと潔高は心の内で絶叫するが、首に回された五条の腕のせいで全く身動きが取れない。

「あれ、聞こえなかった?“覗き見したの?”って訊いたんだけど」

 ゆっくりと尋ねる五条の口調は普段の軽薄さに満ちているものの、その下に潜んだ敵意と殺意は間違いなく本物だった。潔高は全身の汗腺から冷や汗が滲むのを感覚しながら、恐怖に震える表情筋を叱咤し、青ざめたかんばせにぎこちない微笑を貼り付けた。

「……な、何のことでしょう?」
「は?とぼけんなよ」

 地べたを這いずるような恫喝的な低音に、潔高の心臓がぎゅっと縮み上がった。反射的に下半身に力を篭めて顔を伏せると、奥歯をきつく噛みしめる。

 危なかった。今のは本気で漏らすかと思った。あわや大惨事である。

 間一髪のところで何とか尊厳は保ったものの、身体の震えは一向に止まらなかった。がたがた震える潔高から視線を外すと、五条は運転手を務める補助監督に「コンビニ寄りたいから適当に降ろして」と浮ついた笑顔で告げる。こくこくと首振り人形のように何度も頷いた補助監督の身体は、潔高ほどではないとはいえ固く強張っていた。

「ほら、僕ってとっても優しいでしょ?だから伊地知がいつ言い出すかな~と思ってずぅーっと待ってたんだけど、ちょっと我慢の限界が来ちゃった。このまま知らぬ存ぜぬを通されるのは癪なんだよね」
「…………」
「伊地知が覗き見を始めてから食堂を立ち去るまで約十分。十分だよ?十分も覗き見しておいて、“知りません”“見てません”は通じないんじゃない?」

 淀みなく紡がれた責め句に肝が冷えた。昨夜、五条は食堂を覗き見る潔高の存在を最初から認識していたのだ。非術師に毛が生えた程度とはいえ、多少なりとも呪力を持つ人間である潔高を、かの最強が見抜けぬわけがない。

 それなら、一体どうして十分に渡る覗きを五条は許したのだろう。追い払うチャンスはいくらでもあったはずだ。これが他の人間だったなら、自ずから立ち去るのを待っていたということも充分に考えられるが、他でもない“とっても優しい”五条悟が、潔高の存在を十分間も気づかぬふりし続けた理由が全く見当も付かない。

 五条はにっこりと笑んでみせた。

「ねぇ、なんで僕が怒ってるかわかる?」

 おそらくそれは、この世界で最も面倒臭い質問のひとつだろう。理由を当てなければ“どうしてわからないのか”と激怒され、だからと言って理由を当てたとしても“わかっているならどうしてそんなことをしたのか”とさらに火に油を注ぐ結果を招いてしまう。

 これは正解を導き出すと同時に、どちらに転んだほうが軽傷で済むかを考えなければならない、非常に難度の高い質問である。とはいえ今回の場合は生きるか死ぬかの二択、もしくは死ぬか殺されるかの二択に違いないが。

 ――まだ死にたくないまだ死にたくないまだ死にたくない!

 恐怖に鈍る脳髄をフル回転させ思考すること数秒、深く俯いた潔高が細い声を絞り出した。

「……わ、わかりません」
「じゃあわかるまで考えて」

 お前はメンヘラ彼女か。

 潔高は下手な賭けに出ないことで五条の地雷を踏み抜くことを回避しようとしたのだが、どう足掻いたところで地雷原を全力疾走しなければならないらしい。

 死を間際にした胃がキリキリと悲鳴を上げている。もしこれで胃潰瘍になった場合、労災申請は通るのだろうか。治療費くらい高専で負担してほしいものだが。

 そんな現実逃避に思考の三割を割きつつ、潔高はおずおずと導き出した答えを口にした。

「……わ、私が、覗き見をしたから、ですか?」
「大きく括ればね。でも僕がしたいのはマクロの話じゃなくてミクロの話。つまり訊いてるのは詳細なんだよ、しょ・う・さ・い」
「え、詳細?!……じゃ、じゃあ、えっと、そうですね……覗き見をしたことで、五条さんと彼女さんとの仲が、悪くなってしまったからでしょうか……」
「………………カノジョ?」

 車内に響いた小さく平板な声音に、潔高は“あ、死んだな。絶対死んだ”と思った。ちなみに本日二度目である。

 恐る恐る視線を向ければ、やや俯いた状態で五条が完全に停止している。蒼いその目元は色素の抜けた前髪にすっかり覆い隠され、表情を窺うことは出来ない。潔高は泣きそうになるのを懸命に堪え、やや調子の崩れた声音で問いかけた。

「え、えーっと……ご、五条さん?」
「……伊地知、今なんて言った?」
「か、かかか勝手なことを言ってすみませんっ!殺さないでくださいっ!本当にすみませんっ!まだ死にたくないんですっ!あまりにも仲が良さそうというか美男美女でお似合いだというかあんなに幸せそうな五条さんは見たことがないというか、だからきっとものすごく真剣にお付き合いをされている方なんだろうなと盛大な早とちりを――」
「カノジョに見えるっ?!マジでっ?!」

 完全に舞い上がった五条の声音が、潔高の必死の嘆願を掻き消した。首をひねるようにして潔高をじっと覗き込む五条の、その端正なかんばせはだらしなく緩み切っている。

 にやにやと気味の悪い笑みを浮かべる五条に、潔高は口をポカンと開けて唖然とする他なかった。

「…………え?」
「いや~伊地知の目から見てもそう見えちゃうか~。だよね~。だよね~!なんかちょっと恥ずかしいけどわかる。わかるよ、その気持ちすっごくわかる。こっちとしても結構仲良くなってる感じするし?距離感近くなってるって思うこと多いし?日に日に溝が埋まってってんのがわかるんだよね。ちょっとずつ警戒心解いてくれてんのがマジ可愛すぎる。“えっ、そんな可愛いこと言っちゃうの?!えっ、そんな可愛いことしちゃうの?!も~いつ五条君に襲われても知らないよ~?!”って常にヒヤヒヤするっていうか、こっちがどんな気持ちで寮の前で“またね。おやすみ”って言ってるか知ってんの?みたいな」

 形の整った小鼻をひくひく蠢かしつつ、五条はひどく自慢げな様子で惚気を並べ立てた。地雷を踏み抜いたはずが、どうやら五条の情緒をぶっ壊す魔のボタンを誤って押してしまったらしい。五条は思い出を噛み締めるようにかぶりを振った。

「でも昨日はマジでヤバくてさぁ、アイツ身体のラインがわかるようなエッロいTシャツ着てたでしょ?変なヤツが襲って来たら嫌だな~問答無用で殺そ~って思いながら、寮まで送ってあげたの。そんときアイツの隣歩こうとしたら、“お腹出てるから近づかないで”とか“絶対こっち見ないで”とか言うんだよ。“いやむしろ見たいから見せて”ってお願いしたら、アイツ何て言ったと思う?僕に何て言ったと思う?!」
「さ、さぁ……」
「ちょっと顔赤らめて、“……五条くんのエッチ”だよ?“……五条くんのエッチ”……うん、なんていうか、部屋帰ってソッコー抜いたよね。三回。寝る前と今朝の分も合わせたら七回か」

 他人の自慰事情など聞きたくないのだが。

「あー……やっべ。思い出しただけで勃ちそう」

 現在進行形のシモ事情など微塵も聞きたくないのだが。

 潔高の表情筋はことごとく死に絶え、そこに残るのは虚無ただそれのみだった。あの美女が己の恋人だと勘違いされ、いたく上機嫌な五条は、緩み切った笑みに普段の軽薄さを少しずつ加えながら会話を続けていく。

「さっきの伊地知の答え、僕らの仲はぜーんぜん悪くなってないから不正解ね。ほら、他には?もっとあるでしょ?」
「……え、えぇ?」
「ブッブー。時間切れ。正解は“伊地知が昨夜見たことを高専中に言いふらしていないから”でした!」
「…………はい?」
「僕はさ、てっきり“最強・五条悟!謎の美女と熱愛発覚!”って感じで、噂がもっと広まると思ってたんだよ。ココに娯楽なんてほとんどないし、尾鰭背鰭の付いた噂が広まるのなんてマジで一瞬だからね。伊地知、どうせ今の今まで黙ってたんでしょ?これじゃ覗き見を許した意味がないよ」

 嘆息混じりに言うと、五条は潔高から腕を離した。ようやく解放された潔高は腰の位置を変えて五条からなるべく距離を取りつつ、自らの前身を斜めに横切るシートベルトを両手できゅうっと掴んだ。未だ渦巻く恐怖と不安を解消しようとするみたいに。

「……どうして、そんな噂を流したいんですか?」

 潔高が両手に力を篭めながら尋ねると、背もたれに深く上体を預けた五条が茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。

「既成事実のため」
「……既成事実?」
「そ。僕とアイツが付き合ってるって既成事実さえ作っておけば、しばらく告白しなくても変なヤツに掠め盗られないかなと思ってさ。もちろんアイツに妙なことをしようって輩もいなくなる。御三家がひとつ五条家現当主、そして術師最強でもあるこの僕に真正面から喧嘩を売るヤツなんて、どうせお里が知れてるよ」

 その言葉に潔高は納得した。呪術界に身を置く者ならば、誰しも御三家の影響力の凄まじさを遅かれ早かれ理解するだろう。

 すなわち、五条悟を敵に回すことは、五条家そのものを敵に回すということだ。場合によっては他の御三家、加茂家や禪院家をも敵に回すことに繋がりかねない。そうなれば、もはやそれは戦争と言っても過言ではないだろう。

 そうまでして、最強を冠する男の恋路を邪魔する無神経な輩はいないはずだ。いるとすれば、よっぽどあの美女に惚れ込んだ人間くらいだろう。

 とはいえ、呪術抜きでも単純に喧嘩が強い五条からあの美女を奪い取ろうという猛者がいるなら、一度お会いしてみたいものである。そのときは全力で応援したいと思う。無論、猛者のほうを。

 ふと凛と知的な横顔が潔高の脳裏を掠め、昨夜の疑問が瞬時に甦った。平常心を取り戻しつつある潔高はシートベルトから手を離すと、五条の機嫌を損ねないよう言葉を選んで問いかけた。

「一体誰なんですか?五条さんと楽しそうにしていたあの美女ひと
。今日僕と一緒に来るはずだった、京都校の四級術師」

 滔々と紡がれた答えに、潔高はたちまち顔を引きつらせた。

「ま、まさか体調不良って、五条さんがさんに何か――」
「違う違う。誓ってやましいことは何もしてない。したかったけど。つーか赦してくれんなら24時間365日いつでもしたいけど」
「ということは、五条さんの手料理に何か問題でも……食あたりとか……」
「なんでそうなるんだよ。何でもそつなくこなすこの五条悟がそんなヘマするわけないし、そもそもそういう理由なら僕は任務を休んでの看病をする。心配しなくていいよ、今日のはただの仮病だから」
「……仮病?」
「うん。術師なんかやるよりずっと楽しいみたい。東京コッチにいる間はずっと仮病使い続けるつもりなんだろうな」

 そう言った五条の横顔には、どこか呆れながらも穏やかで落ち着いた色がたしかに滲んでいた。割を食った潔高としては、五条がの仮病を強く咎めないのはどうかと思ったが、しかし恋というより愛に満ちたその表情にもう何も言えなくなってしまった。五条悟はのことが、本当に好きで堪らないのだろう。

 やがて社用車は呪術高専最寄りのコンビニが所有する、無駄に広い駐車場の入り口で停車した。流れるような動作で後部座席から降り立った五条は、その巨躯を屈めて車内を覗き込んだ。

「伊地知、何してんの?」
「……えっ?」

 思わず潔高が素っ頓狂な声を出せば、軽薄な笑みを浮かべた五条が小さく首を傾げた。

「お前まさかひとりで帰るつもり?」
「でも、あの、任務はもう終わって――」
「終わったって誰が言ったの?」

 まるで責めるかのようなその問いに、ただでさえ白い潔高の顔がますます青ざめていく。五条は開いた扉に手を掛けたまま、歪な弦月にも似た笑顔で続ける。

「次期学長ゴリラに“夜蛾せんせぇ~任務終わりましたぁ~!(きゅるん)”って報告するまでが任務なんだよ。つまり今も任務の真っ最中。先輩を置いて単独行動は良くないと思うなぁ。補助監督を志望しておきながら、そんなことも知らないわけ?」
「ぼ、暴論……」

 まさしく“家に帰るまでが遠足です論”である。久しぶりに聞いたなと思いつつ、潔高は諦めたように肩をすくめた。全く気乗りしない表情でシートベルトを外し、浮ついた笑みを結ぶ五条にどこか弱気な視線を送る。

「ていうか何ですか、(きゅるん)って」
「媚びてる効果音。可愛い感じするでしょ」
「夜蛾先生に媚びる必要性を特に感じないんですけど……」

 無論、問題児である五条には必要なのかもしれないが。

 車から渋々降りた潔高は補助監督に小さく会釈すると、コンビニを見つめて佇立する五条に駆け寄った。逢魔時に照らされた五条の白髪が淡い橙色に染まっている。

「コンビニに何か用事でも?」
「可愛い後輩にスイーツでも奢ってあげよっかなって。ま、僕が食べたいだけなんだけどさ」

 言うと、胡乱げに眉を寄せた五条が一拍挟んで言葉を継いだ。

「つーか、なんで今日はこんなに客が多いわけ?いつもはもっと閑古鳥が鳴いてんじゃん」

 それは不快感にも似た苛立ちが薄っすらと滲む質問だった。確かめるように駐車場に視線を這わせた潔高は、その光景に僅かに目を見開く。

 余った土地をそのまま利用したような広大な駐車場には、自動車が数台、そして複数の自転車やバイクが停められていた。比較的客の多い時間帯とはいえ、不便で辺鄙な場所に建つこのコンビニがこれほど繁盛しているさまは一度も見たことがない。

「言われてみれば、たしかにそうですね……」

 頷きながら潔高が怪訝な声を返せば、五条は黒を塗り潰したような丸いサングラスを軽く持ち上げた。青よりもなお蒼い碧眼でコンビニを穿つと、さらにきつく眉根を寄せる。

「しかも客のほとんどが高専関係者じゃない。イベントでもやってるとか?何円以上買ったら何かが貰えるキャンペーン的な」
「そういった話は何も聞いていませんが……」

 と、そのとき。

 駐車場の入り口で立ち止まる潔高と五条のすぐ傍らを、自転車に乗った高校生らしき詰襟姿の二人組が緩やかに通過していく。

「美人店員いるってマジ?!」
「マジマジ!俺、この目でバッチリ見たし!」
「早く会いてー!メアド交換してくれっかな?!」

 夜の香りが混じり始めた微風に乗って、ふたりの無邪気な会話が耳に入った。なるほど、美人店員。合点がいった潔高が視線を隣に滑らせれば、五条の目の色が明らかに変わっていた。

「………………あ゙?」

 それは雷神の唸りにも似た低い響きだった。覗き見に関して潔高を恫喝したときよりもさらに濁った、腹の底から這い上がって来たような怒声。ひゅうっと潔高の喉が鳴る。

 身体が硬く強張った潔高の耳朶を、小さな舌打ちがたしかに弾いた。五条は不機嫌極まりない様子で後頭部をガリガリと掻くと、「……そういうことかよ」と苛立ちを孕んだ声で独り言ちる。

 恐怖に震える潔高がそれでも五条に話し掛けようと思えたのは、その苛立ちの矛先が決して己に向けられたものではなかったからだろう。びくびくと怯えながらも、潔高は五条の顔色を窺うように小さく声を掛けた。

「……あ、あの……ご、五条さん?」
「あー……ごめん。何でもないよ。行こっか」

 気を取り直した様子で軽薄な笑みを浮かべた五条は、コンビニへ向かって歩き出した。一歩が大きなその足取りはしかしどこか急いたようで、潔高は駆けるように五条のやや丸まった背中を追った。